灰原
夜が明けきらないうちに、陣の焚火を回っていた者たちが紙の束を抱えて王女の天幕へ戻ってきて、エリアスはその束を一枚ずつ受け取っては膝の上で揃え、角を指で弾いて数え、数え終えた束を脇に積み、次の束を受け取るということを、空が白くなるまで続けた。
三千八百十一。
最後の一枚を数え終えて、エリアスは指を止めた。三千八百十一の名のうち、千二百ほどは呼び名で、九百ほどは名で、残りは王女派の兵の戸籍のある名だった。自分でつけたという名が、灰人の束の中に三十七あった。三十七まで数えたところで、それを数えるつもりなどなかったのに指が動いていたことに、エリアスは束を置いてから気がついた。
束の一番上に、昨夜自分で書いた紙があった。エリアス・ロートヴェル。姓のところで一度掠れて、なぞった跡がある。
「写しは」
王女が言った。目の縁が赤く、夜通し起きていたのが一目で分かった。
「三つ。ネリと、ガレス司祭と、ヴァルデンの書記をしていた捕虜が一人。字の癖が違うので、三つとも並べれば、どこを写し損じたか分かります」
「三つとも、ここに」
王女は膝の上の布を広げた。エリアスがその上に三つの束を置くと、王女は布の四隅を結んで胸に抱えた。
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灰原は日が昇っても灰色だった。吐く息も、馬の鼻から出る湯気も、平原の色に紛れて見分けがつかなかった。
平原の東と西に丘があり、東の丘に王女派と灰人の陣、西の丘にヴァルデンの旗が七つ並んでいる。その間の平らな土地は草が薄く、馬が踏むと下から灰色の粉が舞い上がった。北の端にもう一つ低い丘があって、その頂きに石の建物が一つだけ建っていた。大聖堂で、鐘楼の先が朝日を受けて白く光っていた。
西の丘から灰兵が下りてきた。
列を作らず、間を空けず、斜面を覆うように下りてくる。一万という数をエリアスは頭の中で持て余し、数え始める前にやめた。足音は灰の土に吸われて、風の音のほうが大きかった。西から吹く風が、灰兵の列から灰区の土の匂いを運んできた。
灰兵の後ろにヴァルデンの兵が続き、その真ん中に公家の旗が立っていた。旗の下で背の高い男が馬に乗っている。遠くて顔は見えないが、王の葬列でまっすぐ前を見ていた、あの肩の広さだった。
東の丘の前には灰人の兵が並んでいた。最前列に灰色の外套が一つあって、鹿毛に乗り、槍を肩に担いでいる。ヨナだった。
ラーレが荷車の上で、膝の上の布の包みを両手で押さえた。
「前に出るのは、灰人なんだね」
「ヨナが決めた」
シルヴァが言った。
「灰兵の顔を見て名を呼べるかもしれない奴が、前にいたほうがいいってさ。……呼べる奴なんか、ほとんどいないのにな。母親しか知らないんだろう」
「母親だけじゃないよ」
ラーレは包みを、さらに強く押さえた。
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二つの列がぶつかったのは、日が丘の上に昇りきった頃だった。
エリアスは東の丘の中ほどにいた。王女の天幕のすぐ前で、シルヴァの隊と一緒に荷車と馬を守っていた。下の平原は灰色の粉で霞んでいた。
灰人の兵は浅瀬のときと同じことをしていた。槍で突かずに柄で押し、押し返されてはまた押す。倒れないものを、倒さずに止めようとしている。一つの灰兵を三人で押さえ、その間に誰かが灰兵の顔を覗き込んで何か叫ぶ。呼び名だ。灰兵が首を少しだけ動かして、また元に戻る。同じことが平原のあちこちで繰り返されていた。
ヴァルデンの兵は灰兵の後ろで止まっていて、前に出てこなかった。灰兵に押させて、灰人の列が崩れるのを待っているのだった。
「上手いやり方だ」
シルヴァが根を吐いた。
「自分の兵は一人も減らない。親父さんは賢いな」
北の丘の上の鐘楼で、鐘が鳴った。
低い音が一つ平原の上を渡ってきて、それからもう一つ鳴った。
ガレスが荷車の脇で顔を上げた。
「修道院でも、朝に、鐘を三つ。……三つ目で、子供たちが、起きて、並んで。名を訊かれても、呼び名しか言わなくなった子から、北へ」
ガレスは袖口を掴んだまま、鐘楼のほうを見ていた。
平原の灰兵が動きを止めていた。一万の灰兵が一度に止まり、押していた灰人の兵がつんのめって前へ倒れた。灰兵の目は倒れた兵の上を素通りした。
三つ目の鐘が鳴った。
灰兵が向きを変えた。半分はそのまま東へ来て、もう半分は西へ、後ろに控えていたヴァルデンの兵のほうへ向いた。
西の丘の下で悲鳴が上がった。ヴァルデンの兵が自分たちの前にいたものに斬られていた。槍を構える暇も逃げる暇もなく斬られて倒れ、倒れた者の上を灰兵が歩いていく。公家の旗が揺れて、旗の下の馬が後ろ脚で立った。背の高い男が剣を抜くのが見えた。灰兵の波がその馬を呑み、旗が傾いて、灰色の粉の中に倒れた。
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東へ来た灰兵は灰人の列を割って、丘を上ってきた。
「荷車を寄せろ! 馬は後ろだ!」
シルヴァの隊が槍を並べた。エリアスは剣を抜いた。浅瀬の泥を落とした鞘から刃が引っかかって、二度目で抜けた。
灰兵が三つ斜面を上ってきて、一つは大人で、二つは若かった。若い一つの顔にエリアスは見覚えがあった。砦の外壁で峡谷の奥を見ていた顔だ。
「ミロ」
ラーレが言った。
ラーレはもう荷車の荷台から降りていた。膝の上の包みを荷台に置いて腰を伸ばし、杖も持たずに斜面を下りかけていた。
「ラーレ!」
エリアスは荷車の脇から飛び出して、老婆の腕を掴んだ。ラーレが振り向いた。
「名を」
「下がって」
「名を言いな。あんたの耳には入ってるんだろう。あたしの耳に入れな」
ミロが斜面を上ってくる。剣を持った手が上がりかけて、シルヴァの隊の槍が二本その前に出た。
エリアスはラーレの耳に口を寄せた。テオの名の三つ上に細い字で書いてあった名を、息だけで言った。
ラーレは頷いて、エリアスの手を自分の腕から外し、二歩前に出て槍の間に立った。
ミロの剣がラーレの頭の上で止まった。
ラーレは名を呼んだ。台所の竈の前で、豆が煮えたのを知らせるときの声だった。
ミロの目が動いた。剣を持った手が下がり、ミロは老婆を見下ろして口を開いた。
「……ラーレ。豆、焦げてる」
それからミロの重さが崩れていった。肩から胸へ、胸から膝へ、服が中から畳まれていき、灰がラーレの足元に落ちた。剣は灰の上に倒れた。
ラーレは笑った。
声を上げて笑った。槍を構えたシルヴァの隊の者たちが老婆を見た。ラーレは笑いながら膝をついて、足元の灰を両手でかき集めた。
「焦げてたね。あの晩は、焦げてた」
笑いながら灰をすくって、自分の前掛けの上に載せた。前掛けの布に灰が積もると、そこから細い湯気が立った。
ラーレは前掛けの紐をほどいて、灰を包んだまま畳み、振り向いた。荷車の脇にガレスが立っていた。
「司祭様。持ってておくれ」
ガレスは差し出された包みを見て、それから老婆の顔を見た。袖口から手を出して、両手で受け取った。包みはまだ温かかったらしく、ガレスの指が一度だけ布の上で跳ねた。
「あたしは腰が痛い。灰でも、重いもんは重い」
ラーレは荷車の荷台に手をかけて、自分で這い上がった。
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残りの二つの灰兵は、シルヴァの隊が押し返していた。押しても戻ってくるのを三人がかりで一つずつ押さえて、その間に他の者が荷車を斜面の上へ引き上げた。
「墨!」
斜面の下から声が上がった。
太った男が、両手で大きな鉄の鍋を抱えて斜面を上ってきていた。灰兵の脇を鍋を盾にして走り抜け、肩で息をしながらエリアスの前で止まった。腕の毛が濃く、顔が煤で黒い。
「鍋底」
「生きてたか、墨!」
鍋底は鍋を地面に置いて、エリアスの肩を掴んで揺すった。
「椀が一つ戻ったな!」
それから斜面の下を振り返った。
「ヴァルデンの陣はもう駄目だ。鐘が鳴ったら、前の連中が全部こっちに向いた。公も旗の下で斬られた。若様が親父の体を担いで、北の窪地のほうへ逃げてる。俺を料理番にしてくれた若様だ」
鍋底は鍋を抱え直した。
「この鍋は、公の陣の一番いい鍋だ。置いてくのは惜しかった」
「鍋を持って逃げる奴があるか」
シルヴァが言った。鍋底はシルヴァを上から下まで眺めて、鍋の底を拳で叩いた。鈍い音がした。
「あるさ。鍋がなきゃ、生き残った奴が晩に何を食う」
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王女は天幕の前に立っていた。名簿の包みを胸に抱えたまま、平原を見下ろしていた。エリアスが荷車の脇から戻ると、王女はエリアスの顔を見ずに言った。
「大聖堂へ行きなさい。原本と、即位名簿。目録には十二冊とありました。書庫にあるなら、十二冊とも」
「灰兵が平原に」
「平原を通らない道を探しなさい。ここは、ヨナが押さえています」
シルヴァが根を噛みながら、二人の間に入った。
「あたしも行く。雇い主が丘の上で死んだら、払いが貰えない」
「私が払います」
「王女様の払いは、名簿に名を書いてからだろう。あたしは書かれない」
鍋底が鍋をラーレの荷車の脇に下ろして、腰に手を当てた。
「俺は残る。ここで火を起こしとく。晩に誰が帰ってきても、何か食わせられるように」
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平原の北の端に浅い窪地があった。エリアスはシルヴァとガレスを連れて、その窪地の縁まで下りた。犬はシルヴァの足元についてきた。
ルカスは窪地の底で膝をついていた。背中に背の高い男を担いでいて、男の腕が地面に垂れていた。ルカスは担いだまま肩で息をしていて、顔に灰色の粉がこびりついていた。
「ルカス」
ルカスが顔を上げた。エリアスを見て、それからシルヴァとガレスを見た。
「墨か」
「鍋底に聞いた」
「生きてたろう、あの男」
ルカスは少しだけ笑って、背中の男をゆっくりと地面に下ろした。父の顔が見えた。目が開いていた。
ルカスは父の腰から剣を抜いて、窪地の土に突き立てた。剣は斜めに傾いたまま立った。
「父は、鐘が鳴るまで、灰兵を自分の兵だと思っていた」
ルカスは剣の柄から手を離した。
「大聖堂へ行くんだろう。原本を取りに」
「なぜ知っている」
「手紙に一万と書いたら、君が来ないわけがない」
ルカスは窪地の北を指さした。窪地はそのまま北へ細く延びて、大聖堂の丘の裾まで続いていた。
「窪地を行けば、平原を通らずに丘の下まで出られる。灰兵は平原にいる。丘の上は分からない。教会の者しか入れない」
「お前は」
「父を陣へ戻す。戻す陣があるならだが」
ルカスは父の体をもう一度背中に担ぎ上げた。重さで膝が沈んだ。剣は窪地の土に立てたまま、置いていった。
「墨」
「何だ」
「あの栗毛、まだ屋敷にいるか」
「分からない。屋敷は公の家令が使っている」
「なら、取り返しておけ。俺が乗る」
ルカスは父を担いで窪地の斜面を上っていった。斜面の途中で一度足が滑り、片手を地面について、また上った。
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窪地を北へ行く途中で、平原の上を鹿毛が駆けてくるのが見えた。
ヨナは槍を捨てていて、鹿毛の首にしがみつくようにして灰兵の間を縫っていた。窪地の縁に気づくと鹿毛を寄せてきた。外套が裂けて、片腕から血が流れていた。
「どこへ行く」
「大聖堂だ」
「原本を取れ」
ヨナは鹿毛の首を返した。
「こっちは押さえる。押さえられるだけ」
鹿毛はまた平原へ駆け戻っていった。ヨナの裂けた外套の裾が、灰色の粉の中で旗のようにはためいた。
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半刻後、三人は大聖堂の丘の下にいた。
丘の斜面に石の段が刻まれていて、段は上の扉まで続いていた。段の石は人の足ですり減って、真ん中だけが浅く窪んでいた。ガレスはラーレから預かった前掛けの包みを胸に抱えたままで、犬は段の下に座り込み、シルヴァは根を噛みながら段の数を目で上へ辿っていた。扉は青銅で、閉まっていた。鐘楼の鐘はまだ鳴っていて、一つ鳴るたびに、背後の平原で何かがまた向きを変える音がした。




