023 愛に立ち止まるとき (前編)
「おばちゃん、これも追加で」
「はい、毎度どうも。……あら、今日は随分と張り切ってるじゃない。何かお祝いかね」
「へへ……。実はね、今日、嫁の誕生日なんですよ」
男は照れくさそうに頭を掻きながら、売り子の女性から差し出された瑞々しい野菜や果物の袋を受け取った。その上には、丁寧に包まれた祝い用の菓子が大事そうに乗せられている。
日差しは既に高く、今日も一日、肌を焼くような暑さになることを予感させていた。南風の街は、朝の活気に満ち溢れている。行き交う市民や職人、威勢のいい声を上げる商人たち。多種族が共生するこの世界にあって、ここは人間の営みが色濃く、逞しく息づいている場所だった。
男はこの街を愛していた。
王都ほど肥大化せず、荒くれ者たちも少ない。この街には、石畳の隙間から滲み出るような平穏があった。そして何より、彼が生涯を誓った愛する妻と出会った、かけがえのない場所なのだから。
「おいログ!そんなに荷物を抱え込んで、どこへ行くつもりだ」
「リヴィエの誕生日だよ、旦那!」
通りを歩けば、すぐに馴染みの顔から声が掛かる。
ログは声を掛かけた男に、片手を上げて軽く応えた。彼はこの街で人々の家屋の修繕を一手に引き受ける職人であり、その腕と気さくな人柄を知らぬ者はいない。
「あっと、いけねえ!」
挨拶のために不用意に腕を上げた、その時だった。
抱えた荷物の均衡が崩れ、袋の隙間から真っ赤な林檎が一つ、石畳の上へと転がり落ちた。
いつもならば、この程度のことで姿勢を崩すような男ではない。日々の労働で鍛え上げられた体幹は、容易く均衡を保つはずだった。だが、愛する妻への贈り物を前にした高揚からか、彼の動きを僅かに狂わせたのかもしれない。林檎は無情にも、乾いた音を立てて転がっていく。
「大丈夫ですか?」
慌てて追いかけようとしたログの視界に、すうと白い影が入り込んだ。
転がった林檎は、ある人物の足元でぴたりと止まる。それを拾い上げた青年が、ログへと差し出した。
街の喧騒をひととき忘れさせるような、涼やかで、心地よい鈴の音にも似た声がログの耳朶を打つ。
「いやあ、すんませんね兄さん。助かりました」
「どこも傷んでいないみたいですね。……よかった」
礼を言いながら林檎を受け取ったログは、その瞬間、言葉を失った。
目の前に立つ青年の、この世の者とは思えぬほどの美しさに。
陽光を浴びて白銀に輝く長い髪、陶器のように滑らかな肌。そして何より、彼のその瞳は、深く、澄渡った金色を湛えていた。
まるで古い英雄譚から抜け出してきたかのような、浮世離れした容姿。この青年がいつも目深に被っているフードは、今はその背にあり、彼の美貌は隠すものなく太陽の下に晒されていた。
対するログは、四十半ばを過ぎた男の顔であった。深く刻まれた皺は長年風雨に晒されてきた職人の歴史を物語り、短く黒々とした髪と引き締まった体躯は、年齢を感じさせぬ頑健さを保っている。だが、その顔立ちにはどこか若者のような愛嬌が残されており、それが彼を憎めない男にしていた。
「兄さん……この辺じゃ見ない顔だねえ。旅の人かい?」
「ええ、まあ……そんなところです。私は、アルスと言います」
「これは、ご丁寧にどうも。俺はログって言いましてね。この街でまあ……建物の修繕とか、大工みたいな真似事をやってましてさ」
アルスは眩いばかりの笑顔をログに向けた。
街の喧騒の中で彼の放つ空気は清廉で、温かい。
「お荷物、大変そうですが……少し持ちましょうか?」
「え?いやあ……そんな、初対面の旅の人に悪いですよ……、おっとと……」
辞退しようとしたものの、腕の中の荷物が再び雪崩を起こしそうになり、ログは苦笑した。
「じゃ、じゃあ少しだけ、お願いしていいですかい?」
申し訳なさそうに言うログに、アルスは優しく手を貸した。
「今日は、どなたかのお祝いですか?」
「えっへへ……、いやあ。実は妻の誕生日でね」
「そうですか……。では、この包みはログさんがお持ちになった方が良いですね」
アルスが、丁寧に包まれた菓子に目を留めて言った。ログは先程と同じように、顔を真っ赤にして照れる。
その様子を見るだけで、彼がいかに妻を深く愛しているか、アルスの心には温かく伝わってきた。アルスは野菜の入った重い袋を引き受け、ログは果物の袋と、命の次に大事な祝いの菓子を抱えた。
「けどまあ、兄さんみたいな綺麗な人がこの街に来るのは珍しいねえ。ここは人の出入りが多くないから、旅の人なんて滅多に見かけないんですよ」
「そうですね……。私も、こういった穏やかな街は初めて来ました。とても、良いところですね」
「へへ、毎日変わり映えのない、退屈な街ですがね」
二人は和やかな会話を交わしながら、争いごとなど何もないかのような穏やかな時間の流れる街並みを、彼の家へと向かって歩いていった。
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大通りを僅かに逸れた、裏通りの気配が混じり合う境界。ログの家は、街の喧騒を遠い潮騒のように背負いながら、ひっそりと、だが確かな幸福を湛えて佇んでいた。
「ログ、お帰りなさい。随分な荷物じゃないの」
家の前まで辿り着くと、扉を叩くよりも早く、妻のリヴィエが姿を現した。短く切り揃えられた鮮やかな茶色の髪が、彼女の動きに合わせて快活に、そして優雅に波打つ。彼女は手慣れた仕草で夫の抱える袋を受け取ると、驚きと呆れの混じった声で笑った。
「もう……。いくらお祝いだからって、買いすぎよ。私も運ぶわ、貸してちょうだい」
「えっへへ……。今日はつい、な。一人じゃ手が足りなくて、アルスさんに手伝ってもらっちまったんだ」
ログが申し訳なさそうに、隣の青年を顧みる。アルスは、街路樹の葉が落とす柔らかな木漏れ日を浴びながら、その睦まじい光景を静かに見守っていた。
吹き抜ける風が、庭先の木々を優しく揺らす。ここには、日々の忙しさなど遠い異国の出来事であるかのような、純粋で穏やかな時が流れていた。
「いやあ……。助かりましたよ、アルスさん。あんたがいなきゃ、今頃どっかの路地裏に果物を撒き散らして歩くところでした」
「いえ。私はただ、通りかかっただけですから」
アルスの声は、風に溶ける精霊の囁きのように清らかだった。
「そうだ、良かったらこのまま食事でもしていきませんか? せめてものお礼に」
「ふふ……。今日は、奥様の誕生日なのでしょう?」
「あっと、そうだった! いけねえ、一つ事を片付けると、すぐ他を忘れちまう」
図星を指されたログは、気恥ずかしそうに頬を掻いて笑った。その顔は、先程までの職人の顔よりもずっと若々しく、少年の面影を宿している。
「ログ? この、隅の方にあるお菓子の包みは……」
家の中から、リヴィエの弾むような声が響いてきた。清らかな水が石に当たるような、よく通る声だ。
「あ、いけねえ! 内緒にしとくつもりだったのに、見つかった!」
「ふふ……。急いで戻ったほうが良さそうですね」
「ああ、全くだ。……兄さん、本当に助かりました。そうだ、これを。大したもんじゃねえが、受け取ってくだせえ」
ログは慌てて手近な林檎を一つアルスに握らせると、深々とお辞儀をして家の中へと飛び込んでいった。愛する妻にどう言い訳をし、どう喜びを分かち合うのか。扉の向こう側から漏れる賑やかな声を聞きながら、アルスは彼らの幸福を祈るように微笑んだ。
「ありがとうございます、ログさん。良いお祝いにしてくださいね」
アルスは、受け取った林檎を宝物のように両手で包み、しばらくその家を眺めていた。やがて彼は、その場に静かな祝福を残し、街の雑踏へと歩き出した。
家の中では、ようやく一息ついたログが仕事着を脱ぎ捨て、安堵の息を吐いていた。
「いやあ、今日は参ったよ。街の壁が派手に壊れちまってて、修理に手間取った」
「お疲れ様。暑かったから、疲れたでしょう」
リヴィエの労いの言葉が、冷えた水のように体に染みる。若い頃と変わらぬ動きができると自負してはいても、寄る年波とこの日差しの強さは、確実に体力を削り取っていく。
「そういえば、今度アリサが帰ってくるって手紙が届いたわよ」
「アリサが? そうか、なら首都の仕事が一段落ついたんだな」
二人の娘、アリサ。父親譲りの手先の器用さを持ち、今は王都アル・ハミドで職人の修行に励んでいる彼女は、夫婦にとって何よりの誇りだった。
「帰ってきたら、盛大にお祝いをしましょうか」
リヴィエが明るく笑う。彼女が微笑むと、たとえ外が夜の闇に包まれていようとも、そこだけ太陽が差し込んでいるかのように空気が輝き出すのだ。ログはその笑顔を、何よりも愛していた。
「あ……そういや。祝いといえば、これ」
「なあに?」
「……いやあ、その、大したもんじゃないけどな。お前の誕生日だろ、今日は」
ログが照れ隠しに差し出した包みに、リヴィエは悪戯っぽく目を細めた。
「うふふ……。さっき荷物を受け取った時に、見えちゃってたわよ」
なんだ、秘密にするつもりだったのに、と頭をかく夫。その不器用な献身を、リヴィエは温かな眼差しで包み込み、大事そうにお菓子の包みを受け取った。
夜の帳が降り、街が深い眠りに就く中、その一軒の家だけはいつまでも、精霊たちに守られているかのような暖かな灯火を灯し続けていた。
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翌朝、東の空が白み始める頃には、ログは既に心地よい木槌の音を響かせていた。
街の外壁や古びた家屋のあちこちに、理の歪みがもたらしたような細かな亀裂が走っている。それらを一つずつ、丁寧な手仕事で埋めていくのが今日の彼の役目だった。
「よっし、今日もやりますかね」
手慣れた手つきで道具を広げ、組んだばかりの木製足場に足をかける。
昇り始めた陽光は昨日と同様に強く、厳しい暑さを予感させたが、ログの口からは自然と軽やかな鼻歌が漏れていた。彼にとって、使い込まれた道具は己の指先の延長であり、作業の振動は脈打つ鼓動そのもの。仕事に没頭する時間は、彼がこの街の一部であるという確信を得るための、神聖な儀式でもあった。
「あっと、いけねえ!」
不意に、掌から金槌が滑り落ちた。
いつもならば考えられぬ失態。昨夜、愛する妻と過ごした幸福な余韻が、熟練の職人の集中力を僅かに削いでしまったのだろうか。
「大丈夫ですか、ログさん」
差し出されたのは、昨日出会ったあの銀髪の青年、アルスの手だった。
彼は今日もフードを脱ぎ去り、月光を写し取ったような銀の糸を朝風に揺らしている。
「いやあ、すいませんねアルスさん。いつもはこんなヘマ、しないんですがね」
照れ笑いを浮かべて道具を受け取るログに、アルスはどこか陰りのある、静かな眼差しを向けた。
「……街の修理ですか?」
「ええ。どうも最近はあちこちが老朽化しちまって。直しても直しても、次が出てくる有様でさ」
「けれど、本当に……愛されている街ですね」
アルスは街路を見渡した。行き交う人々、昨日と寸分違わぬ喧騒。
ログは「へへ、そうでしょう」と鼻高々に笑い、都会にはないこの街の良さを語る。
「今日は一日、お仕事ですか?」
「あ、いけねえ。今日は昼過ぎには切り上げなきゃならんのです。買い出しが沢山ありましてね」
急ぎ仕事に戻るログの背中に、アルスは「お体、大切に」と、祈るような声を掛けた。
さらに次の日も、ログは同じ場所に立っていた。
高く昇った太陽が石畳を焼き、街の空気は熱を帯びている。
「今日もお仕事ですか、ログさん」
「ああ、アルスさん。いやあ、本当にあちこち傷んでいてね……」
ログは笑いながら手を動かす。
人々の話し声、遠くで響く家畜の鳴き声、市場から漂う香辛料の匂い。そのすべてが、ログにとっては掛け替えのない日常の旋律だった。
「好きなんですね。この街が」
「ええ、そりゃあもう」
「今日もこの後は、買い出しに?」
「へへ……分かりますかい? 今日も、山ほど買わなきゃならんのでさあ」
ログの横顔は、慈しみに満ちた光を放っていた。打ち下ろされる槌の音さえ、精霊が奏でる楽器の音色のように澄んでいる。
アルスはしばらくの間、何も言わずにその光景を見つめていた。だが、その唇が僅かに震え、決意を秘めた悲しみがその瞳に宿る。
「ログさん。……その場所は、昨日も修理していましたよ」
涼やかな声が、静かな波紋となってログの動きを止めた。
時が凍りついたかのように、ログは中空で腕を固まらせる。呼吸の仕方を忘れたかのように胸が詰まり、思考の歯車が軋んだ音を立てる。
「あ、あ……そう、でしたか? いやあ、老朽化がひどくて、すぐダメになっちまうんだな、きっと」
「ログさん……今日もこの後、あるのでしょう? お祝いが」
アルスの胸は、張り裂けんばかりの痛みに支配されていた。
これほどまでに街を愛し、妻を愛する男に、一体どのような言葉を投げればいいのか。それがどれほど残酷な劇薬になるか、分からぬはずもなかった。
「え、ええ……そうです。今日も……今日も、俺は……」
ログは必死に記憶の糸を手繰り寄せる。今日、ここで作業をするはずだった。そして帰りには、妻のために——。
……妻? リヴィエの誕生日は昨日ではなかったか? いや、一昨日だったか?
「この林檎……覚えていらっしゃいますか」
「あ、ああ……覚えてますぜ。一昨日、アルスさんに手伝ってもらったお礼に差し上げた……」
「ログさん。これは、私があなたから『一週間前』にいただいたものです」
アルスの声は、聖堂の鐘の音のように、逃れられぬ真実を告げていた。
ログの瞳が大きく見開かれる。頭の片隅で、深い霧が晴れていくような、恐ろしいまでの静寂が訪れる。
「ログさん……ここは、現実の世界ではありません。あなたが作り出した、醒めることのない『夢』の世界なのです」
その言葉は、もはや遠い天界からの宣告のように聞こえた。
呆然と立ち尽くすログの周囲で、あれほど確かだった街の景色が、陽炎のように揺らぎ始めていた。




