父
王都の七つの門はどれもヴァルデンの兵が固めていて、市の門では荷車の積み荷を槍で突いて改めているのが丘の上からも見えたが、東の外れの灰区では、日が暮れても、畑の畦を野良犬が一匹うろついているだけだった。
馬は二頭とも、二里手前の百姓の納屋に預けてきた。鹿毛を預けるとき、ガレスは百姓に銅貨を三枚渡し、四枚目を出しかけて財布に戻した。帰りに払う、と言った。
灰区の土は凍りかけていて、踏むと薄い氷が靴の下で割れた。ラーレの家の戸口の棚に、椀が伏せて干してあった。六つあった。三月前に来たときも六つだった。
戸を叩く前に、中から声がした。
「犬を連れてる奴は、叩かなくていい。足音で分かる」
ラーレは竈の前で背を丸めて豆を煮ていた。振り向いてエリアスを見て、それから後ろのガレスを見た。灰人の外套を着た司祭を、長いあいだ見ていた。
「坊ちゃん」
「エリアスです」
「知ってるよ。座りな」
ガレスは戸口で立ち止まっていた。ラーレは椀を三つ取って豆をよそった。エリアスの椀には鍋の上のほうから、犬の椀にも上のほうから。三つ目の椀には杓子を鍋の底まで入れて、焦げついたところを削ぐようにして盛った。
「司祭様」
ガレスは椀を両手で受け取った。
「……ありがとう、ございます」
「礼なら鍋の底に言いな。焦がしたのは、あたしじゃなくて鍋だ」
ガレスは戸口に立ったまま焦げた豆を食べた。噛むたびに、歯の間で黒いものが鳴った。
ラーレはエリアスの向かいに座って、自分は食べずに、鍋の柄を布で拭いていた。
「テオは」
「北で、見ました」
「そうかい」
ラーレは柄を拭き続けた。柄はもう光っていた。
戸口でガレスが椀を置いた。空になった椀を、戸の脇の棚に、伏せずに置いた。
「あの、ラーレさん。私は、テオを……あの日、テオの、呼び名を」
「知ってるよ」
「謝りに、来たのでは、ないんです。謝っても、何も……ただ、黙っているのは」
「黙ってな」
ラーレは布を畳んだ。
「あんたが言ったら、あたしは何か言い返さなきゃならない。もう夜だ、そんな元気はないよ。豆を食ったんだから、今夜はそれでいい」
ガレスは袖口を掴んで、何度か引いた。それから空の椀を取り上げて、棚に伏せた。
「記録院に行くんだろう」
暫くしてラーレが言った。
「太った書記が、毎晩遅くに紙倉の戸から帰る。うちの若いのが屑紙を貰いに行くから知ってる。屑紙は焚きつけにいい。あの書記は、屑紙と一緒に、時々パンの耳もくれる。女房に内緒だと言ってね。内緒にしたいなら、灰区の若いのに言っちゃ駄目なんだが」
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紙倉の戸は、記録院の北の翼の裏、王宮の塀との間の細い路地にあった。路地には雪が吹き溜まっていて、雪の上の足跡は猫のものだけだった。
ガレスと犬を路地の口に残して、エリアスは戸の脇に立った。王宮の鐘が二つ鳴ってから、戸が内側から開いた。
「うわ」
バルトは灯りを取り落としかけて、胸で受けた。
「君か。北で死んだと聞いたぞ。ヴァルデンの側から砦の名簿が回ってきて、君の名に線が引いてあった」
「生きています」
「見れば分かる。入れ、寒い」
紙倉の中は冷えていて、乾いた紙の匂いが鼻の奥に貼りついた。バルトは灯りを棚の上に置き、戸に閂をかけた。
「三日前に開城した。摂政会議は解散で、公が王宮に入った。記録院は帳簿を全部出せと言われてる。総長は五日前から三階を下りてこない。飯は俺が運んでる。食ってないがな」
「禁書庫に」
「禁書庫に。……それと、灰区の帳簿だ」
バルトは声を落とした。
「俺が引き継いだ三日後に、備考欄が書き換わってた。君の字に似せてある。前年比、男十二減。地方修道院への移送。記載に誤りなし。……写しは取ったか」
「取りました。屋敷に」
「なら、いい。写しがあるうちは、まだ揉められる」
バルトは棚から酒の瓶を一本下ろした。
「表の階段に夜番が一人いる。俺がこれを持っていく。その間に上がれ。それと、東の石段は使えん。公の兵が昨日、下の戸に錠を下ろした。……女房には言わん。言ったら明日には市場中だ」
バルトは棚の端から布の包みを取って、エリアスに押しつけた。中は固くなったパンと、干した魚が一切れだった。
「総長の今夜の分だ。どうせ食わん。君が食え。上で食うなよ、紙に脂が落ちる」
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禁書庫の鉄の扉は、開いていた。
中は狭く、棚が三方の壁に沿って並び、真ん中に机が一つあった。机の上に灯りが二つ。灯りの油の匂いが部屋じゅうにしていて、灯り二つ分にしては、ずっと濃かった。火鉢はなく、石の床から冷えが上がってくる。
父は机に向かって羽根筆を動かしていた。左に古い帳簿が開いてあり、右に新しい帳簿があって、左から右へ写している。筆が紙を掻く音が、狭い部屋で大きく聞こえた。外套を着たままで、指先が白かった。
「灰区の柵から来たか」
顔を上げずに父が言った。
「はい」
「バルトが紙倉を開けた」
「バルトさんは関わっていません」
「関わっていないなら、夜中に紙倉の戸を開ける理由を言え」
エリアスは机の前に立った。左の帳簿は厚く、革が黒ずんで、角が丸くなっている。右の帳簿は新しく、父の字で名が並んでいた。
「それは」
「写しの写しだ」
父は一行書き終えて、筆を皿に置いた。
「公がこれを寄越せと言っている。教会との取引に使う。教会は取り戻したい。三日前から、明け渡せと言ってくる」
「渡すのですか」
「こっちを渡す」
父は右の帳簿の頁の端を親指で弾いた。頁がめくれていき、二十枚ほどのところから先は白かった。
「表紙と最初の頁が焼け残れば、足りる」
「残りの頁は」
「書く暇がなかった。お前が来るのが、思ったより早かった」
「中を、読まれたのですか」
「五日かけて」
父は左の帳簿に掌を置いた。
「二十年、隣の部屋で開けなかった。開けたら、五日で読めた」
「テオの名は」
「テオは呼び名だ」
父は言った。
「ここにあるのは名だ。親がつけて、どこにも書かれなかった名だ。呼び名は脇に小さく書いてある。区画と、日付と」
エリアスは左の帳簿の、開いている頁を見た。細かい字で名が並び、どの名の脇にも、もっと細い字で何かが添えてある。読もうとして、父の掌が頁の上に乗っているのを見て、やめた。
「なぜ、記録院に写しが」
父は暫く、帳簿の革を親指で撫でていた。
「八十年前、灰の戦争が終わった年に、この国には食う物も、死人を埋める土も、生きている者を数える手もなかった。教会が来て、言った。名のない者を、我らに預けなさい。その名で、国を守る兵を立てる。飢えた者に要るのは名ではなく、パンだ、と」
エリアスの指が、机の縁で止まった。
「王はそれを受けた。一つだけ条件をつけた。名簿の写しを王家が持つ」
「見張るために」
「違う。一緒にやったと残すためだ。あとになって、王家は知らなかったと言えないように」
父は筆を取り、また皿に戻した。
「それから八十年、この国は一度も外と戦っていない」
「その代わりに、灰区の男が、毎年三割」
「そうだ。歴史というものは、起きたことではなく、耐えられることを書く。記録院は八十年、そうしてきた。私も書いた」
灯りの芯が小さく爆ぜた。
「王女様から、頼まれた物があります。教会が来る前の、即位の記録を」
「この部屋にはない」
父は机の引き出しを開けて、薄い綴りを一冊出した。
「教会が来た年に、ここから全部持ち出された。持ち出した司祭が、受け取りとして目録を置いていった。残っているのはこれだけだ」
「王女様に、お渡しします」
「あの子は、ここの本を読む。月に一度、貸し出しの帳面に自分で名を書いていく」
下の階で、戸の閉まる音がした。それから、階段を上ってくる足音がした。幾つもの足音が、揃わずに上ってくる。
「バルトの酒は、効かなかったな」
父は立った。左の帳簿を油紙で包み、紐をかけ、目録と一緒にエリアスの胸に押しつけた。包みは父の掌が載っていたところだけ、少し温かかった。
「東の石段から下りろ」
「父上は」
「ここにいる。誰かが、これを焼くところを見せねばならん」
父は右の帳簿を机の真ん中に置き、灯りを一つ取って、その脇で傾けた。油が帳簿の表紙に広がり、机の上を伝って、棚の下へ流れていった。床の石の溝には、前から油が引いてあった。
父は、包みを抱えたエリアスを見た。
「四人目だな」
それから扉のほうへ顎をしゃくった。
「行け」
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廊下は暗かった。窓のない廊下を、壁に手をついて東へ走った。後ろの、表の階段のほうから、男たちの声と、父の声が聞こえた。記録院総長だ、帳簿はここにある。それから声が途切れて、紙の燃える匂いがしてきた。灰区の煙よりも甘い匂いだった。
東の石段は冷たく、手すりが凍りかけていた。包みを抱えて下りていくと、下のほうに灯りがあった。
灯りを持っているのは女で、後ろに兵が二人いた。
女が灯りを上げた。
「……北にいるはずでしょう、あなた」
ベアトリクスは濃い緑の外套を着ていて、腰に剣を下げていた。剣の柄に手をかけて、エリアスの顔と、胸の包みを見た。
後ろの兵が前に出ようとした。姉は振り向かずに言った。
「あんたたち、表の階段へ回って。総長がまだ中にいるなら、引きずり出して。上で火を使わせるんじゃないわよ」
兵は顔を見合わせて、それから石段の脇の通路を走っていった。
「姉上」
「その包みは何。……いい、言わないで。聞いたら、届けに書かなきゃいけなくなる」
姉は下の戸の閂に手をかけた。閂の上に、新しい錠が下りていた。
「うちの人が昨日、錠を下ろさせたのよ。総長が逃げないようにって。逃げるわけないのにね、あの人が。五日も籠もって、ご飯も食べないで」
姉は剣を抜いた。抜いた剣を逆さに持ち、柄頭で錠を打った。鉄の音が石段を上って響いた。二度目で錠が曲がり、三度目で外れて、床に落ちた。
姉は少し息を切らして、剣を鞘に戻した。
「テオに、杏、持って行った?」
「……持って行きました」
「そう」
上のほうで、何かが崩れる音がした。煙が、石段を這い下りてきた。
「父様のことは、私が届けを書く。王弟の兵の灯りから火が出た。過失で。……嘘の書き方くらい、この家の子なら知ってるわよ」
「姉上は、それで」
「私は煙を吸って、咳をして、弟なんか見なかったって書くの。早く行って。目が痛い」
姉は戸を押し開けた。冷たい風が入ってきて、煙を上へ押し返した。
路地に出ると、ガレスと犬が雪の中に立っていた。見上げると、記録院の北の翼の小さな窓の一つが、内側から赤くなっていた。背中のほうで、姉が咳をしていた。わざとらしいくらい大きな咳だった。
ガレスが包みを見て、それからエリアスの顔を見た。
「総長は」
エリアスは包みを持ち直した。油紙が腕の中で鳴った。
「灰区へ戻る。路地を東へ」
路地の出口で、水桶を提げた兵が四人、表通りを北の翼のほうへ走っていった。二人は塀の陰でそれを待った。犬が一度唸り、ガレスがその口を掌で包んだ。兵の最後の一人が、走りながら仲間に言った。
「紙ばっかりの建物だ、よく燃えるぞ」
仲間が笑った。兵が角を曲がってから、二人は灰区のほうへ歩き出した。凍った雪が、踏むたびに鳴った。
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翌朝、灰区の柵の向こうで、布告を読み上げる声がした。
ラーレの家の中でも聞こえた。読み手は声の太い男で、一つ文を読むたびに間を置いた。エリアスは竈の脇で包みを膝に載せたまま、それを聞いた。
「記録院総長、アルノルト・ロートヴェル。昨夜、記録院北翼の火にて、死す。火は、公家の兵の灯火の、過失による。禁書庫の書、ことごとく焼失。届け出、ヴァルデン家、ベアトリクス」




