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Nameless Crown  作者: 宵野 綴
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呼ぶ者

「その包み、いつまで膝に載せとく気だい」


 布告の声が柵の向こうで遠ざかって、暫くしてからラーレが言った。竈の火を起こし直しながらだった。


「温めても豆にはならないよ。それより先に食いな」


 ラーレは稗の粥を椀によそって、エリアスの前の床に置いた。湯気が立って、その向こうのラーレの背中がぼやけた。


「食べられません」


「食いな。食わない奴の分まで、あたしは煮ないよ。明日から煮ない」


 エリアスは匙を取った。粥は熱く、塩が少し強かった。三口食べて、四口目で喉が詰まり、湯で流し込んだ。ラーレはそれを横目で見て、自分の椀にもよそった。


 エリアスは包みの紐に指をかけた。父が結んだ紐で、結び目が固く、爪が割れそうになった。ガレスが小刀を差し出したが、エリアスは首を振って、時間をかけてほどいた。


 油紙の中の帳簿は、思っていたより軽かった。革の表紙の角が丸くすり減って、背の糸が一箇所ほつれている。紙は薄く、灯りにかざすと向こうの竈の火が透けた。


 一頁に二十ほどの名が並んでいた。父の言った通り、どの名の脇にも細い字で呼び名と区画と日付が添えてあり、その下に、もっと小さく送り先が書いてある。日付は教会の暦だった。


「テオが荷車に乗った日は、教会の暦でいつになりますか」


 ガレスは戸口の柱に寄りかかっていたが、身を起こして指を折った。


「霜月の、七日。……いえ、六日です。施しは、前の日の夕方だったので」


 ガレスは膝をついて、エリアスの横から頁を繰った。擦り切れた袖口が紙の上を滑った。終わりに近い頁で、手が止まった。


 霜月六日、第一区画。名が十並んでいた。


 上から四つ目の脇に「ミロ」とあった。七つ目の脇に「テオ」とあった。


 エリアスはその脇の、本当の名のほうを見た。短い名だった。王国の字で書いてあるが、灰区の訛りで読むのか帝国の音で読むのか、一瞬迷った。唇がその形を作りかけた。


 ガレスの手が、エリアスの手首を掴んだ。


「声に、出さないで」


 指が冷たくて、思ったより強かった。


「……すみません。出さないで、ください。まだ」


 ラーレが竈の前から振り向いた。


「その帳面に、テオのが書いてあるのかい」


「あります。名が」


「名が」


 ラーレは暫く黙って、火掻き棒で灰を突いた。


「ラーレさんは、テオの名を知っていますか」


「知るわけないだろ。名は母親が子の耳にだけ言うもんだ。あたしは乳はやったけど、母親じゃない」


 ラーレは火掻き棒を置いた。


「あの子、自分で言ったんだね。施しの日に」


 ガレスは手首を放して、自分の袖口を掴んだ。


「……はい。食べる前に、一人ずつ。祝福を受けるのだと、言われて。修道士の耳に、名を」


 ラーレは何も言わずに、薪を一本足した。


---


「東の修道院に、私が着いたのは、テオたちの荷車が出た、半月あとでした」


 ガレスが言ったのは、豆が煮え始めてからだった。床に座り、膝を抱えて、帳簿のほうを見ないようにしていた。


「運ばれてきた子供たちは、着いた晩に、長い部屋で寝かされます。朝になると、修道士が一人ずつ、名を訊く。……呼び名を、言うんです。ミロ、と。本当の名は、と訊くと、首を傾げる。思い出せないのでもなくて、そんなものは初めから無かった、という顔で」


「ミロには、砦で会いました。名を訊いたら、ミロは呼び名だ、と」


 ガレスは膝を抱えた腕に、額をつけた。暫くそうしていて、それから顔を上げた。


「その修道院で、聖典の写しを見たんです。司教区の書庫にもない、古い写しです。修道士たちが、毎晩それを読んでいた。私は、掃除の係で、その間、後ろに立っていました。……そこに、書いてありました。名は、呼ぶ者がいて、はじめて錨になる。灰に縛った名を、その者を愛した者が声に出して呼べば、名は持ち主のところへ帰る。灰は、崩れる」


「愛した、ねえ」


 ラーレが鼻を鳴らした。


「司祭様は難しい言葉を使う。灰区じゃ、腹を空かせたときに豆をよそってやった者、くらいのもんだ。それなら、あたしも入るのかい」


「……入る、と思います」


「そりゃ大変だ。豆をやった子なんか、灰区に百人はいるよ。あたしは百人分、呼んで歩かなきゃならない」


 ガレスは笑いかけて、袖口で口元を拭った。


「それと、もう一つ、書いてありました。呼ぶ者のいない名を、他人が代わりに呼ぶとき、帳簿は、代価を取る」


「何を」


「書いてありません。余白に誰かが書き足していて、その上から、墨で消してありました」


 エリアスは手首を見た。ガレスの指の跡が、まだ少し赤かった。


「砦で、テオと呼んだ。三度。剣が肩に入って、そこで止まった」


 ガレスは袖口を何度か引いた。


「呼び名は、錨になりません。聖典には、そうあります。……でも、止まったのなら」


「テオは、ヨナが呼ぶ」


 エリアスは頁の上の、四つ目の名を指でなぞった。


「ミロは、誰が呼ぶ」


 ガレスは答えずに、ラーレのほうを見た。ラーレは鍋をかき回していた。


「ミロのとこは、母親が去年の冬に死んだよ。父親は顔も知らない。兄弟はいない」


「名を知っている人は」


「母親だけだ。さっき言ったろう。名は母親が子の耳にだけ言う」


 ラーレは杓子を鍋の縁で叩いて、豆を落とした。


「だから灰区じゃ、母親が死ぬと、子の名もいっしょに半分死ぬ。あとの半分は、本人が持ってる。……持ってたんだね」


 エリアスは帳簿の頁を繰った。テオのいた頁から前へ、一頁ずつ。送り先の欄に、同じ二文字が何度も出てくる。北境。数え始めると、指が勝手に次の頁へ動いた。夏の終わりから霜月まで、北境と書かれた名は十一あった。ホルストの板にあった、目と鼻と口の位置に点が三つだけの紙を、エリアスは覚えている限り数え直した。十枚と少し。十一。


 さらに前の頁へ行った。南。東。北境。南。数えていた指を、ラーレの手が上から押さえた。


「その灯りで細かい字を読むと、目が悪くなるよ。昼に読みな」


---


 昼過ぎに、灰区の若いのが一人ラーレの家に駆け込んできて、柵の外に記録院の書記が来ていると言った。太ったほうの、と言った。


 バルトは柵の内側で、凍った土の上に立ち、上等な靴の先を見ていた。片手に帽子を、もう片手に布の包みを持っていた。


「初めて入ったが、靴に向かんな、ここは」


「どうやって、ここだと」


「屑紙を貰いに来る若いのに訊いた。……女房には、灰区に豆を買いに行くと言ってきた。灰区の豆は安いからな」


「安くないよ」


 後ろからラーレが言った。バルトは帽子を胸に当てて、老婆に頭を下げた。


 ラーレの家の土間で、バルトは包みを開けた。紙の束が出てきた。一番上に、エリアスの字があった。灰区人数帳の、備考の頁の写し。


「屋敷から取ってきた。公の家令が住んでる。記録院の者で、総長の書類を引き取りに来たと言ったら、通した。君の部屋の机の中の物は、全部持ってきた」


「バルトさん」


「礼は要らん。そのかわり聞け」


 バルトは帽子を土間の隅に置いた。


「総長の遺体は、教会が引き取った。焼け跡の帳簿もだ。司教区の書記が焼け残りの表紙を見て、紙が新しいと言ったそうだ。公は笑って取り合わなかった。坊主のほうは、笑ってなかったと聞いた」


 ガレスが顔を上げた。


「それと」


 バルトは束の端を指で揃えた。揃っている端を、何度か揃えた。


「総長は、五日の間に一度だけ三階から下りてきた。俺に、紙倉の戸の閂を、外からでも上げられるように細工しておけ、と言った。何のためかは言わなかった。……総長の名は、今朝、俺が院の名簿から消した。読み上げてから、線を引いた。決まりだからな」


 エリアスは束を受け取った。バルトの指が離れるとき、少し震えていた。


「ベアトリクス様の届けには、石段から逃げた者のことは一行もなかった。煙で何も見えなかった、とだけ書いてあった。あの方の字は、総長に似てるな」


 バルトは土間の隅の帽子を拾いかけて、また置いた。


「君の名は、北の名簿のほうに線が引いたまま、置いてある。書き直せば、公の兵が探しに来る。死んだままのほうが、楽だぞ」


「はい」


「じゃあ、豆を買って帰る」


 ラーレが小さな袋に豆を詰めて、バルトに渡した。バルトは銅貨を出した。ラーレは数えて、一枚返した。


「高く払うと、女房に嘘がばれるよ」


 バルトが柵の外へ出ていったあとで、ガレスが言った。


「総長は、あの紙片を書いたのが私だと、知っていましたか」


「灰区の、七年目の司祭だろう、と言っていました。紙片を手に取りもしないで」


 ガレスは袖口を掴んで、何度か引いた。


「……七年目、でした。今年で」


---


 夕方、エリアスは写しの束の一番下の、白い頁を一枚抜いた。


 最初は、テオの名を書こうとした。筆の先が紙に触れたところで、ガレスが言った。


「書かないほうが、いいと思います。読み上げる人が、もし、テオの前で読んだら」


「ネリが」


「誰でも、です。書いてあれば、誰かが声にする」


 エリアスは筆を持ち直した。ヨナは字が読めない。読むのはネリだ。それを考えて、短く書いた。テオの名を見つけた。北境の灰兵は十一。原本のことはガレスが知っている。灰原の手前で会う。日付と、頭文字を一つ。


 紙を細く巻いて、犬の首の紐に結びつけた。犬の首の毛は冷えて固く、指を入れると、奥のほうだけが温かかった。犬はエリアスの手首の匂いを嗅いで、ガレスが掴んだところを一度舐めた。ラーレが豆の残りを椀に入れて、犬の前に置いた。


「干し肉は一日一枚だって、雇い主が言ってました」


「豆は干し肉じゃないからね。勘定に入らない」


 犬は豆を食べ終えて、椀を舐め、エリアスの顔を見上げた。エリアスは柵まで犬を連れていき、紐の端を外して、東を指した。犬は暫く動かなかった。それから鼻を地面につけて、畑の畦のほうへ小走りに出ていき、霜の上に足跡を残して、見えなくなった。


---


 夜になって、風が出た。灰区の家の板の隙間から冷たい風が入ってきて、灯りの火を何度も横に倒した。ラーレは戸口に古い毛布を掛け、ガレスはその毛布の裾を石で押さえた。


 隣の家で子供が咳をしていて、咳の合間に、母親が低い声で何か歌っていた。灰人の言葉の歌で、節は三つしかなく、同じ節が何度も戻ってきた。


 エリアスは帳簿を最後の頁まで繰った。


 終わりの数十頁で、字が変わっていた。それまでの細い字から、少し右に傾いた字に。書き手が替わったのだ。替わった頁の一番上の余白に、一行、書き添えてあった。


 以後、地方の分は原本に記す。


 その頁から先には、王都の区画の名しかなかった。日付をさかのぼると、三十年前の秋だった。


「原本は、どこに」


「灰原の、大聖堂です」


 ガレスは膝を抱えたまま言った。


「私は、見たことはありません。司教区の書庫の者は、皆、そう言っていました」


 エリアスは包みの中から、父の渡した薄い綴りを出した。教会以前の即位の記録を持ち出したときの、受け取りの目録。表紙をめくると、一行目に、納め先が書いてあった。


 灰原大聖堂、書庫。


 ガレスが灯りを近づけた。綴りの紙は帳簿よりも古く、端が茶色に焼けていて、指でつまむと粉が落ちた。納め先の下に、受け取った者の名と、日付があった。日付は八十年前の、冬の初めだった。


 エリアスはそれをガレスに見せた。ガレスは読んで、エリアスを見て、何か言おうとして、袖口を掴んだ。


 竈の前で、ラーレが薪を割る手を止めた。


「灰原ってのは、遠いのかい」


「馬で、六日です」


 エリアスは帳簿を油紙で包み直した。紐を、父の結び方で結んだ。


「明日の朝、百姓の納屋まで歩きます。馬を受け取って、東へ」


「四枚目の銅貨を、払わないと」


 ガレスが言った。ラーレは割りかけの薪を膝に載せたまま、包みを見ていた。


「ミロの名は、その中にあるんだね」


「あります」


「あたしは字が読めない。あんたが耳元で読んでくれりゃ、呼ぶのはあたしでもできる。豆はやったんだから」


 ラーレは薪を竈の脇に置いて、膝を叩いて立ち上がった。


「納屋の百姓に、荷車が一台空いてるか訊いといで。四枚目の銅貨は、あたしが払う」

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