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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
19/37

019 断章 アルス 黄金の瞳(前編)

 今から二十年前…。


 魔導帝国の辺境に位置するその小国は、今、底知れぬ混迷の淵にあった。

 石造りの回廊を、幾十もの軍靴の音が無慈悲に叩き、静寂を切り裂いてゆく。状況を問い、避難を叫び、国王への謁見を求める臣下たちの声は、夜の帳を震わせていた。

 玉座の間で腕を組む国王の顔には、深く、拭いがたい苦悩の陰が刻まれている。この夜、聖堂で動乱が起き、そしてこの小国へ進軍する影ありとの知らせは、新たな戦火を告げる鐘であることを、彼は本能で悟っていた。


 王の傍らには、月光を写し取ったかのように美しい王妃が、慈しむように一人の赤子を抱いていた。

 その嬰児が双眸を開いたとき、国中が歓喜に沸いたのはつい先日のことだ。


「黄金の瞳」


 この大陸に伝わる古き伝承において、それは神の寵愛を一身に受けた聖なる平和の象徴。その輝きを宿して生まれた王子は、光を予感させる「アルス」の名を贈られた。


「私に似ず、そなたの美しさを継いだこの子には、いささか勇ましすぎる名ではないか」


 王の言葉に、王妃はただ、祈るような微笑みを返したのである。


 ----------


「王よ、やはり奴らの狙いは……!」


 息を切らして駆け込んできた大臣の報告は、絶望の冷気を伴っていた。

 国境を侵し、聖域を汚した武装集団。その正体は、あろうことか同じ魔導帝国の旗を掲げる同胞であった。

 麓の農村が焼き払われ、夜空が不吉な朱に染まったと知ったとき、王の胸中で何かが決定的に崩れ去った。もはや、言葉による対話の時は過ぎ去ったのだ。


「……やはり、アルス様を狙っているのでは」


 大臣が声を潜めて囁く。だが、その危惧はすでに、王妃の心に鋭い棘となって突き刺さっていた。

 状況を察した彼女は、我が子を壊れ物を扱うように強く抱きしめる。

 何も知らぬ幼きアルスは、ただ無邪気に、母の頬に柔らかな指先を伸ばしていた。


「馬鹿な……。黄金の瞳など、所詮は古びた詩人たちの残した逸話に過ぎぬ。その子を奪って、一体何にならんというのだ」


 王は窓の外、迫りくる闇の軍勢を睨みつけた。

 未だ姿を見せぬ帝国の本隊。しかし、その背後に透けて見えるのは、権力という名の毒に冒された皇帝の狂気だ。


「皇帝……。奴が魔王に魂を売り渡したという噂は、あながち迷信ではなかったということか」


 城外では、今にも世界を覆い尽くさんとする嵐が、牙を剥いて咆哮し始めていた。


 ----------


「兵の備えは、成ったか」


 王の声は、低く、重厚な鐘の音のように玉座の間に響いた。それは君主としての威厳と、一人の男としての退路を断った覚悟が混じり合う響きであった。


「帝国より貸与されし魔導兵器が三機……。それに我が国が秘蔵する魔導具の数々。兵らもすでに配置に就いております。民の避難も、間もなく完了いたしましょう……」


 大臣は震えそうになる声を精一杯に圧し殺し、事務的な報告に徹することで、迫りくる絶望を堰き止めようとしていた。


「そうか」


 王は、闇に沈みゆく窓外の領土を見つめたまま、静かに、だが抗いようのない口調で続けた。


「その魔導兵器の一機には、私が乗ろう」

「王よ! それはあまりに……!」


 諫言しようとした大臣を、王は柔らかな、それでいて峻烈な眼差しで制した。


「忘れたか。今年の武術大会にて、我が軍の精鋭をもってしても私を地に伏せさせることは叶わなかった。今、この国で最大の戦力は私なのだよ」


 ふっと漏らした笑みには、死地に赴く者特有の、透徹した清々しさが宿っていた。

 大臣はその言葉の裏にある、王自らが盾とならんとする真意を悟り、悲痛な面持ちで頭を垂れた。


「ならば……この老体、魔導の知恵を絞り、最期までお傍に仕えましょう」


 大臣の慌ただしい靴音が遠ざかると、部屋には、まるで雪が降り積もるような沈黙が訪れた。

 王は、愛する妻の震える肩に、武人の逞しい掌をそっと置いた。そして、彼女の腕の中で眠る、黄金の瞳を持つ我が子を、魂に刻みつけるように見つめる。


「この子が成長し……武術大会で並み居る強者を退け、優勝を飾る姿を、この目で見届けたかったものだな」


 その言葉は、果たされぬ約束として夜気に溶けていった。

 王の穏やかな微笑みを見た瞬間、王妃の瞳から、こらえていた真珠のような涙が溢れ、赤子の頬を濡らした。それが、黄金の運命を背負った子へ贈る、母の最後の洗礼であるかのように。


 ----------


 戦乱の火蓋が切られる直前、城の裏手に広がる深い静寂の中、王は王妃と幼き王子を伴い、一頭の逞しい駿馬の前に立っていた。

 鞍には、最低限の食料と水袋が括り付けられている。それは、栄華を極めた王族の旅装としてはあまりに心許なく、同時にこれからの過酷な逃避行を物語るに十分なものであった。


 王は、震える王妃の腰を抱き、愛馬の背へと押し上げた。

 王妃の胸元には、柔らかな薄衣で幾重にも包まれた王子が、母の鼓動を感じながら静かに眠っている。


「あなたを残し、私一人で……いずこへ行けというのですか」


 王妃の瞳からは、大粒の真珠のような涙がとめどなく零れ落ち、王の武骨な手を濡らした。

 王はその顔を、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。それは、言葉を介さぬ魂の告別であった。


「ここより遥か北……、あの霊峰を目指すがよい。古より神の住まう地と謳われる聖域だ。いかに狂気に憑かれた帝国といえど、あそこにまでは迂闊に手は出せぬはずだ」


 王は、まだ濡れたままの妻の頬を指先で優しく拭った。


「私には精霊の姿は見えぬが……そなたには、その微かな囁きが聞こえるのであろう? 霊峰の麓に辿り着いたなら、ただ一心に祈りなさい。神が、その『黄金の瞳』を、そしてそなた自身を見放すはずがないのだから」


(……もし、本当にこの世界に、神という慈悲深き存在が残されているのであればだが)


 心に去来した皮肉な疑念を、王は固く閉ざした唇の奥に封じ込めた。今、彼女に必要なのは真実ではなく、明日を生き抜くための縋るべき希望なのだ。


 二人はしばしの間、互いの瞳に映る己の姿を見つめ合った。

 言葉にならない万感の想いを込めて交わされた、最後となるであろう口づけ。


「愛しております……。たとえ、どのような時が流れようとも」


 王妃の震える誓いの言葉を聞き届けると、王は毅然として馬の腹を蹴った。

 鋭い嘶きとともに、駿馬が闇夜を切り裂いて走り出す。

 遠ざかってゆく妻の背中と、愛しき我が子のぬくもりを、王はただ一度も振り返ることなく、修羅の待つ戦場へと向かうのだった。


 ----------


 戦陣へと戻った王は、一切の躊躇いを捨てて魔導兵器の狭い操縦席へと身を沈めた。

 人型の異形とも、飢えた獣の化身とも見えるその姿は、帝国が誇る魔導技術の結晶であり、同時に王がもっとも忌み嫌った「悪趣味な玩具」であった。だが今、愛する者たちを護るための盾となり得るのは、この冷徹な鋼の巨躯のみ。

 王が操縦桿を握り、自らの魔力を奔流のように注ぎ込むと、巨兵は深き眠りから覚めたかのように、音もなく、かつ不気味にその四肢を駆動させた。


「私に続け! 市民の避難が成るまでの一刻を稼ぐのだ。傷ついた者は迷わず退け、命を無為に散らすことは許さぬ!」


 全軍に響き渡る王の号令。それは死を強いる命令ではなく、生への執着を促す慈悲の言葉であった。

 しかし、主君の背を追う兵たちの瞳には、すでに生還の望みなど灯ってはいない。彼らが守ろうとしているのは己の命ではなく、背後に残した家族、そして友らの明日であった。


 ----------


 闇を裂いて駆ける馬上で、王妃は背後から押し寄せる轟音を耳にした。

 振り返れば、かつて慈しんだ小国は、今や紅蓮の炎と無慈悲な閃光が交差する修羅の庭と化している。飛び交う熱線が夜空を焼き、人々の叫びが風に乗ってかすかに届く。


 その混乱のさなか、王妃はひときわ輝く「龍」のような光の軌跡を見た。

 それは、彼女がまだ王妃と呼ばれる以前、若き日の大臣が手向けとして見せてくれた魔術の輝きに似ていた。

 そして、その光の周囲を舞う、幾つもの鉄の影。

 ――あのなかのひとつに、夫がいる。

 愛する男が今、命を削りながら自分たちのための時間を繋ぎ止めている。そう確信した王妃は、溢れんばかりの涙を奥歯で噛み殺し、再び前方の闇へと視線を据えた。


「大丈夫よ……大丈夫……」


 胸の中で不安げに自分を見上げるアルスに、王妃は祈るように囁き続ける。

 だが、運命は非情であった。

 帝国の追っ手が放ったものか、あるいは戦場から逸れた迷い弾か。

 一条の熱線が、容赦なく王妃の柔らかな肩を貫いた。


「っ……!」


 焼けるような激痛に、王妃の口から小さな悲鳴が漏れる。だが彼女は、決して馬の手綱を離さなかった。

 溢れ出す鮮血が、抱きかかえたアルスの包み布を赤く染めてゆく。それでも彼女は声を押し殺し、ただ前へ、前へと愛馬を急がせた。

 夫が命を賭して切り開いてくれたこの細い道を、ここで途絶えさせるわけにはいかない。


 母の苦悶の色を察したのか、幼きアルスの瞳が揺れる。


「大丈夫よ、アルス。何があっても、お母様が……」


 薄れゆく意識を繋ぎ止めるように、彼女は二度、同じ言葉を繰り返した。その瞳には、自分の命よりも重い、一筋の強い光が宿っていた。


 ----------


 どれほどの時が、この闇の中を過ぎ去ったのだろうか。

 王妃を乗せた馬は、もはや生き物としての限界を超え、運命という名の目に見えぬ力に駆り立てられるように走り続けた。

 王妃の肩からは、彼女の命そのものである鮮血が、一滴、また一滴と零れ落ちてゆく。それでも彼女が手綱を離さなかったのは、それが遠い戦場に身を置く夫との、唯一の絆であるかのように思えたからだ。


 ふと、遠い記憶が脳裏をかすめる。

 かつて、王と二人で野を駆けた日々。武芸以外に興味のなかった彼に、道端に咲く名もなき花の名を教えるのは、彼女にとってこの上ない喜びであった。

 いつか、この子が大きくなれば、三人で……。

 果たされることのない夢が、意識の混濁とともに淡く浮かんでは消えた。


 やがて馬が速度を落とし、崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。

 そこは、冷徹な静寂に包まれた霊峰の麓。


「ありがとう……無理をさせて、ごめんなさいね……」


 王妃は震える手で、限界まで仕えてくれた名馬のたてがみを撫でた。鞍を外し、せめてこの賢き獣が、神の庭で静かに余生を過ごせるようにと祈りを捧げ、別れを告げる。


 立ち上がろうとした彼女の足元は、もはや自分の意思を裏切るほどに脆い。肩から流れた赤き雫は、王子を包む布を惨酷なまでに染め上げていた。


「どなたか……どなたか、おりませんか……!」


 夜明け前の荘厳な空気が漂う霊峰に向かって、彼女は最期の力を振り絞り、声を絞り出した。神聖王国ですら畏怖して立ち入らぬ聖域。

 彼女は地に膝を突き、精霊へ、あるいは神へと、生涯で最も深く、烈しい祈りを捧げる。


「どうか……この子だけでも……神に愛された、この子だけでも……!」


 視界はもはや、白く、おぼろげな霧に包まれていた。

 だが、その霧の向こうから、何者かが静かに歩み寄ってくるのを感じた。

 それが何であるか、もはや彼女の瞳には映らない。けれど、伝わってくる確かなぬくもりを、彼女は神が遣わした救いの手であると信じ、涙に濡れた頬をそっと綻ばせた。


 倒れ込む彼女の身体を、その存在は羽毛のように優しく抱き止めた。

 母の苦しみを知ってか知らずか、胸の中の王子は、いつの間にか安らかな寝息を立てている。


 意識が永遠の闇に沈むその寸前、彼女はひとつの夢を見た。

 慈愛に満ちた両親の笑顔。王と出会い、不器用な求婚に胸を熱くしたあの日。若き日の大臣が、二人の門出を祝して空に咲かせた魔術の華。そして、産声を上げた我が子を抱いたときの、震えるような喜び。


 それは、霊峰に住まう者が最期に与えた、ささやかなる慈悲だったのだろうか。

 彼女は温かな光の記憶に包まれ、微笑みを湛えたまま、静かにこの世から旅立った。


 その神秘なる存在は、物言わぬ王妃と、その腕に眠る黄金の瞳の王子を抱きかかえると、朝靄に包まれた霊峰の奥深くへと、音もなく消えていった。

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