使者
短剣の鞘についた川の泥を、エリアスは焚火の明かりで爪の先から落としていた。乾いた泥は鞘の革の縫い目に入り込んでいて、爪で掻くと粉になって膝に落ちた。三日前に浅瀬で湿った鞘は、乾くときに少し縮んで、刃を抜くと引っかかるようになっていた。
ネリが焚火の向こうから走ってきた。
「記録官。王女様がお呼びです。筆と紙を持って」
「何があった」
「北から人が来ました。シルヴァさんの隊が、国境の道で拾ってきた人です。帝国の者だと」
ラーレが鍋の蓋を少しずらして、湯気の向こうからネリを見た。
「帝国の人も、豆を食うのかね」
「知りません」
「訊いといで。食うなら、煮とく」
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王女の天幕は灰人の陣と王女派の陣の境にあって、入口に灯りが二つ吊ってあった。中は狭く、王女が床几に座り、その脇にヨナが立っていた。ヨナの外套の胸のあたりが、浅瀬の水で色が抜けたままだった。
使者は天幕の真ん中に立っていた。外から来たばかりの冷気が、その白い外套のまわりにまだ残っていて、近くを通ると肌が粟立った。
四十を少し過ぎたぐらいの男で、背は高くない。外套は灰色でも黒でもなく、雪のような白で、裾だけが泥で汚れていた。帽子を取って胸に当てていて、髪は短く刈ってあった。名を訊かれて、使者は帽子を胸に当てたまま答えた。
「名は、帝国の記録院に預けてまいりました。こちらで申し上げることはできません。使者とお呼びください」
王国の言葉だった。訛りがほとんどない。灰人の言葉の崩れ方とは違う崩れ方で、ところどころ母音が長くなった。
エリアスは天幕の隅に膝をつき、板を膝に載せて筆を取った。王女が目でそれを確かめてから、使者に言った。
「どうぞ」
「では、手短に。我が帝国の北部諸州は、貴国の北の峡谷と国境を接しております。この半月、峡谷のほうから風が灰を運んでまいります。八十年、ございませんでした。灰は国境の村の屋根に積もり、井戸に落ち、羊の毛に絡む。村の者は、灰が温かいと申します」
ヨナの手が、外套の胸のあたりで止まった。
「我が国の記録院は、記録にないことを好みません。灰がどこから来るのか、何であるのか、調べよと命じられて、私が参りました」
「なぜ、私に」
「貴国の王に、と言われて参りました。王都へ参りましたら、王の額はまだ濡れておらず、王弟殿下は私に会わず、教会は門を開けませんでした。それで、王女殿下のほうへ」
「私は王ではありません」
「存じております」
使者は胸の帽子を少し持ち直した。
「我が国の記録院は、王である方の名を記録いたします。王でない方の名も、同じように記録いたします。区別はいたしません。殿下のお名前も、すでにございます」
王女は使者を見ていた。床几の上で、膝の上の手が、本を持つときの形に重なっていた。
「灰が何か、私には答えられません」
「答えられない、と記録いたします」
使者は外套の内から、畳んだ紙を一枚出した。王女に差し出し、王女は受け取らずにエリアスのほうを見た。エリアスが立って受け取った。
紙は薄く、白かった。王国の紙とは白さが違った。灯りにかざしても漉き目が見えず、指で撫でても繊維の感触がない。灰色がかった教会の紙とも、黄ばんだ王家の紙とも違う。こんなに白い紙を、エリアスは見たことがなかった。
「我が国の記録院の書式です。灰の件について、貴国から何か分かれば、それにお書きください。国境の砦の者に渡していただければ、私の手元に届きます」
紙には、帝国の文字が三行だけ印刷してあった。エリアスには読めなかった。
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口上が終わると、使者は帽子を被らずに天幕を出た。外にシルヴァが立っていて、犬が使者の白い外套の裾の泥を嗅いでいた。
「北の砦まで、また送る。明日の朝だ。今夜は、あっちの焚火で寝てくれ」
「ご親切に」
「親切じゃない。あんたを拾った手間賃を、王女様から貰う約束だ」
シルヴァは使者と並んで歩きながら、根を噛んだ。
「一つ訊いていいか。帝国は傭兵を雇うか」
「雇います」
「払いは」
「州によって違います。北部諸州では、月に銀貨六枚。それに食事と、冬の外套」
シルヴァの口が止まった。
「悪くないな」
「ただし、雇う前に記録院に登録いたします。名と、生まれた村と、父の名と、母の名を」
「全部か」
「全部です。死んだときに、どこへ知らせればよいか分からなくなりますので」
シルヴァは根を頬の反対側に移した。
「じゃあ駄目だ。書かれる」
使者は少し首を傾げて、それから、天幕を振り返った。王女の天幕から、エリアスがまだ使者の背中を見ていた。
「殿下に、お伝え願えますか。お伝えし忘れたことが一つ」
「何だ」
「貴国は名を消す。我らは名を保つ。どちらが重い罪か、いつか比べましょう、と」
使者は天幕の中まで届く声で言った。それから帽子を被り、シルヴァの焚火のほうへ歩いていった。ラーレの焚火の前を通るとき、老婆が鍋の蓋を持ち上げた。使者は立ち止まり、帽子を取って、豆の湯気に軽く頭を下げた。
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天幕の中で、王女はしばらく床几に座ったままだった。
ヨナが外套の胸を叩いて、色の抜けたところの布をつまんだ。
「灰が温かい、って言ってたな」
エリアスは頷いた。ヨナは布から指を離した。
「浅瀬で、テオのも温かかった」
王女が顔を上げた。
「記録官。王都で頼んだ物は」
エリアスは胸の包みから、薄い綴りを出した。父が引き出しから出したときと同じ、端の焼けた茶色の紙。
「教会が来る前の即位の記録は、残っていませんでした。教会が来た年に、全部持ち出されています。これは、持ち出したときの受け取りの目録です。納め先は、灰原の大聖堂の書庫」
「灰原」
王女はそれを受け取って、灯りの下で開いた。読むのが速かった。頁をめくる指が、三枚目で止まった。
「即位名簿、十二冊」
王女はその行を指でなぞった。
「その下に、小さく。戸を持つ者の名、これを連ねて王を立つ。……王の額に塗るのではない。戸を持つ者が、名を書いて、王を立てた」
王女は目録を膝に置いた。
「教会が来るまで、この国の王は、民の名で立っていた。それを教会が持っていった。持っていったから、八十年、壺の中身でしか王が立たなかった」
「戸を持つ者、か」
ヨナが言った。
「灰人に、戸はない」
「知っています」
「なら、あんたの名簿に、灰人は書けない」
「だから」
王女は目録を閉じた。
「教会が塗るのではなく、民が書く。戸籍を持つ者の名で王を立てる。灰人に戸籍を与えると、私はヨナと紙を交わしています。戸籍が先か、名簿が先か、どちらでもいい。今夜、ここにいる者の名を書く。灰人の名も、王女派の兵の名も。書いた者が、明日、私を立てる」
「書かれた名は、読み上げられる」
ヨナが言った。
「坊主が言ってた。書いてあれば、誰かが声にする」
「書いたものは、私が持ちます。写しを三つ作って、三つとも私が持つ」
ヨナは王女を見て、それから外套の胸の、色の抜けたところを見た。
「灰人に訊いてくる。書かれたい奴がいるか」
「訊いてください」
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ヨナが出ていったあと、ネリが天幕の入口の布を下ろした。灯りが揺れて、王女の影が天幕の壁で大きくなった。
「王女様」
ネリは入口の前に立ったまま言った。
「名簿に書く前に、記録官に言っておきたいことがあります」
「言いなさい」
ネリはエリアスのほうを向いた。
「私の母は灰人です。王宮の厨で下働きをしていた男が父で、私はその父の戸籍に入れられました。だから私には名が書いてあります。母の名は、どこにも書いてありません。灰区には、母に会いに、月に一度行っていました。パンを持って。……灰区の話が王宮まで届くと王宮で言ったのは、そういうことです」
エリアスは筆を板の上に置いた。
「なぜ、今」
「名簿に書くとき、私は父の名で書かれます。書かれる前に、誰か一人には、母のほうの話をしておきたかった」
「ネリ」
王女が言った。床几から立ち上がっていた。
「知っていました」
ネリが王女を見た。
「あなたは月に一度、王宮の裏門の帳面に、東の市場へ、と外出を書いていく。東の市場には、あなたの好きな物は何も売っていない。私はあの帳面を、毎月読んでいました。他にすることがなかったので」
ネリは口を開けて、何か言おうとして、袖で口を押さえた。
「お母様の名を、名簿に書きますか」
「……母は、王都にいます。書いて、もし教会に知られたら」
「なら、書かない。あなたが書いてほしくなったら、そのときに書く」
王女はまた床几に座った。目録を膝に戻して、表紙の焼けたところを指でなぞった。それからエリアスのほうを向いた。
「記録官。あなたは書かれますか」
「北の名簿では、死んだことになっています。砦が落ちたあとで、線が引かれました。王都の書記には、死んだままのほうが楽だと言われました」
「ここは王都ではありません」
王女はネリの抱えていた板から、白い紙を一枚抜いて、エリアスの膝の板の上に置いた。
エリアスは筆に墨を含ませた。冷えた墨は粘って、筆先が重かった。紙の一番上に、自分の名を書いた。エリアス・ロートヴェル。姓のところで筆が少し掠れて、もう一度なぞった。書き終えると、ネリが脇からその紙を取り、灯りにかざして、墨が乾くのを待った。
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ヴァルデンの陣からの使いが来たのは、夜が更けてからだった。
白い布を槍の先に括った兵が一人、灰人の陣の北の端で止まり、灰人の兵に囲まれたまま、記録官に渡したい物があると言った。宛名を訊かれて、兵は畳んだ紙の表を見せた。
墨へ。
灰人の兵がそれを読めず、シルヴァの隊の者が読んで、エリアスのところへ持ってきた。
紙はヴァルデンの公家の紙で、字はルカスの字だった。騎士学校の試験の答案で、隣の机から何度も見た字だ。右へ少し傾いて、行の終わりで必ず跳ねる。
エリアスはそれを、王女の天幕の灯りの下で開いた。王女とネリと、戻ってきたヨナがいた。
短い手紙だった。
明日、父は灰兵を先頭に立てる。教会の者は、数を一万と言っている。私は止められなかった。
浅瀬で見たことは、父には言っていない。言えば父は教会に訊く。教会が何と答えるのか、私は聞きたくない。
追伸。北境砦の厨にいた太った男は生きている。捕虜にしたが、うちの陣で鍋を振らせている。君のことを墨と呼ぶので、それで宛名を書いた。
L。
エリアスは手紙を読み終えて、王女に渡した。王女が読み、ネリに渡した。ネリは読んで、ヨナのために、声に出して読み直した。追伸のところで、ネリの声が少し止まった。
「鍋底だ」
エリアスが言った。
「砦の料理番だ。俺を川へ投げた」
ヨナは手紙を見ずに、ネリの声を聞いていた。腰の脇に下げた布の包みの紐を、指で解いて、また結んだ。結び目を確かめるように引いて、もう一度結び直した。
「一万」
「写しに書いてあるのは、四千と少しだ。残りは原本にある」
「原本は、大聖堂か」
「灰原の、向こうの丘の上だ」
ヨナは紐から手を離した。
「灰人は、書かれてもいいと言った。半分は呼び名で、半分は名で。名を言った奴の中に、母親の顔も知らない奴がいた。誰に聞いたのかと訊いたら、自分でつけた、と言った。……坊主はもう、焚火を回って書き始めてる。墨を濃くしろと、灰人の若いのに言って回ってた。薄いと消えやすいからだと」
王女はルカスの手紙を畳んで、目録の頁の間に挟んだ。
「ネリ、紙を。ありったけ」
ネリが顔を上げた。
「今夜のうちに、この陣にいる者の名を書きます。名を言う者は名を。言いたくない者は呼び名を。自分でつけた名を言う者は、その名を。字の書ける者は全員、筆を持って焚火を回りなさい。記録官は、書いた紙を一枚ずつ数えて、写しを三つ。夜明けまでに」




