大司教
部屋は狭かった。
扉を押すと、乾いた紙の匂いと、灯りの油の匂いが一度に顔に当たった。部屋の中は階段よりさらに温かかった。外套の下で、背中に汗が浮いた。窓は西に一つだけ切ってあって、その下に書き物机が一つ、机の上に灯りが二つ、灯りの間に帳簿が一冊開いていた。壁には棚も、聖像も、何も掛かっていなかった。床は石で、ここだけは灰が敷かれていなかった。
大司教は机の向こうに座っていた。
葬列の日に壺を捧げ持っていた手が、今は帳簿の頁の端に置かれていた。灰色の法衣の袖を肘までまくっていて、腕は老人の腕にしては筋が浮いていた。髪は白く、短く刈ってあった。顔を上げて、エリアスを見て、それから足元の犬を見た。
「犬も、どうぞ。ここは誰も、犬を咎めません」
犬はエリアスの脚の後ろから動かずに、鼻だけを部屋の中へ向けた。
「座る椅子はありません。一人で使う部屋なので。水なら、そこに」
机の端に、陶の水差しと椀が一つ置いてあった。エリアスは喉の渇きに負けて、椀に水を注いで飲んだ。水は冷たく、喉の奥で、かすかに灰の味がした。大司教の前に椀はなかった。
大司教は帳簿の頁を一枚めくった。指が紙を離れるとき、頁の端に、灰色の粉がうっすらと残った。
「君の父君の帳簿は、表紙と最初の二十枚が焼け残っていました。呼び名まで写してあった。区画も、日付も、送り先も。二十一枚目から先が白いのを見て、私は、ああ、と思いました。本物は息子が持って、どこかへ逃げたのだと」
「なぜ、私が来ると」
「来ない理由を、思いつかなかったので」
大司教は机の上の帳簿を、両手でエリアスのほうへ向けた。
「これが原本です。八十年分。灰区のものも、地方のものも、北境のものも。君が持っている写しの、四倍と少し」
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エリアスは机の前まで歩いた。
原本は写しより分厚く、革の表紙は黒く、角は丸くなっていた。開かれている頁には写しと同じ書式で名が並んでいた。名の脇に呼び名、区画、日付、送り先。字は細く、右に少し傾き、行の終わりで小さく跳ねていた。
写しの最後の数十頁で、字が変わったところがあった。以後、地方の分は原本に記す、と書き添えてあった、あの右に傾いた字だった。
「三十年前に、写しへ地方の名を送るのをやめさせたのは、あなたですか」
「私です。記録院に写しを持たせておくのは、王家との約束でした。約束の文言は、王都で消した名を写す、です。地方の名を送る約束は、していなかった」
大司教は机の上で指を組んだ。
「平原が、まだ動いているでしょう」
西の窓から、灰原が見えた。平原の灰色の霞の中で、人の形をしたものと人が入り混じっている。鐘が止んでから、もう半刻は経っていた。霞の真ん中で、灰色に黒い縦線の旗が、階段の窓から見たときよりも低く傾いていた。
「灰兵は、一つ殺すごとに重くなります。殺した数を、体の中に溜めていく。一万の灰兵が、合わせて一万を殺したとき、一万の灰は互いを求めて集まり、一つになる。教会の古い言葉では、それを灰の王と呼びます」
「平原で、いま」
「いま、半分を少し越えたところでしょう。夕方までには、立ちます」
「止める方法は」
「鐘を鳴らせば、向きを変えられます。止めることは、もうできない。それに、綱は下で誰かが切ったでしょう。最後の音が、半端でした」
大司教は机の上の灯りの芯を、指先で少し引き出して、炎を大きくした。責める口ぶりはどこにもなかった。
「あの綱には、私も、何度か刃物を当てたことがあります。当てただけで、切りませんでした。三十年、毎朝、三つ鳴るのを、ここで聞いていた」
「なぜ、切らなかった」
「切れば、修道院の子供たちが、朝に起きなくなります。三つ目の鐘で起きるように、そう覚えさせたので」
大司教は炎から指を離した。指先に、また灰色の粉がうっすらと残っていた。
大司教は窓のほうを見ずに言った。
「灰の王は、名を持ちません。冠家も灰人も、王も記録官も、灰の王の前では同じ灰です。……君の友人の、ヨナという若者が求めた世界を、私は一夜で作る」
「ヨナが求めたのは、灰人が名を持つ世界です」
「名を持てば、名の上下ができます。戸籍に書かれた名は、書かれなかった名の上に立つ。王女殿下が今夜書かせた名簿も、同じことです。書かれた者が王を立て、書かれなかった者は、立てられた王の下に置かれる」
「浅瀬で」
エリアスは言った。
「ヨナが弟を呼んだ。弟は灰になる前に、兄さん、と言った。灰区の訛りで。……あなたの世界には、その声がない」
大司教は暫くエリアスを見ていた。
「浅瀬のことは、ヴァルデンの陣にいた司祭から聞いています」
大司教は組んだ指を、ほどいて、また組んだ。
「それでも、立てます」
「決めたのは、あなた一人だ」
「一人で選べることは、一人で選びます。教会の誰にも、相談していません。相談すれば、誰かが私の上に立つので」
大司教は、少し笑った。
「必要な混乱、と私は使いに言わせました。灰人の蜂起がなければ、王女殿下は灰人を兵として受け入れなかった。受け入れなければ、両軍はここまで大きくならず、灰原に揃わなかった」
エリアスは窓の外の、傾いた旗を見た。旗の下の霞の中に鹿毛がいるのかどうか、この高さからでは見分けがつかなかった。旗の竿は、さっきより、また少し傾いていた。
「あの若者は、私が思っていたより、ずっと遠くまで三千人を連れてきた。飢えさせずに。……私は、本当に感心しているのです」
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階段のほうで、足音がした。
ガレスが、即位名簿を二冊胸に抱えて、踊り場に立っていた。肩で息をしていた。名簿の上に、前掛けの包みが載っていた。
大司教はガレスを見た。
「灰区の司祭ですね。七年。施し所で誰を呼ぶか、一晩中悩んで、朝に目を赤くしていた」
ガレスの腕の中で、名簿がわずかに下がった。
「……なぜ、ご存じで」
「施し所の帳面は、全部、ここに来ます。君の字は、悩んだ月ほど、乱れていた」
ガレスは名簿を床に下ろした。名簿の上に載せていた前掛けの包みを取って、少し迷ってから、机の端の、原本から一番遠いところに置いた。それから膝をついたまま、袖口を掴んだ。
「子供たちは、なぜ」
「名のない者を、預かってほしいと言われたからです。八十年前に。それから八十年、預かってきました」
「預かって、灰に」
「灰にして、国を守らせました。八十年、この国は外と一度も戦っていない。君の施し所の粥も、その八十年の上で炊かれていた」
「祝福だと、言わせました」
ガレスの声が、少し大きくなった。
「修道士の耳に、名を言えば、祝福を受けられると。子供たちは、喜んで、言いました。喜んで。私は、それを、後ろで、見ていた」
「そうですね。見ていた」
大司教はそれ以上、何も足さなかった。ガレスは袖口から手を離して、床の上の名簿の表紙に掌を置いた。掌を置いたまま、暫く動かずにいた。
エリアスは机の端に手をついた。
「灰の王が立ったあと、その帳簿は」
「燃やします」
大司教は原本の表紙に指を置いた。
「この帳簿は手綱です。灰兵一つ一つに縛った名が、ここに書いてある。手綱を持つ者は、灰の王の上に立てる。私はそれを望まない。だから、灰の王が立ったら、燃やします。手綱のない王は、誰のものでもなくなる」
「誰のものでもない王は、どこへ行く」
「風の吹くほうへ」
大司教は、そこで初めて窓の外を見た。
「北の国境の向こうでは、もう灰が降っているはずです。帝国の使者が、王都の教会の門まで来ていました。門は開けさせませんでした」
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「読めるなら、読みなさい」
大司教は原本を、さらにエリアスのほうへ押した。押し終えた手が、帳簿の前のほうの、八十年分の頁の厚みの上で少しだけ止まって、それから離れた。
「名を呼べば、灰は崩れる。丘の上の老婆のことは、ここから見ていました。……ただ、その二人は、呼んだ相手を愛していた。この帳簿にある名の大半は、もう、愛した者のいない名です」
「愛した者、というのは」
エリアスは言った。
「灰区の老婆は、腹を空かせたときに豆をよそってやった者のことだと言っていました。それなら自分も入るのかと。豆をやった子なんか、灰区に百人はいる、と」
大司教は、エリアスを見た。
それから、声を立てて笑った。
短い笑いだった。肩が一度揺れて、組んでいた指がほどけた。
「百人」
「百人、と」
「その老婆は、正しい」
大司教は笑いの名残りを、指の背で口元から拭った。
「それでも、一万には足りません。愛した者のいない名を、他人が代わりに呼ぶとき、帳簿は代価を取る。聖典にはそう書いてある。君の司祭も、そう教えたでしょう」
「何を取るのかは、書いていない、と」
「書いてありました」
大司教は机の引き出しを開けて、小さな本を一冊出した。表紙は擦り切れて、紐で綴じてあった。ある頁を開いて、エリアスに見せた。
聖典の写しだった。本文の脇の余白が刃物で薄く削り取られていた。紙の表面が毛羽立ち、そこだけ白っぽくなっている。
「私が削りました。三十年前に。読んだ者が、迷わないように」
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エリアスは本を受け取った。
削られた余白を、灯りに斜めにかざした。灯りが近すぎて、紙が白く飛んだ。
「ガレス。灯りを、低く。横から」
ガレスが立ち上がって、机の灯りを一つ取り、言われるままに、本の脇の、机の高さまで下げた。炎が横から紙を照らした。
紙の表面の毛羽の下に、浅い溝が残っていた。筆で強く書いた跡が、紙の繊維を押し潰したまま、削っても消えずにいる。光の角度を少しずつ変えると、溝が影になって浮かんだ。
書記の手だった。右に傾かない、まっすぐな字。行の頭のほうは、削りが深くて読めなかった。真ん中の数文字だけ、溝が影を作った。
呼ぶ者の、名を。
その先は、また削りが深くなって、影が途切れていた。エリアスは溝の上に指を置いて、なぞった。指先に毛羽が引っかかった。もう一度、灯りの角度を変えさせた。途切れたところから先は、毛羽の下で平らになっていた。
ガレスの持つ灯りが少し揺れた。ガレスも、読んでいた。
エリアスは本を閉じて、机の上に置いた。
「読めましたか」
「真ん中だけ」
「では、読んだのと同じです」
大司教は原本の表紙から指を離した。
「それでも、読みますか。一万を読み終える前に、王は立つでしょう。読み終えたとしても、君に何が残るか、私は知らない」
ガレスが床から顔を上げた。
「記録官。……あなたの、名が」
エリアスは原本の前に立った。表紙の革に掌を置いた。冷たくはなかった。下の灰の床と同じ、ぬるさだった。
腰の短剣の柄に、もう片方の手が触れた。何も彫っていない柄だった。
エリアスは短剣を鞘ごと腰から外して、机の上に置いた。抜いて、刃先を柄の木に当てた。ヨナが、終わってから彫ると言って、まだ何も彫らずに返してきた柄だった。
自分の名の、頭の三文字を彫った。木は硬く、刃先が二度滑った。三文字目は少し斜めに傾いた。
ガレスが灯りを持ったまま、それを見ていた。灯りの炎が、ガレスの手の中で床のほうへ傾いた。大司教は組んだ指の上に顎を載せて、刃先が木を削る音を聞いていた。
エリアスは短剣を鞘に戻し、腰に戻して、表紙を開いた。
胸の包みから写しを出して、原本の脇に置いた。写しの最初の頁の日付と、原本の三十年前の頁の日付が、同じ秋で揃うはずだった。犬は扉の脇まで下がって、前脚に顎を載せて伏せた。
紙は写しより厚く、指でめくると、頁が乾いた音を立てた。一頁目の一番上に、八十年前の日付があった。その下に、名が二十並んでいた。どれも、見たことのない字の組み合わせだった。帝国の音を、王国の字で無理に書き留めたような名だった。
「ガレス」
「……はい」
「灯りを、もう一つ。それから、数えてくれ。俺が読んだ名の数を。俺は、数えながらだと読めない」




