031 最初の火 ②
静謐な空気が幾層にも堆積した館内に、紙葉の擦れる乾いた音だけが微かに響く。
アルスは、眼前に海のごとく広がる書脈の群れを仰ぎ、ただ呆然と嘆息を漏らすしかなかった。
「すごい……。これほどまでに多くの智が、一堂に会しているなんて」
三人がようやく辿り着いたカシムの街。その中枢に鎮座する図書館は、都の繁栄を象徴するかの如く、荘厳な威容を誇っていた。
「父が本好きでね。暇を見つけては蒐集し続けた執念の結晶さ」
「す……げえ……」
案内役を務めたカシムの言葉に、普段は人間の作るものに興味なさげなジグすらも、驚愕を隠せずに声を震わせた。カシムの父は、公務で首都へ赴くたびに、稀覯本を抱えて帰るのが常であったという。やがて邸宅の壁という壁を埋め尽くし、溢れ出した書物のために建立されたこの聖域は、今や市民に開放され、衛兵が守護する都の宝となっていた。
挨拶もそこそこに、ジグは吸い寄せられるように書棚の奥へと消えていった。
「……上級魔術の心得……いや、違うな。魔術体系の応用と実践……これも少し……。高位魔術の歴史的背景……ううん……」
床に座り込み、唸り声を上げながら次々と頁を繰るジグの背中には、狂気にも似た執着が滲んでいた。近頃彼を悩ませている「理の歪み」を解き明かしたいという渇望――それは魔術師としての純粋な知的好奇心であると同時に、未知の危機に対する本能的な防衛反応……または彼個人の意地でもあった。
一方、アルスは一人、静かに書架の間を巡っていた。
「大陸史に薬草学……野営の心得から狩猟の心得まで。これほど広範な知識が、一箇所に収められるものなのですね」
女神の側で、世界の真理の一端を学んできたアルスにとって、この空間は格別の重みを持って迫ってきた。一体どれほどの人々が、どれほどの年月を費やして、この薄い紙葉の上に魂を刻みつけてきたのだろうか。
ガウルはザイドに請われ、新兵たちの指導をするべく演習場へと向かった。それゆえ、この静寂の中にいるのは、探求に没頭するジグと、思索に耽るアルスの二人きりであった。
「大陸の気候変動……鉱石の精錬法……。……? これは……」
ふと、アルスの指先が止まった。
古びた装丁、時の重みに耐えかねたような革の表紙。手に取れば、中には驚くほど精緻な筆致で文字が連なっている。古の言語だろうか、アルスが読み解ける部分と、暗号のように沈黙を守る部分が混在していた。
「個人が編纂したもの……でしょうか。ええと……ふ……うい……」
「封印戦争、だな」
背後から掛けられた、低く重厚な声。
アルスが驚いて振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。
流れるような白髪を後ろへ束ね、口元を覆う見事な髭は雪のように白い。六十を越しているだろうか、その厳格な風貌は、彼が長年、過酷な運命と対峙してきたことを思わせた。どこか王族の気品を漂わせながらも、その眼光は過酷な戦場を潜り抜けた者特有の鋭さを秘めている。
「ありがとうございます。……封印戦争を記した記録なのですね」
「まあ、お主には読めぬだろう。それは『翠の民』の古語で綴られておるからな」
「翠の民……ですか?」
老人の声には、峻烈な響きと共に、拭い去れぬ寂寥が混じっているように感じられた。アルスは不思議に思った。この人物から漂う、相反する感情の渦。けれど、その奥底に邪悪な澱はない。アルスの直感は、そう告げていた。
「あそこにおるだろう。お主の連れだ」
「ジグのことですか?」
「……何だ、まだ互いの素性も知らぬのか。付き合いが浅いと見える」
男は淡々と、突き放すような口調で言った。その瞳はアルスを映しながらも、遥か遠き、ここではない何処かを見つめているかのようだった。
「ええ。大切なことは、時間をかけて分かち合うことにしているのです」
「……左様か。それもまた一興だな」
アルスの穏やかな返答に、老人は僅かに眉を動かした。ジグであれば激昂しそうな無遠慮な言葉も、アルスにとっては単なる事実の指摘に過ぎない。その浮世離れした危うさは、時に同行者たちを冷や冷やさせるのだが、今はそれが静謐な空気と調和していた。
「貴方も、知識を求めてこちらへ?」
アルスの問いが、高い天井へと吸い込まれてゆく。
老人は右手に蓄えた髭を思慮深く撫で、何かを峻別するように目を細めた。そして、意を決したようにアルスの顔を真っ向から見据える。
「違うな。翠の民の連れが『神祖』とは珍しい……そう思ったまでだ」
「神祖……。何故、その名を?」
老人の口から漏れた、あまりに重い単語。
アルスは息を吞む。女神以外で、自分をその名で呼んだ者は初めてだった。
フードで顔を隠し、黄金の瞳を伏せている自分を、この男は何故見抜いたのか。単なる伝説の呼び名を超えて、歴史に忘れ去られた「神祖」の名を知るこの老躯は、一体何者なのか。
図書館を包む歴史の沈黙が、一際深く、彼らの間に降り積もった。
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「二千年前の封印戦争、それを紐解く者であれば、神祖と翠の民の名を知らぬはずもなかろう」
老人の言の葉は、古びた羊皮紙が擦れるような乾いた響きを帯びていた。アルスは、眼前の人物が湛える計り知れぬ深淵に、眩暈に似た感覚を覚える。女神の唇からしか零れなかったはずの秘められた名を、何故この男はこうも容易く口にするのか。
「魔王を封じたのは神祖の者と聞いていますが……。ジグの一族も、その戦いに関わっていたのですか?」
アルスの問いに、男はどこか遠い、時の彼方を見つめるような眼差しで応えた。
「魔が降臨し、それを神祖が封じた。そして戦争の元凶を、翠の民の秘術により未来永劫、この世界から消し去ったのだ……。もはや、歴史の忘却の彼方に沈んだ、泡沫の物語だがな」
アルスは手元の書物を、慈しむように、あるいは畏怖を込めて見つめ直した。ジグの先祖たちが、かつて世界の命運を賭けた戦いの片翼を担っていたというのか。
「……ジグのご先祖様たちが……。貴方は何故、その話を詳しくご存じなのですか?」
「さあな。ただの、歴史に憑かれた老い人の独り言かもしれん」
男の態度は、あくまで淡々としていた。二人の間に流れる空気は、あたかも王との謁見の如き厳かさを帯び、図書館の静謐をより一層深いものに変えてゆく。得体の知れぬ重圧。けれど、そこには確かな品位と、底知れぬ孤独が同居していた。
「……では、お一人で各地を旅されているのですか?」
「そうだな……。一人とも、二人とも言える」
「なら、ご友人と共に?」
友人、という響きに、男の纏う空気が微かに、けれど劇的に和らいだ。凍てついた大地に春の兆しが訪れるかのように。その変化に呼応して、周囲の精霊たちまでもが穏やかなさざめきを立てるのを、アルスは肌で感じ取った。
「……私は、アルスと申しますが、あなたは……」
「ふ……。迂闊に真の名を名乗るものではないぞ、神祖」
男は僅かに口角を上げ、苦笑とも取れる微かな笑みを浮かべた。その表情に宿った人間らしい温もりに、アルスは知らず知らずのうちに強張っていた肩の力を抜いた。この男は、決して冷徹な刃のような存在ではない――そんな確信が、胸の内に静かに広がってゆく。
「はあー……だめだ。流石に知恵熱が出そうだぜ。アル、もう引き上げよう」
館内の奥深くから、心底疲れ切ったジグの声が響いてきた。長時間の探求に精神を削られた魔術師の足取りは重く、石畳を叩く音がその疲労を如実に物語っている。
「また会ったな。翠の青年」
「……っ! アンタ……この前のやつか!?」
老人の姿を認めた瞬間、ジグの全身に鋭い警戒の電気が走った。
以前、声だけを交わした時の異様な威圧感。それを裏打ちするように、目の前に立つ老躯は、がっしりとした体躯と、隠しきれぬ強者の覇気を放っている。
「……何の用だ。まさか、俺たちを追い回しているわけじゃねえだろうな」
ジグが放つ刺すような視線を、老人は悠然と受け流した。その佇まいは、荒れ狂う嵐の前に立つ大樹の如く、いささかも揺らぐことはなかった。
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「お知り合いですか、ジグ」
「……あんま近寄るなよ、アル。こいつはただもんじゃねえ」
ジグは剣呑な光を宿した瞳で老人を射抜きながら、さりげなくアルスを背後へ促した。
アルスが決して無警戒に人を信じているわけではないことは、これまでの旅で理解し始めてはいる。だが、目の前の老躯から漂う、密度を増した静謐な威圧感には、本能が警鐘を鳴らし続けていた。ジグの指先には微かな魔力の光が灯り、いかなる事態にも即応できる殺気が、薄氷のように張り詰める。
もっとも、このような場所で事を交えたくはないのだが。
「それで、解決の糸口は見えたか。翠の青年」
「解決?」
「賢者の石のことだ。神祖」
「賢者の石……。生命を恣意に変質させた、あの結晶ですか」
男は、ジグの剥き出しの警戒など風に舞う塵ほどにも留めず、淡々と語を継いだ。
ジグは、己の肚を見透かされているような苛立ちに唇を噛む。だが、この老人が握っている情報の重みを無視できるほど、彼は愚かではなかった。
「……死霊術の類が、あの石の核を成しているのは間違いない。だが、あれほどの密度を維持するための触媒をどこから調達したのか、まるで分からねえ。あの術師自体、常軌を逸していたしな」
「確かに。あの方からは、生ける者の温もりが微塵も感じられませんでした」
アルスは、先日の戦いで対峙したあの死霊術師の虚ろな姿を脳裏に描く。
死を従え、自らも死の淵に足を踏み入れていた者。彼が口にした「闇を撒くもの」という不吉な呼び声が、今もアルスの胸に冷たい澱のように沈んでいる。
「強大な魔石の類であれば、古の戦記に何度かその名が刻まれている。……それは調べたのか?」
「……ぐっ……、だから今それをやってんだよ……」
「ならば、一族の遺した書物くらいは等しく紐解いておくべきだな」
「ジグ、これを」
こめかみに青筋を浮かべるジグの手へ、アルスが先ほど見つけた翠の民の古書を差し出した。まさか、この街の図書館に同胞の残した書が眠っていようとは。ジグは毒気を抜かれたようにその頁を睨みつけた。
「術師の瞳には、何者かの意志が乗り移ったような……そんな異様な印象がありましたが」
「ほう。よく見ているな、神祖」
「あの術師、肉体はとうに朽ちていた。石の魔力に無理やり繋ぎ止められていた感じだ。……怨念の塊、そのものだったからな」
「怨念、か。その深淵を覗き込めば、逆に深淵に取り憑かれることもあるだろうな」
ジグは腕を組み、老人の言葉を反芻する。怨念を物理的な力へと昇華させる精製過程。そこまでの負の情動を、一体どこで、誰が、何のために集積させたのか。
「貴方は、何故私たちが戦った術師や、賢者の石の存在をそこまで詳細に知っているのですか?」
「見ていたからだ」
老人は何事でもないように言い切った。
「見てただけで、手も貸さねえってのか」
「私に、何事かへ干渉する力など、もはや残ってはいないのでな」
皮肉を込めたジグの問いを、老人は柳に風と受け流す。館内に響く彼の声は、厳かな静寂の中に溶け込み、消えてゆく。
「……まあ良い。お主たちは、中々に鋭い勘を持っておる」
「……おい。去る前に名前くらい名乗ったらどうだ? 俺はともかく、アルは礼儀を尽くしたんじゃねえのか」
背を向け、影の中に溶け込もうとする老躯へ、ジグが鋭い声を飛ばした。アルスもまた、名も知らぬ賢者の後ろ姿を、祈るような眼差しで見つめていた。
「ふ……。名前か。友人は、アーウィンと呼んでいる。……それとな、神祖に翠の青年。嵐が来るぞ。備えておくことだ」
アーウィンと名乗った男は、それだけを残すと、音もなくその場から掻き消えた。
後に残されたのは、重厚な書架の匂いと、最初から誰もいなかったかのような、耳に痛いほどの静けさだけ。
「はあー……。魔法陣も介さずに転移術を使いやがって、何が力が無い、だ。食えない爺さんだぜ」
「ジグ。アーウィンの言った嵐……、ただの気象の話ではない気がします」
「……同感だ。あいつが敵でないことを祈るしかないな。とりあえず、カシムたちのところへ戻るぞ。この本は、後でじっくり解読させてもらう」
二人は、何世紀もの智が降り積もった図書館を後にした。
見上げた空には、いつの間にか灰色の雲が重く垂れ込め、都の活気を冷ややかに押し潰そうとしていた。不穏な風が、アルスのフードを激しく揺らした。




