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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
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036 幕間 不慣れな休息

「おお……こいつはすげえ……」


 一面の大理石、彫刻が施された湯口から溢れる豊かな湯。カシムの邸宅の浴場に足を踏み入れたジグは、その豪華さに圧倒され、柄にもなく気圧されていた。

 フレデリカやカシムの母に温かく迎えられ、勧められるままに一番風呂を頂いたはいいが、野営の冷えた川や、安宿の窮屈な木桶に慣れた身には、この広さはもはや異世界だ。


(……なんか、広すぎて落ち着かねえな……。どこに座れば正解なんだ?)


 とりあえず湯船の端から端まで犬かきのような動作で移動してみたり、掌にすくった湯の匂いを嗅いでみたりと、落ち着かない挙動を繰り返す。湯には何らかの薬草か香料が溶け込んでいるのか、鼻を抜ける清涼な香りが、戦場での灰と血の臭いを洗い流していくようだった。


「これは予想以上だな……」


 不意に響いた声に振り向くと、ガウルが感心した面持ちで湯船の縁に足をかけていた。

 その足取りにはまだ僅かに重みがあるものの、自力で歩いて風呂に来られるまでには回復したらしい。連合の諸侯の底知れぬ財力を肌で感じ、ガウルもまた、驚きを隠せない様子だった。


「おい、腹の傷、まだ沁みるんじゃないのか?」


 ジグが心配そうに声をかける。実際、ガウルが掛け湯をした際、傷跡に湯が触れた瞬間に「……っ」と低く呻くのをジグは見逃さなかった。

 アルスやヴァレリア達による懸命な処置のおかげで、見た目こそ塞がってはいるが、深手であったことに変わりはない。


「んん……まあ、沁みるが……。いつまでも汗と土に汚れたまま、こんな立派な屋敷の世話になるわけにもな……」


 ガウルは少し気恥ずかしそうに視線を逸らして言った。

 意識を失っている間に体は拭かれていたはずだが、元騎士の端くれとして、礼儀を重んじる気質がこういう時に思いがけず出てきてしまうのだった。


「しかし、なんつーか……装備全部脱いでも、改めて見るとデカいな、お前」

「そうか? お前だって、並の兵士よりはるかに良い体格をしているぞ」

「まあ……俺の場合、魔術の反動を筋力でねじ伏せてるからな……」


 精神の波動を整えるよりも、肉体の踏ん張りで魔力を制御する――そんな「力技」を好むジグの筋肉は、魔術師のそれというよりは、研ぎ澄まされた武芸者のものに近かった。


「これは……髪につける香油でしょうか? それにこちらは……ハーブの抽出液……?」


 浴室の隅では、いつの間にか入ってきていたアルスが、棚に並んだ色とりどりの小瓶に目を輝かせていた。宝石のように煌めく瓶の中身を一つ一つ吟味するその姿は、戦いの疲れなど忘れてしまったかのようだ。


「あいつは、どこへ行っても興味の種が尽きねえな……」

「はは。あの好奇心の強さは、見ていて羨ましくもある」


 湯気に包まれながら、ジグはふと思う。

 世間知らずなアルスの見聞を広めるための旅だったはずが、いつの間にか厄介な依頼と死闘の連続に塗り潰されていた。休息らしい休息など、いつ以来だろうか。


(今度、あいつに似合いそうな香油の一つでも買ってやるか……)


 薬湯の熱がじわりと芯まで染み込み、戦いの中で張り詰めていた神経が解けていく。

 旅が「仕事」の合間の移動になってしまうのは、賞金稼ぎと傭兵の悲しい性分かもしれない。だが、今はただ、この贅沢な静寂に身を任せようと、ジグは鼻歌交じりに目を閉じるのだった。



「やあ、ご一緒させてもらっていいかな」


 しばらくすると明るく快活な声と共に、カシムが浴室へと入ってきた。


「……色々世話になって、申し訳ない。カシム殿」

「いやいや、皆がいなければ今頃街がどうなっていたか分からないからね。これくらい何でもないさ」


 湯船に浸かったまま礼儀正しく頭を下げるガウルに、カシムも同じく湯に浸かりながら気さくに答える。

 大浴場の中で全員裸だというのに、カシムから溢れる貴族らしい気品が微塵も損なわれないのは何故だろう。薬湯の暖かさに身を委ね、半分とろけた頭でジグはぼーっとそんなことを考えていた。


「街の方はどうなんだ? 結構、魔物たちに壊されたりしただろ」

「大部分はあの広場周辺だったからね。そんなに心配いらないよ。元々、あそこは改修を考えていた場所だったからね。むしろ手間が省けて渡りに船さ」

「それはそれは……逞しいことで……」


 あれだけの被害を「渡りに船」と言ってのけるとは。街を預かる者というのは、これくらい神経が太くないとやっていけないのだろうか。ジグとガウルは視線を交わし、無言のまま「こいつも相当な大物だな」と同じ感想を抱いた。


 一方、浴室の角では、アルスが引き続き並べられた小瓶を一つ一つ熱心に眺めていた。


「こちらの鮮やかな色は……薬草から色味を抽出したのでしょうか? それにこっちは……」

「そちらは、私が作ったものにございますな」


 不意に背後から声をかけられ、アルスが振り返る。

 そこにはカシムに続いて、老練な騎士ザイドが浴室に入ってきていた。

 普段、護衛の任務や戦場で見せる隙のない厳格さは影を潜め、今は年長者らしい穏やかな顔つきでアルスを見守っている。


「ザイドさんが、ですか?」

「ええ。ここに並べられているもののいくつかは……少々、こういった調合を趣味にしておりまして」


 ザイドはどこか言いにくそうに、控えめな口調で答えた。鎧を纏い、大盾を構えて主君を守る身として、普段から可愛らしい小瓶を並べて調合に励んでいると口にするのは、少々気恥ずかしいものがあるらしい。


「すごいですね……。街で売られているものと、全く見分けがつきません」

「いえいえ、そんな……恐縮です。もし興味がおありなら、滞在中に少しお教えしましょうか」

「よろしいのですか? ご迷惑でなければ是非、知りたいです!」


 アルスが太陽のような眩い笑顔で答える。

 ザイドはその浮世離れした美しさに、思わず一瞬息を呑んだ。食事の席で初めて彼の素顔を拝見した際も、同じような衝撃を受けたことを思い出す。


(これほどまでに、天の恵みをそのまま形にしたような美を携えた者がいるとは……)


 ヴァレリアやエレナが、まるで珍しい宝物を見守るかのように彼に興味を抱くのも頷けるな、とザイドは胸の内で静かに納得するのだった。


「いつの間にか意気投合してんな、あそこ……」

「まあ……俺たちじゃ、アルスの好きそうなああいう話題の相手になってやれないからな」

「はは。ザイドも趣味を共有できる相手が中々いなくてね。最近はフレデリカがよく相手になってくれるが、同性の話し相手が増えるのは嬉しいのだろう」


 カシムが愉快そうに目を細める。

 主として、多忙なザイドを気遣って趣味の勉強をしてみたこともあるカシムだったが、どうにも繊細な調合の作業は性に合わなかったらしい。自分の不器用さを棚に上げつつ、楽しげな忠臣の背中を頼もしく見つめている。


「それにしても……フードを取った姿があそこまで美しいとは思わなかったよ。驚いたな」

「んん……まあ、俺も最初は、な」


 ガウルは、アルスと出会った日のことを不意に思い返していた。

 死の淵、薄れゆく意識の果てで見たアルスの姿は、あまりに浮世離れしていて、天の使いが迎えに来たのかと本気で信じたほどだった。


「なあ……あいつの素顔のこと、できるだけ他言しないでくれねえか? なんつーか、育ての親からもあまり顔を出すなって言われてるみたいでさ」


 ジグは湯の中でもじもじと、落ち着かない心地でカシムに告げた。

 鎧も服も纏わぬ姿というのは、これほどまでに心細いものだったか。あるいは、他人を「仲間」として受け入れ、その将来を案じるという初めての経験に、どう振る舞えばいいか測りかねているのかもしれない。ジグは落ち着かぬ気分を紛らわすように、薬湯の芳香を深く吸い込んだ。


「ああ、心配いらないよ。前にも言ったかもしれないが、僕は自分の手札をみだりに見せびらかさないたちでね」

「はあ……そうっすか」


 相変わらず本心の読めぬ物言いに、ジグは観念したように息を漏らす。食えない男だが、悪人でないことは確かだ。それに、アルスがフードを脱いで呼吸できる場所を増やしてやることも、これからの旅には必要なことなのだろう。


「ただ、みだりに他人に顔を見せない方がいいという点には僕も同意だ。彼の黄金の瞳……あれは伝承の類では、あまりに多くの逸話を持つ色だからね」

「知っているのか。彼の瞳の色のことを」


 ガウルが意外そうに、微かに眉を上げて問い返す。


「まあね、古い伝承学の端くれに触れる程度だけど。その昔、魔王を封印した一族の末裔だとか、神に等しい光の力を操った聖者だとか、色々と語り継がれているのさ」

「ああ……神聖王国に残る古い教典にも、似たような記述があったな」

「うーん……なるほどな……」


 カシムとガウルの交わす言葉を聞きながら、ジグは湯の中に深く体を沈めた。


 (そろそろ、お互いの出目についても話し合う時機なのかもしれねえな……)


 ガウルもまた、腹部に残る鈍い痛みを抱えつつ、ジグの隣で湯の熱に身を委ねる。


 旅の疲れも、死闘の名残りも、何もかもが薬湯に溶け出していく。

 大浴場に満ちる温かな蒸気は、戦士たちの峻厳な心を、束の間だけ穏やかに解きほぐしていくのだった。


 ----------


「ヴァレリアさん……いくつか体に打ち身が出来てますね」

「あんな化け物を相手にして、これくらいで済むなら安いものよ。騎士の勲章みたいなものだわ」


 カシムたちの浴場と壁一つ隔てた隣の浴場では、エレナとヴァレリアが立ち上る湯気に包まれていた。

 ヴァレリアのしなやかな背中や肩に、激戦の証である青あざがいくつか浮き出ているのを見つけ、エレナは労わるように声をかける。騎士として鍛え上げられた彼女たちの肉体を、清らかな湯が滑るように流れ落ちていった。


「エレナこそ、今日は流石に堪えたんじゃない? 魔石を組み込んだ矢は、普通のものよりずっと重いのでしょう?」


 ヴァレリアの言葉通り、数えきれないほどの強弓を引いたエレナの腕には、鉛のような鈍い疲労が蓄積していた。


「えへへ……実は、最後の方は指の感覚が怪しかったんです」


 エレナは照れくさそうに笑いながら、滋養に満ちた薬湯へとゆっくり身を沈めた。ヴァレリアも艶やかな黒髪を櫛で手際よくまとめると、エレナに続いて湯船に浸かる。鼻腔をくすぐる清涼な香りと温かな湯が、張り詰めていた筋肉を優しく解きほぐしていくようだった。


「そういえば……。カシム様、アルスさんの素顔を見たって仰ってましたよね」

「ええ、言っていたわね……。あのカシム様があんなに手放しでべた褒めするなんて、よほどのことだわ」

「はあ~……残念。あの食事会に警護じゃなくて同席できていたら、私も拝めたのになぁ」


 二人の間では、今やアルスの透き通るような肌の秘訣は最大の関心事であった。

 主がその美貌に触れたと聞いたとき、二人は騎士としての職務を全うした自負を感じつつも、一人の女性としては心底から同席できなかった不運を呪ったものだった。


「……法術師の方なら、とても綺麗な人でしたよ」


 白く柔らかな湯気の中から、鈴を転がすような穏やかな声が響いた。

 大理石の壁に反響するその声は、まるで静かな夜想曲ノクターンのように心地よい。


「これは、フレデリカ様。今からご入浴ですか?」

「ええ。もし良ければ、ご一緒してもいいかしら?」

「もちろんです、喜んで!」


 浴室に現れたのは、カシムの婚約者、フレデリカであった。

 緩やかに波打つ金糸の髪を揺らして歩む姿は、まるで泉に舞い降りた女神のような気品に満ちている。その慈愛に満ちた眼差しには、愛するカシムや仲間たちが無事に戻ったことへの、深い安堵の色が浮かんでいた。


「それで……フレデリカ様も、アルスさんの素顔を拝見されたのですか?」

「ふふ……。もし彼が女性だったら、カシムは今頃、必死になって口説き落としていたでしょうね」


 エレナの前のめりな問いに、フレデリカは茶目っ気たっぷりに微笑んだ。

 交際を始めた当初こそ、カシムの極端なまでの「美」へのこだわりに当惑することもあった彼女だが、今ではザイドたちと同様、それを彼の魅力の一つとして受け入れている。それは、カシムが決して一線を超えぬという誠実さを、誰よりも信頼しているからこそであった。


「それで……フレデリカ様はどう思われます? アルスさんがあれほどの美肌を維持されている秘訣を……」

「そうねえ。ご友人二人と旅をして、同じものを食べているはずなのに不思議よね……」


 実際、フレデリカも初めてアルスの素顔を目にした瞬間、時が止まったかのような衝撃を覚えた。


 (これほどまでに浮世離れした、清廉な人物がこの世にいるなんて……)


 世界はなんと広く、神秘に満ちているのかと、彼女は静かな感動を覚えたのだ。


 それからしばらくの間、彼女たちは戦いの喧騒を忘れ、美容法から旅の話まで、薬湯の熱とともに熱心に語り合った。


 都を飲み込もうとした嵐は過ぎ去り、今はただ、冷厳な月光が静寂な街並みを柔らかに包み込んでいる。

 死地を生き抜いた者たちは、それぞれに深い安らぎの中で、穏やかに過ぎゆくときを惜しむように過ごしていた。

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