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家事で世界を救う!?  作者: 安鼠
第一章 チーム結成編
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気づいても、言わない ー香坂瑠璃ー

 朝の食堂に焼きたてのパンと紅茶の匂いが満ちる時間が、わたくしは一日のうちで一番好きだった。長机に皿を並べ終えて振り返ると寝癖のついた頭をかきながら降りてきた月見様が椅子に座るなり大きなあくびをしたので、わたくしはその隙にそっと後ろへ回って寝癖を一房だけ手早く直しておいた。


「おはようございます月見様、今朝も寝相の悪さと寝起きの悪さは健在でいらっしゃいますのね」


「おはようからその毒舌かよ。せめて挨拶だけは普通にしてくれねえか」


「これがわたくしにとっての普通の挨拶ですわ。それより襟が寝間着のまま裏返っておりますこと、ご自分で気づいていて放置なさっているのか本当に気づいていらっしゃらないのか、どちらでしょうか」


 月見様が慌てて自分の襟元を見下ろして盛大に舌打ちをしながら直すのを見届けてから、わたくしは満足して紅茶を注ぎ足した。こうしてやり込める瞬間のために給仕をしているのだと言われれば正直否定はできない。


 海斗さんが寝ぼけ眼のまま席に着いて、スマホの画面を親指一つで滑らせながら誰に言うでもなく声を上げた。


「なあなあ聞いてくれよ、今年の進級試験、結構な金が動くって噂があってさ。俺っちの情報網じゃまだ全部は割れてねえけど、これは一稼ぎのチャンスかもしれねえぜ」


「ツキ君の進級試験ってウチも受けるやつ? 元手を何倍にできるかなんでしょ、頑張っちゃうよ〜」


 八実さんが両手を挙げて無邪気に喜ぶそばで机に突っ伏していた花咲さんが片目だけ開けてぼそりと零した。


「起こすな、金の話は後で聞く」


 そう言ってまた眠りに落ちる花咲さんに七尾さんが困ったように小さく笑って、皿の端をそっと花咲さんの口元に寄せてやっていた。相変わらず朝から騒がしいことこの上ないけれど、この騒がしさが日常であるということ自体が、わたくしにとってはひどく心地の良い状態だった。


 一時間目の少し前、教室の扉から若月先生が顔を出して、いつもより少しだけ改まった声で告げた。


「みなさん今日は連絡事項が一つ、今年度も進級試験を実施します。詳しい時期はまだお知らせできませんが、各自の得意分野を活かせる内容になるはずですから心づもりだけはしておいてくださいね」


 それだけ言うと若月先生は連絡を終え、出席簿に目を落とした。海斗さんが机の下でそっと拳を握って隣の八実さんと目配せを交わしているのが見えたので、わたくしは紅茶のお代わりを配りながら聞こえよがしに呟いてやった。


「稼ぐことに命を懸けるのは結構ですけれど、稼いだ分だけ食費に還元していただかないと家計簿がいつまでも赤字のままですのよ海斗さん」


「うっ、瑠璃、そこは見逃してくれよ。伝票なんか出されたら、俺っちも今後の小遣いの計算が立たなくなっちまう」


「見逃すも何も、先月の食材の伝票をお見せしましょうか。海斗さんが三日で完食した菓子パンの数だけで、ちょっとした小説が書けそうですけれど」


 教室に笑いが起きて、月見様まで肩を震わせて堪えきれずに噴き出していた。何もかもがいつも通りだった昨日と同じ顔ぶれが昨日と同じ軽口を叩き合い、同じ朝食の匂いの中で一日を始めている、その平穏を退屈だと思いながらも手放したくないと感じている自分に、わたくしは少しだけ驚いていた。


 放課後、片付けを終えた教室で紅茶の道具を片していると、月見様が窓際の席に腰を下ろして、頬杖をつきながら夕焼けを眺めていた。特に用事もなく声をかけるのは、わたくしの流儀ではないはずなのに、なぜかそのときだけは道具箱を片手に持ったまましばらくその横顔を眺めてしまった。夕日に染まった横顔は、いつもの軽薄さが抜け落ちて、少しだけ静かに見えた。


「なんだよ瑠璃、人の顔じろじろ見て」


「別に。あまりに間の抜けたお顔をなさっていたので、少々見入ってしまっただけですわ」


「相変わらず容赦ねえな」


 そう言って笑う月見様の顔は、もういつもの通りの間の抜けたものに戻っていて、わたくしは安心したように、道具箱を抱えて教室を出た。夕焼けはすぐに紫がかった夜の色へと変わり、廊下の窓が一つまた一つと明かりを落としていくのを横目に見ながら、わたくしは寮への道を急いだ。


 異変に気づいたのはその夜の食卓でのことだった。


 月見様が班のために振る舞う夕餉はいつもなら最初の一口で誰かが唸るほどの仕上がりを見せる、出汁の効かせ方一つ火の入れ具合一つを取っても素人の手仕事とは明らかに一線を画す腕前であることを給仕をしながら日々味見する立場のわたくしが誰よりもよく知っていた。だからこそその夜の味噌汁に匙を入れた瞬間、わたくしの舌は小さな違和感を捉えた。


 塩気がほんのわずかに強く、具材を入れる順番もいつもとは一手だけずれている気配があった。大根が少しだけ煮崩れているのは、月見様なら絶対にしない失敗だった。他の誰が食べても気づかないほどの誤差だろうけれど、毎日この人の手仕事を隣で見て味わって給仕をし続けてきたわたくしにだけは、はっきりと分かってしまう。


「月見様、今日の味噌汁、いつもと味付けが違いますこと」


「え、そうか? 普通に作ったつもりだけど」


 月見様は軽く首を傾げただけでそれ以上気にする様子もなく自分の分をあっさり平らげてしまい、他の五人もいつも通りの騒がしさで食事を進めていて味の違いになど誰一人として気づいた顔をしていない。それも当然だった、この班の中で月見様の家事の質を毎日測っているのはわたくしだけなのだから。


 畳んだばかりの洗濯物を確認していたときにも同じような小さな綻びを見つけた。いつもなら袖の折り目一つ皺の伸ばし方一つに至るまで完璧に仕上げてくる月見様の仕事が、その日に限ってほんの少しだけ雑だった。折り目の角度がわずかに揃っておらず段取りもどこか一手ずれていて、気のせいだと思うことができないほどはっきりしていた。給仕を仕事にしているわたくしの目はその程度の誤差を見逃してはくれない性分だった。


 わたくしはそれを口にせず、指摘したところで月見様はきっと「そうか?」と軽く流して終わりにするだろうし、それ以上を問い詰める根拠をわたくしはまだ何一つ持っていない。ただ胸の奥の一番冷静な部分だけが静かにその小さな綻びの数を数え始めていた。


 給仕という仕事は突き詰めれば相手の呼吸を読む仕事だと、わたくしは教わってきた。相手の手元の乱れは相手の心の乱れをそのまま映す鏡のようなものだと恩師は常々語っていた。だとすれば、この数日で積み重なっている綻びは月見様の内側で何かが少しずつ静かにずれ始めていることの表れなのだろう。鏡は映すだけで、決して覗き込んではならないものだとも、恩師は教えてくれた。


 三日ほど経った夕食後、食堂はいつもの通りの弛緩した空気に包まれていた。海斗さんは自室から持ち出したノート型の端末を膝に乗せてスマホと交互に画面を睨み八実さんは肩に乗せたハト三郎の羽繕いをしながら鼻歌を歌い七尾さんは隅の椅子で膝に医学書を広げたまま俯いていて花咲さんはソファに寝転んだまま既に寝息を立てている、それぞれがそれぞれの日常に没頭している時間だった。


 わたくしは空になった湯呑みを盆に集めながら部屋の端にいる月見様のそばを通りかかり、そのとき月見様の懐でスマホが短く震えたのが分かった。月見様は画面に一瞬だけ視線を落とすと表情をほとんど動かさないまま指先だけで通話ボタンの横のスライドを操作して着信を切り、それから画面をシャツの内ポケットへ滑り込ませるようにして誰の目にも触れないところへ隠してしまった。


 ほんの一秒にも満たない動作で、給仕を生業にする者でなければまず気づかない程度の速さと自然さだったと言っていい。海斗さんは端末の画面から目を離さなかったし八実さんはハト三郎に夢中で七尾さんは医学書のページをめくることに集中していて花咲さんに至っては眠っている、この部屋にいる六人のうち月見様の懐から誰かの気配が消えたことに気づいたのはわたくしただ一人だった。


 誰なのかというのは分からず表示された名前も着信の音色もわたくしの位置からは何一つ見えなかったが、分かるのは月見様が誰かからの連絡を意図的に、そして手慣れた様子で切り捨てたという、その一点だけだった。


「何か、ご用件でも?」


 わたくしがさりげなく尋ねると、月見様は一瞬だけ目を見開いてからいつもの軽さで肩をすくめてみせた。


「いや、間違い電話。最近、多くてさ」


 その言い方に、わたくしはそれ以上踏み込まなかった。ただ盆の上の湯呑みを片付けながら、胸の奥の同じ場所にもう一つ小さな綻びを数え加えておいた。


 思い返せば、この数日で似たようなことが何度もあった。夕食の支度中に懐が震え月見様が手を止めて画面を確認してからすぐに切る、その繰り返しがいつの間にか日常の一部に紛れ込んでいて、誰も気に留めていない。海斗さんの情報網ならワンコールの相手が誰かなど造作もなく調べられるだろうに、月見様はその話題を一度も海斗さんたちに振ろうとしなかった。それはつまり、月見様自身がこの件を誰にも知られたくないと望んでいるということに他ならない。給仕として一番大切な心得は主の望まないことを余計な親切心で暴かないことだと、わたくしは教わってきた。だから今夜も、わたくしは何も見なかったふりを続けることにした。


 翌日の夕刻、わたくしは月見様と連れ立って、寮から少し離れた商店まで買い出しに出かけていた。調味料の在庫が心許なくなっていることに気づいたのはわたくしで、両手が塞がるほどの荷物になるからと、月見様が自分から荷物持ちを買って出た形だった。


 商店では、月見様が味噌の銘柄一つにまで注文をつけて店主とちょっとした問答を繰り広げていた。「うちの班のためにも、妥協はしたくねえんだよ」と胸を張る様子は、いつも通りの家事の腕に誇りを持つこの人らしい姿だった。会計を済ませて外へ出ると日はもうすっかり傾いていて、寮までの道のりを二人で並んで歩き始めた。


 寮と校舎を繋ぐ並木道は、この時間になると学生の姿もまばらになり、街灯の淡い光と木々の影とが交互に落ちる静かな一本道になる。両手に提げた紙袋の重さを軽口の種にしながら並んで歩いていたそのとき、隣を歩く月見様の足が、唐突に止まった。


「月見様?」


 声をかけても、返事がない。振り返ると、月見様は前方の一点を見据えたまま、まるで全身の関節が固まってしまったかのように、立ち尽くしていた。怯えて後退るのでも、目を逸らすのでもない、ただその場に釘付けにされたような硬直だった。呼吸の音すら聞こえないほどで、いつもは軽口の絶えないこの人が、これほどまでに音を失う瞬間を、わたくしは知らなかった。


 ――ただ一度を除いては。


 わたくしの脳裏に、あの時の感触が蘇る。ドバイの熱風の中、後ろから月見様の腕を抱き止めたときの、あの張り詰めた筋肉の硬さ。あの気配と、今、目の前で凍りついている月見様の背中から漂ってくる気配とが、あまりにもよく似ていた。理由は分からないまま、ただ身体だけが先に思い出していた。


 月見様の視線を辿った先、並木の途切れる暗がりに、人影が一つ立っていた。街灯の光がぎりぎり届かない場所を選んだかのように木の陰へ半歩だけ身を引いていて輪郭しかはっきりしないが、それでも肩から二の腕にかけての盛り上がるような厚みと、地肌に沿って細かく編み込まれた茶色い髪の質感だけは、闇の中でも見て取れた。ただ立っているだけなのに只者ではない気配だけは、離れた場所からでも伝わってきて、あたりの空気まで急に重たくなったように感じられた。


 誰なのかはわたくしには分からなかったが、名乗る様子も近づいてくる気配もなく、ただそこに立ってこちらを、正確には月見様一人だけを見ているようだった。街灯の届かない木陰にわざわざ身を置いているところからして見られることを望んでいないのか、それとも見られていることそのものを月見様にだけ伝えたいのか、わたくしには判じようがなかったけれど、少なくとも通りすがりの誰かがたまたま足を止めているだけには見えなかった。


「月見様、あの方は……」


 問いかけようとした声を、月見様の手が遮った。振り返った月見様の顔は、いつもの軽薄な笑みを保とうと必死に取り繕っていたけれど、目の奥だけが、わたくしの見たことのない色をしていた。恐怖とも警戒とも違う、もっと古い場所から引きずり出されたような、重たい色だった。


「……行くぞ瑠璃、日が暮れる前に帰らないと、飯の支度が間に合わねえ」


 そう言って、月見様は何事もなかったかのように歩き出した。その足取りは、いつもより少しだけ速く、そしてわずかに硬かった。わたくしは、暗がりの人影がいつの間にか消えていることに気づきながら、黙って月見様の後を追った。


 寮へ帰り着くまでの道のりで、わたくしはもう一度だけ「月見様、先ほどの方は月見様のお知り合いでいらっしゃいますの」と声をかけてみることにしたが、返ってきた答えは拍子抜けするほど軽かった。


「いや、知らねえ人。散歩してるだけの近所の人じゃねえの。それより瑠璃、今夜の飯なんだけど久々に鍋にしようと思ってるんだ、海斗の奴、この前から鍋鍋うるさくてよ」


 月見様はそう言ってさっさと話題を切り替えると、袋の中身から白菜を取り出して真剣な顔で品定めを始めた。あの並木道で凍りついていた背中と、今、目の前で鍋の具材を吟味している軽やかな背中とが同じ人間のものだとは思えないほど見事に切り替わっていて、こういう風にごまかす時の顔を、わたくしはドバイのあの砂漠の夜にも見たことがあった。


 本当のことを話す気は欠片もないのだろう、あれば、こんなに滑らかに話を逸らせるはずがない。だからといってわたくしがそれを暴いて何になるというのだろうかと考えれば、訊けば月見様はきっと困った顔で笑ってそれでも答えないに決まっていて、それなら訊くだけ無駄というものだった。


「あら、そうですの。それでは白菜の切り方はわたくしにお任せいただけますかしら、月見様の切り方はたまに厚みが不揃いで鍋の中で煮え方に差が出ますもの」


「うっ、そこは黙っといてくれよ……相変わらず容赦ねえな、お前」


 軽口の応酬に戻った空気の中で、わたくしは月見様の横顔をそっと盗み見た、もういつもの調子に戻っているけれど、その裏に何を隠しているのかを、わたくしはもう追及しないと、この時点で心に決めていた。


 その夜、消灯前の見回りを終えて自室に戻る途中、わたくしは食堂の入り口で足を止め、しばらくの間、扉越しの騒がしさに耳を澄ませていた。海斗さんたちの部屋からは進級試験の元手をどう増やすかをめぐる賑やかな相談の声が漏れ聞こえてきて、誰も彼も今日という日をただの平和な一日として終えようとしている、その響きを聞きながら誰にも打ち明けるつもりはないと、わたくしはさほど時間をかけずに心を決めていた。


 仮に並木道の人影のことを海斗さんに話せば、あの情報網が今夜のうちにでも相手の素性を洗い出すだろうし、八実さんに話せば動物部隊を使って後を追わせることもできるだろうし、七尾さんや花咲さんの耳に入れば、それぞれのやり方で身構えることになるはずだった。けれど、そのどれもが月見様の望むこととは、わたくしにはとても思えなかった。あの人が誰にも知られたくないと願って隠しているものを、給仕であるわたくしが勝手に暴いて班のみなに配って回るような真似は、あってはならないことだと分かっていたし、何より、それをすれば月見様がわたくしに見せている隙を自ら踏みにじることになる気がした。


 だからといって何もしないつもりは、わたくしにもなかった。訊かない、言わない、そのうえで、これまでよりも一段深く月見様の一挙一動に目を配ること。味の変化、段取りの乱れ、懐で震える呼び出し、そういった小さな綻びの一つひとつを、これからも黙って数え続けること。それが誰にも頼まれてはいないけれど、給仕としてのわたくしが自分に課すべき唯一の仕事のように思えた。


 誰にも命じられたわけではなく、ただそれを自分の職務の範囲だと、わたくしが勝手に広げただけのことだ。翌朝の食堂で、わたくしはいつも通りに皿を並べ、いつも通りに月見様の寝癖を直し、いつも通りの毒舌を浴びせるだろう。傍から見れば、何一つ変わらない朝が続くはずだった。海斗さんは今日も金の話に夢中で八実さんはハト三郎を肩に乗せて騒ぎ、花咲さんは皿の端に眠り七尾さんは隅で薬品の分量を数えている、そんな見慣れた光景の中でわたくしだけが一人ほんのわずかに違う速度で日々を数え始めるだけのことだった。


 ただ紅茶を注ぐ手の中で、わたくしはこれまでよりも少しだけ長く、月見様の顔色を見るようになるだろう。それだけの違いであり、誰にも気づかれない、わたくし一人だけの変化だった。

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