014 賢者の石、再び ①
貿易連合国の首都アル・ハミド。
その中心に聳える壮麗な議事堂では、今日もまた有力諸侯たちによる定例会議が執り行われていた。
「商業」という共通の目的のもとに結束したこの国において、代表者たちの集いは国家の脈動そのものである。そして、その数多の利害を束ね、頂点に君臨するのが、最大都市アル・ハミドを治める盟主という存在であった。
「ロレンツォ殿」
喧々諤々とした議論が飛び交う会議室に、凛とした声が響く。発言の許可を求めたのは、一人の青年諸侯であった。
三十を少し越えたばかりであろうか。港町特有の潮風と陽光に焼けた肌に、均整の取れた長躯。緩やかに波打つ金糸の短髪を揺らすその姿は、いかにも高貴な血筋を感じさせた。少々甘すぎるその貌からは、浮名を流す遊び人の気配も漂うが、同時に次代を担う者としての確かな風格を纏っている。
「なんじゃ、カシム。申してみよ」
名を呼ばれた男――現盟主ロレンツォは、億劫そうに椅子へ背を預けた。
六十半ばを迎えようとするその肉体は、長年の放蕩と豪遊によって醜く肥え太っている。凛々しき青年諸侯カシムとは対照的に、その眼差しには国家を導く者としての輝きは既に失われて久しい。
「いえ、ここ最近の魔物被害について、改めて伺いたいと思いましてね。現状、ギルドを介した流れの傭兵たちに頼り切りですが、それも限界ではないかと」
カシムの口調は、不遜にならず、かといって卑屈にもならぬ、絶妙な均衡を保っていた。
「なんじゃ……そのことか」
「そうした食い詰め者たちに、討伐という『仕事』を与えてやっておるのだ。我らが邁進すべきはさらなる経済の発展である。それは、全会一致の総意であったはずだが?」
ロレンツォはにべもなく言い放つ。
「それは重々承知しております。ですがロレンツォ殿……地域によっては、傭兵を雇う金すらままならぬのが実情なのです。そうした困窮の地へ、首都から正規の騎兵団や調査隊を派遣されてもよろしいのでは?」
カシムは予想通りの反応に内心で苦笑しつつも、粘り強く進言を続けた。
全体会議は既に散会しており、室内では諸侯たちがめいめいに私語を交わしている。二人の会話に耳を貸す者はいない。
「くどいぞ、カシム! そもそも、これほど金さえあれば住まいも、仕事も、夢も家族も手に入る国になったのだぞ? そのような端金すら払えぬ街にいつまでも居座るなど、それこそ自己責任というものであろう」
ロレンツォは苛立たしげに吐き捨てると、のっそりと立ち上がり、部屋を後にした。それは、対話を拒絶する際の彼なりの合図であった。
去りゆく盟主の背中を眺めながら、カシムは特に失望の色を見せることもなく、ただ「やれやれ」と短く息を吐いた。
背後では今も、諸侯たちが己の領地の利益を巡って熱心な密談を続けている。
金こそが真理とされるこの黄金の国で、影は確実に、そして静かに広がり始めていた。
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「若、いかがでしたか?」
議事堂の重厚な扉を抜け、回廊へと足を踏み出したカシムに、一人の男が静かに歩み寄った。老練な空気を纏い、影のように寄り添うその男――ザイドと二人は、歩みを止めることなく言葉を交わす。
「待たせたね、ザイド。予想通りさ。若輩で、なおかつ領地も広くない人間の言葉は、あの方の耳には届かないらしい」
「そうですか……」
足元に敷き詰められた上質な絨毯が、彼らの足音を音もなく吸い込んでいく。周囲に満ちる諸侯たちの談笑も、この二人の密やかな囁きも、等しく柔らかな織物の中へと消えていくかのようだった。
「まあ、数日前の大雨で起きた水害への対処が、滞りなくまとまったことだけは救いかな。仕事の質そのものは、まだ落ちていないんだがね……」
カシムは自嘲気味に呟いた。
盟主ロレンツォ。あの肥え太った男の手腕は、一癖も二癖もある諸侯たちの利害を調整し、一つの国策として纏め上げる点において、未だに侮りがたいものがある。ただ、その瞳が映す世界から「金にならないもの」が零れ落ちているだけなのだ。
「それで、例の件の首尾はどうなのかな?」
雑談の調べを崩さぬまま、カシムが問う。
「はい。大型の怪物が出没したとの報告があった地点へ、調査依頼を受けた者たちがおります。……報告書も、ここに」
「へえ? あんな端金では、誰も見向きもしないと思ったんだがね」
ザイドから差し出された書簡を、カシムは歩きながら広げた。華やかな貴族たちが入り乱れるこの場所では、むしろこうして無造作に書類に目を通す方が、他者の目を欺ける。
匿名でギルドへ依頼を出したのは、二週間ほど前であったか。
諸侯である自分が大々的に動けば、盟主の猜疑心を煽りかねない。カシムは、この国を覆い始めた得体の知れない胸騒ぎの正体を、密かに探ろうとしていた。足がつかぬよう、あえて報酬を最低限に設定した依頼を。
「……大型の獣二体を討伐。ほか、放棄された魔導具等が発見されたが、いずれも損壊。なるほど」
「いかがいたしましょうか、若」
ザイドの声には、長年貴族に仕えてきた者特有の、凛とした礼節が宿っている。
「傭兵たちの報告書だからね。すべてを鵜呑みにはできないさ。面倒を避けて、都合の悪い部分を端折っている可能性も小さくない」
「……近隣の者たちの手には負えぬ怪物であった、との噂もございます」
「だろうね。自分たちで片が付くなら、わざわざ放置して平穏を乱したりはしない」
歩む彼らの傍らを、数人の諸侯が通り過ぎていく。彼らは己の地域の利権を語るのに夢中で、若い諸侯とその従者の会話など、塵ほども興味がない様子だった。
「この者たちの足取りは掴めているのかい?」
「ギルドの者に探りを入れさせましたところ、街の西門から旅立ったと」
「おや。では、この首都を目指しているのか。案外、早く相まみえることになるかもしれないな」
カシムは軽やかな口調を変えぬまま、愉快そうに目を細めた。
二人の足音は力強く絨毯を鳴らし、壮麗なる議事堂を後にした。
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「お疲れさまです、カシム様!」
「お待ちしておりました、カシム様」
議事堂の重々しい石造りの門をくぐったカシムとザイドを、華やかな、けれど芯の通った声が出迎えた。
そこにいたのは、艶やかな黒髪を後ろで束ね、熟練の騎士特有の峻烈な気配を纏った女――ヴァレリア。そして、まだ少女のあどけなさを残した茶髪を短く切り揃えた、快活な瞳の娘――エレナであった。
彼女たちの傍らでは、四頭の駿馬が主の帰還を待って静かに鼻を鳴らしている。
カシムを護衛するこの騎兵たちは、いずれも一騎当千の実力者であった。だが、美しき花を側に置きたがるカシムの悪癖は、彼に「放蕩者の風来坊」という消えぬ評を与え、真面目なザイドを常に悩ませる種でもあった。
「やあ、ヴァレリアにエレナ。わざわざ迎えに来てくれたのかい?」
カシムが親しげに名を呼ぶ。ヴァレリアは拱手して礼を尽くしたが、その表情には微かな憂いの色が差していた。
「カシム様、ここへ至る道中でも、魔物の影を幾度か認めました」
エレナが緊張を隠せぬ面持ちで報告する。彼女はカシムの前に立つと、どうしても肩に力が入ってしまうようだった。
「ふむ……。この連合国で、それほどまでに頻発するとはね」
「やはり……近頃、北に興ったという神聖王国の『天使の塔』。あれが何らかの影響を及ぼしているのでは……」
ヴァレリアが声を潜め、周囲の耳目を警戒しながら告げる。
「ははは。物言わぬ人工の天使などより、僕は実際に会って語らえる女神の方が好みだがね」
カシムが屈託なく笑い、軽口を飛ばす。隙あらば女性を口説こうとするその振る舞いもまた、ザイドの胃を痛ませる要因であった。
「そんなこと、フレデリカ様がお聞きになったら、また浮気の疑いをかけられますよ」
エレナがようやく表情を緩め、少しだけ茶化すように言った。カシムは場を和ませるためにあえて道化を演じている節があるが、その内容はいつだって危うい。
「おっと、今の言葉は聞かなかったことにしてくれたまえ。……さて、ザイド」
馬に跨り、手綱を握ったカシムが振り返る。
「若、今後の予定はいかがなさいますか?」
「一度領地に戻って、皆に休息を与えよう。その後、国の東方へ視察に出る。できれば、例の依頼を出した場所の『その後』も、この目で確かめておきたいからね」
「御意に、若」
「また長旅になるのでしたら、フレデリカ様へのお土産を忘れませんように、カシム様」
ヴァレリアが薄く笑みを浮かべた。彼女が微笑むと、エレナの若々しさとはまた異なる、大人の慈しみのような温もりが場に満ちる。
「流石はヴァレリア、抜け目がない。将来の妻の機嫌を損ねて、婚約破棄なんてことになったら目も当てられないからね」
愛馬のたてがみを優しく撫でながら、カシムは遠く東の空を見やった。
雨上がりの陽光は鋭く、乾き始めた大地からは熱気が立ち上っている。
「何が起きているかは分からないが……。動ける者が動かねばならぬというのは、少々骨が折れるね」
「せめて天馬でもいれば、移動も楽なんですけれど」
「この連合国の乾燥した土地では、天馬は育たないわよ、エレナ」
そんな、取り留めもない、けれど信頼の滲む会話を風に乗せ、四人は出発の準備を整えた。
「では、若。参りましょう」
ザイドの合図とともに、四つの蹄の音が力強く大地を蹴った。
黄金の都アル・ハミドを背に、若き諸侯一行は陽炎の立つ街道へと消えていった。
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(ロレンツォ殿……)
馬の背に揺られ、蹄が刻む規則正しいリズムに身を任せながら、カシムは遠い記憶の澱を掬い上げていた。
二十年前。聖域の動乱が世界を震撼させ、各地にくすぶっていた戦火がようやく鎮まりを見せた頃。荒廃した大地の上で、戦後処理のための三国会談が開かれた。
神聖国家は、聖域を侵した帝国の蛮行を烈火のごとく非難した。対する帝国は、投入された魔導兵器は盗まれたものであり、何者かが帝国の名を騙って私闘を演じたのだと主張し、一歩も引かなかった。事実、帝国領内の小国もまた、その戦火の犠牲となっていたからだ。
当時、貿易連合国は戦域から外れ、奇跡的に平穏を保っていた。商業の要衝である連合国がいずれかの陣営に与すれば、それこそ連合国が戦乱を煽った黒幕だと疑われ、矛先を向けられる危うい均衡の中にあったのだ。
その一触即発の緊張を、言葉という剣ひとつで切り抜けたのが、若き日のロレンツォであった。
彼は両国の間に立ち、妥協の糸口を探り、被害地域への支援をいち早く取りまとめた。全面戦争という最悪の再演を防いだのは、あちこちへ奔走し、智略の限りを尽くした彼の功績に他ならない。
幼き日のカシムにとって、言葉で世界を救ってみせたロレンツォは、目も眩むような憧憬の対象だった。それなのに、なぜ。
(名君も歳には勝てなかった……というだけの話なら、まだ救いがあるんだがね……)
今の、欲望と惰眠に溺れた盟主の姿を思い浮かべ、カシムは胸に広がる苦い影を振り払うように口を開いた。
「……そういえばザイド、母上の様子はどうだい?」
「お元気でございますよ、若。体調もすっかり快方に向かわれ、一日も早く政務に復帰したいと申しておりました」
三年前、父が病に倒れ、急遽家督を継いだカシムを支えるため、母君は不眠不休で尽力してきた。それは亡き夫を想う寂しさを、仕事という火で燃やし尽くそうとするかのようでもあった。近頃は無理が祟って静養を余儀なくされていたが、その気性は未だ衰えていないようだ。
「やれやれ……。元気すぎるのも考えものだな」
カシムは苦笑混じりに応じると、手綱を握る手に力を込めた。
迫りくる不穏な時代の足音から、この国を、そして大切な人々を守らねばならない。その誓いを祈りに変えて。




