020 断章 アルス 黄金の瞳(後編)
「アルス、様子はどうですか?」
「ええ、薬の調合も大分うまく出来るようになりました。ノエマ」
人里離れた霊峰の、さらに奥深く。神域とも呼べるほどに澄み渡った森の中で、若きアルスは採取したばかりの薬草と向き合っていた。
非業の死を遂げた母の、命懸けの祈りによってこの地に届けられたあの日から二十年。アルスはこの聖域で、人としての生を育んできた。
声をかけてきたのは、女神ノエマ。
かつて母の最期の祈りを聞き届け、この地に降臨し、赤子だったアルスをその懐に引き取ったのである。
「……良い出来だと思います。上達しましたね」
「ノエマに教えていただいたからですよ。それと、精霊たちも手伝ってくださいました」
ノエマの長く美しい金の髪が、下界の汚れを知らぬ清浄な風に吹かれてそよぐ。
人の姿を借りてアルスの前に現れているとはいえ、その佇まいはあまりに神々しい。迷い込んだ旅人が目にすれば、間違いなく平伏し、神話の具現を確信するだろう。
「アルス。貴方は今日で、ちょうど二十歳になりますね」
「はい」
「以前伝えたことは……、覚えていますね」
「はい。二十歳になれば、人々の世界に戻らねばならないと……」
今日までの二十年間、ノエマは亡き母の願いを一身に背負い、アルスを献身的に慈しみ育ててきた。
神の庇護下にあるとはいえ、霊峰での暮らしは人間にとって決して楽なものではない。彼女はアルスに、自然と共に生きる知恵、その峻厳さ、そして――時に他者の命を「分けて」もらわねばならない残酷な理をも説いてきた。
ある時、飢えた獣が神域へと迷い込み、彼らに牙を剥いたことがある。
その時、女神はアルスに狩りの仕方を教えた。平和を愛する青年は最初こそ気乗りしていなかったが、ノエマは静かに諭したのだ。
それは、自らが生きる糧を得るため。そして、いつか愛する者を守るために、やむを得ず剣を取らねばならぬ時のためであると。
初めて獲物を仕留めた時、アルスはその獣の亡骸に祈りを捧げ、命を繋いでくれることへの感謝とともに、静かに涙を流した。
女神はその慈悲深い心根を見つめながら、この青年が人の世に戻った時、どうか嵐に揉まれることなく平穏に過ごせるよう、願わずにいられなかった。
もし自らが人であったなら、我が子を想う心とはこれほどまでに切ないものだろうか――神である彼女の胸に、そんな人間らしい感情が去来するほどに、アルスを愛していた。
「母君のお墓へは、行かれましたか?」
「ええ、旅立つ挨拶をしてきました。花も少し、自然から分けていただいて供えてきました」
十歳を過ぎた頃、アルスは自分が「人の子」であり、両親がいたことを知らされた。
幼い頃は実感が湧かなかったものの、月日が経つにつれ、二度と会えぬ肉親への思慕が、胸の奥に淡い雪のように積もっていくのを感じていた。
女神は両親の最期を知っていたが、あえて詳細は語らなかった。それは、これから始まる彼の長い旅路の中で、彼自身が見つけ、向き合っていくべき宿命だと信じていたからだ。
「では……最後に少し、お話をしましょう。貴方の好きな、湖の近くがいいですね」
「ええ、私も最後にもう一度、行こうと思っていた所です」
ノエマが慈愛に満ちた笑みを向け、アルスもまた、その教えを体現したような眩い笑顔で応える。
血の繋がりこそないが、そこには確かに、真実の親子のような絆が結ばれていた。
「アルス、私が人間ではないことはもう、知っていますね」
「創世の三神のお話を聞いた時から、分かっていましたよ。ノエマ」
「ふふ……貴方は本当に聡明な子ですね。では……もう人の姿をしていなくても良いでしょう」
その言葉とともに、ノエマの美しい人の形が眩い光に包まれた。光はやがて、淡く清らかな赤い燐光へと姿を変え、周囲の巨木たちは女神の真の姿を寿ぐように荘厳にさざめく。
二人は、二十年間の喜びも悲しみも分かち合った、あの思い出深い湖へと向かう。
アルスは一歩、また一歩と、この愛する大地を踏みしめた。それは、神域との別れの儀式であり、同時に過酷な「人の世」へと踏み出すための、確かな一歩であった。
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「神話では、三神がこの世界を創ったと伝えられていますね」
光の滴となったノエマが、水面を滑るように湖へと進みながら、穏やかに語りかける。実体を持たぬ光の存在でありながら、彼女の慈愛に満ちた眼差しや、微かな微笑みまでもが手に取るように伝わってくる。それは、二十年という歳月が育んだ、魂の共鳴に近い感覚だった。
「創世を終えた神々は、姿を変え、この世界を見守り続けることにしたのです。自由を愛するシムルグは『風』に、猛々しき力を持つヴァルザードは『大地や海』に……。そして私、ノエマは世界を包む『エーテル』へと姿を変えたのです」
「エーテル……。魔術の源そのものが、貴女だったのですか、ノエマ」
「ええ……。この真実を知る者は、今や数少ないでしょう」
魔力の源泉であるエーテルが、女神の転生した姿だったとは。アルスは息を呑んだ。三神が神殿の奥に鎮座する偶像などではなく、今この瞬間も肌を撫でる風として、足元を支える大地として、そして体中を駆け巡る魔力として存在している。その壮大な理に、眩暈に似た感覚を覚えた。
「私たちは……この世界を創り終えた後、そこに目覚めた命たちにすべてを委ねることに決めたのです。自らの手で未来を切り拓くべきだと。たとえその先に、どれほど悲しい終わりが待っていたとしても……」
二人は霊峰の最奥、神聖な静謐が満ちる湖へと辿り着いた。
木々の隙間から柔らかな光が降り注ぐその場所は、この世の美を凝縮したかのように神々しく、同時に侵しがたい畏怖を抱かせる荘厳さに満ちていた。
「この湖一つ取っても、神の力だけではこれほど素晴らしいものにはならなかったでしょう。これは、生命が幾多の試練を乗り越え、積み上げてきた調和の結果なのですよ」
「多くの試練……ですか?」
「ええ。自然界に姿を変えた神々は、時に過酷な試練を与えます。シムルグの風は暴風や大雨を呼び、ヴァルザードの大地は震え、海は荒れ狂う。そして私のエーテルは、時に生命を大きく進化させ、あるいは変化させます」
アルスは、遠い神代の物語を夢の中で聞いているような心地だった。
神々が自然の一部となり、生きとし生けるものへ試練を課す。それは世界が停滞し、腐り落ちてしまわぬための、神なりの愛の形なのだろうか。あまりに途方もない摂理に、アルスはただ息を呑むばかりだった。
「そうした変化の一つが、貴方のその『黄金の瞳』なのです、アルス」
「私の……。この瞳には、一体何が宿っているのですか?」
幼い頃から、水面に映る自分の瞳を見るたびに抱いていた疑問。
人里では決して見ることのない、陽光を溶かし込んだような黄金の色。
「それは、最初の人間たち……自然界に姿を変えた神々の真の姿を見ることができた者たちの名残り。時折、大地がかつての人々を懐かしむように、黄金の瞳を持つ者が生まれてくるのです。……貴方のようにね、アルス」
「最初の人間たちの……」
ふわりと、柔らかな風が吹き抜け、アルスの銀髪を優しく揺らした。
この風もまた、自由を愛する神シムルグの化身なのだろうか。どこかで別の神もまた、自分たちの門出を見守っているのではないか……そんな予感に、背中が微かに震えた。
「そして、黄金の瞳を持つ者たちは、純粋で力強い『光』の力を扱うことができました。二千年前の封印戦争の時、闇を撒くものを封じたのは、黄金の瞳を持つ『神祖』の血を引く者たちだったのです」
女神が告げる言葉は、一介の青年が背負うにはあまりに重く、深かった。
けれどアルスは、その話を拒むことなく、二十年間の思い出とともに一言一言を胸の奥底へと刻み込んでいった。いつか自分が大きな運命の渦中に立たされる日が来る。そんな予感を覚えながら……。
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「二千年前……魔王が降臨したと言われている戦争ですね」
「ええ……多くの者が命を落とし、自然界は大きく揺れました」
空を飛ぶ巨大な船が天を舞い、現代の魔術体系を遥かに凌駕する失われた力が振るわれたという、神話の時代の終焉。その幕を引いた当事者たちが、自分の瞳と同じ色をしていたなど、今のアルスにはまだお伽噺のようにしか思えなかった。
「……アルス。人の世での生き方は、教えた通り覚えていますね?」
「はい。お金の使い方、種族ごとの立ち振る舞い、歴史……。すべて、この胸に」
「よろしい。多くの者を見聞きし、学び、体験するのです。世界は貴方が思うよりずっと広く、厳しく、美しいものですから」
「ええ。色々な場所を回ってみるつもりです、ノエマ」
差し込む柔らかな光が水面で跳ね、二人の新たな門出を祝福するように煌めいていた。
「……もしかしたら、大きな運命の嵐が貴方を襲うかもしれません。ですから、アルス。友人を見つけるのです。自らの魂を預けられる、生涯の友を」
「生涯の友、ですか……」
「ええ。どのような困難も、共に背負い、立ち向かえる者を」
女神であるノエマには、未来の奔流を微かに感じ取る力があった。
しかし、アルスの運命だけは、深い霧に包まれて何も見通せなかった。それは「黄金の瞳」を持つ者の宿命。神々と語り、大いなる光を宿す彼らは、いつの時代も歴史の結節点に立たされ、翻弄されてきた。
「まずは、南方の国へ向かうといいでしょう。多くの人が集まる場所……。そこで、きっと出会いがあるはずです」
「はい、行ってみます」
女神が見通せたのは、それが精一杯だった。
その出会いすらも、運命の霧に隠され、確かな約束ではなかったけれど。
「そろそろ、刻限ですね……」
語りかけるノエマの光は、夜明け前の星影のように淡く、今にも大気の彼方へと霧散してしまいそうだった。
「お別れなのですね、ノエマ」
アルスの口から漏れた言葉は、静かな悲しみを帯びて神域の空気に溶けてゆく。二十年という月日、彼にとっての「母」であり「師」であり、世界のすべてであった存在が、今、彼の手を離れようとしていた。
「本当は、もっと貴方の傍にいたかった……。けれど、貴方は人の子。いつかは、人の営む喧騒の中へ帰らねばなりません」
耳鳴りがするほどの静寂が、二人を包み込む。
「……アルス。世界から今、エーテルが失われつつあります。私が人の形を模し続けることも、もはや叶わぬほどに……」
「なぜ、失われてゆくのですか? 貴女そのものであるはずの力が」
「本来ならば、枯れることのない源泉……。けれど今、世界は大きく揺れています。世の理に歪みが生まれているのです。その影響が、あらゆる所に出ているのですよ」
アルスは、消え入りそうな暖かな光にそっと触れた。慈しむような、別れを惜しむような、柔らかな接触。光は彼の指先を、最期の愛撫のように優しく包み込んだ。
「アルス。人の世に下りたなら、その瞳を無闇に見せてはなりませんよ。それは貴方を守り、同時に呪う標ともなり得るのですから」
「ええ、分かっています」
「見つけるのですよ、友人を」
「はい、必ず」
霊峰を吹き抜ける風が、アルスの清廉な銀髪を激しくなびかせた。
「ノエマ。貴女と過ごしたこの日々は、私の魂の、生涯の灯火となります」
「私もですよ、アルス……。愛しています。これまでも、そして、これからも」
「私も、愛しています」
青年と女神は、それ以上何も語らなかった。ただ、静かな刻が二人の間を通り過ぎてゆく。
やがて女神の光は、朝日が霧を溶かすように、自然の理の中へと静かに溶け込み、消えていった。
青年はその光景を、いつまでも、いつまでも眺めていた。
黄金の瞳に映る世界は、もはや昨日までの楽園ではない。けれど、その瞳の奥には、女神が遺した最後の温もりが、消えぬ種火として宿っていた。




