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果てしなき旅路の果てに  作者: 左岸
第一章 貿易連合国編
13/37

013 君、過ぎ去りし日の思い出に(後編)

 傾きはじめた夕日が、頼りなく港に佇むジグたちを照らし、その影を長く、心細げに伸ばしていく。

 出口を失ったかに思われた探し人の面影は、時の流れの無慈悲な名残として、誰の記憶に留められることもなく、ただこの場に置き去りにされたかのようであった。

 いっそのこと、約束など綺麗さっぱり忘れて別の街へと旅立った薄情者であったなら、まだ救いがあっただろうか。


「ネリアさん……」


 アルスが気遣わしげに声をかけるが、その先を継ぐべき言葉が見つからず、音は虚空に消えてしまう。

 年長の漁師を含め、その場にいた者たちは皆、あまりに巨大な時の断絶を前にして、ただ沈黙という重苦しい空気の中に沈み込むしかなかった。その傍らで、ジグだけが先ほどから何かを凝視し、思考の深淵に潜っている。


「……! ネリア、どこへ!」


 不意に、石像のように固まっていたネリアの視線が、街の最標高に突き出した一本の大木を捉えた。次の瞬間、彼女は弾かれたように地を蹴った。

 背後から追いすがるカイトの制止も、今の彼女の耳には届かない。何かに急き立てられるように、その背中はまたたく間に遠ざかっていく。


「追いかけるぞ。あの大木の方へ向かったみたいだ」

「ああ、そうしよう」


 ガウルとジグが、危うい気配を纏った彼女を案じて即座に後を追う。

 アルスも二人に続こうと足を踏み出したとき、ふと、言いようのない違和感に胸を突かれた。彼女が走り去った後の空間に、微かな、けれど確かな「何か」が揺らめいているような気がしたのだ。


「……ジグ、これは……?」

「……ん? ああ、アルも気づいたか。まあ、今は行こうぜ」


 疑問を口にするアルスを促し、ジグは先行するガウルを追って坂道を駆け上がる。


「……なあ、カイト。そういえばガレって言やあ……」

「……え?」


 カイトもまた三人の後を追おうとしたその時、年長の漁師が鋭く彼を呼び止めた。老漁師は、混濁した記憶の糸を必死に手繰り寄せ、ようやく「ガレ」という名が結びつく一点を見つけ出したのだ。


 漁師が語る短い述懐を聞いた瞬間、カイトは記憶の中の靄が、一陣の風に払われるかのような感覚を覚えた。

 彼は深く老漁師に礼を言うと、ネリアやジグたちが向かった方向とは正反対――自宅のある方角へと、がむしゃらに走り出した。

 おそらく、今の彼女が何よりも必要としているもの。それを、その手で届けるために。


 ----------


「ネリアさん、ここは……?」

「これは……中々見事な大樹だな」


 ようやく追いついたアルスとガウルが、その威容を前に思わず息を漏らした。街の象徴として、あるいは守り神として鎮座するその大樹は、夜風に吹かれてさらさらと葉を鳴らし、悠久のさざめきを夜空へと響かせている。


「……木って、五年でこんなに大きくはならないんでしょ?」


 ネリアは大樹を見上げたまま、動かない。その後ろ姿は、まるで時の奔流に取り残された孤独な写し身のようだった。吹き抜ける夜風が彼女の青い髪を乱し、その報われぬ想いを慰めるかのように優しく撫でていく。


「ネリアさん……貴女は……」

「……私ね、人間じゃないの。本当は人魚なのよ」

「人魚、だと?」

「……なんとなく気付いてたさ。その足、変化の術をかけてるな? かなり巧妙に編まれているから最初は確信が持てなかったが……」


 アルスの震える問いかけに、ネリアは消え入りそうな声で答えた。

 ガウルはその人離れした美しさに漠然とした違和感は抱いていたものの、まさか異種族だとは思い至らなかった。ジグが先ほどから押し黙って考え込んでいたのは、彼女の奔放な振る舞いの裏に、微かな魔術の「色」を感じ取っていたからだ。アルスが感じた残り香もまた、編まれた術式が綻び始めた兆しだった。


「ガレと一緒にいた時に、この木が植えられたのよ。街の発展を願って、どこかの街から寄贈されたって。その時はまだ、私の背丈より少し高いだけの、ひょろひょろした枝だったのに」


 ネリアはごつごつとした大樹の幹に触れ、遠いあの日を慈しむように目を細めた。

 三人は彼女に掛けるべき言葉を見出せず、ただ夜の静寂の中に立ち尽くす。風に揺れる彼女の髪は、月光に透けて今にも夜の闇に溶け出してしまいそうなほど、儚い美しさを湛えていた。


「あいつ、ここでいつも首飾りを作る練習をしてたわ。『皆に見られると恥ずかしいから』なんて言ってね……」


 沈黙が、四人の間に音もなく雪のように降り積もっていく。


「……『海の涙』ってね、自然に転がってる宝石じゃないのよ。あんな風に輝く石になるまで、毎日毎日、心を込めて手入れをしなきゃいけないの」

「では……貴女はずっと、あの深い海の底で作り続けていたんですね……」

「ちょうどね、潮の流れがしばらく荒れそうな時期が重なったの。人間が漁をする海面近くは平気だけど、私の里の周りはひどく荒れて、陸に出られない時期が来る……それが、私たちの感覚でだいたい五年くらい」


 ガウルは掛けるべき言葉を探して、ただ重苦しい吐息をついた。

 彼の故郷である神聖王国には多くの異種族が暮らしている。彼らは人間とは異なる寿命を持ち、異なる時間のことわりの中に生きている。それは時に、こうした残酷な断絶を生むことを彼は知っていた。


「……人魚の五年と、人間の五十年。……違うのね。周りの大人たちが『人間に深入りするのはやめなさい』って言っていた意味、今になって分かった気がするわ……」


 彼女が必死に涙を堪えていることは、その震える肩を見れば明白だった。いつも通りの強気な口調を保とうとすればするほど、その言葉は悲痛な響きを帯びて、三人の胸を締め付ける。

 彼女の手には今も、約束の証である「海の涙」が固く握られている。その宝石の美しさと、あまりに悲しい名前――それは、叶わぬ想いに幾夜も涙を流し続けた、人魚たちの哀切なる歴史そのものなのかもしれなかった。


「もう、行かなきゃ」

「……身体に掛けた魔術、もう限界なんだな?」

「ええ。もう長くは、この人の姿を保っていられないわ」


 ネリアが寂しげに、けれど決然と言い、ジグがその魔力の揺らぎを察して声をかける。

 異種族が別の姿に化けるという行為は、それだけで膨大な体力と魔力を削り取る。彼女の限界は、もうすぐそこまで来ていた。


「……だが、本当にいいのか?」


 カイトはもしかしたらガレの血を引く者ではないのか。その言葉をガウルは辛うじて飲み込んだ。仮にそうであったとしても、彼女が焦がれ、再会を願っていたのは「ガレ」という一人の男、その人なのだから。


「……うん。もう、ここにいても仕方がないもの」


 そう告げると、ネリアは静かに歩き出し、港の方角へと向かった。

 おそらく、海が空の色を映し出す深い、深い場所へと帰るのだろう。三人は去り行くその後ろ姿に、何も告げることができなかった。どのような言葉なら、五十年の歳月という絶望を癒やすことができただろうか。アルスはただ沈痛な面持ちで、夜の帳へと消えていく彼女を見送るしかなかった。


 ----------


 かつて、好奇心の塊だった若き日のネリアは、きらめく海面近くまで泳ぎのぼり、陸にひしめく人里を遠く眺めるのが何よりの楽しみだった。

 魔術の才に恵まれていた彼女は、わざと水飛沫を上げて漁師たちを驚かせては、その狼狽える様を愉快そうに眺めていたものである。やがて、人魚が人里に紛れるための、人の姿をかたどる変化の術を身につけると、彼女は大胆にも街の雑踏へと紛れ込み、異種族たちの営みを物珍しげに覗き見るようになった。


 ある日のこと、彼女は波間に力なく漂う一隻の小舟を見つけた。

 不審に思って近づけば、そこには右腕を深く傷負った若い漁師が一人。彼は苦悶に表情を歪めながらも、自力で止血しようと必死に抗っていた。


「……手伝ってあげようか?」

「っ! 君は……」

「いいから、ほら。じっとしてなさいよ」


 伝説に聞く人魚を間近に拝み、腰を抜かさんばかりに驚く漁師を余所に、ネリアは甲斐甲斐しく応急処置を施してやった。

 人魚と人間――種族の壁はあれど、肉体の理にさほどの違いはない。法術の一端でも齧っておけばもっと楽だったのに、と彼女は内心で毒づきながら、その手際だけは鮮やかだった。


「家はどこなの?」

「……ここから、そう遠くない。一人で帰れるさ」

「その腕で何ができるっていうのよ。いいから、教えなさいってば」


 青年の名は、ガレといった。

 ネリアは淀みなく人の姿へと変化し、彼を家まで送り届けた。

 眼前で人魚から少女へと姿を変えた瞬間の、ガレのあの鳩が豆鉄砲を食ったような顔。それはネリアにとって最高に愉快な見世物であり、今もなお記憶の特等席に鮮明に刻まれている。

 見慣れぬ「船」という道具を彼と共に操る感覚さえも、彼女には新鮮な驚きに満ちていた。


「ありがとう。……今日は、本当に助かった」

「そう? なら、よかったわ」


 ガレの家の中で改めて礼を言われたとき、彼女の胸に不思議な鼓動が走った。

 間近で見る人間という生き物は、やはり興味深かった。潮風と陽光に焼かれた逞しい肌、大地をしっかりと踏みしめる二本の足。そして何より、ガレの屈託のない、陽だまりのような笑顔は、彼女の心に抗いがたい好奇心の火を灯した。


 ----------


「何してんのよ、こんなところで」

「はは……首飾りの練習さ。他の連中に見られるのは、どうも気恥ずかしくてね」


 それからというもの、ネリアは頻繁にガレのもとを訪れるようになった。

 人の姿を保つのは魔力を激しく消耗するため、陸に上がる機会こそ限られていたが、漁に出る彼を見かければ、海中から人魚の姿のまま声をかけることもあった。


「もう、凄い人だかりじゃない! 一体何が起きてるの?」

「祭りだよ。今年は特別に大きな祝典なんだ」

「ふーん……。それで、あんたの首飾り、誰か買ってくれたわけ?」

「……まあ、そこそこ、かな」

「だから言ったじゃない、地味すぎるって!」


 そうして時が流れる。

 ネリアの姿は出会った頃のまま瑞々しさを保っていたが、ガレは少しずつ、海の男らしい精悍な大人へと変貌を遂げていった。


「しばらく、遊びに来られなくなっちゃうわ。里の周りの潮が荒れ始めるの」

「そうか……。無理をして怪我などするなよ」

「平気よ! 慣れてるもの」


 ある時、海底の里を囲む潮流が激しく荒れる予兆が現れた。しばらくは海面付近へ上がることは叶わなくなるだろうと、長老たちが告げるのを彼女は聞いた。


「……そうだ! 今度会うとき、最高に珍しい宝石を持ってきてあげる! ガレの首飾り、やっぱり地味だもの。何か立派な飾りがなきゃ」

「……そう、かな。なら、楽しみに待っているよ」

「五年後、必ず持ってくるわ。待っててね」

「元気でな、ネリア」


 ネリアは再会を約して海中へと没した。ガレは、初めて出会ったあの日と変わらぬ、真っ直ぐな笑顔で彼女を見送った。


「海の涙」――それは、海底に眠る鉱石に、人魚が長い年月をかけて自らの魔力を注ぎ込み、慈しみ育てることで生まれる至宝である。

 ネリアは里の傍らに最良の場所を見つけると、来る日も来る日も、宝石がその輝きを増すように魔力を注ぎ続けた。

 当初、人間に深入りしすぎる彼女を案じていた同胞たちも、そのひたむきな、一途すぎる姿を前にしては、ただ静かに見守るほかなかった。


 そうして人魚たちの時の中で、四年の歳月が流れた頃。「海の涙」はついに、この世のものとは思えぬ輝きを宿し始めた。


 ネリアは歓喜したが、潮流は未だ陸への道を閉ざしたままだ。

 せっかくなら、もっと。彼女はさらに一年をかけて宝石を研ぎ澄ませた。五年目――それは、深淵の神秘を凝縮したような、神々しいまでの美しさを放つ逸品となった。


(……ふーん。あいつ、船を新しくしたのね。前よりずっと立派じゃない)


 手にした「海の涙」を胸に抱き、ネリアは逸る心を抑えて海面へと泳ぎのぼった。

 そこにいたのは、記憶の中のガレと瓜二つの後ろ姿。

 不器用だったあの男も、五年も経てば立派な漁師になるものね――。

 彼女は愛おしさを噛み締めながら、あの日交わした「約束」を携え、迷うことなくその船へと向かっていったのだ。


 ----------


「ネリア!」


 背後から突き抜けるような声が響き、ネリアは緩慢に振り返った。

 そこは街の喧騒から遠く離れた港の外れ、昼間は釣り人たちが糸を垂らす静かな桟橋だった。


「……カイト?」


 膝下まで海に浸かった彼女の身体は、もはや人の形を留めてはいなかった。月光を弾いて濡れた鱗を輝かせるその姿は、陸の者とは一線を画す、峻烈なまでの美しさを放っている。神秘的で、どこか近寄りがたいその容貌こそが、彼女が人ならざる種族であることの動かぬ証しであった。


 カイトはその人魚の美しさに一瞬言葉を失い、激しい全力疾走のせいで肩を大きく揺らしていたが、伝えねばならぬ一事のために必死に唇を動かした。


「お……俺の、亡くなったばあちゃんにさ……ガリアノっていう、弟がいたんだ」


 途切れ途切れの吐息とともに、カイトは言葉を紡ぐ。彼はあの大樹の下でジグたちからネリアが港へ向かったと聞き、心臓が破けるほどの勢いでここへ駆けつけたのだ。背後の遠くには、彼を追ってくる三人の影が小さく見えていた。


「当時の連中からは……ガレっていう愛称で呼ばれてたって。さっきの漁師さんが、思い出してくれたよ。皆がそう呼ぶから、本人もいつの間にかガレって名乗るようになってたんだってさ」

「……そうなんだ……」


 ネリアは、遠い夢の続きを聞いているような心地でその名を受け止めた。

 ガリアノ。誰からも「ガレ」と親しまれ、かつてこの街の潮風に吹かれて生きていた一人の男。漁師のくせに手先が不器用で、小さな傷が絶えなかった人間。人魚の白磁のような肌とは違う、陽に焼けた褐色の腕で、いつも屈託なく笑っていたあの男。


「それで……その人が、生涯ずっと作り続けていたものが家に残ってたんだ。……きっと、ネリアに必要だと思って」

「これ……首飾り……?」


 カイトが震える手で差し出したのは、一個人が趣味で仕上げたとは到底思えぬ、見事な銀の首飾りだった。これほど精緻な品を完成させるのに、一体どれほどの歳月を費やしたのだろうか。驚くべきことに、そこには海水による腐食を拒むかのように、微かな魔力が織り込まれていた。魔術の「ま」の字も知らぬはずだった不器用な男が、ただ一人のために、そのことわりさえも超えてみせたというのか。


「……ずっと、作り続けてたって、母さんが言ってたのを俺も思い出したんだ」


 ネリアが細い指先で首飾りの表面をなぞれば、いくつかの箇所に僅かな歪みや、研磨しきれぬ粗さが残っていた。その愛すべき不器用さこそが、紛れもなく「彼」の手によるものであることを証明していた。華美な装飾を排したその佇まいは、相変わらず彼らしい、朴訥とした地味さを湛えている。


「あ……」


 首飾りの中央に、何かを嵌め込むための空洞があることにネリアは気づく。

 彼女は震える手で、大切に持っていた「海の涙」をそこへ添えた。すると、まるでその場所へ還ることを五十年も前から知っていたかのように、宝石は吸い込まれるようにぴったりと収まった。


 完成されたその輝きを見た瞬間、ネリアの瞳から、一つ、二つと、真珠のような大粒の涙が溢れ出した。


 ガレは、あるいは気づいていたのかもしれない。自分と彼女の間に流れる、時間の乖離に。

 月に数度、彼女が会いに来るたび、彼女はまるで「昨日ぶり」であるかのような口ぶりで話していたのだから。

 しかし、もし気づいていたとしても、彼は別れ際にそれを口にすることはなかっただろう。言葉にしてしまえば、この奇跡のような邂逅が、永遠の別れに変貌してしまうかもしれないのだから。


 二人が恋仲であったのかは、誰にもわからない。おそらくは、本人たちでさえも。

 彼らはただ、その入口に立とうとしたまま、時の奔流に流されていった。


「……なんていうかさ」


 カイトは言い淀み、懸命に言葉を探しながら続けた。


「これからも……その、この街に遊びにおいでよ。今度はネリアの友達も一緒にさ。皆で、その……何か作ったりしてさ。そんな風に、過ごしてみないかな」


 その言葉がどれほど彼女の傷を癒すかは、カイトにも分からなかった。ただ、彼女が愛する人と過ごしたこの場所を、悲しみの記憶だけで終わらせたくはなかったのだ。


「うん……ありがとう……。……ごめんね……」


 ネリアは溢れる涙を拭いもせず、カイトに礼を言い、そして彼の向こう側に揺らめく想い人の面影に、心からの謝罪を捧げた。


 もっとも、ガレ本人がこの場にいたとして、彼女に謝罪など求めはしないのだが……。


 ----------


 三人は、月光に濡れる桟橋で向き合う二人を、少し離れた場所から静かに見守っていた。


(生きる時間が違う、か……)


 ジグは、隣に立つアルスとガウルの背中を盗み見るように眺め、不意に胸を衝く感傷に襲われた。いずれ自分も、この逃れられぬことわりの前に立つ日が来るのだろうか。そんな複雑な、割り切れぬ想いが、潮風に乗って彼の心に澱のように溜まっていく。



 それからしばらくの時が流れた。

 この街の港の一角には、いつしか人魚が一人、また一人と、その姿を見せるようになっていた。

 初めのうちこそ、御伽噺の住人の出現に街の人々は肝を潰したが、人魚たちはさして気にする風もなく、思い思いに波打ち際で過ごし、時には人の姿を借りて街の雑踏を散策しては、また気紛れに海へと帰っていった。


 やがて人魚たちの中でも特に人に慣れた者たちは、深い海底の住処を離れ、遠くの離島付近の海中にも居を構えるようになった。

 それは、定期的に陸との繋がりを断絶する激しい潮流から逃れるための、彼らなりの知恵だったのかもしれない。陸と海、その間に横たわる時間の溝を、少しでも埋めようとするかのように。


 人魚たちの傍らには、いつも一人の漁師の青年がいたという。

 彼は人魚たちと親しげに談笑し、時には慣れぬ手つきで細工物に打ち込み、共に大海原へと漕ぎ出した。

 そして人魚たちの群れの中には、ひときわ際立つ美しさを纏った女性が、いつも静かに、楽しそうに佇んでいた。

 その胸元には、月明かりを吸い込んで神秘的に輝く、見事な首飾りが掲げられていたという。


 海は、その深淵に流れる時など知らぬかのように、ただ穏やかな調べを湛え、今日という日を包み込んでいた。

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