理事長、参観に来たる
参観日、当日。
朝から、俺の胃は鉛でも飲んだみたいに重かった。
参観に来るのは、月見学園中等部の理事長――菊原香苗。俺の腐れ縁の同居人にして、なんというか、その、色々と面倒くさい関係の相手だ。そいつが、わざわざこの山奥まで俺の学校生活を覗きに来る。それだけでも胃が痛いのに、問題は、この学校にあの二人がいるってことだった。
草凪葵と、陽本夏奈。俺の幼馴染にして、香苗とは犬猿の仲の二大トラブルメーカー。
科もクラスも寮も違うから、入学以来、キャンパスで顔を合わせる機会なんて数えるほどしかなかった。だが、理事長が参観に来ると知って、あいつらが黙っているわけがない。……嵐の前の静けさ。俺は、そう覚悟していた。
ちなみに、D班の連中には、あらかじめきつく釘を刺しておいた。「今日は大事な客が来る。頼むから、大人しくしててくれ」と。……だが、あいつらが俺の言うことを素直に聞くようなタマなら、そもそもD班になんて放り込まれちゃいない。虚しい願いだってことは、他ならぬ俺自身が一番よく分かっていた。
◇
一時間目が始まる少し前。
1-Dの、あの動物園みたいな教室の扉が、コンコンと上品にノックされた。……ノック? うちのクラスに、ノックなんて上等な文化があったか?
扉が開いて、入ってきたのは――ぴしっとしたレディーススーツに身を包んだ美人だった。普段の、俺の飯を食って寝落ちする子供みたいな姿とは大違いだ。
「おはようございます。本日、こちらのクラスを参観させていただきます、月見学園中等部理事長の、菊原香苗と申します。皆さん、どうぞよろしくお願いしますね」
……香苗。マジで来やがった。しかも、猫を三十匹くらい被った、完璧な"デキる大人の女"モードで。
1-Dの連中が、一斉にざわついた。
「おい、誰だよあの美人」「理事長っつったか? 若ぇーな」「つうか、ツッキーの方見てなかったか、今」
好奇の視線が、香苗と俺の間を行ったり来たりする。……勘弁してくれ。ただでさえ目立ちたくないってのに。この学校に来てから、俺、地味に暮らすって目標を一度も達成できてねえな。
「あら、香苗じゃない。久しぶり!」
教壇の若月先生が破顔した。そういや、こいつら同級生だったな。
「美恵。今日は、無理を言ってごめんなさいね。……で、あの子は?」
香苗の視線が、教室をすうっと滑って、一番後ろの席の俺でぴたりと止まった。にっこりと、外面用の笑みが、ほんの少しだけ素の笑みに崩れる。
「よう、香苗。わざわざこんな山奥まで、ご苦労なこった」
「……香苗じゃなくて、菊原理事長、でしょう。まったく、あなたは、公の場でもその態度」
「へいへい、菊原理事長さま。それで満足か?」
「開き直らないの!」
あーあ、素が出た。生徒の前だってのに、いつもの夫婦漫才が始まっちまった。周りの視線が生温かい。
「あの、菊原理事長? お二人は……その、どういうご関係で?」
おずおずと、若月先生が尋ねる。すると香苗は、はっと我に返って、みるみるうちに顔を赤くした。
「ちっ、違うのよ、美恵! これは、その、昔からの腐れ縁というか……!」
「腐れ縁は、余計だろ」
「あなたは、黙ってなさい!」
……はい。すみません。
◇
問題は、ここからだった。
うちのクラスの問題児どもが、この珍しい来客を放っておくわけがなかったのだ。
「あらあら。あの方が、月見様の、例の"理事長様"ですか。……ふぅん」
メイド服の瑠璃が、紅茶のカップ片手に、香苗を上から下までじろじろと値踏みし始めた。おい、やめろ。その品定めするような目は。
「なるほど。お顔立ちは整っていらっしゃいますが、少々子供っぽくていらっしゃる。月見様は、もっとこう、しっかりした年上がお好みかと思っておりましたが」
「聞こえてるからな瑠璃!」
「ツッキーの理事長さん、二十歳で、十八になる前に大学出た才女なんだって。おまけに、前理事長の孫。……うわ、家柄もスペックもえげつな。ツッキー、隅に置けねえなあ」
いつの間にか、海斗がスマホ片手に、香苗の個人情報をすらすら読み上げてる。お前、どっからそんな情報……いや、聞くだけ野暮か。
「はーい! 理事長さん、はじめまして! ウチ、八実アイラ! あ、それ、落としましたよ?」
「あら、ご丁寧に……って、これ、私のお財布!? あなた、いつの間に!」
「えへへ、マジックでーす!」
「マジックじゃなくてスリだろ! 八実、返してこい!」
「ふふ。元気なクラスねえ」
財布を八実から返してもらった香苗は、怒るどころか心底楽しそうに笑っていた。こいつ、肝が据わってるというか……まあ、日頃から俺の無茶に付き合ってりゃ、この程度のカオス、可愛いもんに見えるのかもな。
「ねえ、あなたたち。有君って、教室ではどんな感じなの?」
「「「厄介事製造機」」」
「あら、気が合うわね。私も、そう思ってるの」
「おい、そこで意気投合すんな!」
そのやり取りを聞いて、机で寝ていたはずの花咲が、薄目を開けてぼそりと呟いた。
「……あの人、いい目をしてる。月見の、味方だ」
そう言って、また寝た。……お前、寝てんのか起きてんのか、はっきりしろ。でも、まあ。人を見る目だけは確かなこいつが認めるってのは、ちょっと悪くない気分だな。
カオスだ。完全にカオスだ。参観に来た理事長が、開始五分で生徒に財布をスられ、あっという間にクラスに馴染んでる。若月先生は頭を抱えてる。……ちなみに、七尾は教室の隅で、物陰からこっそり香苗を観察していた。人見知りのこいつにしちゃ、興味を持ってる方だ。うちのクラスの通常運転が、今日ばかりは、恨めしいような、ちょっとだけ誇らしいような。
◇
そして、嵐はやってきた。
バンッと、教室の扉が勢いよく開け放たれた。
「有! 参観って聞いて、案内役を買って出たわよ! ……って、あんた、なんでこんな可愛い子たちに囲まれてんのよ!」
真っ先に飛び込んできたのは、専門科の制服を着た幼馴染の悪魔――草凪葵。その後ろから。
「有君。参観のことなら、私が案内します。……あら。菊原理事長も、いらしてたんですね。ごきげんよう」
普通科の制服の陽本夏奈が、にっこりと、けれど目だけは笑わずに続いて入ってきた。手には、なぜか竹刀袋。おい、参観日になんでそんなもん持ってきてんだよ。
――そして、揃った。
月見学園から来た理事長の香苗。同じ先研校の幼馴染、葵と夏奈。そして1-Dの問題児ども。俺を挟んで火花を散らす面々が、よりによってこの狭い教室に勢揃いしちまった。
「あら、葵さんに夏奈さん。相変わらず、仲がよろしいこと」
「香苗さんこそ。理事長のお仕事は、いいんですか? わざわざ、有の様子を見に来るなんて。……随分と、お暇なんですね」
「夏奈。喧嘩を売るなら、買うわよ?」
「あら、怖い。剣道でお相手しましょうか?」
バチバチバチと、三人の間に見えない稲妻が走る。……なあ、俺、思うんだけど。この学校で一番危険なのって、実習でも事件でもなくて、この光景なんじゃねえかな。ドバイのマフィアの方が、まだ話が通じた気がするぞ。
「ちょっと有! あんた、この理事長と一つ屋根の下で暮らしてるってホント!?」
「うぐっ。……お、おう。まあ、爺さんの家に居候させてもらってるだけで」
「一つ屋根の下ぁ!?」
夏奈の手の中で、竹刀袋がみしりと嫌な音を立てた。おい、葵! なんで今それをバラすんだよ!
言っておくが、やましいことなんて、何もない。あの家には爺さんもいるし、俺と香苗は、ただの居候と大家みたいな関係だ。……たぶん。いや、そのはずだ。なのに、どうして俺が、こんなに冷や汗をかかなきゃならないんだか。
「あら。事実だもの。ねえ、香苗さん?」
「え、ええ。まあ、そうだけど……って、葵さん! あなた、絶対わざと言ってるでしょう!」
「うふふ。だって、面白いんだもん。有が、こんなに困る顔、なかなか見られないしね」
葵が、いたずらっ子みたいな悪魔の笑みを浮かべる。こいつ、香苗と夏奈をわざとぶつけて、高みの見物を決め込みやがった。俺を、燃料にするな!
「有君。……その話、あとでじっくり聞かせてもらいますね。そうですね……道場で、竹刀を交えながら、ゆっくりと」
「なんで稽古前提なんだよ! 尋問と拷問を足して二で割るな!」
「……月見様。随分と、罪作りな殿方でいらっしゃること」
「瑠璃まで参戦すんな! つうか、俺は何もしてねえだろ!」
「何もしていないのに、これだけの女性を侍らせているのだとしたら、それはそれで、末恐ろしい才能ですわね」
もう、やだ。この教室から逃げ出したい。……いや、逃げたら逃げたで、後が怖いんだよな。経験上。
「いやー、ツッキーも隅に置けねえなあ。理事長に、幼馴染が二人に、うちのメイドまで。……これが噂のハーレムってやつ? 羨ましいねえ」
「海斗、お前も後で屋上な。……つうか、羨ましい要素、一個もねえからな。俺にとっちゃ、全部、命の危険なんだよ!」
◇
「では、せっかくですので。専門科・1-Dの授業を、参観していただきましょうか」
カオスを、若月先生が無理やり軌道に戻した。今日の授業は、専科の実技――「各自の才能を活かした課題解決の実演」だそうだ。要は、自分の得意分野でお題をこなす、それを見てもらう、と。
これが、なかなかの見物だった。
まず、海斗が、お題として渡された「暗号化されたダミーの機密ファイル」を、鼻歌交じりに三分で解読してみせた。見学の先生方が青ざめてる。おい海斗、それ、本気でやると洒落にならんやつだぞ。手加減しろ手加減。
瑠璃は、来賓用のお茶出しを非の打ち所のない所作でこなして、校長を「これは……どこの一流ホテルのメイドさんかね」と本気で唸らせた。
八実の奇術ショーは、大受け。……ただし、放たれたハトが一羽、校長の頭のてっぺんに着地して、ちょっとした騒ぎになったが。
花咲は、お題の的当てを、寝転がったまま片手で危なげなく百発百中。「……起こすな」とだけ言って、また寝た。相変わらず、器用な奴だ。
そして、七尾は。お題の「急病人への応急処置」を前に、最初は大勢の視線にちょっとだけ竦んでいた。だが、俺が「大丈夫だ。お前ならできる」と一声かけると、すうと息を整えて、てきぱきと処置をこなしてみせた。……成長したな、こいつも。物陰から出て、人前で堂々と。
で、大トリが、俺のお題ってわけだ。
「月見君は……そうね。この、備品倉庫の、長年放置された惨状を、一時間でなんとかしてください」
若月先生が扉を開けた先には、埃と、壊れた備品と、期限切れの薬品と、正体不明のガラクタが堆く積み上がった、地獄みたいな倉庫があった。……なるほど。家事の才能で、これをどうにかしろと。
「……上等だ。見てろよ」
俺は、頭に手拭いを巻いて腕まくりをした。こういうのは、得意分野だ。
そこから先は、我ながら無心だった。ガラクタを、使える物と使えない物に一瞬で仕分ける。壊れた備品は、その場で分解して原因を突き止め、修理する。積もった埃を払い、傾いた棚を組み直し、床を磨き上げる。
途中、期限切れの薬品の山の中に、混ざると有毒ガスを出す危険な組み合わせを見つけて、一瞬ヒヤッとしたが、そこは化学の心得だ。安全に中和して無害化する。錆びついて動かなくなってた古い掃除機を分解して直し、切れかけの蛍光灯を交換し、歪んだスチール棚の脚を金槌で叩いて水平に戻す。ついでに、余った木材で、造り付けの収納棚まで一つこしらえてやった。
……こういう作業をしてると、なんか落ち着くんだよな。余計なことを考えずに済む。ただ手を動かして、散らかったものをあるべき場所に戻していく。それだけで、世界が少しだけまともになった気がする。
「よし。こんなもんだろ」
一時間後。地獄みたいだった倉庫は、モデルルームみたいにぴかぴかに片付いていた。……振り返ると。
参観に来ていた他クラスの生徒も、見学の先生方も、いつの間にか集まっていた校長までもが、ぽかんと口を開けて固まっていた。
「な、なんだ、あの手際は……」「あれが、家事の才能……?」「もはや、職人の域だぞ……」
校長なんて、白目を剥きかけて、「あ、あの生徒は……本当に、家事の才能でうちに入学したのかね……?」と、隣の若月先生に真顔で確認していた。先生、その反応、地味に失礼だと思いますよ。
ざわ、とどよめきが広がる。……あー、またやっちまった。目立たないように、地味にやろうと思ったのに。人が集まると、つい余計なことまでやっちまう。俺の悪い癖だ。
だが。
その、ざわめきの中で、一人だけ。
香苗が、腕を組んで、うんうんと誇らしげに何度も頷いていた。まるで自分のことみたいに。……葵と夏奈も、口では「相変わらず規格外ね」なんて呆れながら、その目は、少しだけ自慢げだった。
……なんだよ、それ。調子が狂うだろ。
◇
参観が終わって、香苗が帰る頃には、もう夕方になっていた。
葵と夏奈は、最後まで香苗とバチバチやり合いながらも、「有、また来るからね!」「有君、くれぐれも無理はしないでくださいね」と、名残惜しそうにそれぞれの寮へ帰っていった。……なんだかんだで、あいつらも俺のことを心配してくれてる。ありがたい話だ。口が裂けても、本人たちには言わねえけどな。1-Dの連中も、それぞれの日常に戻っていく。ようやく静かになった。
俺は、校門まで香苗を送っていった。二人きりになるのは、久しぶりだった。
「……いいクラスじゃない」
ぽつりと、香苗が言った。もう、外面用の笑みも、夫婦漫才の減らず口もない。ただ、素の声だった。
「みんな、変わってて、うるさくて……でも、あなたの周りにいる子たちは、みんな、あなたのことを信頼してた。いい居場所を、見つけたのね」
「……まあな。変な奴らばっかだけど。悪くない」
俺がそう言うと、香苗は少しだけ黙った。それから、意を決したように俺の顔を見上げた。
「ねえ、有。……ドバイのこと、美恵から少しだけ聞いたわ」
どきり、とした。
「あなたが、その……危ない橋を渡ってること。本当は、もっと色々あるんでしょう。私に言えないようなことも」
俺は、とっさに言葉に詰まった。図星だったからだ。ドバイで、あの砂漠で、俺がどんな顔をしていたか。封印したはずの、"解体屋"の顔。あんなもの、この人にだけは、死んでも見せたくない。
「……香苗」
「聞かないわ。無理には聞かない。あなたが話したくなるまで、待つ。……でも、これだけは」
香苗は、俺の袖をきゅっと握った。子供みたいに。
「無理はしないで。あなたが、いなくなったら……私、困るんだから」
その声が、少しだけ震えていた。……ああ、くそ。こういうところだよ。この人の、こういう不意打ちが、俺は昔から苦手なんだ。
守れなかった過去も、封印した記憶も、この人の前だと、なんだか全部、ちっぽけに思えてくる。……いや、違うか。ちっぽけなんじゃない。この人がでかいんだ。俺なんかの厄介事を丸ごと呑み込んで、それでも隣にいようとする、その器が。
「……わかったよ。善処する」
「善処、じゃなくて。約束」
「……はいはい。約束します、菊原理事長さま」
「もう。……最後まで、その調子なんだから」
香苗は、呆れたように笑って、それから手を振って、迎えの車に乗り込んでいった。テールランプが、山道の向こうに消えていく。
俺は、それを見えなくなるまで見送った。
……守りたいもの、か。
いつの間にか、俺には、そういうものが増えていた。D班の問題児ども。幼馴染の、あいつら。そして、香苗。守りたいものが増えるってのは、たぶん、幸せなことだ。
昔の俺なら、こんな風には思わなかった。他人なんて、どうでもいい。誰にも期待しない。そうやって、心にぶ厚い鎧を着込んで生きてきた。……でも、いつの間にか、その鎧の内側に、守りたい奴らを、たくさん抱え込んじまってた。
でも、同時に、それは。
――失うのが、怖いものが増えるってことでも、あるんだよな。
その予感が、そう遠くない未来に最悪の形で的中することを――この時の俺は、まだ知らずにいた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
掛け合いが少し微妙かも…




