眠れる狙撃手 ~引き金の記憶~
――狙撃手――
遠く離れた場所から、標的に気づかれることなく、たった一発でその命を刈り取る者。彼らに必要なのは、優れた射撃の腕だけではない。何時間でも同じ姿勢で待ち続ける忍耐。風を読み、距離を測る冷静さ。そして何より――引き金を引く、その一瞬に迷わないための、強さである。―――これは、FPSのプロゲーマを目指すニートのおっさんの言葉である。
人を撃つのに、言葉はいらない。ただ静かに、息を止め自分を殺せばいい。
だからこそ、花咲亜貴は【D】クラスの一員である。
ドバイから帰って三日。時差ボケもようやく抜けて、俺の日常はいつもの馬鹿騒ぎに戻りつつあった。
いや、馬鹿騒ぎというか、Dクラスというのは常に何かしらがおかしい。今も、教室の窓際ではメイド服の瑠璃が優雅に紅茶を淹れ、その隣で八実が鳩を飛ばし、後ろの席では海斗がヘッドホンで音楽を聴きながら誰かの個人情報を覗いている。七尾は俺と目が合わないように、いつも通り前髪の奥からこっそりこっちを窺っている。そして――
「ZzzZzz」
俺の斜め前の席では、迷彩服の男が机に枕を敷いて爆睡していた。
花咲亜貴。俺と同じ班のメンバーで、寝癖のついた頭と、いつも眠そうな半目が特徴の男だ。授業中はもちろん寝ている。休み時間も寝ている。飯の時間も寝ている。こいつ、いつ生きてるんだ?冬眠する熊かなにかか?
「はーい、皆さん席についてー。実習の割り振りを発表しますよー」
担任の若月先生が、書類の束を抱えて教室に入ってきた。相変わらず、生徒より小さい担任だ。
「今回は、月見君と花咲君のペアにお願いしたい依頼が来てるんだけど……」
「げ」
思わず声が漏れた。いや、だって、こいつと組めってことは、実質俺一人でやれってことだろ?見ろよこの寝顔。地震が来ても起きねぇーぞこいつ。
「あら、月見様。花咲さんと二人きりだなんて、退屈で干からびてしまうのではありませんこと?なんならわたくしが、弔いの紅茶を用意して差し上げますわ」
「縁起でもねぇーこと言うな」
「ツッキー、俺っちの情報網によると、その証人さん、けっこうヤバい相手に狙われてるらしいぜ?せいぜい気をつけなよ〜」
「海斗、お前なんでもう依頼の中身知ってんだよ。若月先生、まだ半分も説明してねぇーぞ」
「えへへ、企業秘密」
「スパイの企業秘密ほど信用ならねぇーもんはねぇーな」
窓際では、八実が「はい、これお守り!」と、どこからか取り出した白い鳩を差し出してきた。いらねぇーよ、荷物になるだろ。
と、視界の端に、茶色い髪がちらついた。七尾だ。とたんに、背筋がびくりと強張る。……ダメだ。こいつの髪を正面から見ると、どうしても昔のトラウマが疼くんだよ。俺は反射的に、顔を逸らした。
七尾も、俺が茶髪を苦手にしてるのを知ってるから、無理に目を合わせようとはしない。俯いたまま、俺の机の端に、小さな紙袋をそっと置いていった。横目で中身を確かめると、酔い止めと、絆創膏と、よく分からない粉薬。……相変わらず物騒な気遣いだな、女医の卵は。俺は顔を逸らしたまま、背中越しに「……悪いな、助かる」とだけ返した。
同じ班のはずなのに、俺と七尾は、面と向かって話せたことが一度もない。俺の茶髪恐怖症と、七尾の人見知り。厄介なもん同士だよ、まったく。
「はいはい、みんな静かにー。話を続けますよー」
「依頼内容は、とある企業の証人の警護。近く、その方が不正会計を告発する予定なんだけど、命を狙われているらしくて。それで、告発の日まで安全な別荘に匿うから、その護衛をお願いしたいんだって」
「命を狙われてる証人の護衛……。あの、若月先生、それって完全にプロの仕事じゃないですかね?なんで高校生の実習に回ってくるんですか」
「あはは……ほら、Dクラスは成績の関係で、実習の選択肢が、その……」
「言わなくていいです。分かってますから」
毎度のことだ。俺たちに回ってくる実習は、どれもこれも募集要項がおかしい。「息を潜めるだけの簡単なお仕事」が詐欺教団の潜入だったり、「家事のお手伝い」が人身売買組織との喧嘩だったり。もう慣れた。慣れたけど、納得はしてねぇーからな。
「で、なんで俺と花咲なんですか?」
「花咲君は、その……こういう護衛の依頼だと、すごく評価が高いのよ。射撃の腕が、桁外れで。それに月見君は、危機対応能力が――」
「その評価、返品していいですか」
人身売買組織を壊滅させたことが「危機対応能力が高い」と評価された、あの忌々しい実績のことだな。俺は家事の才能でこの学校に入ったはずなんだけど。なんでどんどん物騒な方向に評価されてくんだよ。
「ZzzZzz……」
「おい花咲、起きろ。仕事だ」
俺は、爆睡している迷彩男の肩を揺すった。反応がない。念のため脈を測る。……うん、生きてはいる。よし、次だ。俺は、鞄から取り出した弁当箱の蓋を開けて、こいつの鼻先に近づけた。今朝作った、だし巻き卵だ。
「……ん」
ぴくり、と花咲の鼻が動いた。半目が、ゆっくりと開く。
「……飯?」
「食いたきゃ仕事しろ。護衛の依頼だとよ」
「……わかった。行く」
食い物で釣ると起きる。こいつ、本当に熊なんじゃねぇーのか?
◇
依頼主の証人を匿う別荘は、山の中腹にぽつんと建つ、洒落たログハウスだった。周囲は木々に囲まれていて、見晴らしはいいが、逆に言えば身を隠す場所も多い。護衛には向いてるんだか向いてないんだか、微妙なところだな。
証人のおっさんは、俺たちを見るなり露骨に不安そうな顔をした。まぁそうだよな。命を狙われてる状況で、派遣されてきた護衛が高校生二人。しかも片方は到着した瞬間からソファで寝てる。俺だって不安になるわ。
「ほ、本当に、君たちで大丈夫なのかね……?」
「大丈夫ですよ。飯は俺が作りますし、掃除も洗濯もやります。快適な軟禁生活を保証します」
「そういう心配をしているんじゃないんだが!?」
まぁ、そう言うなって。とりあえず俺は、家事担当らしく台所を借りて、夕飯の支度を始めた。冷蔵庫の中身を確認して、足りないものを頭の中でメモする。護衛だろうがなんだろうが、腹が減っては戦はできぬ、だ。
ついでに、埃をかぶっていた居間を掃除し、湿気ていたシーツを干し直し、証人のおっさんが神経をすり減らしているのを見て、気を落ち着ける番茶を淹れてやった。
「……なぜ、護衛が家事を?」
「腹が満ちて、部屋が綺麗で、あったかい茶がある。それだけで、人間、大抵のことは耐えられるもんですよ。それに、快適な現場ってのは、こっちも守りやすいんです。散らかった部屋じゃ、侵入者の足音も聞き分けにくいでしょう?」
「な、なるほど……?」
まぁ半分は方便で、半分は本音だ。俺にとっちゃ、家事は生活の全部で、武器で、鎧なんだ。おっさんは、俺の淹れた番茶を一口すすって、ようやく少しだけ、肩の力を抜いたようだった。
その間、花咲はというと。
「ZzzZzz」
二階の窓際に陣取って、堂々と寝ていた。おい、護衛はどうした護衛は。俺は思わずツッコミを入れようとして――やめた。
こいつ、寝てるのに、体が窓の外の一点を向いてる。しかも、膝の上には、どこから持ってきたのか長い布に包まれた細長い何かが置かれている。……ライフルだな、あれ。分解して持ち込んでたのか。
寝てるように見えて、警戒してる。そういうことか?
その日の夜は、何事もなく過ぎた。俺の作った鶏の照り焼きを、証人のおっさんは「こんな状況なのに美味い……」と半泣きで食っていた。花咲も、飯の時だけはむくりと起きて、黙々と三人前を平らげてまた寝た。
三人前だぞ、三人前。この細身のどこに入るんだ。しかも、食い終わった後、こいつは自分の皿を流しに運んで、軽く水にさらしてから、きちんと重ねていった。荒事に慣れた手つきの男が、律儀に皿を片付けていく姿は、なんだかちぐはぐで、少しだけ、可笑しかった。誰かに、そうしろと躾けられたのか。それとも、そういう「当たり前」を、どこかで欲しがってるのか。……まぁ、詮索は野暮か。
問題が起きたのは、二日目の昼過ぎだった。
「――起きろ」
昼飯の片付けをしていた俺の耳に、低い声が届いた。振り向くと、さっきまで死んだように寝ていたはずの花咲が、いつの間にか立っていた。
半目じゃない。かっと見開かれた目が、窓の外の稜線をまっすぐ見据えている。空気が、変わった。眠そうだった男の輪郭が、まるで別人みたいに研ぎ澄まされている。
「花咲?どうし――」
「二時の方向、六百メートル。木の上に一人。……こっちを見てる」
「はぁ!?六百って、そんな距離見えるわけ――」
「見える」
断言された。次の瞬間、花咲は膝の布をほどき、組み上がったライフルを窓枠に据えていた。頬付けから照準まで、流れるような一連の動作。そこに、さっきまでの眠気は微塵もない。
「証人を、奥の部屋へ。窓から離せ」
俺は、言われるままに証人のおっさんを引っ張って、廊下の奥へ押し込んだ。心臓がうるさい。六百メートル先の敵を「見える」と言い切る男。その言葉に、嘘や誇張の匂いは一切なかった。
パンッ、と乾いた音がした。
窓の外、遠くの梢が揺れて、何かが落ちるのが見えた。……いや、正確には、落ちたのは人じゃない。花咲の弾が撃ち抜いたのは、相手が構えていたスコープだ。人体を狙わず、道具だけを正確に破壊した。六百メートル先の、スコープを。
「うそだろ、おい……」
「逃げた。……今のは、様子見。本命は、夜」
そう言い残すと、花咲はライフルを下ろし、また窓際に座り込んで――半目に戻った。
「ZzzZzz」
「寝るのかよ!?」
嘘だろ。今の一瞬のキレはなんだったんだ。まるで、必要な時だけスイッチが入って、それ以外は電源を落としてるみたいだ。この落差、いったいなんなんだ?
俺は、スマホを取り出して海斗に連絡を入れた。さっきの襲撃者について、何か掴めないかと思ったんだ。
《あー、ツッキー?ちょうどよかった。そっち行った狙撃手、たぶん外国系の何でも屋だよ。証人さんの告発で潰れる会社、相当ヤバい筋と繋がってるみたいでさ。金に糸目つけずに始末屋を雇ってるっぽいね〜》
「はぁ……。なんで俺の実習は、毎回こうなるんだ」
《日頃の行いじゃない?》
「うるせぇ」
通話を切って、俺は二階で半目に戻っている花咲を見上げた。あんな化け物じみた腕を持ってて、こいつはこの班で――「才能を台無しにする何かがある」問題児として、Dクラスに放り込まれている。射撃の腕は、間違いなく本物だ。桁外れだ。なのに、D。ってことは、だ。
こいつにも、その腕を「台無しにする何か」が、あるってことになる。
◇
夜の見張りを交代でやることになって、俺は花咲と二人、暗い居間で番をしていた。証人のおっさんは、奥の部屋で泥のように眠っている。よく眠れるな、命狙われてるのに。まぁ、俺の作った蕎麦湯を飲んで安心したのかもしれない。
沈黙が気詰まりで、俺は近くにあった煎餅を齧りながら、なんとなく声をかけた。
「なぁ花咲。お前、その腕、どこで覚えたんだ?」
「……」
返事はない。寝てるのかと思ったが、半目の奥の瞳は、暗闇の一点を見つめたままだった。
「前の、仕事で」
「前の仕事?」
「……銃を撃つのに、言葉はいらない。国境も、名前も、いらない。ただ、引き金を引けばいい。……そう教わった」
ぞわり、と背筋を冷たいものが撫でた。こいつ、今、さらっととんでもないことを言わなかったか。国境。それはつまり――
「花咲、お前まさか」
「昔の話だ」
ぴしゃりと、会話が閉じられた。それ以上は聞くな、という拒絶。俺は口をつぐんだ。……聞かなくても、なんとなく分かる。こいつの言う「前の仕事」が、どういう類のものだったか。まだ十六やそこらのガキが、どうしてそんなところにいたのかは知らないけれど。
しばらく、沈黙が続いた。柱時計の振り子の音だけが、やけに大きく響く。俺は、齧りかけの煎餅を置いて、もう一枚、袋から出して花咲の方へ差し出した。
「食うか?」
「……もらう」
花咲は、のそりと手を伸ばして煎餅を受け取り、ぽりぽりと齧った。その横顔は、さっきまでの張り詰めた気配が嘘みたいに、ただの眠そうな男に戻っている。
「……お前の作る飯。うまい」
「そりゃどうも」
「前の場所には、なかった。あったかい飯。……作って、待ってるやつ」
なんて返せばいいのか分からなくて、俺はただ「そうか」とだけ言った。こいつがどんな場所にいたのか、俺には想像もつかない。でも、あったかい飯を知らないまま、引き金の引き方だけを覚えさせられたガキがいたってことは、なんとなく、分かってしまった。
こいつがいつも寝てるのは、たぶん、起きていたくないからだ。起きている間、こいつの目は、世界を「標的」として見てしまう。それが、嫌なんじゃないか。……なんて、俺の勝手な想像だけどな。
「……お前は」
ぽつり、と花咲が呟いた。
「お前は、なんで、そんなに普通なんだ」
「あ?」
「人を、壊せる目をしてるのに。飯を、作ってる」
心臓が、嫌な音を立てた。
こいつ、気づいてやがる。ドバイで俺が何をしかけたか、知るはずもないのに。同じ穴の匂いを、嗅ぎ分けてるのか。
「……気のせいだろ。俺はただの主夫だ」
そう言おうとして、また、言葉が喉でつっかえた。くそ。最近、この台詞が、どうしても最後まで言えねぇーんだよ。
◇
本命は、夜――花咲の言った通りだった。
午前二時。俺が仮眠から叩き起こされたのは、花咲の一言だった。
「来た。……今度は、複数」
跳ね起きて窓に近づく。俺の目には、まだ何も見えない。ただの、闇に沈んだ木立だ。
「どこに――」
「東、西、裏手。……三方向から、詰めてきてる」
言われて目を凝らすと、闇の中に、いくつもの人影が別荘を包囲しつつあるのが、ようやく見えた。ライトも点けず、足音も立てず、慣れた足取りで。素人じゃない。しかも、昼間の一人とは別口だ。ざっと数えて、六、七人。全員、武装している。俺の背筋が、じわりと冷えた。海斗の言った「金に糸目つけない始末屋」ってのは、こういうことか。証人一人の口を塞ぐために、ここまでやるのかよ。
「花咲、あの木の上――」
俺が指さしかけた稜線の上に、月明かりを避けるように伏せた影が一つ。敵の狙撃手。花咲と、同じ職の人間だ。
「わかってる」
花咲は、既にライフルを構えていた。スコープの中に、敵の狙撃手を捉えている。あとは、引き金を引くだけ。この距離、この腕なら、外さない。撃てば、終わる。こっちの安全は保証される。
――なのに。
「……花咲?」
花咲の指が、引き金にかかったまま、動かない。
スコープを覗くその半目が、さっきまでの鋭さを失って、ぐらぐらと揺れている。額に、汗が浮いている。呼吸が、浅い。
「花咲、おい、どうした」
「……あ、あ」
声が、掠れている。引き金にかけた指が、細かく震えている。撃てない。こいつ、人を撃とうとして――撃てなくなってる。
「ZzzZzz」
そして、花咲は、目を閉じた。
この、最悪の局面で。まるで、そこから逃げ出すみたいに。眠りへ、逃げ込んだ。
「――寝るなよ、こんな時に!」
俺は、叫んだ。だが、揺すっても、頬を叩いても、花咲は目を開けない。撃つことから逃げるように、意識をどこか遠くへ手放してしまっている。
……なるほどな。分かったよ、花咲。お前が、なんでいつも寝てるのか。
お前は、引き金を引ける。引けるからこそ、引きたくないんだ。前の仕事で、何度も何度も引いてきたその指が、もう二度と人を撃たないように――お前は、自分の意識ごと、眠らせ続けてるんだ。
馬鹿な奴だ。そんなの、しんどいに決まってる。ずっと眠ったふりをして、世界から目を逸らし続けるなんて。でも――責める気には、なれなかった。
だって、俺も同じだからだ。「ただの主夫」なんて看板を掲げて、自分の中の「解体屋」から、ずっと目を逸らしてきた。逃げ方が違うだけで、根っこのところは、たぶん、同じなんだよ。花咲。
だったら。
「――寝てろ。お前は、もう撃たなくていい」
俺は、震える花咲の指を、そっと引き金から外してやった。そして、立ち上がる。
撃たなくても、守る方法はある。それを考えるのが――家事だけは得意な、俺の仕事だ。
俺は、台所へ走り、あるものを片っ端から掻き集め始めた。小麦粉。食用油。片栗粉。漂白剤に、洗剤。そこらの鍋とフライパン。それに、証人のおっさんが「気晴らしにでも」と持ち込んでいた、馬鹿みたいな量の花火――なんでこんな状況で花火なんだよ、と思ったが、今ばかりはありがたい。
粉塵は、舞い上がれば爆発する。油は、熱すれば凶器になる。薬剤は、混ぜ方次第で煙にも、目潰しにもなる。台所ってのは、使いようによっちゃ、そこらの武器庫より余程おっかない場所なんだ。家にあるもので、なんとかする。ありもので工夫する。それが、家事ってもんだろ?
包囲は、じわじわと狭まってくる。上等だ。武装した七人と、腕利きの狙撃手が一人。守るのは、証人のおっさんと、眠りに逃げた相棒が一人。……ハンデとしちゃ、悪くない。
「悪いな、証人のおっさん。ちょっとだけ、うるさくなるぜ」
俺は、口の端を吊り上げた。眠る花咲を背に庇いながら、俺の――「家事」の時間が、始まる。
3日目です
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