030 最初の火 ①
なだらかな川のほとりで、ジグは独り、釣り糸を垂らしていた。
今夜の献立に花を添える魚でも、と考えたのはつい先刻のことだが、いまやその背中には隠しきれない不機嫌さが漂っている。
「死霊術で作った石に……不死者の術師。だが、あの術師……ガウルが確かに胸を貫いたはずだ。あの後、まともに動ける道理がねえ……」
ぶつぶつと独りごちるジグの思考は、気づけば釣果よりも先日の忌まわしい戦いへと向いていた。魔術師として、理屈の通らぬ事象を見過ごすことは、喉に刺さった小魚の骨よりも座りが悪い。解明しきれぬもどかしさが、澱のように彼の心を苛立たせていた。
その焦燥は無意識に指先へと伝わり、浮きが激しく水面を叩いているというのに、当の本人は一向に気づく気配もなかった。
「かかっているぞ、旅の者」
不意に背後から飛んできた声に、ジグの全身が石のように強張った。
近づいてくる気配など、微塵も感じなかったのだ。いかに考え事に没頭していたとはいえ、これほどの至近距離を許すなど、彼にとっては屈辱以外の何物でもない。
「……そりゃどうも」
ジグは平静を装い、ゆっくりと竿を上げた。案の定、餌だけを掠め取った魚はとうに逃げ去り、川面には嘲笑うかのような波紋が点々と残るばかりだ。
「気持ちが入りすぎだな。それでは釣れるものも釣れん」
「……それは、さっきから体中から殺気を垂れ流してるアンタのことか?」
背後の「何者か」へ向け、ジグは新たな餌を針にかけながら言い返した。決して振り返りはしない。冷徹に、あくまで無関心を装いながら、内側ではいつでも術を発動できるよう神経を研ぎ澄ませる。
「殺気か。そうかもしれんな」
声は動揺するでもなく、淡々と、まるで独り言のように応じた。
水面では、一匹の魚が行く当てもなく、ゆらゆらと水の深淵へ消えていく。
「一人か、アンタ」
「そうだな……二人とも三人とも言える」
「……よくわかんねえ奴だな」
ジグは依然として背を向けたまま、会話を繋いだ。
背後から肌を刺すのは、紛れもない強者の気配。だというのに、向けられる言葉に直接的な敵意は感じられない。この手の「得体の知れない変人」こそが、最も厄介な火種になることを、ジグはこれまでの経験から嫌というほど知っていた。
「じゃあ、旅でもしてるってわけか」
「まあな、そんなところだろう」
背後の響きは、どこか遠い場所――ここではない、別の次元でも見ているかのように空ろで、それでいて重厚な威厳に満ちていた。
「へえ。それで、釣りの才能がない奴に、わざわざご親切な助言か?」
「翠の民なぞ、珍しくてな」
その言葉が落ちた瞬間、ジグの指先に力が入り、釣り竿が軋んだ。水面を睨む眼光が、獣のような鋭さを帯びる。
「……何故、それを知ってる。俺が最後の一人だぞ」
ジグの声に、抑えきれない疑念と戸惑いが混じる。
二十年前の戦火を鎮める戦いで一族の大人たちは消えていった。流浪の民であり、今や生き残りが自分一人となった翠の民の名など、この広い大陸で覚えている者などそうそういるはずがなかった。
「そうか、お前が最後か。時の流れというものだな」
「……知ってる理由を、聞いてんだがな」
ジグの言葉に、剥き出しの棘が混じる。波立つ殺気が竿を伝い、水面を震わせる。魚たちはその異常な気配を察し、一斉に深みへと身を隠した。
「関わったことがあるからだ。知り合いと呼べるかは知らぬがな」
声の主は、ジグの険に怯むこともなく、泰然とした調子を崩さない。
要領を得ない返答の繰り返しに、ジグの神経は限界まで逆撫でされていく。
「まあよい。そろそろ行かせてもらおう」
「そうかい。野盗の類じゃねえなら、さっさと他へ行ってくれ」
「敵対……か。することもあるかもしれんな」
「わーった、わかった。もういいから消えろ」
ジグは振り返らぬまま、しっしっと手を振って追い払う仕草を見せた。もはや機嫌の悪さを隠そうともしない。
「……それと。まずは賢者の石がどのように作られていたか、そこから疑うべきだな」
「……! アンタ、今なんて――」
不意に投げかけられた言葉に、ジグの心臓が氷に触れたかのように凍りついた。
その一言の意味を問おうと、弾かれたように振り返ったが、
「ではな、翠の青年」
そこにはもう、誰もいなかった。
あるのは、静かに流れる川の音と、何事もなかったかのように鳴き交わす鳥の声だけ。
ジグは立ち尽くし、ただ誰もいない風景を見つめることしかできなかった。
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「若、こちらにおいででしたか」
ザイドが静かに部屋へ入ってきたとき、カシムは窓辺に立ち、朝の光に包まれた自慢の港町を見下ろしていた。小高い丘の上に建つこの屋敷の窓は、街の隅々までを見渡せる特等席だ。彼はよくここで独り、潮風に吹かれながら考え事に耽り、あるいは亡き父の背中を思い出していた。父はこの景色を眺めながら、どのような想いでこの領地を導いていたのだろうか、と。
「やあ、ザイド。朝早くから精が出るね。昨夜も遅くまで執務に当たっていただろう?」
「これしき、大したことはございません。若」
あの日、墓地で不気味な死霊術師と遭遇して以来、ザイドはガウルの助言を忠実に守り、カシムの護衛体制を根底から見直していた。その差配に追われ、ここ数日は休む間もないはずだった。
「いつも苦労をかけるね。それで――例の件、何か分かったのかい?」
カシムは視線を落とし、眼下の庭園に目を向けた。そこではエレナとヴァレリアが、新しく配属された護衛兵たちを厳しく指導している。彼女たちの、騎士としての誇りとひたむきな熱量が、遠目にも伝わってくるようだった。
「はい。まずあの墓地ですが、近隣の農村による共同管理となっており、特定の個人が深く関与した形跡はございませんでした」
「……ハズレか。あれほどの規模の術を仕掛ける以上、誰かがそこを『実験場』として私物化していたと考えたのだがね」
カシムは庭で声を張り上げる彼女たちを眺めながら、静かに独りごちた。あの墓地の一件は、単なる術師の狂気で片付けるには、あまりに出来過ぎていた。まるで、何者かが周到に用意した舞台装置のような、得体の知れない不吉さが漂っていたのだ。
「それから、地下遺跡があった場所についてですが、かつては邸宅が建っていたそうですな。ただ……持ち主に関する記録は、遡るほどに不自然に削られ、すべて消し去られておりました。若」
ザイドの報告を背中で聞きながら、カシムは再び視線を街全体へと移した。活気ある市場、行き交う船、平和そのものの光景。だが、その瞳の奥には、目に見えぬ「不吉な予感」の糸口を捉えたような、鋭い光が宿っていた。
「消されていたか……。それほどの隠蔽ができる人間など、この国でも限られてくるものだがね。……あるいは、もはや露見しても構わないと思っているか……」
庭からは、エレナとヴァレリアが新兵を叱咤する凛とした声が風に乗って届いていた。
港町はいつもと変わらぬ賑わいを保っている。だが、その足元に広がる深い闇は、音もなく確実に、彼らのすぐ側まで迫りつつあった。
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「どうしたんだ?」
ガウルが、ぶっきらぼうながらも気遣わしい声をかけ、ジグの隣に腰を下ろした。
野営に使う薪を一通り揃え終えた彼は、遠くの河原で一人、釣り糸を垂らしているジグの姿を見つけたのだ。その背中からは、まるでハリネズミのように鋭い不機嫌の棘が突き出している。ガウルは、てっきり魚が釣れないことに腹を立てているのだろうと、様子を見に来たのである。
少し離れた木陰では、アルスが手際よく焚き火の準備を進めていた。
「……魚は一匹も釣れねえし……妙な野郎に絡まれるしよ……」
ジグの声は、泥をこねたように不貞腐れていた。
だが、馴染みの顔が隣に来たからだろうか。不思議なことに、周囲を威嚇していた不機嫌の棘は、少しずつその鋭さを失い、穏やかになっていく。かつての独り身だった彼ならば、こうした苛立ちを数日は引きずっていたに違いない。
「ははは。よし、俺が代わろう。少し休んだらどうだ」
ガウルはジグから、使い込まれた釣り竿をひょいと受け取った。
旅を始めた当初、四十近い自分がジグやアルスのような若者(に見える者たち)と行動を共にするのは、どこか浮いてしまうのではないかとガウルは案じていた。
しかし、こうして寝食を共にしてみれば、不思議なことに同年代の友人といるような、気安い空気を感じることがある。それはジグが、実際は七十歳という齢と、それに似合わぬ青さや、純粋な若さをどこかに残しているせいかもしれないが……。
「……はあーあ……」
ジグはガウルに竿を預けると、河原の砂利の上に両腕を投げ出して仰向けに寝転んだ。
先刻、背後の主が残した言葉が、喉に刺さった刺のように気にかかる。何かが分かりそうで、指の間から砂のように零れ落ちていく。せめて面拝みだけでもしておけば良かったと、後悔が胸の奥に鉛のように溜まっていく。その感覚さえも、今の彼には疎ましかった。
(ジグ、解けない問いにぶつかった時は、一度保留にすることも大事だぞ)
流れる雲を眺めながら思い出すのは、かつての師の言葉だ。こんな時、あの人がいてくれたら……。そんな感傷が、彼の心を重く沈ませていく。
「……考えても分からんことは、一度保留にしておいた方がいいぞ」
「……えっ?」
不意に、師と同じ言葉がガウルの口から零れ、ジグは虚を突かれたような声を上げた。弾かれたように起き上がり、ガウルの広い背中を見つめる。
「一度脇に置いておけば、後でふとした拍子に閃いたりするものだ」
「……ガウルも、そういうのがあるのか?」
ガウルは慣れた手つきで、ぴくりと動いた竿先を静かに見つめている。
「ああ、ある。それに、後悔していることだって山ほどあるさ。俺にだってな」
「……例えば?」
「はは、そうだな。あの地下遺跡の魔獣……あれには、本当なら勝てたはずだった、とかな」
ガウルが自嘲気味に、けれどどこか温かく笑いながら話すのを聞いていると、ジグのささくれ立った気持ちは、夕凪の海のように落ち着いていくのを感じた。
ジグはガウルの隣に座り直し、彼が魚を誘い出す様子をじっと眺める。
そういえば、一族の者たちといた頃、釣りなんてじっとしている退屈な遊びだと思って、大人たちにやり方を教わろうともしなかった。一人になってからは、いつも我流でやっていた。
「……釣りって、どうしたら上手くなるんだ?」
「やってみるか?」
ジグの問いかけに、ガウルは短く応じて竿を戻した。それから二人は、日が落ちるまでの間、練習を兼ねて釣りに励んだ。
不器用ながらも、ジグが数匹の銀色の魚を釣り上げた頃、空は茜色から深い群青へと溶け始めていた。
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夜の静寂が街を包み込み、ぽつりぽつりと灯りだす明かりを、カシムは朝と同じ窓辺から眺めていた。一日の執務を終え、吸い寄せられるようにこの場所へと戻ってきたのだ。午後には、街に放っていた騎兵団の一人から報告を受けていた。
(いくつかの闇市を摘発したが……「石」の魔術書や、それに類する取引は見つからず、か)
腕を組み、焦点の定まらぬ瞳で夜の街並みを追いながら、カシムは思考の海に沈んでいた。あの不気味な石と、その製造法が市場に出回っていないのだとすれば、事態はより深刻だ。
(特定の個人が何らかの思惑を持って、この連合国に潜り込んでいるのだとしたら……。これは、中々に骨が折れるね)
何者かが音もなく国境を越え、誰かの耳元で甘い毒を囁いている。そんな湿った暗い予感が、彼の胸をじりじりと焼いていた。視線の先では、一日の漁を終えた数隻の漁船が、重い網を降ろした安堵感と共に港へと滑り込んでいくのが見えた。
「カシム、やっぱりここにいたのね」
「やあ、フレデリカ。どうかしたかい?」
部屋の入り口に立っていたのは、カシムの婚約者、フレデリカだった。しなやかな肢体を包むドレスに、緩くまとめられた美しい金髪。その姿は夜の闇に浮かび上がる一輪の花のように優雅だ。彼女はカシムを案じる色を瞳に浮かべ、音もなく部屋へと足を踏み入れた。
明かりを点けていなかった室内で、窓から差し込む青白い月光が、彼女の輪郭を優しく縁取っている。
「最近の貴方は、西へ東へと働き詰めだわ……。あまり無理をしてはだめよ?」
「これくらい、まだまだ何ともないさ。付き合わされるザイドたちには、少々申し訳ないと思っているがね」
カシムは穏やかに微笑むと、歩み寄ってきたフレデリカをそっと抱き寄せた。鼻先をかすめるのは、彼女が好む清廉な花の香りだ。彼女は病がちなカシムの母を世話し、煩雑な政務の一部までをも献身的に支えてくれている。
「……近頃、この辺りでも魔物が出たとか、良くない噂を耳にするわ。気をつけてね、カシム」
「勿論だ。こんなに美しい人を遺して死ぬなんて、罰当たりもいいところだからね」
カシムはいつもの軽口で応じた。
そういえば、亡き父も冗談の絶えない人だったと思い出す。父もまた、周囲を不安にさせまいと、道化を演じていたのかもしれない。もっとも、父の冗談はカシムのように危うい毒を含んではいなかったが。
「……もう。どこかの誰かで練習してきたような台詞ね」
「おっと、それは手厳しいな」
二人は顔を見合わせ、腕の中で小さく笑い合った。
フレデリカはカシムの胸に顔を埋めながら、未来の夫となるこの男の無事を、静かに祈った。おそらくは、目に見えぬ神という存在に。
信仰の薄いこの連合国において、神に祈りを捧げるなど滑稽な話かもしれない。だが、今の彼女にはそれしか縋れるものがなかった。
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「……うう……さみい……。この時間に水浴びなんてするもんじゃねえな……」
ガウルと釣り上げた魚を三人で平らげた後、ジグは昂ぶった頭を冷やそうと川へ浸かりに行った。だが、夜の帳が下りる頃の川水は、刺すような冷気となって肌を叩く。ジグは一刻も早く焚き火の温もりにあやかりたくて、冷えた身体を抱えて戻ってきた。
「どうですか? ガウル」
「……ぐっ……クソ……っ!」
珍しく、あの泰然自若としたガウルが苦悶の混じった悪態をついている。ジグは何事かと、焚き火の側で向き合う二人の様子を窺った。
見れば、ガウルが石像のように身動き一つ取れなくなっている。その足元、地面に伸びた彼の影には、数本の光の針が深く突き刺さっていた。
「影縫い……か? なにやってんだ、お前ら」
ジグは震える身体を焚き火に寄せた。爆ぜる火の粉が暖かさを運んでくるが、芯まで冷えた身体の震えは容易には収まらない。
「あ、いえ……。私にも、もう少し直接的にお役に立てることはないかと、考えてみたんです」
「戦うのは俺とガウルがやるんだから、そんなに気にしなくていいのによ」
「ぐ……! ぐ、うう……く、そ……!」
「……にしても、大したもんだな。光球を針の形にまで細めて、影を物理的に縫い止めたのか」
ジグは感心した様子で、アルスの編み出した独自の術を見つめた。
通常、影縫いといえば魔力を通わせたナイフなどを相手の影に投じるものだが、それは地面の硬さや影の濃淡に左右される不安定な術だ。だが、魔力そのもので形成された「光の針」ならば、地形の制約を無視して影を大地に釘付けにできる。魔術の針ゆえ短時間しか拘束は出来ないが、隙を作るには充分だろう。
ガウルは、その見えない呪縛から逃れようと必死に抗っていた。額からは大粒の汗が滴り落ち、元傭兵としての矜持をかけて足掻いている。実際、たった数本の光に動きを封じられたことが、彼にはひどく悔しかったのだ。
「ぐ……が……っ、はあ……。……どうすれば、これを抜けられるんだ?」
ガウルはついに観念し、二人に問いかけた。
これから長く険しい旅を共にするのなら、こうした魔術的な拘束への対処にも慣れておくべきだろう。仲間に意地を張っていても始まらない――彼はそう自分を納得させた。
「うーん……俺たち魔術師なら、別の光を出して影の位置を無理やり変えちまえば外せるんだがな」
「……俺には、座して死を待つ道しかないということか?」
ジグが代わりの策を捻り出そうと思案していると、アルスが何かを閃いたように顔を上げた。
「影を足の裏から無理やり引き剥がすつもりで、ぐっと踏ん張ってみてください、ガウル。もし可能なら、その足に意識を流し込むようなイメージで」
「……そうか、分かった。やってみよう」
「ああ……案外、ガウルにはそのやり方が一番合ってるかもな。魔術そのものを、力で壊す感じだ。デカい魔物なんかは、結構この方法で破ってくるな。」
それからもしばらくの間、ジグが見守る焚き火の側で、アルスの放つ鋭い光の針と、それを剛力で撥ね除けようとするガウルの特訓が続いた。
爆ぜる薪の音と、重戦士の荒い息遣い。
三人の夜は、静かに、けれど着実に深まっていくのだった。




