018 賢者の石、再び 終
巨大な黒き獣となった死霊術師の変貌ぶりは、まさしくこの世の地獄を体現していた。
その全身からは、どろりと濁った黒い血のような液体が絶えず地面に滴り落ち、悪魔を思わせる禍々しい角が頭部から突き出ている。大きく裂けた口元からは不快な熱気が漏れ、焼けただれたかのような醜い四肢は、かつて人であったことなど想像もつかせない。剣のように鋭い鱗に覆われた強靭な尻尾が、不機嫌そうに墓石を打ち鳴らす。それは、狼をさらに醜悪に、巨大に歪ませたような、名状しがたき魔獣の姿であった。
おぞましいことに、獣から流れ落ちる黒い血は地面に触れるや否や蠢き、そこから新たな不死者が次々と這い出してくる。彼らは全身を黒い粘液に包まれ、まるで泥の底から蘇ったかのようだ。
こちらへ歩み出ようとする二体の不死者へ、カシムとエレナの放った矢が寸分の狂いもなく心臓を貫く。
「良かった、こちらの攻撃は一応通るみたいだね」
「不死者はそうですけど……、あの獣はどうすれば」
不測の事態に驚きつつも、カシムはいつもの軽口を絶やさぬよう努めていた。彼が動じれば、部下たちの士気に直結することを心得ているのだ。
エレナもまた、次の矢を番えながら、巨大な獣への懸念を口にする。もはや常軌を逸した状況に、恐怖心さえ通り越して冷静さが芽生えつつあった。
「地下遺跡で見た獣の亡骸を、遥かに凌ぐ大きさですな……」
「神聖王国にも、これほどの魔獣はいるかどうか……」
「……ですが、今はあの獣に、確かな生命の鼓動を感じます。おそらく、心臓の位置に『核』があります」
ザイドとヴァレリアが、生まれ続ける不死者をそれぞれの手で葬り去りながら冷静に分析する。その間にも、黒き獣は巨大な前足で地面を砕き、尻尾を鞭のように振るって全員を薙ぎ払おうと暴れ狂う。
アルスは精霊のような身のこなしで猛攻を避けつつ、先ほどまでの死霊術師には感じられなかった「生」の気配を、その胸の奥に確かに感じ取っていた。一体なぜ、変貌した途端に命が宿ったのか……。
「つっても、硬すぎるぜこいつ!」
ジグが光の槍を練り上げ、魔獣の胸元へ放つが、その皮一枚を貫くことも叶わず霧散する。カシムとエレナが放った矢も、獣の体表に弾かれて虚しく地に落ちた。魔獣は全身から絶えず黒い血を流し続け、それが防壁の役割を果たしているかのようだ。
「……なるほど、あの不浄な液体が全身を守る鎧となっているようだね」
「地下のバケモンみてーに魔術を使ってこねえところを見ると、あの液体自体が防御術ってわけか」
カシムが冷静に状況を読み解き、ジグが悪態をつく。
賢者の石から生まれた魔獣は魔術を弄することなく、ただその圧倒的な暴力と腕力を振り回して暴虐の限りを尽くしている。
魔獣が両腕で地面をしたたかに叩きつけると、激しい砂煙が舞い上がり、砕け散った墓石が石礫となって七人に降り注ぐ。今はまだ耐えられているが、確実に体力は消耗していた。
その一瞬の隙を突き、ガウルが魔獣の足元へ肉薄した。大剣を一閃させ、獣の足を深く傷つける。ガウルの剛腕から繰り出された一撃は、確かに魔獣の肉を裂いていた。
「……っ!」
「ガウル! 平気ですか!」
魔獣の即座の反撃を間一髪でかわし、ガウルは後方へ飛び退く。至近距離に迫ったことで、彼は魔獣の黒い血を浴びていた。
「……あの液体自体には、呪いの類はかかっていないようです」
「……そうか」
アルスが周囲を警戒しながら、ガウルの様子を素早く法術で診る。
ガウルは魔獣から目を離さぬまま、短く応じた。今の彼は、かつて戦場を駆けた重戦士そのものであった。敵を睨み据え、ただ一点の勝ち筋を模索している。
「……ジグ、あいつの足元を爆発させて、態勢を崩せるか?」
「ああ、出来るぜ。けど、どうするつもりだ?」
「俺なら、あいつを傷つけられる。倒れたあいつの胸を切り裂く。そこをお前が、続けて魔術で貫け」
「…強引な力押しだが、今のこいつにはそれしかねえか……。頼んだぜ、ガウル!」
上級魔術で血の鎧ごと強引に貫く術を模索していたジグに、ガウルが低い声で提案する。ジグはその言葉を信じ、即座に次の呪文の詠唱に入った。
「なら、僕たちも援護させてもらうよ」
「不死者は気にしないでください!」
「ガウル! お願いします!」
ジグの魔術を信じ、再び魔獣へ向かって駆け出したガウルへ、不死者の群れが襲い掛かる。だが、カシムとエレナの放った矢が、ガウルに触れる前に不死者たちを射抜いた。魔獣がガウルを叩き潰そうとした瞬間、アルスの放った光球が目前で炸裂し、獣を怯ませる。
ジグの詠唱を邪魔させまいと、ザイドとヴァレリアが周囲の不死者を片っ端から片付けていく。
魔獣の足元へ迫るガウルの前で、地面がジグの爆砕呪文によって凄まじい轟音と共に爆ぜた。予期せぬ衝撃に、魔獣が巨大な体を地面へと崩す。爆風と共に砂塵や石礫がガウルへ降り注ぐが、彼は眉一つ動かさず、一直線に倒れた魔獣の胸元へ向かって突進する。
「ぐ、う、おああああああ!!!」
両足に極限まで力を込め、大地を踏みしめる。咆哮のような裂帛の気合と共に、ガウルは大剣を握る両腕がはち切れんばかりに力を込め、己の肉体、精神、その全てを大剣に一点集中させ、血の鎧ごと魔獣の胸元を渾身の一撃で切り裂いた。
「ありがとな! ガウル!」
ガウルのあの一撃を信じ、ジグは既に次の呪文を完成させていた。
ジグが作り上げたのは、光の槍よりもさらに構築が困難な、凝縮された炎の弓矢であった。彼の手の中で、燃え盛る炎の塊が弓の形を成し、そこから炎の矢が引き絞られる。
そして、ガウルが切り裂いた魔獣の胸が再び血の鎧で覆われるよりも早く、ジグの放った炎の矢は魔獣の胸深くに突き刺さり、その核を跡形もなく焼き払った。
魔獣は断末魔の雄たけびを墓場全体に轟かせ、その巨大な体は急速に崩壊していった。後には黒く濁った血のような塊だけが広がり、やがてそれは、大地に刻まれた大きな染みとなった。
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「ありがとうございます。エレナさん、ヴァレリアさん」
アルスが近くの川から水を運んできてくれた二人に、穏やかな礼を述べた。
差し出された水に静かに法術を注ぎ込めば、澄んだ水は微かな光を帯び、簡易的な聖水へと変わる。
狂った術師が深く穢したこの広大な大地を、これだけで完全に浄化するには及ばないだろう。だが、元凶が断たれた今、もはや不死者が這い出てくることはないはずだ。手向けとしては、これで充分であった。
アルスはエレナとヴァレリアに手伝ってもらいながら、その清廉な水を慈しむように地面へと撒いていく。
「……つ、つかれたぜ……」
「運動不足なんじゃないか?」
「全身汗だらけで息切れしてるやつに言われたくねえよ……」
「はは、違いない。中々俺もきつかった」
今日の全ての疲労を吐き出すような溜息を吐き、地面にへたり込んだジグに、ガウルが声をかける。死線を潜り抜けた者だけが共有できる安堵の中、二人は顔を見合わせて短く笑い合った。
「……これは流石に、この辺りに精鋭の騎兵団を呼び寄せても文句は出ないね。近隣の魔物被害が深刻化した、ということにしよう。嘘ではないしね」
「はい、若。速やかに手配いたしましょう」
「それにしても『賢者の石』か……。とんでもない劇薬をこの国に持ち込んでくれた輩がいるらしい」
カシムとザイドが、魔獣が霧散した後の荒れた墓場をつぶさに観察し、冷静な分析を重ねる。
様子のおかしい術師に、その者が最期に縋った紅い石。カシムは、自らが憂慮していたこの国を覆う不吉な予感が、単なる取り越し苦労ではないことを確信しつつあった。
「……ザイド、念のためこの墓地の管理者も洗わせろ」
「承知いたしました、若」
不意にカシムは、軽薄な貴公子の仮面を脱ぎ捨て、次代を担う有力諸侯としての鋭い顔を見せる。この鮮やかな切り替わりこそが、カシムという男の持つ最大の武器であった。
あとは、隙あらば女性を口説こうとする癖さえなければ……と、ザイドは人知れずいつもの溜息をつくのだった。
やがてジグも、自分だけ休んでいるのも悪いと思ったのか、魔術の酷使で鉛のように重い体に鞭を打って立ち上がった。
「よっこらせ……」とのそのそ歩き出すジグに、ガウルも静かに続く。その足取りは確かだが、背中には隠しきれない疲労が滲んでいた。
分析と指示を終えたカシムとザイドも加わり、一行はせめてこの地が、再び死者たちの安らかな眠りの場に戻るようにと、即席の聖水を墓地全体へと振り撒いていった。
戦いの狂乱が去った大地を、穏やかな風が流れ始める。
それは労いのように、七人の間を優しく通り抜けていった。
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「一通り終わったが……賢者の石に心臓を貫かれても生きてる不死者の死霊術師、そんで魔獣に神の宝玉かあ……」
「闇を撒くもの……とも言っていましたね……」
後片付けを終えたジグとアルスが、改めて今回の異常な事態を振り返る。
地下遺跡の件が単発の事件ではなかったこと。あの不死者と化した術師の異様さ。そして、あの重苦しい響きを持つ「闇を撒くもの」という言葉。
二人はそれぞれに沈黙し、魔獣が消え去った後の黒い染みを眺めていた。
翠の民の伝承。女神の言葉。自らが背負うその知識に、今の仲間を巻き込んでしまってもいいものか。決心がつかぬまま、不穏な余韻だけが風に溶けていく。
「……では、僕たちはそろそろ行くよ。今回は本当に助かった」
「助けられたのは俺たちのほうだけどな。三人じゃ危うかった」
「本当に、ありがとうございました」
馬に跨りながらカシムが言い、ジグとアルスは率直な礼を述べた。実際、あの物量と魔獣の暴威を三人だけで凌ぎ切れたか、自信はなかった。
「……ザイド殿。あの術師に仲間がいた可能性を考え、カシム殿の警護は強化した方がいい。あれは、個人の手に負える術ではなかった」
「ええ、重々承知しております。ガウル殿もお疲れ様でございました。貴殿の武勇、見事でしたぞ」
ガウルは、主君を守るザイドへ真剣な面持ちで助言を送った。この件に他の諸侯や勢力が関わっているのなら、調査に乗り出したカシムが狙われる可能性は低くない。ザイドはガウルの言葉を重く受け止め、その勇猛な活躍を改めて労った。死線を共にした者同士、そこには確かな信頼の芽が息吹いていた。
「ここから南方面へ行けば、僕の領地がある。もしよかったら立ち寄ってくれ。歓迎するよ」
「……ああ、まあ……気が向いたらな」
「はは。楽しみにしているよ」
「もう行くのが決まってるみてーじゃねえか。……あと、それとな……」
ジグはカシムの相変わらずの強引さに呆れつつ、釘を刺そうと言葉を継いだ。
アルスが精霊に語りかけていた際、カシムが向けていた好奇の視線。もしあの能力が広まれば、アルスが「奇跡の体現者」として面倒な権力争いに巻き込まれかねない。
「……ああ、彼の事なら大丈夫さ。誰にも言わないよ。自分の『手札』を軽々しく見せびらかす趣味はないからね」
「……はあ……」
カシムのどこまで本気か掴めない、けれど妙に安心させる言葉に、ジグはまた溜息をついた。どうやら割に合わない仕事の縁は、まだまだ切らせてもらえないらしい。
「……あの! アルスさん! 一つ質問してもいいですか!」
「はい、なんでしょう?」
「……その、お肌の手入れは、一体どうされていますの?」
「え、私は……」
「はは、僕がいつも西へ東へと連れ回しているから、気になっていたんだろうね」
別れ際、意を決した様子でエレナとヴァレリアがアルスに詰め寄った。
彼女たちはフードの隙間から覗くアルスの透き通るような肌を、一体どう保っているのかと熱心に議論していたのだ。その姿は、先ほどまで魔獣と切り結んでいたとは信じられない、年相応の女性そのものであった。
(……間違っても『女神に加護をもらった』なんて言うんじゃねえぞ……)
ジグが心の中で冷や汗を流す中、若き諸侯一行は馬の蹄の音を響かせ、自分たちの街へと帰っていった。
「俺たちも、行くか」
「そうですね……行きましょう」
「次はどこへ行こうか」
「街に招待されちまったしなあ……どうすっか……」
三人はそう言葉を交わすと、静かに歩み出し、墓地を後にした。
考えねばならぬこと、備えねばならぬことは山ほどあったが、今はただ、今日を生き残った幸運を噛み締めるように、互いに談笑しながら歩を進める。
墓地は、今日の騒乱など夢であったかのように、ただ静かに、死者たちが眠る本来の静寂へと戻っていった。
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「……ガウル、どうぞ」
「……ああ、すまない」
アルスの差し出した飲み物を、ガウルは短く礼を述べて受け取った。
墓地での死闘を終え、一行は人里から程よく離れた安全な場所で野営を張っていた。
ジグはよほど魔術を使いすぎたのか、野営の準備が整うなり「悪い、寝かせてくれ……」とだけ言い残し、文字通り気絶するように眠りについてしまった。
「ガウルも疲れていませんか?」
「……ん? んん……。動きすぎて、逆に目が覚めてしまったな」
ガウルの身体からは疲労が色濃くにじみ出ていたが、昂ぶった戦いの熱がまだ抜けきらず、意識だけは鋭敏なままだった。傭兵として戦場を渡り歩いていた頃、こうした夜は珍しくなかった。高揚と疲労が入り混じり、眠れぬまま朝を迎えることも、幾度となくあった。
「今日は、色々なことがありましたね……」
「そうだな……。俺もあんな光景は、中々体験したことがない」
「……、何か気になるのか?」
ガウルは、アルスの伏せられた睫毛の震えを見て、気遣うように問いかけた。
アルスは墓地を後にしてから、ずっと自らの内側で自問を繰り返していた。女神は、大地が乱れていると自分に告げた。あのおびただしい数の不死者、女神の息吹たるエーテルを死霊術で強引に凝固させた「賢者の石」、そしてあの術師が最期に漏らした「闇を撒くもの」という言葉。
「……私、最近になって人里に降りてきたんですよ」
「ああ、山暮らしが長いと聞いていたが」
「ふふ、ジグが端折って話したんですね」
夜空は今日の喧騒など知らぬように、雲一つなく晴れ渡り、星々は悠久の輝きを放っている。月光と焚き火の朱が混ざり合い、野営地を暖かな光の天幕が包み込んでいた。
「私、まだ二人に話していないことがあるんです」
「まだ?」
「ええ……」
「……心配ない。俺だってまだ、お前たちに話していないことがある」
「ガウルも?」
二人は焚き火を背に、腰掛け代わりに用意した丸太に並んで座り、夜空を見上げた。
焚き火の傍らではジグが泥のように眠っている。あの大いびきを聞く限り、あと数時間は起きることはないだろう。
「ああ、ある。……それにジグもな。七十年も生きていれば、語りきれんものがあるはずだ」
「そっか……。そうですね。いつかお話ししなければとは、思うのですが」
背後で熟睡する赤髪の魔術師に視線をやりながら、ガウルは言った。アルスもその横顔を見て、小さく笑みをこぼす。七十年。ジグはその長い年月を、ずっと一人で歩んできたのだろうか。その途方もない時間の重みに、アルスはそっと思いを馳せた。
「……んん。その、こういうのはな……。何というか、自分の中から自然に言葉が出てくるまで待ってていいと思うぞ」
「自分の、中から?」
「……ああ、そうだ。その、俺がこの前……お前たちに魔術を教えてほしいと言い出した時みたいにな」
ガウルは再び耳の付け根が熱くなるのを感じた。
己の秘めた想いを相手に伝えるというのは、どうにも気恥ずかしいものだ。まして、背負った事情を打ち明けるとなれば、なおさらだろう。
「……それで話すのが遅くなったとしても、誰も怒ったりはせん。……まあ、ジグは『もっと早く言え』って機嫌が悪くなるかもしれんがな」
「……ええ、そうかもしれませんね」
二人は声を潜めて小さく笑い合った。
仲間や絆といったものの実体は、まだ完全には掴めていない。けれど、この三人ならば、互いの気持ちの準備が整うまで、無言のまま隣にいてもいいのではないか。二人はそれぞれに、そう感じていた。
「……そうだ。魔術の練習、してみませんか?」
「今か?」
「ええ。ガウルに良さそうな術はまだ思いつきませんが、魔力を感じる練習くらいなら」
「……そうだな」
アルスがそっと手を差し出し、ガウルがその手を握る。
長年の擦り傷が刻まれた武骨で硬い自分の掌に、アルスの白く、清らかなほどに細い指が触れる。それはどこか不思議で、ひどく静かな心地だった。
二人はそのまま、月の明かりが夜を照らす中、魔術の端緒を掴むための練習に励んだ。
いつの間にか吹き始めた柔らかな夜風が、二人と、そして眠れる一人を優しく包み込むように通り抜けていった。




