臆病な医師 ~診えない傷~
――医師――
人の命を、その手で救う者。病の影を見抜く観察眼。どんな修羅場でも乱れない、静かな判断力。そして――生きた人間の身体に、ためらいなく刃を入れることのできる、鋼の胆力。彼らは、死の淵に立つ者へ最後に手を伸ばす、命の砦である。―――これは、医師国家試験に八年連続で落ち続けている、万年医大受験生の言葉である。
だからこそ、七尾姫那は【D】クラスの一員である。
花咲との一件から、数日。
俺の日常は、相変わらずDクラスという名の動物園の中で、今日も平常運転で回っていた。窓際では瑠璃が紅茶を淹れ、海斗が誰かの秘密を覗き、八実が鳩を飛ばし、花咲が寝ている。……まぁ、花咲が時々、ちゃんと起きて飯を食うようになったのは、この間の変化と言えば変化か。
「はーい、今日は月見君と、七尾さんのペアにお願いしたい依頼が来てまーす」
若月先生がそう言った瞬間、俺は反射的に、体をわずかに斜めに構えた。
七尾姫那。俺と同じ班の、茶髪でおさげの、小柄な女子。「医師」の才能を持つ、うちの班の女医だ。……そして、俺が唯一、まともに顔を合わせられない相手でもある。
「あ、あの……月見、くん。よ、よろしく、お願いします……」
教室の隅から、蚊の鳴くような声が聞こえてきた。声のした方に、茶色いおさげがちらりと見える。とたんに、俺の背筋がぞわりと粟立った。ダメだ。こいつの茶髪を正面から見ると、どうしても、あの記憶が疼く。
だから俺は、いつも通り、顔を逸らしたまま答える。
「おう、よろしくな、七尾」
俺たちは、背中合わせのまま、ぺこりと頭を下げ合った。傍から見たら、絶対に変な光景だろう。同じ班のはずなのに、面と向かって話したことが、一度もないペア。
理由は、単純だ。俺は、茶髪が怖い。トラウマってやつだ。そして七尾は、人に見られるのが怖い。極度の人見知り――いや、あれはもう、対人恐怖症って言った方が近い。
「なんで、俺と七尾なんですか?」
俺が尋ねると、若月先生は少し困ったように笑った。
「今回の実習先、山奥の診療所なんだけどね。お医者さんが一人しかいなくて、猫の手も借りたいくらい忙しいんだって。それで、医療の才能がある七尾さんと、その……何でもできる月見君に、白羽の矢が立ったのよ」
「何でもできる、で片付けないでくださいよ」
まぁ、掃除も飯も雑用も、確かに全部やるけどさ。俺は家事の才能で入学したはずなのに、いつの間にか「便利屋」枠が定着してる気がする。
「あら、月見様。七尾さんと二人きりで、山奥の診療所。……もしかして、背中合わせのまま一週間過ごすおつもり? 器用なんだか、不器用なんだか」
瑠璃が、紅茶のカップ片手に、いつもの毒を吐いてくる。うるせぇ。分かってんだよ、そんなことは。
と、斜め前の席で寝ていたはずの花咲が、薄目を開けて、ぼそりと言った。
「……月見。七尾を、頼む」
「あ?」
「あいつも……おれと、同じだ。力があるのに、出せない。……お前なら、分かるだろ」
そう言い残して、花咲はまた寝た。……あの野郎、寝てるふりして、ちゃんと班の連中のこと見てやがるな。この間まで、世界から目を逸らして眠り続けてたやつとは思えねぇー。
まったく。俺も俺で、面倒な連中の面倒を見る星の下に生まれたらしい。まぁ、乗りかかった船だ。やれるだけ、やってみるか。
◇
山奥の診療所は、想像していた通り、古びた木造の建物だった。
俺と七尾を出迎えてくれたのは、白髪頭の、人の好さそうな老医師だった。話を聞くと、この辺りは高齢者ばかりの過疎の村で、医者はこの爺さん一人きり。往診に、外来に、休む間もないらしい。
「いやあ、若い子が手伝いに来てくれるとは、ありがたいねえ。……おや、お嬢ちゃん、顔色が悪いが、大丈夫かい?」
「っ……!」
老医師が七尾の顔を覗き込んだ瞬間、七尾はびくりと肩を跳ねさせて、俺の背中にさっと隠れた。俺のツナギの裾を、ぎゅっと握っている。……こいつ、初対面の相手だと、これだ。
「すみません、こいつ人見知りが激しくて。悪気はないんです」
「はは、そうかいそうかい。ゆっくりでいいからね」
優しい爺さんで、助かった。俺は、七尾を背中に庇ったまま、診療所の中を見回した。掃除の行き届いていない待合室、山積みのカルテ、洗いきれていない器具。……なるほど、これは猫の手も借りたくなるわけだ。
「よし。七尾、まずは俺が掃除と片付けやるから、お前は器具の消毒と、薬の在庫の確認頼めるか?」
「……う、うん。それなら、姫那、できる」
背中越しに、少しだけ、しっかりした声が返ってきた。
不思議なもんで、こいつは「医療」のことになると、途端に別人になる。人と目を合わせるのも苦手なくせに、薬の名前も、症状も、処置の手順も、すらすら口をつく。診療所の薬棚を前にした七尾は、迷いのない手つきで在庫を仕分けていった。
「これは期限切れ……こっちは、量が足りてない。あと、この解毒剤は、湿気で駄目になってる。……先生、発注、しておいた方がいい、です」
「おおう、よく気がつくねえ。大したもんだ」
褒められて、七尾は、俺の背中の陰で、ほんの少しだけ、嬉しそうにした。
……こいつ、本当は、すごい奴なんだよな。ただ、その力を、人前で出せないってだけで。「才能を台無しにする何かがある」――Dクラスってのは、そういう連中の集まりだ。花咲がそうだったように、七尾にも、そういう「何か」があるんだろう。
その日の午後は、穏やかに過ぎた。
俺が診療所を隅々まで磨き上げ、七尾が黙々と器具を整える。外来のお年寄りが来れば、七尾は俺の背中に隠れながらも、小声で的確な診立てを老医師に伝えた。
「あの、おばあちゃんの……膝の腫れ、ただの水じゃない、かも。触診の、感触が……。念のため、来週、レントゲン……」
「ほう、そこまで見抜くかい。いやはや、わしより目が利くわい」
爺さんが、その診立てに何度も感心していた。俺は、その様子を、掃除の手を止めて眺めていた。人と目も合わせられない、あんな引っ込み思案なやつが、こと医療のことになると、水を得た魚みたいになる。声も、少しだけ、大きくなる。……たぶん、こいつは、本当は誰かの役に立ちたくて、しょうがないんだ。ただ、その気持ちと、人前で竦む体が、ちぐはぐなだけで。
いい感じじゃねぇーか。このまま平和に一週間過ごせりゃ、俺の実習も、たまには平穏に終わるってもんだ。
――なんて、思った時点で、フラグだったんだよな。いつものことだけど。
◇
それは、夕方のことだった。
診療所の戸が、乱暴に叩き開けられた。
「先生! 先生っ! 助けてくれ、息子が……!」
村の男が、ぐったりした若者を背負って、転がり込んできた。若者は、脂汗を浮かべ、唇が紫色に変色し、呼吸が浅い。一目で、ただ事じゃないと分かった。
「これは……!」
老医師が駆け寄り、若者を診察台に乗せる。だが、その顔が、みるみる青ざめていく。
「いかん……わしの手には負えん。これは、普通の食あたりや発作じゃない。何かの……中毒だ。しかし、原因が分からんことには、下手に手が出せん……!」
症状は刻一刻と悪化していく。若者の意識は、もう朦朧としている。時間がない。原因不明の中毒。この山奥に、専門医はいない。救急車を呼んでも、街の病院まで一時間以上かかる。それじゃ、間に合わない。
若者の呼吸が、ひゅう、ひゅう、と笛みたいな音を立て始めた。顔色は、もう土気色だ。父親は半狂乱で「先生! 先生っ!」と繰り返すばかりで、老医師は、震える手でカルテをめくりながら、脂汗を流している。誰も、動けない。この診療所にいる誰一人として、消えかけたこの命を、繋ぎ止められない。
――いや。一人だけ、いる。
――間に合わせられるとしたら、一人だけだ。
俺は、背後を振り返った。そこには、蒼白な顔で、若者を見つめる七尾がいた。
「七尾」
「っ……」
「お前、分かるか。あの症状の、原因」
七尾の唇が、震えながら動いた。
「……有機、リン系の……農薬中毒。瞳孔と、汗と、呼吸……間違い、ない。……解毒剤を打って、すぐに処置すれば……助かる。姫那、なら……」
できる。七尾は、そう言いかけて――止まった。
診療所の中には、患者の父親、駆けつけた村人が数人、そして老医師。全員の視線が、若者に、そして声を上げた七尾に、一斉に集まっている。
その瞬間、七尾の体が、石みたいに固まった。
「あ……あ……」
さっきまで的確に症状を言い当てていた口が、まともに動かなくなる。差し出そうとした手が、みっともないくらい、がたがたと震えている。大勢に見られている。その恐怖が、こいつの体を、内側から縛り上げていく。
「お、お嬢ちゃん、頼む、息子を……!」
父親が、藁にもすがる思いで七尾に詰め寄る。だが、それが逆効果だった。向けられた必死の視線に、七尾は完全に竦み上がり、後ずさって――俺の背中に、隠れた。
「む、無理……姫那、みんなに見られてたら……手が、動かない……ごめんなさい、ごめんなさい……」
消え入るような声で、七尾が繰り返す。震える背中。俺のツナギを握る手が、氷みたいに冷たい。
……ああ、そうか。これが、こいつの「台無しにする何か」か。
命を救える知識と腕を持ちながら、人に見られると、その全部が動かなくなる。せっかくの才能が、恐怖に、殺されちまう。
俺は、しゃがみ込んで、七尾と同じ目線になった。
そして――逃げ続けていた、茶色いおさげを、真正面から、見た。
ぞわりと、背筋が粟立つ。俺の頭の奥で、忌々しい記憶が一斉に首をもたげる。ニコニコ笑いながら、絶対に勝てないはずの師匠を素手でぶちのめしていく、あの茶髪の奥さん。俺を政敵のところへ連れて行くたび、問答無用でスタンガンを押し当ててきた、あの茶髪の御曹司。茶髪が視界に入るたび、俺は気絶させられるか、誰かが伸される瞬間を見せられてきた。だから、茶髪は、怖い。理屈じゃない。体が、勝手に竦む。
――でも。
今は、そんなもんに構ってる場合じゃねぇーだろ。目の前で、震えてる仲間がいる。目の前で、消えかけてる命がある。俺のくだらねぇートラウマなんかより、そっちの方が、よっぽど大事に決まってる。
「七尾」
俺は、震える七尾の両肩を、正面から、そっと掴んだ。初めて、こいつの顔を、まっすぐ見て。
「――俺だけ見てろ」
「……え?」
「他の誰も、見なくていい。父親も、村人も、爺さんも、全部俺が壁になって隠してやる。お前の視界には、俺一人だけしか映らないようにしてやる。だから――お前は、俺一人に、処置をしてるつもりでやれ」
「で、でも……姫那、失敗、したら……」
「失敗しねぇーよ。お前はさっき、症状も、原因も、処置も、全部言い当てた。お前の頭と腕は、もう答えを知ってる。あとは、それを、動かすだけだ」
七尾の、潤んだ瞳が、俺を見つめ返す。茶色い前髪の奥の、その目を、俺は逸らさずに見つめ返した。トラウマで、心臓がばくばく鳴ってる。でも、逸らさない。今、俺が目を逸らしたら、こいつは、独りになっちまうからだ。
「大丈夫だ。俺がついてる。……お前は一人じゃねぇー、七尾」
「…………」
七尾の、震えが。
ほんの少しだけ、止まった。
◇
「――先生、解毒剤と、注射器、それと点滴の準備、お願いします。村人の皆さんは、悪いですけど、少し下がっててください。俺が仕切ります」
俺は立ち上がり、両手を広げて、七尾と患者を、大勢の視線から隠すように立ちはだかった。文字通りの、壁だ。
「あ、兄ちゃん、そんな……高校生に、うちの息子を任せろってのか……!」
「うちの七尾は、この村で一番の名医です。だから、任せてください。……その代わり、絶対に、こっちを覗かないでくれ。あいつの集中を、切らせたくないんです」
俺が、有無を言わせない声でそう言い切ると、村人たちは、気圧されたように口をつぐんで、じりっと後ろへ下がった。よし。これで、俺の背中の内側は、七尾と、患者と、老医師だけの、小さな手術室になる。
「七尾。ここには、お前と、患者と、爺さんしかいない。他は、俺が全部、消してやった。……始めよう」
俺の背中越しに、小さく、けれど、さっきとは違う、芯の通った声がした。
「……はい」
振り返ると、七尾は、もう震えていなかった。
注射器を手に取り、患者の腕を消毒し、迷いのない手つきで、解毒剤を打つ。脈を測り、呼吸を確認し、老医師に的確な指示を飛ばす。その姿は、さっきまで俺の背中で泣きべそをかいていた少女とは、まるで別人だった。
「先生、点滴、こっちの血管に。……呼吸、戻ってきてます。瞳孔も、収縮反応、あり。……大丈夫、山は、越えました」
「おお……おおお……! ありがとう、ありがとうお嬢ちゃん……!」
紫色だった若者の唇に、少しずつ、赤みが戻っていく。浅かった呼吸が、深く、規則正しくなっていく。助かった。七尾が、助けたんだ。
俺は、壁になったまま、その一部始終を、背中で聞いていた。的確な指示。迷いのない手つき。よどみのない声。さっきまで「ごめんなさい」と泣きべそをかいていた少女は、もうどこにもいない。そこにいるのは、一人の、立派な医者だった。
……たいしたもんだよ、七尾。お前は、ちゃんと、間に合わせた。誰も、見殺しになんて、しなかった。
処置を終えた七尾が、ふう、と長い息を吐いて、俺を見上げた。
俺も、こいつを見下ろす。茶色いおさげ。茶色い前髪。俺が、ずっと怖くて、見られなかったもの。
……あれ。
なんだ。今なら、普通に、見れるじゃねぇーか。
「……月見くん。姫那、できた、よ」
七尾が、泣き笑いみたいな顔で、そう言った。俺は、思わず、ふっと笑ってしまった。
「ああ。上出来だ、七尾。……お前は、すげぇ医者だよ」
その言葉に、七尾の頬が、ぽっと赤くなった。人に褒められて、逃げずに、笑った。たぶん、こいつにとっても、初めてのことだったんじゃないかな。
◇
若者は、一晩、診療所で経過を見ることになった。命に別状はない。父親は、何度も何度も俺たちに頭を下げて、息子の枕元に付き添っている。
……めでたし、めでたし。と、言いたいところだが。
俺の頭の中には、さっきから、一つの引っかかりが、ずっと居座っていた。
「なぁ、七尾。ちょっといいか」
診療所の裏、誰もいない場所で、俺は七尾に声をかけた。もう、背中合わせじゃない。ちゃんと、顔を見て。
「さっきの中毒。あれ……有機リン系の農薬、って言ったよな。あの若者、村の男の話じゃ、街で働いてて、たまたま帰省してただけらしい。農作業なんて、してなかったって話だ」
「……うん。姫那も、それ、変だなって……。あんなに大量の農薬、普通に暮らしてて、体に入るはず、ない。あれは……誰かが、意図的に、盛ったとしか……」
やっぱり、そう思うか。
事故じゃない。あれは、毒殺未遂だ。誰かが、あの若者を、明確な殺意を持って狙った。……この、穏やかな山奥の村で。
「月見くん。……姫那、実は、前にも……こういうの、見たことが、あるの」
七尾が、俯いて、ぽつりと呟いた。その横顔に、さっきまでの晴れやかさはなくて、代わりに、暗い影が差していた。
「昔、姫那の……いた場所で。……たくさんの人が、同じような症状で、運ばれてきて……。姫那、助けようとしたのに……大勢の人に見られて、頭が真っ白になって……手が、動かなくて。……姫那が竦んでる間に、目の前で、人が……」
その先は、言葉にならなかった。ただ、握りしめた七尾の小さな拳が、白くなるほど震えていた。
「姫那が、人前で……手が動かなくなるように、なったのも……その時のことが、きっかけで……。だから、姫那……ずっと、怖かった。また、姫那のせいで、誰かが……って」
「……七尾」
こいつが背負ってた「診えない傷」は、俺が思ってたより、ずっと深いのかもしれない。人に見られると竦むんじゃない。人に見られながら、誰かを見殺しにしてしまった――その記憶に、今も、縛られ続けてるんだ。
しかも、だ。七尾が昔見たっていう「同じ症状で運ばれてきた大勢の人」。それと、今日の毒殺未遂。この二つが、まるっきりの無関係とは、どうしても思えなかった。七尾の「診えない傷」と、今回の毒が、どこかで細い糸で繋がっている――俺の、嫌な予感がするシックスセンスが、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
何この、日常生活じゃ役に立たないスキル。取得するスキルミスってるだろ。
「マジ勘弁、だな……」
平穏な実習なんて、やっぱり、俺には一生縁がないらしい。俺は、夕闇の迫る山の稜線を見上げて、深く、ため息をついた。
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チームの最後の一人の話まで来ました




