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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
32/36

032 最初の火 ③

 空が重苦しい灰色の雲に塗り潰され、湿り気を帯びた風が都の熱気を奪い始めた頃。カシムの私邸の庭園には、激しい打突の音と、若き兵たちの荒い呼吸が渦巻いていた。


「ガウル殿、お疲れさまでした」


 老練の騎士ザイドが、穏やかな、けれど敬意の籠もった声をかける。

 数刻前まで、そこでは模擬戦という名の「嵐」が吹き荒れていた。最近雇い入れられたばかりの新兵たちの練度を危惧したザイドの願いを、ガウルは引き受けたのだ。

 ガウルの掌には、使い込まれた木刀が馴染んでいる。朝、図書館へと向かったジグたちと別れて以来、彼は休むことなく若者たちの荒削りな剣を捌き続けていた。


「実戦経験の浅い者が多く、稽古をつけるのは大変だったでしょう」


 ザイドが苦笑混じりに視線を向けた先では、新兵たちが地に伏し、己の不甲斐なさと疲労に肩を揺らしていた。対して、ガウルは額に微かな汗を浮かべてこそいるが、呼吸ひとつ乱れてはいない。


「……いや。筋は悪くない。よく訓練されている」


 ガウルは差し出された布を受け取り、顔や腕の汗を拭った。数多の戦場を渡り歩いてきた彼にとって、こうした「指導」は、かつて王国騎士団に身を置いていた頃の遠い記憶を呼び覚ます。

 模擬戦とはいえ、多人数を相手に立ち回り続けるのは神経を削る作業だ。だが、彼の内側に宿る戦士の魂は、この適度な疲労をどこか心地よく受け入れていた。


「ははは、やはり外部の、それも貴殿のような手練れに見てもらうのは刺激になるね」

「ええ、皆にも刺激になったと思います」


 ザイドの背後から、領主の跡取りであるカシムと、その護衛を務める熟練の女騎士ヴァレリアが姿を現した。


「……そうか。役に立てたなら何よりだ」

「やっぱりガウルさんの剣捌きって力強いですよね!誰かに教わったんですか?」

「あ、ああ…。まあ、な」


 傍らにいた若い女騎士エレナが、瞳を輝かせて食い入るように問いかける。

 ガウルは、その真っ直ぐな称賛に僅かな戸惑いを見せた。二十年という歳月を、己の影と大剣だけを友として生きてきた彼にとって、他者から向けられる無邪気な関心は、未だに慣れぬ鎧のように居心地が悪い。


「ガウル殿、貴殿のあの精密なナイフ投げを見るに、弓術も相当なものではありませんか?」


 ヴァレリアが、彼の胸のホルダーに差された投擲用の小刃を鋭く見つめて指摘した。

 実際、ガウルの眼力と腕力をもってすれば、百歩先の標的を射抜くなど造作もないことだ。しかし、彼は僅かに眉を寄せ、自嘲気味に息を吐いた。


「んん……。その、俺の腕力に耐える弓が、な……。特注の逸品でもなければ、一度引き絞っただけでへし折れてしまう」


 流れの傭兵という身軽な立場では、己の剛腕に見合う高価な得物を調達し、維持し続けるのは至難の業であった。


「……ところで、ガウル殿。道中、例の一件に関わった者の影はありましたかな?」


 ザイドが周囲の風の音に声を紛らわせ、密やかに尋ねた。

 カシムの敷地内とはいえ、壁に耳あり。用心を重ねる老騎士の態度は、事態の根深さを物語っている。


「いや、あいにく何も見つからん。あれだけの騒動を起こしながら痕跡ひとつ残さぬとは……。よほどの手練れか、あるいは既にこの国を離れたか、だな」


 ガウルは腕を組み、ここまでの旅路を反芻する。

 ジグやアルスと共に目を光らせていたつもりだが、首謀者の尻尾すら掴めぬ不気味さは、彼の胸に拭い去れぬ懸念を植え付けていた。


「やれやれ。せめて首謀者が、こちらの追跡を躊躇わせるほどの絶世の美女なら、まだ救いがあるのだがねえ」

「カシム様、フレデリカ様に聞こえたら、またお小言を頂戴しますよ?」


 カシムの軽薄な冗談に、エレナが苦笑を漏らしてたしなめる。ザイドはいつものことだと諦めたように天を仰いだ。新兵たちはようやく起き上がり、畏敬の念を込めて傭兵の背中を見つめている。


「……そういえば、ガウル殿。その腰の短剣、未だ使っている所を見たことがありませんが」

「これか? ……大剣を振るえぬ狭い場所や、不意の近接戦のためだ。大剣一本では、死角を突かれた時に脆い」

「それじゃあ、短剣術も扱えるんですか!」


 武術に目のないヴァレリアとエレナの熱視線に、ガウルは内心で溜息をつく。

 カシムも楽しげに追従した。


「ははは、二人とも熱心だね。ジグ殿とアルス殿もまだ戻らぬようだし、もう少し彼らの相手をしてもらえないだろうか」

「では、私も少し見学させてもらいますかな」

「……ああ。まあ、構わんが……」


 断りきれず、ガウルは再び木刀を握り直す。

 カシムたちの厚意も信頼も、決して嫌いではない。だが、この胸を掠める気恥ずかしさは、どうにも落ち着かなかった。


(早く戻ってこい、あいつら……)


 皮肉屋の魔術師と、危ういほど純粋な青年。

 二人を思い浮かべた瞬間、ガウルは自覚した。自分は既に、彼らを「守るべき対象」ではなく、共に大地を駆ける「仲間」として、心の内側に招き入れているのだということを。


 厚い雲に覆われた空の下、再び木刀の風切音が庭園に響き渡った。


 ----------


 窓外に広がる都の灯が、押し寄せる雲の影に心細げに震えている。

 領主館の食堂には、上質な蜜蝋の香りと、食後の穏やかな熱気が満ちていた。


「食事のお誘い、ありがとうございました。フレデリカさん」

「いいえ。旅の空の下では、温かな皿が何よりの薬となりますもの。お口に合いましたなら、幸いです」


 食事の礼を述べるアルスを、カシムの婚約者フレデリカが慈しむような眼差しで見て答えた。

 図書館での邂逅を経て、ジグとアルスが館に戻ったのは、街が夕闇に呑み込まれる頃であった。カシムは再会を祝して三人を食卓へと招き、ジグたちもまた、胸に抱いた不穏な「嵐」の予兆を伝えるべく、その申し出を静かに受け入れたのである。


 食事に誘われたならば、顔を隠したままは失礼ではと、ジグやガウルが心配する中、その深い瞳を宿す顔を屋敷の皆に見せた。

 フレデリカとザイドはその美しさと伝承に残る黄金の瞳に息を呑み、カシムは非常時でなければもっと時間を掛けて彼等と話せたものを…と、残念に思ったのだった。


「若。ジグ殿より託されました準備、万端整いましてございます」

「……そうか、大儀だったね、ザイド。新兵諸君も、稽古上がりの体に鞭打ってよく動いてくれた」


 広間の隅で、カシムと老騎士ザイドが声を潜めて言葉を交わす。

 カシムは窓辺に立ち、夜の帳に包まれた街路を、思案に暮れる瞳で見下ろしていた。知己であるジグが持ち帰った老人アーウィンの警告。それらはカシムの胸中で、拭い去れぬ暗雲となって渦巻いていた。


「エレナとヴァレリアはどうしているかな?」

「二人とも、既に夜警の任に就いております、若」

「はは、相変わらず実直なことだ。だが、彼女たちにすべてを背負わせるのも、次期領主としては些か格好がつかないね。僕も後ほど合流しよう」

「ならば、私もお供いたしましょう」


 ザイドが深く頷き、主の決意に寄り添った。

 本音を言えば、民を預かる貴種を戦火の懸念ある最前線へ立たせたくはない。だが、一度言い出せば退かぬその頑固さは、亡き先代譲りであることを、ザイドは誰よりも知っていた。


 柔らかな絨毯を静かに踏みしめる音が響き、フレデリカがカシムの傍らへ歩み寄った。彼女はその細い指先で、カシムの手を頼もしげに、かつ切なげに握りしめる。


「カシム……。どうか、御身を大切に。皆様も、どうかご無事で」

「案ずることはないよ、フレデリカ。今日は心強い客人もいてくれる。何が起きようと、後れを取るような事はないさ」


 未来の夫を案じ、祈りを捧げる佳人の肩を、カシムは力強く抱き寄せた。その光景を背後で見守るザイドは、先代に誓った忠義を、今再びこの若き主のために捧げることを静かに再確認していた。


 一方、部屋の片隅では、対照的な男たちのやり取りが交わされていた。


「……流石に、こたえたんじゃねえか? ガウル」

「……まあ、な。流石に一日中、若造どもの木刀を捌き続けるのは、骨が折れる」


 壁に背を預けたジグの問いに、ガウルは苦笑を漏らして応えた。熟練の戦士といえど、実戦とは異なる神経の使い方は、おりのような疲労を体に溜め込ませる。


「じゃあ、これでも飲んどけ。俺の特製だ」

「なんだ……これは。丸薬か?」


 差し出されたのは、小指の先ほどの無骨な錠剤であった。

 ガウルは、ジグと初めて出会った際、死の淵から引き戻してくれたあの「薬」の味を思い出し、反射的に喉を鳴らした。あの筆舌に尽くしがたい、泥を煮詰めたような苦悶の味――。


「安心しろ。今度は少しばかり、甘く味付けてあるからよ」

「……そうか。ならば、頂こう」


 ジグの自信に満ちた言葉を信じ、ガウルは意を決してそれを飲み込んだ。

 刹那。

 喉を焼くような猛烈な苦みと、内臓を掻き毟るような重苦しい甘みが、同時にガウルの体内を駆け抜けた。


「……っ、げほっ……ごほっ!」

「もしかして、薬苦手なのか?」

「……はは、……そう、かもしれんな……」


 涙目でむせ返りながらも、ガウルは指先から熱が立ち上り、疲弊した筋肉が急速に解き放たれてゆくのを実感していた。効能は確かだ。……だが、次からは調合の段階でアルスに味の相談をしてくれ、と彼は心の中で血を吐くような嘆願を繰り返した。


 背後から、アルスが心配そうに水を差し出す。ガウルはそれを奪い取るように飲み干し、ようやく一息ついた。


 迫り来る「嵐」の足音など、今はまだ遠い空の出来事であるかのように。

 領主館の灯火は、それぞれの絆を深めるように、温かく揺らめき続けていた。


 ----------


 街の灯に吸い寄せられるように、音もなく「影」が這い入る。

 路地裏の闇から滲み出したその輪郭は、四足の獣の形を成していたが、生命の脈動は微塵も感じられない。意思すら定かではないその影が、街の境界線を一歩踏み越えた、その時だった。

 石畳から突如として淡い青の燐光が噴き上がり、不可視の網となって獣の動きを絡めとる。


 直後、闇を切り裂いて一本の魔術光線が走った。

 光は正確に獣の胸部を貫き、影を内側から爆ぜさせる。


「……やはり、ただの野良犬じゃねえな」

「カシムさんに頼んで、聖水を撒いておいてもらって正解でしたね」


 放った魔術の残光を指先に揺らしながら、ジグが忌々しげに吐き捨てた。

 夕食後、三人は胸騒ぎに突き動かされるように巡回に出ていた。アルスの助言を受け、カシムの手を借りて街の防壁沿いに聖水を撒き、そこにジグが術式を編み込むことで即席の「魔物結界」を張り巡らせていたのだ。


「だが、これがあの爺さんの言っていた『嵐』だとは思えんな」

「そうですね……。不気味ではありますが、これだけで街が滅ぶとは思えません」

「……ううむ、まだ奥があるのか」


 ガウルが大剣の柄に手をかけ、周囲の闇を油断なく見据える。

 その時だった。

 肌を刺すような冷気が、突如として大気を塗り替えた。アルスの黄金の瞳が微かに輝き、精霊たちの悲鳴のようなさざめきを捉える。ガウルの背筋には、戦場でのみ研ぎ澄まされる死の予感が走った。


「ほう……。我の動きに感づく羽虫がいたとはな」

「……ッ!」


 虚空から降ってきた声に、三人は即座に背中を合わせ、三方へと武器を構える。

 すると、何もない空間がボロ布を引き裂くように歪み、そこから「それ」が這い出してきた。


「……何者ですか、貴方は」


 アルスの問いが、震える空気の中に霧散する。

 現れた存在は、異形の一言に尽きた。節々の長い、人というにはあまりに歪な四肢。全身をミイラの如く包む穢れた包帯。顔には無機質な石仮面が張り付き、千切れたローブの残骸を纏っている。その佇まいは、生と死のどちらにも属さぬ、根源的な恐怖を体現していた。


「答える必要を感じないな」

「……さっきの影といい、あの『賢者の石』を撒き散らしているのは貴様か?」


 ジグの鋭い糾弾に、石仮面がゆっくりと向けられた。仮面の裏側の視線が、獲物を値踏みするようにジグをなぞる。発せられる声は、氷の楔のように冷酷に響いた。


「あの石の『本質』に気づく者がいたとは。……クク、そうか。あの哀れな術師は、とうに石に呑み込まれたか」

「あんな意志を持った呪物、そう幾つも作れるはずがない。……貴様、一体どこから触媒を調達した」

「お前たち人間には一生、理解できぬ領域だろうよ」

「ではやはり……あの術師は研究の末、自らの肉体を石に明け渡してしまったのですね」

「『賢者の石』。良い名だろう? 欲深い人間が好みそうな、甘い響きだ」


 男は楽しげに肩を揺らした。

 この者こそが、すべての糸を引く首謀者。死霊術師に呪われた魔術書を授け、研究という名の「捕食」を促した。その惨劇すら、彼にとっては盤上の遊びに過ぎない。


 不意に雲が割れ、月光が差し込んで三人の姿を鮮明に映し出す。その瞬間、男の雰囲気が一変した。


「なるほど……よく見れば、貴様。みどりのガキか」

「……! 俺のことを知っているのか?」

「カハハハ! 忘れるわけもなかろう。二十年前も、二千年前も。貴様ら一族の、その忌々しい干渉には反吐が出る」


 ジグの背中を、嫌な汗が伝う。

 一族の伝説に語られる、歴史の裏側で終止符を打ってきたとされる戦火。だが、それを「当事者」として語る者が目の前にいるという事実は、常軌を逸していた。あの老人アーウィンといい、何が起きているのか……。


「二千年前……封印戦争のことですね」

「太古の時代の争い……、俺も座学で聞き及んだ程度だが……」


 アルスとガウルが警戒を一段と強める。

 歴史学者ですら夢想の域を出ない太古の戦争。それを昨日のことのように語るこの男は、一体どれほどの時を生き、どれほどの怨念を積み重ねてきたのか。ガウルは、自分の掌がかつてないほど湿っていることに気づいた。


「そうとも。二千年前の『精霊石』。そして二十年前、その石に似せて人間共に作らせた『神の宝玉』……。それらはどちらも、そこのみどりのガキどもに潰された」

「聖堂の宝玉が、二千年前の模造品だったというのですか……!」

「カカカ。あとはあの宝玉を奪い合い、血が大地を潤せば我らの悲願は成就したものを」


 都の夜気は、もはや墓地の底のような死臭を帯び始めている。

 二十年前、三人を孤独へと突き落とし、数多の命を奪ったあの災厄。それが二千年前の因縁と一本の糸で繋がっている――。

 途方もない空気と、目の前の「嵐」を打ち払わねば未来はないという予感が、極限まで張り詰めた緊張となって火花を散らした。

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