扉
ガレスが青銅の扉に掌を当てて、押していいのかどうか迷うように、指を開いたり閉じたりしていた。扉の表面には人の背丈ほどの浮き彫りがあって、灰の中から麦の穂が伸びている図柄だった。麦の穂のところだけ、何百年分の手が触れたように青銅が光っていた。
段の下で犬が鼻を鳴らした。平原から吹き上げてくる風が、段の石の窪みに溜まった灰を巻き上げて、シルヴァの髪にかけていった。シルヴァは手で髪を払い、払った手を見て、指先についた灰を膝で拭いた。
「こんな所で、坊主は毎日祈ってるのか」
「祈っているのかどうか、私は、知りません」
ガレスは扉から目を離さずに言った。
「司教区の書庫の者は、ここへ使いに出されると、前の晩に、遺言を書きました。半分は、冗談で。……私の前の書庫番は、帰ってきてから、靴を三日、洗い続けていました」
「何が付いてたんだ」
「灰です。洗っても、縫い目から出てくると」
「押してみろ」
シルヴァが後ろから言った。ガレスは掌に体重をかけた。
扉は重い音を立てて内側へ開いた。
閂は外されて、扉の脇の壁に立てかけてあった。ガレスは扉から手を離して自分の掌を見た。青銅の冷たさが移ったのか、指先が白くなっていた。
「開けてあるのは、気に入らないな」
シルヴァが根を吐いて、槍の穂先で扉の縁を叩いた。乾いた音が中に響いて、ずっと奥まで転がっていった。
「誰かが待ってるってことだ」
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大聖堂の中は広く、暗かった。
天井は高く、梁の間に細い窓がいくつも切ってあって、そこから入る光が床の上に白い帯を何本も落としていた。床に足を下ろすと、靴の下で沈んで細かい粉が舞った。灰だった。床一面にくるぶしの高さまで灰が敷き詰められていて、光の帯の中で、舞い上がった粉がゆっくり回っていた。
エリアスはしゃがんで、灰に掌を当てた。
ぬるかった。人の肌よりは冷たく、外の土よりはずっと温かい。手を引くと、灰の上に掌の形が残った。見ているうちに、その窪みの縁から灰がさらさらと崩れて、指の形から順に埋まっていった。掌の皺には、灰が細く入り込んでいた。
灰の床はがらんと広く、奥の壁の前に石の柱が一本立っているだけだった。柱の脇から上へ、細い階段が螺旋を描いて上っていた。
鐘の音が頭の上から降ってきて、音のたびに灰の床の上の粉がわずかに跳ねた。
「鐘楼は、あっちだ」
シルヴァが右手を顎でしゃくった。灰の床の右の隅に狭い戸口があって、そこから太い綱が一本、上へ伸びていた。綱が下りてきては上がり、下りてきては上がる。その度に頭の上で鐘が鳴った。
三人は灰を踏んで戸口へ寄った。灰が足音を吸って、シルヴァの槍の石突きは音もなく灰に沈み、耳につくのはガレスの息だけだった。
綱を引いているのは男だった。
背の低い痩せた男で、灰色の修道衣を着ていた。綱を両手で握り、膝を曲げて体重をかけ、伸び上がって綱を戻す。それを顔色ひとつ変えずに繰り返していた。綱を握る掌の皮は擦れて剥けていて、剥けたところから、血の代わりに灰色の粉がこぼれていた。目は開いていて、三人が戸口に立っても、綱だけを見ていた。
ガレスが袖口を掴んだ。
「……修道院の、鐘番です。私が東の修道院にいたとき、朝の鐘を、三つ。あの人が」
「呼び名は」
「知りません。皆、鐘番、と」
ガレスは一歩だけ戸口に入って、男の横顔に向かって言った。
「鐘番さん」
男の膝が、一瞬だけ、曲げる途中で止まった。それから、また曲がった。綱が下りて、頭の上で鐘が鳴った。
ガレスは戸口から下がって、袖口を何度か引いた。
シルヴァは槍を壁に立てかけて、腰の短い剣を抜いた。
「止めるか」
「斬っても倒れない」
「斬るのは、男じゃない」
シルヴァは鐘番の脇に回り込んで、男の頭の上、綱が男の手を離れて上へ伸びていくところに剣を振り上げた。一度目で綱の半分まで切れ、二度目で切れた。
綱の上半分がするすると上へ消えていった。頭の上で鐘が最後に一度、半端な音を立てて、止んだ。
鐘番は切れた綱の下半分を握ったまま、膝を曲げて体重をかけた。綱は手応えなく下りてきた。鐘番は伸び上がって綱を戻し、だらりと垂れた綱を握ったまま、また膝を曲げた。
「雇われの仕事だ」
シルヴァが剣を鞘に戻した。
「誰かが壊したくて、自分じゃ壊せないものを、壊す」
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鐘が止んでも、外の音は続いていた。
開いたままの青銅の扉の向こうで、丘の段を上ってくる足音がしていた。足並みはばらばらで、重さもまちまちで、ただ、どれも同じ速さで上ってくる。
シルヴァが扉のほうへ戻って外を覗いた。それから扉の縁を両手で掴んで、閉めようと引いた。扉は半分まで動いて、床の灰を扉の下に噛んで、そこで止まった。
「灰兵だ。段の下から、二十。もっといるかもしれない」
「鐘が止んだのに」
「止んだら、最後に向いてた方へ行くんだろうよ。最後に向いてたのが、こっちだったんだ」
シルヴァは扉の隙間に槍を構えて立った。
「上へ行け」
「シルヴァ」
「上へ行け。ここは狭い。一人で押さえられる」
「押さえきれない。倒れない相手だ」
「知ってる。上で何をするのか知らんが、すぐには済まないんだろう。階段で追いつかれたら、あんたは何もできない」
段の上に、最初の灰兵の頭が見えた。大人の男で、ヴァルデンの革の胴着を着ていた。シルヴァは扉の隙間から槍の柄を突き出して、男の胸を押した。男は一段落ちて、また上ってきた。
「行け、墨」
シルヴァは振り向かずに言った。
エリアスは螺旋の階段のほうへ一歩踏み出して、止まった。
「姓を」
「何だって」
「姓を聞いてない。まだ」
シルヴァは灰兵の胸を押しながら、喉の奥で短く笑った。
「言わない。書かれる」
二つ目の灰兵の頭が見えて、シルヴァの槍が二つの胸を交互に押した。
「払いの話をしとく。証文は破っといてくれ。屋敷も馬もいらない。犬に、干し肉二枚」
「二枚」
「二枚だ。間違えるなよ」
灰兵の三つ目の頭が段の上に出て、シルヴァは槍を握り直した。
「帝国の使者にな、銀貨六枚って言われたとき、ちょっと迷ったんだ。冬の外套もつくって言うからさ」
シルヴァは三つの胸を順に押した。
「書かれるのが嫌で、やめた。迷ったのは、あんたに言っとく」
犬はシルヴァの足元に座っていて、尻尾を灰の床に一度打ちつけた。
エリアスは胸の内側の証文に手をやった。林で書いた証文は、川の水と汗でふやけて、角が丸くなっていた。破らなかった。手を離した。
ガレスがエリアスの袖を引いた。エリアスは螺旋の階段に足をかけた。
背中で、シルヴァが犬に何か言っていた。灰人の言葉でも王国の言葉でもない、短い、喉の奥で切るような音だった。犬の耳がその音のほうへ動いた。
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階段は狭く、石の段の一つ一つが真ん中だけすり減って、浅く窪んでいた。壁に手をつくと石は冷たく、ところどころ湿っていた。上るにつれて、下の灰の床の音が遠くなった。槍の柄が何かを押す鈍い音が、規則正しく聞こえていた。
ガレスは前掛けの包みを胸に抱えて、エリアスの後ろを上ってきた。息が荒かった。
二周ほど上ったところで、壁に戸口が開いていた。
中は書庫だった。窓が一つもない細長い部屋で、壁という壁に棚が並び、棚には背表紙の黒い帳簿がぎっしり詰まっていた。戸口から差し込む階段の窓の光で、一番手前の棚の背に、即位名簿、と金の剥げかけた字が読めた。
同じ書名の背が横に並んでいた。一、二、三。エリアスの目が勝手にそれを追った。四、五、六。七から先は暗がりの中で、指で背を辿って数えた。十二。全部あった。背表紙の革は乾いて、端が粉になりかけていた。
その隣の棚には、背に何も書いていない帳簿が並んでいた。ガレスが一冊を半分だけ抜いて、中を覗き、すぐに戻した。
「施し所の、配給帳です。……灰区の。三十年分。いえ、もっと」
背に何も書いていない帳簿の列を、ガレスは端から端まで目で追った。
「私が書いた七年分も、この中にあるはずです。移送の欄も」
ガレスは即位名簿の一冊目の背に指を当てて、指の腹で背表紙の文字をゆっくり撫でた。
「私が、持って上がります。一度に二冊なら、六回で」
「上へ持っていく必要は」
「灰兵が、下から上ってきたら、ここは、通り道です」
階段のほうへ顎を引いてみせて、下の槍の音がまだ続いているのを確かめるように耳を傾けてから、一冊目の名簿を抜いて腕に抱え、その上に、ラーレから預かった前掛けの包みを載せた。革が擦れて、乾いた粉が袖にこぼれた。
「先に、行ってください」
エリアスが階段に戻って三周ほど上ってから、下を覗くと、螺旋の吹き抜けの底のほうで、ガレスの灰色の頭が階段を下りていくのが見えた。二冊目を取りに戻るのだった。両腕を前に突き出して、空の腕の形で下りていく。
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階段はさらに続いた。
上るほどに窓が大きくなった。細い切れ目だった窓が手のひらの幅になり、腕の幅になって、そこから外が見えた。灰原が下に広がっていて、平原の粉の中では、人の形をしたものと人が、まだ入り混じって動いていた。東の丘の中腹から、細い煙が一本だけ、まっすぐ立ちのぼっていた。鍋底の火だった。平原の真ん中には、灰色の布に黒い縦線の旗が一本、傾いたまま立っていた。
エリアスは窓から目を離して上った。腿が重く、段を一つ上るたびに膝の裏が引きつった。途中から、吐く息が白く見えなくなっていた。上へ行くほど、壁の石が温かくなっていた。
下から、何かが上ってくる音がした。軽い、速い足音で、爪が石を掻く音が混じっていた。
エリアスは立ち止まって壁に背をつけた。
犬だった。
螺旋の陰から犬が一頭で現れて、エリアスの足元まで駆け上がり、そこで止まった。舌を出して、肩で息をしていた。首の紐は、シルヴァが結んだときのまま首に巻きついていた。毛に灰がついていた。
犬はエリアスの膝のあたりに鼻を押しつけて、それから、来た階段のほうを一度だけ振り返った。
下から聞こえていた槍の柄の音は、途切れていた。
エリアスは腰の袋に手を入れた。干し肉が二枚入っていた。今朝、丘を下りる前に、シルヴァが犬の分だと言って、黙ってエリアスの袋に押し込んできたものだった。二枚とも出して、犬の前の段に置いた。
犬は一枚目を食べて、二枚目を少し見てから食べた。
食べ終えると、犬はエリアスの足元に座った。
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最上階の扉は木だった。
階段の終わりに小さな踊り場があって、その奥に古い木の扉が一枚あった。青銅でも鉄でもなく、灰区の家の戸と変わらない、板を寄せて打ちつけただけの扉で、取っ手のところだけ黒く手垢で光っていた。
隙間から灯りが漏れていた。紙をめくる音が一度だけした。
エリアスは扉の前の踊り場で膝をついた。腰の矢立から筆を抜き、胸の内側から、帝国の使者が置いていった白い紙を出した。漉き目の見えない、指で撫でても繊維の感触のない紙だった。
その一番上に、シルヴァ、と書いた。
姓を書く場所を、紙の上に少し空けた。空けたまま、筆を矢立に戻した。墨は白い紙の上で、王国の紙よりずっと速く乾いた。
エリアスは紙を畳んで胸に戻し、立ち上がった。掌にはまだ、下の灰の床に触れたときの灰が残っていて、皺に入り込んだまま取れていなかった。腰の短剣の柄に手をやると、柄は冷えていた。犬が足元で耳を立て、扉の下の隙間に鼻を寄せて、短く匂いを嗅いでから、エリアスの脚の後ろに回った。
扉に手をかける前に、中から声がした。
「入りなさい。開いています」
低い、よく通る声だった。王の葬列の日に、広場の隅まで届いた声だった。
「焼け残った君の父君の帳簿を、読みました。名の脇の呼び名まで、一つ残らず写してあった。燃やすための偽物に、呼び名は要らないのに」




