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Nameless Crown  作者: 宵野 綴
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11/19

弟

 犬は先に着いていた。


 灰原の手前の本営に荷車が入ったのは、王都を出て九日目の昼だった。柵の外まで犬が走ってきて、車輪の周りを三度回り、荷台のラーレの膝に前脚をかけた。首の紐から、紙はもうほどかれていた。


 犬の後ろから、シルヴァが根を噛みながら歩いてきた。荷台の老婆を見て、それからエリアスを見た。


「雇い主を、また増やしたのか」


「雇われちゃいないよ」


 ラーレが言った。


「荷車代は、あたしが払ったんだ」


「じゃあ、あんたが雇い主か」


「犬は雇わないよ。豆を食うからね」


「豆も食うのか、こいつ」


 シルヴァは犬の首の毛を掴んで揺すった。犬は尻尾で荷台の板を叩いた。


 ヨナは灰人の陣の端で待っていた。ガレスが鹿毛の手綱を差し出すと、受け取って首を叩き、腹を叩いた。


「痩せたな」


「……すみません。六日、急がせたので」


「いい。太りすぎてた」


 ヨナは手綱を近くの兵に渡して、エリアスのほうを向いた。手は空になったのに、指がまだ何かを握る形をしていた。


「ネリが読んだ。テオの名を見つけたって」


 エリアスは胸の包みに手を当てた。


「言え」


 ガレスが一歩前に出た。


「あの、言うのは、ここで。小さい声で。……テオの、前では、まだ」


「前置きはいい」


 エリアスはヨナの耳に口を寄せた。ヨナのほうが背が高く、エリアスは少し爪先を上げた。名を、息だけで言った。


 ヨナは暫くそのまま立っていた。それから唇がわずかに動いた。声を出さずに、同じ形を二度作った。


「……母さんがつけそうな名だ」


 ヨナは鹿毛のほうへ目をやった。鹿毛は兵に引かれて、飼葉の山に鼻を突っ込んでいた。


「父が死んだ」


 エリアスが言った。ヨナは鹿毛を見たままだった。


「王都の布告で聞いた。禁書庫の火で、と」


「ネリから聞いた。……総長は、帳面を開けたのか」


「最後の五日で」


「五日か」


 ヨナは鹿毛の首のあたりを、遠くから見ていた。十一年前、九つのヨナを灰区から屋敷へ連れてきたのは父だった。屋敷に着いた最初の晩、ヨナは厩で寝ると言い張って、父はそれを許した。


「五日あれば、テオの頁まで読んだな」


---


 斥候が戻ってきたのは、その日の夕方だった。


 北の川の浅瀬に、ヴァルデンの先鋒が出ている。兵はおよそ三百。前に、顔の分からない兵が十人ほど。旗はヴァルデンの若様のもの。浅瀬を渡れば、半日で灰人の陣の北の端に届く。


 ヨナは報告を最後まで聞いて、焚火に枝を一本足した。


「北境の連中だな」


「そう見えた、と」


「百人連れて行く。夜のうちに浅瀬のこっち側に出る」


「俺も行く」


 エリアスが言った。ヨナは枝を焚火の奥に押し込んでから、顔を上げた。


「あなたは要らない」


「テオの顔を知っているのは、ここでは俺とお前だけだ」


 ヨナは暫く火を見ていた。


「後ろにいろ。前に出たら、俺があなたを斬る」


 シルヴァが焚火の向こうで根を吐いた。


「じゃあ、あたしも後ろだ。前に出たら、あんたに斬られるらしいから」


---


 夜の川沿いは、霜で地面が白かった。馬の蹄の下で霜が砕けて、乾いた音を立てた。百人の灰人の兵は徒歩で、槍を肩に担ぎ、白い息を吐きながら黙って歩いた。エリアスは王女派から借りた葦毛に乗り、ヨナは鹿毛に乗っていた。痩せたと言われた鹿毛は、夜道では誰よりも足が確かだった。


 途中で、ヨナが馬を寄せてきた。


「テオの名の脇に、何て書いてあった」


「呼び名と、第一区画と、霜月六日。それと、送り先に北境」


「北境か」


 ヨナは前を見たまま言った。


「寒いとこだろう。あいつ、靴を履いて行ったかな。履いて行けと言ったんだが」


 エリアスは手綱を握り直した。ラーレの家の戸口で、泥を払わずに靴を履いて、左右を間違えて履き直した子供の足を、エリアスは見ている。ヨナは見ていない。そのときヨナは、壁に寄って腕を組んでいた。


「履いて行った」


「そうか」


 それからヨナは馬を離して、また前に出た。暗がりの中で、ヨナの口元から白い息が細く出ていた。息の切れ目が規則正しくて、何かを声を出さずに繰り返しているようだった。


 夜明け前に浅瀬に着いた。川幅は広く、浅いところは膝ほどで、岸の際には薄い氷が張っていた。水が氷の縁に当たって細かく鳴っていた。


 空が灰色になる頃、対岸に旗が見えた。


 ヴァルデンの兵が岸に並び、その前に、十一の人影が立っていた。十一。エリアスは数えてから、自分の指が数を折っていることに気づいて、拳を握った。十人と、一人。一人は、他より頭一つ背が低かった。


「あれだ」


 ヨナは答えずに鹿毛から降りた。槍を地面に突き立てて、手を離した。


 灰人の兵の列の中で、誰かが短く声を上げた。


「ミロだ」


 第一区画の男だった。対岸の十人のうちの一人を指さしていた。


「ミロ!」


 男は叫んだ。対岸の人影の一つが、首を少しだけこちらへ向けた。それから、元の向きに戻った。男はもう一度叫ぼうとして、隣の兵に腕を掴まれた。


 エリアスは胸の包みに手を当てた。ミロの本当の名は、その中の、テオの名の三つ上に書いてある。唇がそれを作りかけて、ガレスの冷たい指を思い出して、閉じた。


 対岸で角笛が鳴った。十一の人影が川に入り、水音も立てずに歩いてきた。膝まで水に浸かっても、氷の縁を割っても、同じ歩き方のままだった。


 灰人の兵が岸の際に槍を並べた。ヨナはその列の間を割って、川に入った。止めようとした兵の肩を押しのけて、水を蹴って歩いた。冷たい水が腿まで来た。ヨナの足が氷を割る音が浅瀬に響いた。


 背の低い人影が、ヨナに気づいた。剣が上がった。


 ヨナの目は剣より下の、弟の顔にあった。歩く速さを落とさず、振り下ろされる腕の手首を掴んだ。掴んで、そのまま引き寄せた。剣は手から離れて、水に落ちた。


 ヨナは弟を抱えた。


 そして、名を呼んだ。


 エリアスが息だけで言った名を、ヨナは声に出して呼んだ。低い声だった。それでも、浅瀬の上で、両岸のどちらにも届いた。


 テオの目が動いた。ヨナの肩越しに、空を見て、それからヨナの顔を見た。


「……兄さん」


 かすれた声だった。砦の外壁でミロが言った声と同じ、訛りのない平らな声のはずが、その一言だけ、灰区の訛りがついていた。


 ヨナの腕の中で、テオの重さが減っていった。


 肩が落ち、胸が落ち、着ていた服が中から萎むように畳まれていった。灰がヨナの腕の間からこぼれて、水に落ちた。灰が水に触れたところから、白い湯気が細く立った。ヨナは膝をついて、水の中の灰を両手ですくった。膝から下が水に沈み、外套の裾が流れに引かれて下流のほうへ広がった。すくう端から、流れが灰を下流へ運んでいった。


 対岸で、弓を構える音がした。


 エリアスは対岸を見た。ヴァルデンの列の真ん中に、馬に乗った若い男がいた。兜を脱いでいた。ルカスだった。浅瀬の真ん中で膝をついている灰人と、その手の中の湯気を、見ていた。


 ルカスが片手を上げた。弓兵が弦を戻した。


 残りの十の人影は、まだ歩いていた。灰人の兵が槍で押し返した。突いても倒れない相手を、槍の柄で押して、川の中ほどへ戻す。押しては戻ってくるのを、また押す。その間、ヨナは水の中で灰をすくい続けた。外套を脱いで、水面に広げ、その上に灰をすくっては載せた。


 ルカスは馬の上にいたまま、目だけがエリアスのほうに来た。二人とも黙っていた。ルカスは兜を被り直して、それから、ルカスがもう一度、角笛を吹かせた。ヴァルデンの兵が岸から下がり始めた。十の人影は、少し遅れて、向きを変えて、対岸へ戻っていった。


 水の中から、靴が片方だけ浮いてきた。ヨナはそれを拾って、灰の上に載せた。


 第一区画の男が、川底からテオの手を離れた剣を拾い上げて、ヨナの前に差し出した。ヨナは剣を見た。柄にヴァルデンの紋が打ってあった。


「あいつのじゃない」


 男は暫く剣を持っていて、それから川の深いほうへ投げた。


 ヨナは濡れた外套の四隅を持ち上げて、包んだ。


---


 昼過ぎに陣へ戻った。


 ヨナは馬に乗らず、包みを胸に抱えて歩いた。外套から水が垂れて、包みの底から、時々、灰色の水が落ちた。


 ラーレの荷車は陣の端の焚火の脇にあった。ラーレは荷台に腰掛けていて、ヨナを見ると、荷の中から布の包みを一つ出した。ほどくと、木の椀が出てきた。縁が一箇所欠けていた。


 ヨナは膝をついて、外套の包みを地面に置き、開いた。濡れた灰が、外套の布の上で固まりかけていた。ヨナはそれを指で掻き集めて、椀に入れた。指の跡が椀の縁についた。


 ラーレが椀の底に掌を当てた。


「まだ温いね」


 ヨナは灰を入れ終えて、外套の布に残ったものを指でこすり取って、それも入れた。


 エリアスは焚火の反対側に立っていた。ガレスは少し離れて、袖口を掴んでいた。シルヴァは犬の首を押さえて、座らせていた。


 ヨナは椀に布をかぶせて、縁を紐で縛った。手を動かしながら言った。


「名を呼べば、返せる」


「……ああ」


「なら、全員返す」


「写しだけで、四千を超える。原本はその何倍もある。母親が死んでいて、呼ぶ者のいない名ばかりだ」


「一冊に書いてあるんだろう」


 エリアスは頷いた。


「なら、誰かが呼べる」


「呼ぶ者のいない名を、他人が代わりに呼ぶと」


 ガレスが言いかけた。


「帳簿が、代価を、取ります。何を取るのかは」


「書いてないんだろう。聞いた」


 ヨナは紐の結び目を指で締めた。


「取られてから考える」


 椀をラーレの膝に載せて、ヨナは立ち上がった。腰の両側に、屋敷の短刀と、エリアスの短剣がある。ヨナは短剣のほうを鞘ごと抜いて、柄をエリアスに向けて差し出した。


「返す」


「彫ったのか」


「まだ何も。終わってから彫る」


 エリアスが手を出しかねていると、ヨナは柄をさらに突き出した。


「持ってろ。俺が持ってると、今夜どこかに彫る」


 エリアスは短剣を受け取った。鞘が少し湿っていた。


 焚火の向こうで、ラーレが椀の包みを膝の上で抱え直した。


「豆を煮るよ。濡れたまま突っ立ってると、あんたまで灰になる」


 シルヴァが腰の袋から黒い根を一本出して、ヨナの手に押しつけた。


「噛め。寒さが鈍る。歯が黒くなるが」


 ヨナは根を見て、口に入れた。噛んで、顔をしかめた。


「苦い」


「そりゃ苦いさ」


 ヨナが王女の天幕のほうへ歩いていってから、ラーレは鍋に水を張りながら、エリアスに訊いた。


「ミロも、いたのかい」


「いました。第一区画の男が、呼び名で呼んだ。少しだけ、こっちを向いた」


「じゃあ、あたしの番もあるね」


 ラーレは鍋を火に掛けて、豆の袋の口を開けた。


 豆が煮えると、ラーレは椀を四つ並べた。布をかぶせた椀は、荷台の奥に置いたままだった。エリアスの椀にも、シルヴァの椀にも、ガレスの椀にも、鍋の上のほうからよそった。


「今日のは焦げてないよ」


 ガレスは両手で椀を受け取って、暫く湯気を見ていた。それから、袖口で目のあたりを拭いて、匙を取った。犬は四つ目の椀を、豆が冷めるのを待たずに舐め始めた。


---


 三日後、本営は灰原へ向けて動いた。


 王女の旗と灰人の旗が並んで、八十年前に焼けた平原へ入っていった。灰原は名前の通りの土地だった。土を掘ると、一尺も行かないうちに黒い層が出てくる。草はその上に薄く生えていて、馬の蹄が踏むと、下から灰色の粉が舞った。王女の馬の横を、ネリがガレスの板を胸に抱えて歩いていた。荷車の列の中ほどに、ラーレの荷車があった。犬はその横を歩き、シルヴァは荷車の後ろを歩いて、時々、荷台の老婆と何か言い合っていた。


 四日目の夕方、先頭に出ていた斥候が戻ってきて、灰原の向こうの丘にヴァルデンの旗が七つ並んでいると告げた。旗の前に、顔の分からない兵が、数えきれないほど立っている、と。

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