035 最初の火 ⑥
崩壊した噴水から噴き出し続ける水が、広場を鏡のように濡らしてゆく。ワーウルフがその水面を荒々しく蹴り立て、弾丸のような速さで肉薄した。
胸の傷から溢れる泥のような血が、澄んだ水たまりを不浄な漆黒へと染め変えてゆく。
「……来ますッ!」
ヴァレリアが大盾を構え、真正面から獣の剛腕を受け止めた。凄まじい衝撃と金属音が夜の静寂を切り裂く。その盾の端から、カシムが間髪入れずに放った一矢がワーウルフの口元を貫いた。
苦悶に顔を歪めた魔物の隙を突き、ザイドが電光石火の踏み込みでその腕を斬りつける。さらに後退しようとする獣の胸部へ、エレナの放った追撃が深々と突き刺さった。
「くっ、防ぐだけでも骨が折れる相手ね……!」
「ヴァレリア殿、交互に守りを入れ替えましょう。盾を腐らせては元も子もない」
ザイドが重厚な盾を構え直し、ヴァレリアと呼吸を合わせる。元は森の捕食者であっただろう狼は、今や魔王の血という理外の力を得て、生きた岩塊のような堅牢さと破壊力を備えた異形と化していた。
「やれやれ、こうなると偏屈な魔術師の一人でも欲しくなるね」
「カシム様、これをお使いください!」
ぼやくカシムに、エレナが魔石を組み込んだ特製の矢筒を差し出す。衝撃によって激しい熱を放つ「炎の矢」だ。カシムとエレナが同時に放った火炎の矢が、ワーウルフの巨躯を灼熱の渦に包み込む。しかし、獣は火だるまになりながらも、その鋼鉄の毛皮を焼かれることを厭わず、強引に刺さった矢を引き抜いた。
「これほどの硬度……ただの獣の範疇を完全に超えていますな、若」
ザイドが低く警告する。ワーウルフは咆哮を上げると、爆発的な跳躍で頭上へと舞い上がった。水飛沫が月光を浴びて煌めき、巨大な影が四人を押し潰さんと降り注ぐ。
今度はザイドがその一撃を盾で受け止めた。足元の石畳が悲鳴を上げ、ひび割れるほどの重圧。ワーウルフの血生臭い呼気が、ザイドの兜の隙間から入り込むほどの間近。その硬直を見逃さず、ヴァレリアが大盾の縁でワーウルフの面部を強打した。
さらにそこへ、エレナとカシムの精密射撃が重なる。一本は大きく開かれた口内を、もう一本は左目を正確に射抜いた。火炎が獣の体内と視神経を焼き尽くしていく。
ワーウルフは嗚咽とも取れぬ不気味な叫びを上げ、後ろに飛び退いた。しかし、眼球を潰され、体中から血を流しているというのに、その闘志に陰りは一切見られない。
「おや、片目を失っても動揺一つしないとは。美しいものを鑑賞する習慣がないと見えるね」
カシムが軽口を叩きながら、次の番えを引く。
「……困りましたね。これほど消耗を知らぬ相手とは」
「せめて一瞬でも意識を失ってくれれば、活路も見い出せましょうが……」
ザイドとヴァレリアが盾を構え直し、じりじりと間合いを詰める。疲れを知らぬ異形は、戦士にとって最も恐るべき敵だ。
その時、エレナの喉が小さく鳴った。
「……待ってください。様子がおかしいです!」
ワーウルフが激しく身をよじり、何かを吐き出そうと喘ぎ始めた。口元から溢れる穢れた呼気が、不気味に燃え盛り始める。直後、獣の口から禍々しい「黒炎」の塊が吐き出された。
ヴァレリアとザイドがそれぞれ盾で防ぐが、弾かれた黒炎は霧散することなく、液体となって地面に広がり、不気味な染みを作った。
「魔術まで扱えるとは……」
「……盾越しに伝わるこの感触。まるで生き物がぶつかってきたような、悍ましい手応えです」
ザイドが眉を潜める。防いだはずの攻撃にさえ、意志のような執拗さが宿っている。
「どうやら、まだ余興の続きがあるらしいね」
「これ以上、変異するんですか……!?」
カシムの言葉に呼応するかのように、ワーウルフの体内で骨が砕け、再構築される異様な音が響き渡った。悶える獣の額から鋭い角が突き出し、顔の輪郭はより凶悪なものへと削ぎ落とされてゆく。
牙は長く、腕はより強靭に。
その姿は、かつて彼らが地下遺跡で対峙し、ジグたちが辛くも退けたあの「レッサーデーモン」そのものへと変貌を遂げようとしていた。
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「しかし、空に信号が上がっても他の兵たちは持ち場を離れぬよう伝えておいたのは、正解だったかもしれんね。特に新兵たちには、この見た目は少々刺激が強すぎる」
カシムは、眼前のさらなる変異を遂げた魔物を見やり、自嘲気味に呟いた。
ワーウルフであった魔物は、内側から骨肉を組み替える悍ましい音とともに、今や誇大化した巨躯を漆黒の液体で塗り潰していた。それはかつて墓地で対峙した死霊術師の末路を彷彿とさせる、この世ならざる絶望の具現である。
「……私にとっても、充分すぎるほど刺激が強いですが」
「気をしっかり持ちなさい、エレナ。生物として形を成している以上、必ず倒す手立てはあるはずよ」
醜悪な姿に気圧されそうになるエレナを、ヴァレリアが凛とした声で鼓舞する。
「なれど、これほどまでに変貌しては、いかに対処すべきか……」
ザイドの危惧に応えるように、レッサーデーモンが粉砕された噴水の瓦礫を巨大な腕で掴み、力任せに投げつけた。
ザイドは大盾でそれを受け止め、凄まじい衝撃に歯を食いしばる。石を噛むような音が響き渡る中、魔物は続けざまに口元へ黒炎を宿し、灼熱の呪詛を吐き出した。ヴァレリアがこれを受け止め、盾に弾かれた炎は黒き液体となって周囲へ飛び散り、石畳を汚染してゆく。
「そういえばガウル殿が言っていた、鎧を貫通する『白い炎』……こいつも使ってくるやもしれませんね」
「僕らもそのような術が使えれば、少しは楽ができるのだがね」
前衛二人の隙間を縫い、カシムとエレナが放った魔石の矢が、迅雷の如き速さで魔物の肉厚な皮膚を穿つ。効果は薄いかに見えたが、魔物が怯む様子を見れば、確実にその生命力を削っているのは明らかであった。
消耗戦に持ち込み、力尽きて地に伏した隙に心臓を貫く――四人が言葉を介さずとも同じ活路を描いた、その時。
「仕掛けてきますぞ、若!」
四本足で巨躯を支えた魔物が上体を大きく反らし、その剛腕を地面へ叩きつけようと振り上げた。
巻き上がる石礫に備え、ザイドとヴァレリアが盾を構えた刹那、闇の彼方から一条の紫電が煌めき走り抜け、魔物の脇腹を鋭く貫いた。不意の衝撃に態勢を崩した獣は、激しい唸り声を上げて隣接する建物の壁へと叩きつけられる。
「悪い! 少しばかり遅くなっちまったな!」
「はは。ちょうどお色直しが終わったところだよ。タイミングがいい」
息を切らしながら駆けてきたのはジグであった。その指先には、今放たれた魔術の余光がまだ妖しく残っている。
「こいつは……いつかの地下で見た奴か……?」
「時間が経つほどに変化するとは……理外の業ですね」
ジグに続いて姿を現したアルスとガウルが、変わり果てたワーウルフの姿に驚愕の声を上げる。
標的が増えたことで、レッサーデーモンは怒りとも興奮ともつかぬ荒い呼気を漏らした。歪な口元から垂れるのは、涎か、それとも己を構成する魔王の血か、もはや判別すらつかない。
「怪我をなさいましたか、ガウル殿」
ザイドがガウルの引き裂かれた革鎧に目を留める。露わになった強靭な脇腹は、呪詛を孕んだ赤みに染まっていた。
あの頑強な男をこれほど容易く傷つけるとは……。ザイドは改めて、盾を握る手に力を込めた。
「ああ、まあ大事ない。戦うには充分だ」
「応急処置をしただけですから、無理は禁物ですよ、ガウル」
アルスが法術の光を手に灯し、ガウルは大剣の柄を握り直す。
「では、私たちが魔物の注意を引きましょう。隙を見て、ジグさんは魔術を叩き込んでください」
「ああ、任せておけ!」
「これ以上変異されたら、街が持ちません。ここで決着をつけましょう」
ヴァレリアが叫び、エレナが弓を引き絞る。
壊れた噴水から溢れ続ける水は、もはや広場一帯を鏡のように濡らし、冷たい月光を乱反射させていた。その水面に映るレッサーデーモンの姿は、まさに冥府から這い出した悪魔そのものであった。
「では、いつかの墓地以来の共闘だ。僕は、この布陣が案外気に入っていてね」
「へへ……そりゃ光栄だ!」
カシムの静かな宣言を合図に、七人の戦士が夜闇に散った。
都の命運を賭けた、最期の狂瀾が幕を開ける。
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アルスの放った光球が炸裂し、白銀の閃光が夜の帳を強引に引き裂く。
それを合図に、カシムとエレナの番えた魔石の矢が唸りを上げて放たれた。前足に深く突き刺さった矢は、接触とともに爆ぜるような熱を発し、巨躯を支える均衡を無慈悲に崩してゆく。
そこへ地を這うような速さでガウルが肉薄した。
「……おおおおおッ!」
腹の傷をなだめ、全身のバネを両腕へと集約させる。再び放たれた重い一撃。大剣の重量に己の体重すべてを預け、叩きつけるように胸元を裂いたその一閃は、ジグの魔術を迎え入れるための「道」を切り拓いた。
ガウルの背後、ジグの指先から放たれた光槍が、空気を震わせながらレッサーデーモンの心臓を寸分違わず貫いた。一筋の光が体内を焼き尽くし、夜空へと突き抜けて消える。
だが――。
「……こいつ、どうなってやがる?」
ジグの当惑した声が、夜の静寂に漏れた。
心臓を貫かれ、そこにあるはずの「核」を砕かれれば、魔導生物は塵に還るのがこの世の理だ。しかし、眼前の魔獣は消滅するどころか、その場に厳然として存在し続けていた。
魔物の肉体は今なお蠢き、より歪で悍ましい何かへと再構築を繰り返している。
「本当の不死身なんてこと、ありませんよね……!」
エレナが震える声を振り切るように次矢を放つ。
炎が魔物の胸を焦がし、続けてアルスの放つ光の針が、影を縫い止めてその動きを縛る。一瞬の硬直。
その隙にザイドが懐へ潜り込み、剣を一閃させて肉を断つ。
唸るレッサーデーモンは力任せに影縫いの制約を食い破り、反撃として巨大な腕を振り下ろしたが、ヴァレリアの重厚な盾がその一撃を火花とともに弾き返した。
「手応えは……間違いなくありますな」
「ですが、ここまで巨大だと、心臓を貫かれた程度では致命に届かないというのでしょうか。厄介ですね……」
二人は盾を構え直し、冷徹に戦況を分析する。
「かつての帝国ですら、このような化け物は造り出さなかったと思うがね」
カシムが苦々しく吐き捨て、次の矢を番える。
変貌し続けるその様は、もはや生物の範疇を逸脱し、純然たる悪意の塊――「悪魔」そのものであった。
「ジグ……。なんだか、この者の全身から、魔力の胎動が絶え間なく溢れているように感じるのです」
「あの気味悪い血の鎧を纏っているから、ってわけじゃねえのか?」
アルスはレッサーデーモンの名残すら消えゆく異形へ、意識を極限まで集中させていた。精霊たちの導きは途絶えて久しいが、代わりに彼は、魔物に漂う決定的な「違和感」を捉えていた。
「なら……こいつはどうだ!」
ジグが石畳に手をあて、溢れ続ける噴水の水に、全霊の魔力を注ぎ込む。
刹那、水面を走る凍てつく波動。魔物へ向けて一直線に氷結が走り、足元から無数の氷槍が突き出した。全身を串刺しにされ、宙に吊り上げられる異形。
もはや絶叫とも咆哮ともつかぬ悍ましい声を上げ、魔物は強引に氷の棘を砕き折った。
全身から不浄な赤黒い血を噴き出しながらも、魔物はなお、死を拒絶するように立ち続けている。流れ落ちた血は、鎧として纏う魔王の黒き液体と混ざり合い、足元の水たまりを禍々しい色に染め上げてゆく。
周囲の大気が、まるで異界のものと混じり合ったかのように重く、淀み始めた。
「なんだ……? この、胸の悪くなるような感覚は」
「ジグ、やはりこの者は……」
ガウルとアルスが、眼前の異形が放つ異質さを口にする。カシムたちもまた、その「得体の知れなさ」の正体を測りかね、戦慄を押し隠して身構えていた。
「そうだな、アル。俺にもはっきり分かったぜ」
魔物を睨み据えたジグが、冷徹な響きを帯びた声で告げる。
「普通はあり得ねえが……こいつ、全身が『魔術の核』そのものになってやがる」
もはや一個の黒き塊となり果てようとしている魔物は、この世の理すら嘲笑うかのように、さらなる絶望を撒き散らしながら咆哮を上げた。




