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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
34/37

034 最初の火 ⑤

「封印はもはや時間の問題……。とはいえ、我らが主はいまだ深い闇の底にあり、なればその影たる我もまた、肉体を持たぬは当然のこと」


 石仮面を失い、露わになったフェルノのかお――そこには暗黒の渦が巻くのみであった。空虚な闇から響く言葉は、凍てついた刃に身を斬られるかのように鋭く、聞く者の鼓膜を冷たく震わせる。

 彼が纏うフードやローブ、穢れた包帯は、中身のない空洞を強引に人の形に留めているにすぎない。


「そして……。肉体を持たぬということは、このような玩具おもちゃも意味をなさぬということよ」


 フェルノは、まるで羽毛でも扱うかのように、自らの胴を貫いていたガウル側の大剣を握った。無造作に引き抜くと、それを地面へと放り捨てる。

 重量のある鉄塊が夜の石畳にぶつかり、不気味な鈍音を響かせた。

 傷口からは、どろりとした漆黒の液体が絶え間なく流れ落ちる。しかしフェルノは気にする風もない。流れる血も、形を成す身体も、すべては魔王の欠片という同一の「闇」から成るものなのだ。


「……っ! これは、地面が……」


 アルスが声を上げた。

 いつの間にか三人の足元は、フェルノから溢れ出た魔王の血によって塗り潰され、夜闇よりも深い漆黒の池と化していた。


「カカ……。まあ良い。この時代の人間共も、意外に楽しませてくれる。偽りの平和に毒され、戦い方も忘れた腑抜けばかりかと思っていたが」

「何だ、もう満足して帰ろうってのか?」


 ジグは戦斧のような鋭い視線を解かず、低く応じた。

 実体のない肉体、そして魔王の血が尽きぬ限り無尽蔵に溢れ出す呪力。勝機をいかにして手繰り寄せるか、彼の脳裏ではみどりの民の智略が目まぐるしく回転していた。


 (正直、ここで退いてくれるなら御の字だが……。弱みを見せた瞬間、喰われるな)


 ジグは強気に不敵な笑みを浮かべ、まだ切り札を隠し持っているかのように振る舞う。


「この街など、ただの気紛れ。我らの計画において、何ら重要ではないのでな」

「へっ……そうやって余裕をこいていると、いつか足元を掬われるぜ」

「クク、分かっておらぬな。悠久を生きる我らにとって、小さな勝敗など一粒の砂に等しい。お前たち人間にできるのは、せいぜい主を封じ込めるまで……。なれど時間は無限よ。最後に悲願を成就させるのは、我らなのだからな」


 フェルノが腕を掲げると、足元の漆黒が狂ったようにうねり、不気味なさざめきを上げた。


 ガウルは全神経を研ぎ澄ませていたが、足元から伝わる、粘りつくような「闇」の蠢動に意識を乱されそうになる。

 その瞬間であった。ガウルの背後、漆黒の池から月光を弾くほど鋭い閃光が跳ね上がった。


「……っ! クソッ!」


 長年の直感で辛うじて身を捩る。しかし、回避は完全ではなかった。ガウルの脇腹が革鎧ごと薄く切り裂かれる。

 たかが掠り傷。だが、そこから焼けるような呪いの熱が走り、抑えた指の間からどす黒い鮮血が溢れ出した。


「ガウル、大丈夫ですか!」

「召喚術の真似事までやるか……。何でもアリかよ、この気味悪い血は」


 アルスの叫びに応じる余裕もなく、ガウルは周囲を睨み据える。

 一歩でも動けば、足元の影から新たな刃が迫るだろう。

 ジグもまた、魔王の血の底知れぬ威容に悪態をつきながら、影の底から這い出ようとする異形の輪郭へ向け、渾身の光槍を叩き込んだ。


 ----------


 ジグが放った渾身の光槍を、底なしの暗黒が音もなく呑み込んだ。

 刹那、漆黒の渦から、岩をも砕くであろう鋭い爪を備えた二本の剛腕が這い出る。地面を抉りながら這い出してきたその巨大な体躯が露わになったとき、三人は息を呑んだ。爪の先には、先ほどガウルの腹を裂いた赤黒い血が、呪わしくこびりついている。


「ワーウルフ……!また面倒なもん呼び出しやがる」

「ですが……噂に聞くよりも、あまりに巨大すぎます!」


 二本足で直立する獣の異形を仰ぎ、ジグとアルスが叫ぶ。

 俊敏な動きで獲物を追い詰める狼の特性を持ちながら、その体躯は山をも揺るがす巨獣のそれであった。以前遭遇したレッサーデーモンと同様、人為的に魔王の力を注ぎ込まれた個体特有の、歪な肥大化を遂げている。


 ガウルは腹を裂かれた激痛に耐え、左手で傷口を強く抑えながら、右手で足元の大剣を拾い上げた。

 常に灼熱の刃で抉られているような呪いの痛みが走り、額からは滝のような冷や汗が流れる。しかしガウルは、荒くなる呼吸を細く長く整え、戦士としての本能を極限まで研ぎ澄ませた。


「それは石と見事に適合してみせた、獣の成れの果て……。なれど、やはり人のごうという欲がなければ、主を受け入れる『器』には成り得ぬか」


(器……?)


 ジグはその不吉な言葉の端に引っ掛かりを覚えながらも、牽制の火球を放つ。だが、火球はワーウルフの鋼の如き毛皮を僅かに焦がしただけで、無力に霧散した。


「こいつが置き土産ってわけか。どこまでも趣味の悪い野郎だぜ」

「クク、精々抗ってみるがいい。出来るものならな」


 フェルノは満足げに嘲笑うと、枯れ枝のような腕を天高く突き上げた。

 すると、足元の暗黒が噴水のように立ち上がり、虚空を無理やり切り裂いた。フェルノは一度も振り返ることなく、その亀裂の向こう側へと溶け込み、掻き消えた。


 首謀者が去った後の広場には、耳鳴りがするほどの静寂と、残されたワーウルフの地響きのような唸り声だけが停滞している。離れた場所にいても、獣の口から吐き出される腐肉の如き血生臭い匂いが、風に乗って鼻腔を突いた。


「自分だけ楽しんで帰りやがって……。典型的な嫌われるタイプだな」

「ジグ、まずはこの者を」

「分かってる。……それと、ガウルの手当てもだ」


 二人の会話など耳に入らぬ様子で、ワーウルフは自らが引き裂いたガウルの血の香りに狂乱し、爛れた口元から濁った涎を垂れ流した。


 ガウルは大剣を握る右腕に、血管が浮き出るほどの力を込める。

 腹部から失われ続ける熱とともに、視界の端が僅かに白む感覚があったが、それでも彼の闘志は一向に衰えてはいない。

 死地を潜り抜けてきた男の瞳が、飢えた獣の視線と真っ向からぶつかり、火花を散らした。


 ワーウルフが仕留め損ねた獲物を屠らんと地を蹴った刹那、アルスの放った光球がその眼前で炸裂する。

 不意を突かれ怯んだ魔物へ、ジグの紡いだ鋭き雷撃が追い打ちをかける。稲妻の洗礼に獣が身を竦ませた、その一瞬の隙をガウルは見逃さなかった。


 斬り裂かれた腹に力が入らぬならばと、彼は己の肉体の自重すべてを刃に乗せる。右腕一本、不退転の覚悟を込めて振り下ろされた大剣は、半ば叩きつけるような勢いでワーウルフの胸を深く、深く斬り裂いた。


 三人の連動した猛攻を受け、魔物はたまらず後方へ飛び退くと、鼓膜を震わせる咆哮を上げた。

 爛れたかおを夜空へ向け、獲物の位置を測るように周囲を睨みつける。すると、その巨躯からは想像もつかぬ驚異的な跳躍を見せ、一息に三人の頭上を越えて姿を消した。


「クソッ! あいつ、広場の方へ行きやがった! カシムたちのいる方向だぞ!」


 ジグが追撃の光槍を放つが、ワーウルフは空中で身を捻ってそれを回避する。周囲の建物を足場に跳躍を繰り返し、闇夜の奥へと溶け込んでいった。静まり返った街に、獣に踏み荒らされた壁の破片がパラパラと零れ落ちる虚しい音だけが響く。


「ガウル、平気ですか!」


 壁を背に、ずるずると崩れるように座り込んだガウルへ、アルスが声を上げて駆け寄った。

 腹部からは、なおも暗い鮮血が流れ続けている。たかが掠り傷――そう呼び捨てにするには、あまりに深い、呪わしい傷口。アルスは魔王の断片を注ぎ込まれた存在の、底知れぬおぞましさを改めて肌で感じていた。


「……すまん……。少し、油断した」


 申し訳なさそうに零すガウルの額には、玉のような汗が浮かんでいる。

 無理に大剣を振るったためか、傷の周囲はどす黒く腫れ上がり、呼吸のたびに激しい苦痛が彼を苛んでいた。


「あんなデタラメな奴を相手に、油断も何もありゃしねえって……。俺だって、腕の傷がまだ疼いてやがる」

「……さほど強い呪いがかけられているようには見えませんが、何故これほどまでに……」


 アルスはガウルの傷口を確かめ、震える指先で法術を紡ぎ始める。

 感じ取ることが出来るのは、痛みを倍増させる程度の初歩的な呪いに過ぎない。だが、あの漆黒の液体が放つ禍々しさは、理屈を超えた何かを孕んでいるようだった。


「……とりあえず、傷だけ塞いでくれ。……カシムたちのことが、心配だ」

「そうだな……。俺たちが駆け付けるまで、あいつらが無事でいてくれりゃいいんだがな」


 荒い息を吐きながら、ガウルはアルスの顔を見て言った。

 法術の温かな光がじわりと傷口を包み込む。燃えるような激痛が引き、遠のきかけていた意識が確かな輪郭を取り戻していく。


(相変わらず、腕のいい法術師だな……)


 乱れた呼吸を整えながら、ガウルは献身的に光を注ぐ青年に、静かな信頼を寄せた。


「急いで追いかけたいが、こういう時こそ準備を怠るわけにもいかねえし。地面に残ったこの黒い染みも、浄化しておかねえと何が起きるか分かったもんじゃねえからな……」


 ジグは独り言ちると、懐から予備の聖水を取り出し、戦いの跡に撒き散らされた不浄の染みを一つひとつ浄化していった。

 一体、これから何が起きようとしているのか。混濁する思考を振り切るように、ジグは聖水の瓶を握る手に力を込める。


 今はこの夜を、ただ生き延びること。

 すべての清算は、嵐が過ぎ去った後でいい。

 彼は一足先に魔獣の牙に晒されているであろうカシムたちの無事を、心から願いながら夜の街を見据えた。


 ----------


 魔石灯の光を反射する広場中央の噴水が、夜の静寂の中に規則正しい水音を刻んでいた。

 カシムたちの周囲には、先ほどまで「魔物になり損ねたもの」であった灰の山が、黒い澱のように積み上がっている。


「これで、結界の網にかかった者たちは全部かな」


 カシムが弓の弦を指で弾き、微かな震えを鎮めながら言った。


「そうみたいですね。聖水の輝きが呼応する様子は、もうありません」

「普通の魔物と違って、亡骸が灰になるのは気味が悪いですね。やはりあの吐き出した石のせいでしょうか……」


 合流したヴァレリアとエレナが、鋭い視線で周囲の暗闇を警戒する。

 数匹がこの広場まで侵入したものの、カシムたちの連携によって事なきを得ていた。ザイドが灰の山を見やり、重厚な鎧を鳴らして溜息をつく。


「しかしこれだけの灰、後片付けに頭が痛いですな、若」

「はは。再利用の道でもあれば歓迎なのだがね。後でジグ殿に、これに魔術的な価値がないか聞いてみよう」


 言葉とは裏腹に、カシムの背筋には冷たい汗が伝っていた。

 襲撃者を一掃したはずだというのに、肌を刺すような緊張感が一向に抜けない。夜風に煽られ舞い上がる灰が、不吉な雪のように視界を遮る。


「避難所に被害がなかったのは幸いだが。……怪我をした者は?」

「新兵が数人、かすり傷を負った程度です。皆、驚くほどよく動いてくれました」

「ガウル殿のしごきが効いたのかな。運が良かった」


 だが、その安堵を切り裂くように、ザイドの瞳が夜の闇一点を射抜いた。


「……! 若、お下がりください!」


 漆黒の闇を割って、暴風の如き咆哮が轟く。

 空より飛来した巨躯は、広場中央の噴水へと無造作に着地した。狼の凶暴さと、鋼鉄の如き毛皮。ジグたちが死闘を演じたあのワーウルフであった。

 着地の衝撃で、大理石の噴水は紙細工のように粉砕され、溢れ出した水が石畳を濡らし、戦場を鏡のように変える。


「これは……今までとは、比べ物になりませんね」


 エレナが絞り出すような声と共に矢を放つ。しかし、放たれた一矢は獣の鋼毛に弾かれ、空しく火花を散らして地に落ちた。


「改修を考えていた噴水を真っ先に壊すとは、中々気が利くじゃないか」

「若、冗談を言っている場合ではありませんぞ。あの毛皮、触れれば剣に斬られるのと同義。まともに受けてはなりませぬ」

「……ですが、幸いにも胸と腹が、何者かの手によって深く斬り裂かれています。そこが唯一の活路ですね」


 カシムが弓を番え直し、ザイドとヴァレリアが巨獣の挙動を冷静に分析する。ガウルが大剣で刻んだ胸の傷からは、泥のような暗い血が滴り、石畳に濁った波紋を作っていた。


「盾を持ってきて正解だったわ。カシム様、私の後ろへ!」


 ヴァレリアが重厚な大盾を構え、獣の視線を正面から受け止める。ワーウルフの呼吸は、まるで人の絶望を愉しむ嘲笑のように不気味に響いた。


「すまない、ヴァレリア。無理はしないでくれ。……エレナ、信号弾を! ジグ殿たちに、この窮地を知らせるんだ」

「はいっ!」


 エレナが魔石を付与した矢を夜空へ放つ。

 一条の光が闇を切り裂いて最高高度へと達し、弾けるような音と共に、眩い合図を周囲に告げた。


「回避を優先しよう。毒を持っている可能性もある。隙を突き、あの胸の傷を抉るんだ!」

「承知しました、若!」


 獣の口から穢れた涎が落ち、石畳を濡らす。

 それが、戦いの開始を告げる銅鑼の音となった。嵐の牙が、今まさにカシムたちへと襲いかかる。

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