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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
33/37

033 最初の火 ④

 重苦しい雲が月を呑み込み、都の輪郭が闇に溶けゆく頃。

 石畳を叩く二組の足音だけが、静まり返った街路に寂しげに響いていた。


「……何か来るかもしれないって予感だけで、いつもの街がこんなに違って見えるなんて。嫌なものですね、ヴァレリアさん」

「エレナ、あまり気を張りすぎると身が持たないわよ。……もっとも、そう言う私だって、この空気の重さには閉口しているけれど」


 夜警に就いた二人の女騎士は、肩を寄せ合うようにして巡回を続けていた。

 生まれ育ち、あるいは長年守り続けてきた見知ったはずの街。それが今夜に限っては、見知らぬ怪物の胎内を歩いているかのような、得体の知れない不気味さを帯びている。街角に灯された魔石の街燈も、霧に濡れて力なく明滅を繰り返すばかりだ。


「……それにしても、アルスさんって、どうしてあんなに肌が綺麗なのかしら。旅暮らしのはずなのに、浮世離れしているというか……」

「そうね。あんなに澄んだ状態を維持できるなんて、魔法か何かの秘訣があるのかしらね」

「やっぱり、あの方みたいにフードを深く被って、日差しを避けるのが一番の近道なのかなぁ」


 エレナが緊張を誤魔化すように、とりとめのない女子おなごらしい世間話を投げかける。

 アルスと出会ったあの日から、過酷な旅路に身を置きながらも、一分の乱れも感じさせぬ彼の神聖な美貌は、彼女たちのささやかな関心の的となっていた。


 その時だった。

 視界の端、数街区先で青い燐光が、夜の闇を鋭く切り裂いた。

 それは、夕刻にアルスたちの進言で撒かれた聖水による結界が、不浄の存在を捉えたという警告の灯火ともしびであった。


「……っ、ヴァレリアさん!」

「ええ、行くわよ!」


 二人は言葉を交わすまでもなく、弾かれたように光の源へと駆け出した。


「――いました!」


 路地の角を曲がった刹那、エレナが叫ぶと同時に強弓を引き絞る。放たれた矢は風を切り、闇に蹲る獣の影を正確に射抜いた。

 だが、その影は呻き声一つ上げず、ゆっくりと、呪わしいほど滑らかな動きで立ち上がった。

 狼の如き四肢を持ちながらも、それは関節を歪な音で鳴らし、二本足で直立する。月光に照らされたその貌は、もはや獣のそれではなく、悪意を煮詰めたような異形へと変貌を遂げつつあった。


「これは……まだ完全に『魔』へ堕ちきっていないわね。変化の途中よ。エレナ、仕掛けるわ!」

「はい! 街の人たちに被害が出る前に、ここで仕留めましょう!」


 エレナが次なる矢を番え、ヴァレリアが鋭い金属音を響かせて抜き放った剣を正眼に構える。

 眼前の獣は、今この瞬間も、ドロドロとした魔力を脈動させながら、よりおぞましき姿へと肉体を造り替えていた。


 ----------


 ジグやエレナたちとはまた別の街角でも、湿り気を帯びた夜闇を鋭い剣閃が切り裂いていた。


 カシムの放った矢を、獣の影は不自然なほど素早い跳躍で回避する。着地と同時に牙を剥いて飛びかかってきた影を、老練なるザイドの白刃が横一文字に払い、その突進を冷徹に突き放した。

 眼前の異形は、エレナたちの前に現れた個体よりもさらに変異が進んでいる。その背中からは刺々しい突起が突き出し、もはや獣の皮を被った悪鬼の如きかたちを成していた。


「ザイド、僕が矢で牽制する。その隙に頼むよ!」

「承知……お任せください、若!」


 獣が咆哮とともに振り下ろした剛腕が、石畳を粉砕する。その衝撃を紙一重でかわしながら、二人は短く息を合わせた。

 獣が次なる猛攻のために体勢を立て直そうとした刹那、カシムの放った二条の矢が、吸い込まれるように異形の眼球と右腕の関節を貫いた。

 その千載一遇の隙を、歴戦の老騎士が見逃すはずもない。ザイドは地を這うような踏み込みで懐へと滑り込み、一寸の狂いもなく、異形の胸奥に宿る心臓を貫き通した。


 心臓を断たれた獣は、天を仰いで嗚咽のような苦悶を漏らすと、その口から禍々しく光る赤い石の欠片を吐き出した。直後、その肉体は内側から腐り落ちるように砂へと崩れ、夜風にさらわれて石の欠片共々、跡形もなく掻き消えていった。


 辺りには再び、耳鳴りがするほどの静寂が戻る。街路を照らす魔石灯の頼りない明かりが、戦いの名残である石畳の亀裂を、虚しく照らし出していた。


「なるほど……。ジグ殿の助言通り、結界を構築しておいて正解だったようだね」


 カシムは、指先に残る弓弦の震えを静めるように拳を握り、闇の彼方へと消えた砂の行方を見つめた。


「住民たちの避難も、領主館と図書館へ無事に完了しております、若」

「ありがとう。いつも苦労をかけるね……。これは後で、兵の皆も十分に労わなければならないな」

「避難所の警護には、ガウル殿が鍛えた新兵と熟練の者を組み合わせて配しております。……いかがなさいますか、若」


 カシムはザイドの問いに応じ、鋭い眼差しで周囲の気配を索敵した。侵入者の気配はひとまず途絶えているが、この静けさこそが、より巨大な災厄の到来を予感させてならない。


「そうだね……。まずは避難所の様子を確認し、一刻も早くエレナたちと合流しよう。どうやら、想像以上に忙しい夜になりそうだ」

「ええ。では、急ぎましょうぞ」


 二人は長年の主従の絆を感じさせる短い言葉を交わすと、影を切り裂くように夜の街へと駆け出した。

 嵐はまだ、この街に吹き始めたばかりであった。


 ----------


 魔石灯の頼りない光に縁取られた路地裏に、漆黒の炎が奔る。

 それは熱を孕んだ陽炎かげろうではなく、見る者の正気を削り取るような、くらい意志を持った影の奔流であった。


 アルスとガウルが左右へ跳躍して炎を躱すと同時に、中央のジグが指先を組み、凝縮された緋色の魔弾を撃ち出す。

 両者の力が空中で激突し、爆散する。一瞬、都の夜を白日の如き輝きが焼き尽くしたが、後に残った光景は不吉そのものであった。ジグの魔術は霧散して消えたが、石仮面の放った黒炎は、まるで粘りつく液体の如く石畳へ滴り、不浄な染みを作っていたのだ。


 ジグは、その染みが蠢く様子を鋭く射抜き、奥歯を噛み締める。


(ただの元素魔術じゃねえ……。ことわりそのものが、捻じ曲がっていやがる)


「貴様らに興味はない……が、この時代の人間がどれほどのものかは興味深い。しばし、我が実験に付き合ってもらおうか」


 石仮面が汚れた布に覆われた手を、幽霊のようにかざす。

 刹那、彼の歪な足元から、地を這う無数の黒き茨が噴出した。それは獲物の命を求めてうねり、牙を剥く。


「俺たちで腕試しなんて、ありがた迷惑なんだよ!」


 ジグが悪態をつきながら、両手で紡いだ氷結の術式を薙ぎ払う。

 黒き茨は一瞬にして凍てつき、その動きを止めたかに見えた。だが、茨が怪しく明滅した瞬間、氷は内側から砕け散り、死神の鎌の如き鋭さで再び三人を襲う。


 アルスは翻るマントの裾を散らしながら茨を避けるが、続く一撃が、後退しようとしたジグの左腕を薄く切り裂いた。

 尚も追撃せんと鎌首をもたげる茨を、ガウルの大剣が豪快に断ち切る。切り落とされ、地面に落ちた茨は、やはり消えることなく黒い泥のような沈殿物へと変わった。


「……貴方からは、生命の自然な流れを感じません。一体、何を……」


 アルスがジグの傷を案じつつ、黄金の瞳に警戒の光を宿して石仮面を凝視する。

 ジグの腕へ駆け寄り治癒を施したいが、目の前の怪物は、一寸の隙も与えてはくれない。


「クク……察しが良いな。我が扱うは魔術にあらず。偉大な我らが主の欠片こそが我らの源。我らは個にして全、全にして個なり」


 石仮面がそこに佇むだけで、周囲の大気が腐敗し、変質していく。

 ジグは流れる血を抑え、荒い呼吸を整えながら薄く笑った。


「へ……何となく読めてきたぜ。二千年前の『精霊石』に似たもんを何度も作らせて、自分は『主の欠片』か。自白してるようなもんだぜ」


 滴る血が石畳に小さな波紋を作る。ジグはその痛みを、闘志へと変換するように目を細めた。


「いいだろう。隠す段階はとうに過ぎた。我は貴様らが魔王と呼ぶ『闇を撒くもの』の配下なり」

「魔王だと……。太古の戦争で、封印されたはずだが」


 ガウルが大剣の柄を軋ませ、歴戦の凄みを込めて吠えた。


「封印など、もはや時間の問題に過ぎぬ。理の歪みは、既に修復不可能なほどに広がっているのだからな」

「……貴方が操るその不浄な液体。それが、封じられた魔王の一部だというのですか」

「賢者の石の触媒が何か疑問だったが……。この街を襲ったのも、石の完成度を測るための小細工ってわけか」


 アルスとジグの冷徹な分析に、石仮面は応えない。ただ、再びその手を幽霊のようにかざす。対話の時は終わり、ここからは一方的な蹂躙が始まると告げるかのように。

 足元からは、先ほどよりも濃密な黒き液体――魔王の肉片とも呼ぶべき禍々しき力が溢れ出していた。


「……とりあえず、名前だけ名乗ってくれねえかな。名無しのイカれた奴をぶん殴るってのは、どうにもやりづらくていけねえ」


 ジグの減らず口を受け、石仮面の奥から、乾いた笑い声が漏れた。


「フェルノ。そう呼ぶがいい。魔王再臨を告げる最初の火。それが我だ」


 魔王の配下、フェルノが手に力を込める。

 都の夜気は、いよいよ逃れようのない死の抱擁のように、重く、深く、三人の肩に伸しかかってきた。


 ----------


 アルスの放つ光球が、フェルノの目前で激しく爆ぜる。

 しかしフェルノは微塵も動揺せず、足元に広がる黒き液体を無数の刃に変えて一斉に放った。その鋼鉄をも断つ鋭利な軌道を、ガウルが大剣で薙ぎ払い、力任せに打ち砕く。砕かれた刃はやはり、霧散することなく地面へと黒い染みを作り、不気味に蠢いた。


 背後から死角を縫って伸びた影の刃がガウルを襲い、ジグが痛む腕を強引に扱い、術式を編み上げる。

 青白い雷撃が黒き刃を駆け抜け、粉々に砕いて不浄な染みへと変えてゆく。


「賢者の石の触媒にも使ったってことは、こいつは魔王の血ってところか。主の血を湯水みてえに使うなんざ、少し横暴なんじゃねえのか?」

「言ったはずだ……我らは個にして全。我と主は同質なる存在」

「ふん……。己の体でもあるから使い放題、というわけか」


 ジグの投げかける皮肉に、フェルノは何ら感情を動かさず答える。その底知れぬ無機質な空気に、ガウルは吐き捨てるように悪態をついた。

 ジグは黒き棘で受けたかすり傷が、魔力そのものを汚染されるような異常な痛みを伴うことに、ガウルは刃を砕くたびに伝わる、まるで生きた肉を叩いているかのような悍ましい手応えに、それぞれ得体の知れぬ忌まわしさを感じていた。


「先ほど魔術ではないと言われましたが……その液体、微かにエーテルの流れを感じます」

「ほう……中々に察しが良いな」


 アルスは感じ取った疑念を口にしつつ、マントのフードを深く被り直した。おそらく、この怪物に自らの「黄金の瞳」を見せてはならない。精霊の囁きに似た直感が、彼にそう告げていた。


 フェルノは多くを語ることなく、再び枯れ枝のような手をかざした。

 足元から溢れ出した黒き液体が、今度は無数の触手へと形を変え、大気を引き裂く勢いで三人に襲いかかる。


 ジグが焦熱の爆炎を放ち、触手を焼き払う。

 アルスは襲い来る黒き影を身軽に避けながらジグの元へ駆けつけ、その傷を法術で包み込んだ。ジグの引き締まったみどりの腕に流れる鮮血が、乾きかけた筋となって生々しく残っている。

 残る触手をガウルが豪快に斬り落とし、一瞬の隙を突いてフェルノの眉間へとナイフを投じる。だが、それは不可視の壁に阻まれたように、呆気なく払い落とされた。

 石畳を叩く金属音が、虚しく響く。


「……アル、俺が隙を作る。お前はこの前の『アレ』をやってくれ」

「……ええ、分かりました」


 治癒の光を受けながら、ジグは敵に悟られぬよう、極めて小さな声で隣のアルスに囁いた。アルスもまた、その真意を瞳の奥で受け止め、短く応じる。


 少し離れた場所では、ガウルが猛り狂う触手を一手に引き付け、死闘を演じていた。大剣の一振りで斬り伏せるのは造作もないが、やはりその「肉」を断つ感触は吐き気がするほどに不快であった。

 ふと、ジグと視線が交差する。相棒が仕掛けようとしている合図。ガウルはわずかな視線の動きで承知し、次の跳躍のために体勢を沈めた。


「――爆ぜろ!」


 ジグが通常の火球を遥かに凌駕する、強大な「業火球」を紡ぎ出し、フェルノへと叩きつける。

 それは標的に届く直前、ジグの意思によって空中で大爆発を引き起こした。激しい光が視界を灼き、燃え盛る白煙が路地を覆い尽くす。焦げた匂いが風に乗り、渦を巻いた。


 フェルノが視界を遮る煙を厭わず、再び手をかざそうとした時――一瞬、その動きが岩のように凍りついた。

 動きを封じた根源を見やれば、フェルノの影を射抜くように、アルスの放った「光の針」が地面に突き刺さっている。


「影縫いか……。浅知恵の小細工だな」


 フェルノは興味なさげに吐き捨てると、意識を己の影へと流し込み、光の針をいとも容易く粉砕して束縛を破った。

 しかし、その刹那の停滞こそが狙いであった。煙の中から、ガウルが電光石火の勢いで肉薄する。歴戦の加速が、重厚な大剣を最速の刃へと変えた。

 ガウルは大剣の先端を、フェルノの胸部へと深く、深く突き刺した。


「カカカ……。なるほど、よくやるものだ」

「……ぐ……っ!」


 石仮面に覆われた顔をガウルに向け、フェルノが冷たい嘲笑を漏らす。

 ガウルは確かにその中心を貫いた手応えを感じていた。だが、目の前の男は揺らぎすらしない。異様な抵抗感に、彼は素早く大剣から手を離し、腰の短剣を抜き放つ。渾身の力でフェルノの石仮面を目掛けて突き立て、仮面ごと、その「顔」を破壊した。


 並の戦士であれば、一連の異常事態に立ち尽くしていたであろう。だが、ガウルの肉体は思考よりも速く、歴戦の経験に導かれて動き続けていた。背筋を伝う嫌な汗を拭う間もなく、彼は飛び退き、眼前の「真実」を見据える。


 仮面が砕け散り、露わになったその貌に、三人は息を呑んだ。


 精霊たちが狂乱したようにおののく声がアルスの耳朶を打ち、ガウルの全身は警鐘を鳴らすように鳥肌が立つ。


「お前……ここまで普通じゃねえとは、思わなかったぜ」


 ジグが魔術の光を手に灯らせ、殺気を込めて睨み据える。

 その視線の先にいたのは、人の貌など持たぬ者。ただ暗黒の渦だけが、かろうじて顔の形を成している……魔王の断片を形に留めた、異界の化身であった。

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