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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
25/37

025 愛に立ち止まるとき (後編)

 それからの一週間、ログは己の限界を削るようにして立ち働いた。

 朝露が消えぬうちに、眠るリヴィエを置いて仕事へ駆け出し、彼女が目を覚ます頃には戻って食事と薬を用意する。慣れぬ家事に戸惑いながらも、彼は網の目を縫うような早業で日々をこなしていった。


「そんなに無理をしなくても、少しの間なら平気よ」


 青白い顔で笑うリヴィエに、ログは「これくらい、職人の体力なら造作もないさ」と、いつもの快活な声を返した。

 その献身が天に届いたのか、リヴィエの病状は日に日に快方へと向かっていくように見えた。寝不足と疲労がじわじわとログの体を蝕んでいたが、愛する者の笑顔が戻るなら、それは甘美な痛みでしかなかった。


 七日目が過ぎる頃には、彼女はベッドから起き上がり、以前のように家の中を歩けるまでになった。


「もう、すっかり大丈夫みたい」

「へへ……そうか。よかった、本当によかったな」


 頬に朱の差した彼女を見て、ログは心の底から安堵の溜息を漏らした。この時の彼は、暗雲が去り、再び穏やかな陽光が家族を照らすのだと信じて疑わなかった。


 しかし、運命という名の嵐は、非情な爪を隠し持っていた。

 八日目の朝。仕事へ向かう準備をしていたログの耳に、隣室から激しい咳込みと、何かが倒れ伏す重い音が届いた。


「リヴィエ! 嘘だろ、そんな……!」


 駆け寄り、彼女を抱き起こしたログの腕の中で、リヴィエの体は昨日までの快復が幻であったかのように震えていた。


 そこからの時間は、濁流に呑み込まれたかのように過ぎ去っていった。

 九日目、数日前に父から母の病状を手紙で受け取ったアリサが、王都から息を切らせて駆け戻ってきた。リヴィエは苦しい呼吸の下で何度か意識を取り戻し、夫と娘の顔を見ては、途切れ途切れに言葉を交わした。それが、彼女が遺した最後の慈しみとなった。


 十日目。病状は坂道を転げ落ちるように悪化し、彼女は深い昏睡の淵へと沈んだ。医師も薬師も、もはや祈るような手つきで処置を繰り返すしかなかった。


 そして、十四日目。

 父娘の懸命な看病も、枯れ果てるほどの祈りも虚しく、リヴィエは静かに、けれど永遠にその手を離した。病魔は、彼女という光をこの世界から容赦なく連れ去っていったのである。


 あまりに突然すぎる幕切れだった。葬儀が教会でしめやかに行われ、彼女の亡骸が土の下へと隠された時も、ログの瞳からは涙一滴さえこぼれなかった。心が現実を拒絶し、感情が氷のように凍りついてしまったのだ。


「なるべく早く、帰ってくるからね」

「ああ……」

「お父さん、仕事……無理しちゃだめだよ。いい?」

「俺なら大丈夫だ。気をつけてな」


 再び王都へ戻らねばならないアリサは、別れ際、痛むような眼差しで父を見つめた。ログはいつもと変わらぬ穏やかな父親として振る舞っていたが、アリサには分かっていた。父の心が、少しずつ、けれど確実に、自身の内側へと閉ざされていくのを。


 それからのログの世界は、色を失っていった。

 空の青さは瞳を通り過ぎるだけの記号となり、街の賑わいは羽虫の羽音と区別がつかなくなった。陽光はただ肌を焼く熱にすぎず、食事の味は砂を噛むように無機質になった。

 精神がどれほど現世うつしよから遠ざかっても、職人として染み付いた技術だけが、操り人形のように彼の腕を動かし続けた。


 街の人々は、妻を亡くしても気丈に働くログに感銘を受け、温かい言葉をかけた。

 しばらくの後首都から帰ったアリサに対しても、彼は以前と変わらぬ良き父として接した。けれど、アリサだけは気づいていた。父の心はもう、ここにはいない。どこか遠い、二度と戻らぬ幸福な記憶の影を追いかけて、深い森の奥へと消えてしまったのだということに。


 ----------


「……? これは……」


 空虚な日々が積み重なり、止まっていた時がわずかにログの心を動かし始めた頃のことだった。

 いつまでもこのままではいられない。そう自分に言い聞かせ、重い腰を上げてリヴィエの遺品を整理し始めた彼の手に、一枚の絵葉書が触れた。

 それは首都アル・ハミドの壮麗な街並みを描いた、目の覚めるような美しい一枚だった。


「……そう、か……」


 喉の奥に、鉛を流し込まれたような苦い塊が込み上げてきた。その重みは、彼の体の深淵へとゆっくりと沈んでいく。

 この街の静かな暮らしを愛し、外の世界をほとんど知らなかったリヴィエ。彼女がかつて口にした「一度でいいから、首都の賑わいを見てみたい」という、ささやかな憧れ。


 あの病の夜、彼女が最後まで紡げなかった「いつか……」の言葉。

 それは、いつか夫である自分と共に、あの輝かしい都を歩きたいという願いではなかったか。


 ログは立ち尽くしたまま、色の褪せない絵葉書を凝視していた。

 人はなぜ、自分たちだけは死の影から遠ざけられていると錯覚してしまうのだろう。死の帳が降りるまでには、まだ何十年もの猶予があるはずだと、なぜ疑いもせず信じていられるのか。生老病死の理に、自ら許可を与える権利など、誰一人として持ち合わせていないというのに。


 湧き上がる悔恨に耐えきれず、ログは逃げ出すように家を飛び出した。

 外に出たところで、依然として世界は灰色に沈んだままだったが、壁に囲まれた静寂の中に留まることは、今の彼には耐えがたかった。


 あてもなく街を彷徨い、広場へと辿り着いた時だった。

 そこで目にした、睦まじい家族連れの姿。屈託のない子供の笑い声と、それを見守る夫婦の温かな眼差し。その光景に触れた瞬間、ログの中で張り詰めていた何かが、音もなく砕け散った。


「そこの人。何か、探し物かい?」

「……え?」


 不意に投げかけられた声に、ログは顔を上げた。

 街の喧騒から切り離されたかのように、その商人の周囲だけは、冷え冷えとした空気が停滞していた。見慣れぬ風体、おそらくはこの街を訪れたばかりの旅の商人に違いない。


「街の中でそんなに呆然として……。よほど大事なものを失くしたとお見受けするが」

「いや……俺は、その……」


 商人が深く被ったフードの奥から、鋭い眼光が射抜くようにログを捉える。

 妻への悔いと、目の前の幸福な家族への羨望。それらが混ざり合い、ログの足は地面に縫い付けられたように動かなかった。彼らの間を、不吉な警告を孕んだ冷たい風が吹き抜けていく。


「……妻が亡くなりましてね。もう、三年になりますが」

「なるほど。かけがえのない人を亡くされたわけだ」

「かけがえのない……。そうです、俺にとっては、何よりも……」


 男の返答を聞くと、商人はもったいぶった手つきで、懐から小さな硝子瓶を取り出した。


「それは……?」

「これは、会いたい人に夢の中で再会させてくれる薬です。今のあなたには、何よりも必要なものではないかな」

「いや……薬なんて、俺は……」


 拒絶の言葉を口にしながらも、ログの視線はその小瓶に吸い寄せられて離れなかった。

 深い森林の底に溜まった影を溶かしたような、昏い緑の液体が揺れている。


「あなたは、その方を不意に失われたのだろう。伝えたい言葉も、果たせぬ約束も、山のように残したまま……違いますか?」

「……確かに、彼女には何も……」

「夢の中だけでも、その想いを伝えることができたなら。凍りついた心も、いくらかは晴れると思いませんか?」

「夢の中で……」


 気づけば、ログはその小瓶を手に取っていた。

 これを飲み干せば、もう一度彼女の温もりに触れられる。謝ることも、感謝を伝えることも。そして、あの日叶わなかった約束を、夢の欠片で埋め合わせることさえも。

 じわりと肌を濡らした汗を、吹き抜ける風が冷酷に奪っていく。


「いくらだ?」


 薬を見つめたまま、ログは静かに問いかけた。

 その声には、ここ数年の空虚な響きはなかった。触れれば指が切れるほどに鋭く、冷徹な響きを湛えていた。


 商人の提示した金額は、一介の職人が手にするには確かに高額だった。

 けれども、リヴィエを失ってからの数年間、ただ生きるためだけに働いてきた彼の手元には、使い道のない貯えが充分すぎるほどに残っていた。その虚しい銀貨の重みが、皮肉にも彼の背中を奈落へと押しやった。


 薬を家に持ち帰り、誰もいない静まり返った寝室で、ログはベッドの端に腰を下ろした。

 手の中の小瓶を見つめる彼の顔には、彫刻されたような深い皺が刻まれている。それは年月の証というよりは、絶え間ない悔恨が刻みつけた傷跡のようにも見えた。娘のアリサはまだ仕事に出ており、しばらくは戻らぬはずだ。


 夕刻の柔らかな黄金色が、次第に夜の藍色に塗り替えられていく。

 ログは覚悟を決めたように、小瓶の蓋を指先で弾いた。口元へ運ぼうとしては、何度か動きを止める。


 もし、あの商人が稀代の詐欺師で、中身がただの毒だったとしたら……。

 いや、仮にそうであったとして、何が変わるというのか。彼女のいないこの世界に、これ以上執着する理由など、どこにもありはしなかった。


 昏い思考が浮かんでは消え、波のように彼を苛む。

 やがて、彼は決したように瓶に口をつけた。

 その瞬間、ふいに脳裏をよぎったのは、独り残される娘、アリサの顔だった。


「……すまねえ」


 ログは震える手に力を込め、硬く目を閉じた。浮かび上がった娘の面影を無理やり振り払い、喉を鳴らして一気にその苦い液体を飲み干す。


 一度、彼女に会いたいだけだ。見たい夢を見る、ただそれだけのこと。一度だけ言葉を交わせれば、きっと自分は満足し、また歩き出せるはずだ……。


 自分に言い聞かせたその願いは、誰に届くこともなかった。

 ログの体から急速に力が抜け、意識は底なしの闇——甘美な嘘に彩られた、二度と醒めることのない夢幻の淵へと滑り落ちていった。


 ----------


「たった一度だけで良かったんだ」


 崩れゆく石畳に膝をつき、砂となって風に舞う夢の街を眺めながら、ログが絞り出すように言った。


「もう一度だけ、彼女に会えれば……それで気が済むと思った。それで、踏ん切りがつくはずだったんだ」

「……帰りたく、なくなってしまったんですね」


 沈痛な面持ちで寄り添うアルスの言葉に、ログは力なく頷いた。

 彼が現実を認め、意識を覚醒させるほどに、精緻に作られた街は脆く崩れ、人々は陽炎のように掻き消えていく。夢の世界を吹き抜ける風が、色彩の失われた記憶の断片を、どこか遠くへさらっていくかのようだった。


「アルスさん……あんたにもないですか。どうしても帰りたい場所、戻りたい時が……」


 虚ろな瞳のまま、ログが独り言のように呟いた。

 その言葉がアルスの胸に響いた瞬間、彼の眼前に、女神ノエマと過ごしたあの霊峰の景色が浮かび上がった。

 静謐で厳かな空気を纏った深い森。汚れなき泉。女神と二人きりで暮らした、光溢れる穏やかな日々。


 山を下り、独り旅を始めてから、彼は何度あの場所へ帰りたいと願ったことだろう。慣れぬ人里で、路銀のために薬を売り、人々の欲望や喧騒に触れるたび、あの神域の清らかな静寂を恋しく思った。今、鼻腔をくすぐる木々の芳香さえも、あの頃のままだった。


「ええ。私にもあります。そういう場所が」


 アルスは遠い記憶を慈しむような眼差しで言った。


「けれど……そこは、今の私が帰るべき場所ではありません。どんなに心を焦がし、愛しく思ったとしても」


 彼は深い黄金の瞳で思い出の景色をなぞり、静かに告げた。

 その時、アルスの左手に確かな熱が伝わってきた。それは、この深い精神の淵に潜った彼を、現世うつしよから繋ぎ止めている温もり。自分の帰りを信じて待っている者がいるという、力強い証であった。


「ログさん……人は、夢の中に生き続けることはできません」

「わかってる……わかってるさ」


 アルスの声は、静かな聖堂に響く鐘のようにログの心を震わせた。

 崩落し続ける夢の街は、もはや二人の周囲に僅かな足場を残すのみとなっている。この虚構の街のどこかに、まだリヴィエがいるのだろうか。アルスは切ない沈黙をもって、その終焉を見守った。


「……アリサさんが待っていますよ。形は違っても、あなたは娘さんのことも愛しておられるのでしょう?」

「わかってる……わかってるんだ! だけど……!」


 ログは地面に両手をつき、慟哭した。

 その叫びには、愛する者を失った悲しみと、何もできなかった自分への苛烈な後悔のすべてが混じり合っていた。


「愛していたんだ……! 俺は、あいつを心から愛していたんだ……っ!」


 堰を切ったように、ログの瞳から大粒の涙が溢れ出し、砂の地面を濡らしていく。

 ずっと押し殺し、背を向けてきた感情が、濁流となって彼の中から溢れ出していた。


「それなのに俺は、あいつから貰った愛のひとつさえ……その欠片さえ、返してやることができなかったんだ……」


 アルスはログの前に静かに跪き、その震える肩にそっと触れた。

 それが、今の自分にできる精いっぱいの救いだと信じて。

 愛が深ければ深いほど、失った後の悲しみは底が知れない。ログがリヴィエを、そしてリヴィエがログを、どれほど深く想い合っていたか。愛が足りないなど、互いに一度として思いもしなかったはずなのに。


 人は、大切なものを失ったとき、どうしても「もっと何かできたはずだ」という悔恨の檻に囚われてしまうものなのだ。


「俺が今更、帰る場所なんてどこにある……」

「ありますよ、ログさん」


 アルスの声が、風に乗って優しく響いた。

 街は消え、もはや視界のすべてが白い虚無へと近づいている。


「……リヴィエさんの思い出を、大切に抱いたまま生きていける場所は、必ずあります」

「そんな場所が、どこに……」


 ログが力なく顔を上げ、涙に濡れた瞳でアルスを見つめた。

 アルスは気遣うような、それでいて確かな光を宿した眼差しで彼を見返す。

 夢の終わりを告げる風が、銀の髪を優雅に揺らした。


 たとえ、この甘美な夢の世界を超える理想郷など現実には存在しないとしても。

 完結し、閉じてしまった夢ではなく、悲しみさえも糧にして進む可能性に満ちた日々——それがいつか、彼を癒してくれることを願って、アルスは最後に告げた。


「それは……この夢の向こう側。この夢の、地続きにある明日です、ログさん」


 その言葉を聞いたログの頬を一筋の涙が伝い、地面へと零れ落ちた。

 その雫が波紋のように広がった瞬間、あたたかな光が二人を包み込み、崩れゆく夢の欠片を、白銀の輝きの中へと融かしていった。


 すべてが眩い白光に包まれ、夢の世界は静かに、けれど確かにその幕を閉じていった。


 ----------


「……平気か?」


 深い集中の淵から戻り、ゆっくりと瞼を持ち上げたアルスに、正面に座っていたジグが低く、案じるような声をかけた。


「ええ。私なら大丈夫です」


 アルスの声には、旅の疲れとは異なる静かな重みが宿っていた。その無事を確認し、隣に座るガウルは安堵したように微かに口角を上げた。そして、握っていたアルスの左手を、悟られないようそっと離した。


「もうすぐ、戻ってこられると思います」


 アルスが落ち着いた調子で告げると、傍らで立ち尽くしていたアリサは、祈るような眼差しを父へと向けた。

 父がどれほど深く母を愛していたか。その死を境に、父の心がいかに削り取られていったか。一番近くでそれを見守り、共に悲しみに耐えてきたのは、他ならぬ彼女だった。


 やがて、眠れるログの目尻から、一筋の熱い涙が溢れ、枕を濡らした。

 それを合図にするかのように、彼はゆっくりと、重い瞼を開いた。


「お父さん……?」

「……アリサ、か……?」


 娘の呼びかけに、ログが掠れた声で応じる。

 一体、どれほどの時をあの幻影の中で過ごしていたのだろう。喉はひどく乾き、己の声さえ遠い他人のもののように頼りなかった。


「よかった……本当に、よかった……っ」


 アリサはそれだけを絞り出すと、涙に顔を濡らしたまま、父の胸に縋りついた。

 ログは娘の確かなぬくもりを、その身に受け止めた。それはこの数年間、彼が現実から目を背け、忘れ去っていた生身の温かさだった。


「ごめん……。すまなかったな、アリサ……」


 ログは途切れ途切れに謝罪を口にしながら、力の入らない腕を震わせ、弱々しく、けれど精一杯に娘を抱き返した。


 三人は、その光景を静かな沈黙で見守った。

 窓の向こうからは、正午を告げる教会の鐘の音が、高く澄んだ響きとなって街に広がっていった。

 それは、過ぎ去った夢に別れを告げ、痛みと共に新たな一歩を踏み出す彼らを、優しく励ましているかのようだった。


 ----------


「何をしてるんですか、ジグ」


 ふいにアルスに声をかけられ、ジグは視線を空から手元へと戻した。彼の周囲では、数羽の幻獣の鳥たちが、主の命を待つように羽を休めている。


「……ん? ああ、一応な。ああいう薬を売り歩く商人がいるってことを、大きな街のギルドや騎兵団の連中に伝えておこうかと思ってな」


 ジグは淡々とした口調で言い、手紙を括り付けた鳥たちを次々と青い空へと放った。彼なりの、不器用さの裏に隠された誠実な配慮だった。


「もう、大丈夫そうなのか」


 ガウルがアルスに尋ねる。

 あの後、ログとアリサは何度も三人に感謝の言葉を述べ、ささやかながらも真心のこもった報酬を差し出した。アルスは薬の後遺症を懸念し、念のために調合した解毒剤をログへ手渡すため、最後まで家の中に残っていたのだ。ジグとガウルは邪魔をせぬよう外で待っていたのである。


「ええ……。多分、もう大丈夫だと思います」


 アルスは、静かに佇むログの家を見やりながら頷いた。

 結果として、あの夢の終わりで己の悔恨と真っ向から向き合ったことで、ログの瞳には、現実を生きる者の確かな光が戻っていた。これからは、親子二人で支え合い、前を向いていけるだろう。アルスには、そんな確信があった。


「そうか。……なら、俺たちもそろそろ行くか」


 ガウルの低い声に促され、三人は再び歩き出した。

 一度だけ振り返ると、家の前でログとアリサが並んで立ち、彼らを見送っていた。視線が合うと、親子は深く、丁寧にお辞儀をした。アルスたちもそれに応えるように手を挙げ、穏やかな陽光が降り注ぐ街を後にして、再び果てなき旅路へと戻っていった。


 それからのち、ログは少しずつ、かつての活気を取り戻していった。

 アリサと共に現場へ立ち、木槌の音を響かせる日々。街の人々との交流も戻り、彼の口からはまた、あの快活な鼻歌が漏れるようになった。やがて親子は、この街を代表する腕利きの職人として名を馳せ、彼らのもとを訪れる依頼人は後を絶たなかったという。


 そしてどれほどの月日が流れても、ログの心が完全に元通りになることはなかった。心の奥底には、決して埋まることのない欠落が、静かな湖のように横たわっている。

 けれど、彼はそれで構わないと思っていた。大切なのは、失われた過去をやり直すことではなく、かけがえのない想いと共に、一歩ずつ明日へと歩み続けることなのだから……。


 彼の愛する妻が眠る墓前には、季節が変わっても、決して花が絶えることはなかった。

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