024 愛に立ち止まるとき (中編)
「アルの奴、大丈夫なのかよ」
部屋の一角、軋む椅子に身を預けたジグが、堪えきれないといった風に言う。先刻から、彼は狭い室内を幾度も往復し、腕を組んでは考え込み、また歩き出す。その焦燥に駆られた足音だけが、淀んだ空気を掻き回していた。
「……信じて待つ他あるまい」
「待つだけってのは苦手なのにな…」
重厚な響きを湛えたガウルの声に、ジグは忌々しげに顔をしかめる。二人は部屋の中央に鎮座するベッドを挟み、対峙するように座していた。横たわるのは、あの腕の良い職人――ログ。彼は今、死のような静寂の中で、穏やかな寝息だけを刻んでいる。
その傍らで、アルスは彫像のごとき不動の姿勢を保っていた。
眠れる男の左手に、自らの右手をそっと添え、深い瞑想の淵へと沈んでいく。ジグたちの語らいも、窓の外を流れる風の音も、今の彼には届かない。現世の理から切り離されたその横顔は、峻烈なまでの神秘を纏っていた。
『眠ったままの父を、どうか助けてください』
その切実な懇願を三人が受け取ったのは、この街に立ち寄り、次なる旅路への備えをしていた時のことだ。
ガウルの武具が研ぎ澄まされるのを待つ間、路銀の足しにとジグとアルスは薬草を作り、街の人々に振る舞っていた。アルスの清廉な法術による治療は、ささやかな報酬と引き換えに、人々の心身を癒やしていった。
「もっと貰ってもいいんじゃねえか?」と、ジグはいつもの調子で嘯いたが、アルスは困ったような微笑を返すだけだった。
そんな彼らのもとに駆け込んできたのが、ログの娘、アリサであった。
数週間前から、父がどうしても目を覚まさない。街の薬師も、通りすがりの商隊に雇われた医師も、皆一様に匙を投げたのだという。絶望の淵に立たされていた彼女にとって、法術を操る青年は、神が遣わした最後の希望に見えたに違いない。
「……にしても、幸福な夢を見せる薬、か。悪趣味極まるぜ」
「かつて、王国で禁止されていたものだな」
ジグが毒づき、ガウルは苦い記憶を噛み締めるようにログを見つめた。
三人がアリサに導かれ、ログの寝室の扉を開いた時、異変はすぐに知れた。枕元に置かれた硝子瓶。そこから漂う僅かな芳香だけで、魔術師であるジグとアルスは察したのだ。それが精神を甘美な迷宮へと誘い、深い昏睡へと叩き落とす、強力な致死性の幻覚剤であることを。
ガウルにとっても、それは見覚えのある不浄の産物だった。王国の騎士団に身を置いていた頃、同様の薬物を密造していた組織を摘発したことがある。
「甘い言葉で高額の金を毟り取り、飲ませてしまえば後は野となれ山となれ、か。足も付かねえ。売った奴は今頃、どこかに逃げ延びただろうな」
「ああ……その通りだ」
あの時、根絶やしにしたはずの害悪が、今もなお形を変えて人々を蝕んでいる。己の責任ではないと承知していても、ガウルの胸中には、古傷が疼くような不快感が広がっていた。
ログの意識は既に、通常の法術では引き戻せぬほど深い、精神の奈落へと沈んでいる。
ならば、私が——。
二人の制止を振り切るように、アルスは静かに告げた。彼は男の手を取り、自身の意識をエーテルの流れへと同調させる。そして、愛と欺瞞が織りなすログの夢幻の世界へと、その魂を投じたのであった。
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「ガウルは、何でいつもそんなに落ち着いていられるんだ?」
「俺か?……そうだな、単なる年の功というやつかもしれん」
「ふうん……。そんなもんかねえ」
ジグの素朴な疑問に、ガウルは微かに口角を上げた。
彼はアルスが迷わず戻ってこられるよう、現世との「繋ぎ目」としてその左手を握りしめている。ジグでは集中を乱しかねないと話し合い、この役割はガウルが引き受けたのだ。
「……なら、あんたでも腹が立つこととかあるのか?」
「はは、もちろんあるさ。俺だって、まだまだ未熟だからな」
二人の低い会話が、静かな室内をゆっくりと流れていく。
今は依頼主のアリサも外せぬ仕事で席を外しており、部屋には眠る男と、彼ら三人だけの時間が満ちていた。
「例えば、どんなことに?」
「そうだな……歳のことを揶揄されると、少々頭にくるな」
「歳? 誰だって歳は取るのに、そんなことを言う奴がいるのか」
「まあ、な。世の中には色んな奴がいるということだ」
ガウルは、自分の弱みや些細なこだわりを、こうも易々と口にできている自分に驚いていた。かつての自分なら、そんな話題が出ただけで相手を睨みつけ、沈黙を強いていただろうに。
「じゃあ、イライラして仕方ない時はどうしてたんだ。俺は一日中ふて寝して過ごすが……」
「んん……。昔は、酒を浴びるほど飲んでいたな」
「酒? あんたが酒なんて飲むのか」
ジグは意外そうに目を丸くした。常に揺るぎないガウルと、酒に溺れる姿が結びつかなかったのだ。
「ああ。浴びるほど飲んで、そのまま賞金首や魔物を狩りに行って、暴れて発散していたよ」
ガウルは耳の付け根が熱くなるのを感じた。
なぜこんな恥ずべき話を、彼らには語ってしまうのか。それは、ジグやアルスが、自分の過去を嗤ったりしない人間だと信じているからだろう。部屋の静けさが、彼らの絆をまたひとつ、深く結びつけていくような気がした。
そしてガウルは、三人で旅をするようになってから、あんな荒れたヤケ酒を一度も欲していないことに気づく。
「……なら、今度三人で酒場にでも行こうぜ」
「お前たちと、か?」
「そうだ。ヤケ酒なんて、いいもんじゃないだろ。俺はあんまり飲めないんだが……。どうせなら、楽しく飲んだ方がいい」
ジグは、自分がこれほど自然に他人を誘い、賑やかな場所へ行こうと提案したことに、内心少し驚いていた。
そしてこの夢の中に閉じこもったログも、かつては誰かと、そんな絆を結んでいたのだろうか。
安らかな寝顔からは、毒を仰いでまで逃げ出したかった絶望など、想像もつかなかった。
「……いいのか。俺は、かなり飲むぞ」
「構わないって。いつもガウルには無理をさせてるだろ」
「んん……金が結構かかるぞ」
「ああ……。まあ、それはなんとか稼げばいいだろ、多分な」
二人は小さく、肩を揺らして笑い合った。
「……この人も、忘れたいことがあったのかもな」
「あるいは……、忘れたくないことがあったか、だな」
二人はベッドに眠るログを見つめ、痛ましげに声を落とした。
何が彼を、この醒めない夢へと追いやったのか。ガウルはアルスの手を強く握り締め、その無事を祈った。
「父の様子は、いかがですか……?」
仕事から戻ったアリサが、入り口から不安そうに声をかけた。その顔には、父の異変に対する困惑と、祈るような悲しみが濃く張り付いていた。
「……心配ない。今、俺たちの連れが、父上に呼びかけているところだ」
「何か心当たりはねえのか? あんたの親父さんが、こんな薬を買っちまうような……」
ガウルが、重厚な響きの中に慈しみを込めてアリサを諭し、続いてジグが静かに問いを重ねた。
ジグは、時折ガウルの口から零れる、騎士を思わせるほどに丁寧な言葉を選ぶのを、以前から不思議に思っていた。今、この場でも、その響きは沈痛な室内に不思議な安らぎをもたらしている。
「……父は、数年前からふさぎ込んでいました。仕事以外で、表に出ることも減ってしまって」
アリサは、横たわるログへ縋るような視線を向けたまま答えた。
後ろで束ねられた髪と、動きやすさを重視した職人らしい装い。彼女もまた、父と同じ道を歩む者としての、職人の手のひらを持っていた。
「ふさぎ込んでいた、というと?」
「私が数年前に、父の元へ戻ってきた時には既に……。多分、母のことだと思います」
切ない沈黙が、雪のように音もなく部屋の中へと降り積もっていく。
彼女はそれ以上の言葉を紡ぐことができなかったが、その瞳の揺らぎだけで、ジグとガウルには事の次第が痛いほどに察せられた。
(……思い出の中に、生きることを選んだか)
二人は言葉を交わすこともなく、同じ感慨を抱いていた。
ジグにも、ガウルにも、戻りたい過去がないわけではない。もしあの時、別の道を選んでいたら——そう悔恨の淵を覗き込んだ夜は、一度や二度ではなかった。
(けどよ……人は、現実にしか生きられねえんだぜ)
眠り続けるログを見つめながら、ジグは心の内で独りごちる。
たとえ抗う術のない嵐に翻弄されたとしても、そこから泥を撥ねて進む以外に、命ある者が歩むべき道はないのだ。
祈りにも似た静寂の中、壁にかかった時計の音だけが、非情なほどに正確な刻みを部屋に響かせていた。
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「夢の中だなんて……そんな馬鹿なことが……」
ログは呆然と立ち尽くしたまま、独り言のように零した。
アルスの声が鼓膜を震わせた瞬間から、脳内の澱んだ霧が、無理やり風に攫われるように晴れ渡っていく。それが、彼にとってどれほど残酷な拒絶であったとしても、真実は容赦なくその姿を現し始めていた。
「ログさん……。あなたは自らの望む夢を見せてくれる薬を、自らの手で求めてしまったのです」
「薬を……。俺が、自分から……」
アルスは言葉を選びあぐねていた。
この陽だまりのように温かで、穏やかな世界から、冷たい現実へと彼を引き戻さねばならない。その役目を負うことに、胸の奥が軋むような痛みを感じていた。人を傷つけることなく、その安らぎを奪う術など、果たしてこの世にあるのだろうか。
「もう何日も、同じ景色の中で、同じ日々を繰り返していますね」
アルスは、変わり映えのしない街の喧騒へと視線を投げた。
人々は変わらず楽しげに行き交い、陽光は永遠に衰えることを知らず、街は小春日和のような活気に満ちている。だが、その完璧すぎる調和こそが、この世界の歪みそのものだった。
「そんなわけ……そんなわけない! だって……!」
——だって、家に帰ればリヴィエが待っている。
ログがそう叫ぼうとした刹那、視界の端々が、恐ろしいほどの明瞭さを持って開けていくのを感じた。そして、彼が「現実」という名の楔を認識し始めたその時、世界の端から、石畳が、家並みが、音もなく砂のように崩れ始めた。
「あ……ああ……」
ログは力なく地面に膝をついた。
大きく見開かれた瞳の先で、愛した街が、かけがえのない日常の断片が、風に溶ける幻影となって消え去っていくのを、彼はただ震えながら見つめるしかなかった。
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「リヴィエ! どうしたんだ、しっかりしろ!」
妻の誕生日を祝ってから、まだ数日と経たぬ日のことだった。
夕暮れの仕事帰りにログが扉を開けると、そこには床に伏し、激しく咳き込むリヴィエの姿があった。駆け寄り、その肩を抱き起こしたログの手を、彼女の肌を伝う大粒の汗が濡らす。
幾度も繰り返されたのであろう咳の跡が、彼女の口端に一筋の血となって残されていた。
「流行り病なんて……」
静まり返った室内で、ログは木霊することのない独り言を零した。
窓から差し込む夕日は、いつもなら家庭の幸福を象徴する暖かなぬくもりであったはずなのに。今のログには、それさえも無機質で冷ややかな、遠い世界の光に感じられた。
枕元で刻まれる正確な時計の音も、表を通り過ぎる人々の屈託のない笑い声も、今の彼には届かない。
騒ぎを聞きつけて駆けつけた医師と薬師は、苦渋の表情で「流行り病」の名を口にした。今はただ薬を飲み、安静に時を待つしかないのだと。
「……あ……私……」
やがて意識を取り戻したリヴィエが、途切れ途切れに声を絞り出した。
絶え間ない咳に痛めつけられたその喉は、かつての清らかな響きを失い、痛ましく掠れている。
「気がついたか。……もう、平気か?」
「ええ……。少し、楽になったみたい」
「そうか。……疲れが溜まっていたんだろう。医者もな、しばらく休めば大丈夫だと言っていたよ」
ログは妻の細くなった手を握りしめ、精一杯の嘘を吐いた。
街の隅々を修繕して回るログの耳には、この病で命を落とした者の噂が、既に幾つも届いていた。
言葉に出せば、それが真実として定着してしまう。言わなければ、病の方から去ってくれるのではないか——。そんな根拠のない祈りを縋るように、彼は必死に自らを欺いた。幸いにも、これは不治の病ではない。きっと治る。彼は心の中で、その言葉を何度も何度も繰り返した。
「そう……アリサが帰ってくるっていうから、少し、はしゃぎすぎちゃったかしら」
「へへ……、そうだな。今は何も考えず、ゆっくり休むんだ」
ログは薬師から渡された薬を、教えられた通りの分量で水に溶いた。
蔓延る病への恐怖と、妻に吐いた嘘の重さ。その二つが混ざり合い、指先が微かに震えそうになるのを、彼は必死に押し殺した。
「アリサが帰ってくるまでに、元気にならなくちゃね」
ログから受け取った薬を飲み干しながら、リヴィエが寂しげに笑う。
「ああ、大丈夫だ。……すぐに良くなるさ。へへ……」
返したログの笑みは、ひどくぎこちないものだった。
「アリサが帰ってきたら、とびきり豪華に迎えてあげましょう?」
「ああ、そうしよう」
「あの子……あっちで、ちゃんと仕事できてるかしら。寂しがってないかしら」
「へへ……。俺と同じ道を行きたいなんて、物好きな娘だよな」
妻の手を包み込みながら、ログは穏やかに語りかけた。
いつの間にか陽は落ち、窓からは蒼白い月光が、二人を慰めるかのように静かに降り注いでいた。
「ねえ……ログ、いつか……」
「……いつか?」
その言葉の続きを紡ぐ前に、薬効が回ったのか、リヴィエは再び深い眠りの中へと落ちていった。
ログは、月光に照らされた彼女の寝顔を、ただ祈るように見つめ続けていた。




