一万の名
一頁目の一番上の名を、エリアスは二度読み直した。
帝国の音を王国の字で無理に書き留めた名で、どこで区切るのか、字を追うだけでは決めかねた。三つ目の字のところで舌が引っかかった。灰原の手前の焚火で、年寄りが板を見て首を振ったときの顔が浮かんだ。三度目は、字を追わずに、音のほうを信じて読んだ。
窓の外で、何かが小さく崩れる音がした。
ガレスが灯りを置いて、窓へ寄った。
「……平原の、端のほうで。灰が、一つ、舞い上がりました」
エリアスは二つ目の名を読んだ。
「待ちなさい」
大司教が言った。机の向こうで、組んでいた指をほどいていた。
「その頁の名の大半は、もう平原にはいません。三十年前に北の砦で崩れた者もいる。六十年前に川に流された者もいる。今、灰原に立っているのは、名の脇に朱の点がある者だけです」
大司教は頁の上の、一つの名の脇を指で示した。小さな朱の点があった。指が離れると、紙の上に灰色の粉が残った。
「朱のない名を読んでも、何も起きません。声が先に尽きるだけです」
エリアスは大司教を見た。大司教は窓のほうへ顔を向けていた。
「なぜ、教える」
「一万を読み終える前に王は立つ、と私は言いました。その言葉を、嘘にしたくないので」
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朱の点を拾って読んだ。
一頁に、朱の点は三つか四つだった。古い頁ほど少なく、新しくなるにつれて増えた。点のある名を見つけて、読み、次を探し、読む。読むたびに、窓の外のどこかで灰が舞った。ガレスは窓の脇に立って、平原を見ていた。それから床に膝をつき、運び上げてきた即位名簿の一冊を開いて、見返しの白い紙に、筆で小さく線を引いた。一本、二本、三本、四本、五本目を斜めに。
エリアスは読みながら、それを横目で見た。数えずにいられることが喉の奥で妙に軽かった。
百を過ぎたあたりで、声の出し方が決まった。腹から押し出さずに、喉の奥から息に乗せて流す。声は小さくてよかった。ラーレがミロを呼んだ声と同じ、台所の声でいい。
三百を過ぎたあたりで、口の中が乾いた。水差しの水を飲んだ。灰の味がした。
四百を少し過ぎた頃、一つの名の脇に、呼び名として「鐘番」と書いてあった。読み終えると、足元のずっと下のほうから、重いものが石の床に落ちる鈍い音が、螺旋の筒を伝って上ってきた。綱の切れ端が垂れ下がる鐘楼の、灰の床の上でだった。ガレスが筆を止めて、足元を見た。それから、線を一本引いた。
扉の脇で伏せていた犬が、四百五十を過ぎたあたりで不意に立ち上がった。耳を立てて、階段の下のほうへ鼻を向け、扉の隙間に鼻を押しつけて、短く鳴いた。読むたびに、下のどこかで、何かが崩れる乾いた音がしていた。青銅の扉の前の、灰の床のあたりからだった。犬はそれから扉の前で座り込み、扉の板を前脚で一度掻いて、そのまま動かずにいた。
五百を過ぎたあたりで、一つの名の脇の呼び名に、目が止まった。
豆泥棒。
区画は第一区画。日付は十二年前の冬。名の脇の細い字は、他の呼び名と同じ書記の手で、ただそこだけ、書いた者が少し笑ったように、最後の一画が長かった。
エリアスは名を読もうとして、声が割れた。笑いが喉の奥から先に出た。
ガレスが見返しから顔を上げた。
「どうしました」
「第一区画だ。豆を盗む子がいたらしい」
ガレスはエリアスの指の先の呼び名を見て、それから、口元を袖で押さえた。袖の下で肩が二度揺れた。
「……ラーレさんの、豆ですね。きっと」
エリアスは笑いの残りを息で吐き出して、名を読んだ。窓の外で、また灰が舞った。
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千を過ぎて、頁が重くなった。
指が紙を掴みそこねて、二枚一度にめくれた。めくり直そうとして、また掴みそこねた。手が震えていた。部屋はむしろ暑いほどで、背中の汗が外套の裏に貼りついていた。
机の向こうから、手が伸びてきた。
大司教が、原本の頁の端をつまんで、一枚戻した。それから、エリアスが次の朱の点を読み終えるのを待って、また一枚めくった。指先から灰色の粉が落ちて、紙の上に細い筋を引いた。
エリアスは原本だけを見ていた。大司教も黙っていた。頁がめくられ、朱の点を読み、また頁がめくられた。
二千を過ぎたあたりで、霜月の頁に来た。
第一区画、霜月六日。名が十並んでいた。上から四つ目と七つ目の欄だけ、墨が紙から浮いたように薄くなっていて、名の形はかすれて、途切れ途切れになっていた。脇の呼び名の「ミロ」と「テオ」だけが、まだ細く残っていた。朱の点はどちらの脇からも消えていた。エリアスが指でテオの欄に触れると、紙の表面から黒い粉が少しだけ指先についた。
大司教の指がその頁の上で一度止まった。それから、めくった。
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短剣の柄が、腰で腿に当たっていた。
三千を過ぎたところで、エリアスは柄に手をやった。癖になっていた。指の腹で、彫った三文字の溝を探った。一文字目の溝が、彫ったときより浅かった。指を押しつけて、もう一度なぞった。溝の縁が丸くなって、木目の中に沈みかけていた。
エリアスは柄から手を離して、次の名を読んだ。
四千を過ぎたところで、また触った。一文字目は、指の腹では探れなくなっていた。二文字目の溝も浅くなっていた。
五千を過ぎたところで、ガレスが筆を置いた。
「記録官」
見返しの紙は、正の字で埋まって、二冊目に移っていた。ガレスは膝の上の名簿を閉じて、エリアスの顔を見た。
「もう、ご自分の名を、書けますか」
エリアスは胸の内側から、白い紙を出した。シルヴァ、と書いた下に、姓の欄を空けた紙だった。その下の余白に、矢立の筆を当てた。
一画目を引いた。
二画目を引こうとして、筆が止まった。
何を引けばいいのか、手が知らなかった。一画目の線が、白い紙の上で、何の字の始まりなのか分からない線になって、乾いていった。
ガレスが膝で一歩寄った。
「ここで、やめれば。まだ、三文字は」
エリアスは柄に触った。三文字目の溝が、まだ少しだけ、指に引っかかった。
「平原に、ヨナがいる」
エリアスは白い紙を畳んで、胸に戻した。
「ラーレも、鍋底も、王女も、ネリも。灰の王が立てば、全部、同じ灰になる」
ガレスは袖口を掴んで、引いて、離した。それから筆を取り直して、二冊目の見返しに、五千一本目の線を引いた。
大司教が、頁をめくった。
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六千を過ぎたあたりで、二冊目の見返しも、正の字で黒くなっていった。王を立てるための名を書く帳簿の、最初の白い頁だった。ガレスは三冊目を取りに、階段を下りかけて、やめ、二冊目の裏表紙の内側に線を引き始めた。
七千を過ぎたあたりで、西の窓の外が赤くなり始めた。
平原の灰は、一つずつ舞うのをやめていた。霞の中のあちこちから、灰色の筋が立ちのぼって、平原の真ん中へ引き寄せられていた。引き寄せられた灰が、地面から少し浮いたところで、渦を巻いていた。渦は、人の背丈の十倍ほどの高さまで伸びて、頭の位置に当たるところで、ゆっくりと膨らんでいた。窓から、低い唸りが入ってきた。耳で聞くより先に、机の上の水差しの水面が細かく震えて、それで音だと知れた。窓から吹き込む風が、乾いて熱かった。
「立ち始めました」
大司教が言った。頁をめくる手を止めずに。
エリアスは読んだ。読む速さを上げた。朱の点を探す目が頁の上を走った。
八千を過ぎたあたりで、頁が古くなった。日付が六十年前の秋になった。
大司教が、頁をめくりながら、ガレスのほうを見ずに訊いた。
「灰区の第三区画に、まだ井戸はありますか。石の縁の」
ガレスが筆を止めた。
「……あります。縁が、一箇所、欠けています」
「そうですか」
大司教の手が遅くなった。
頁の端をつまむ指が、つまんでから、めくるまでに、間が空いた。エリアスは次の朱の点を読み終えて、待った。大司教は頁の端をつまんだまま、窓の外の渦を見ていた。それから、めくった。
その頁の、上から三つ目の名の脇に、朱の点があった。
呼び名の欄に、細い字で、灰区の第三区画、とあった。日付は六十年前の秋。送り先の欄は空白で、その代わりに、欄外に、別の手で小さく書き足してあった。
叙任。オーレリアン。
エリアスは顔を上げた。
大司教は頁の端から指を離していた。両手を膝の上に置いて、エリアスを見ていた。葬列の日に壺を運んでいた、あの姿勢と同じように、背筋が伸びていた。
「読みなさい」
エリアスは名を読んだ。
短い名だった。灰区の訛りで読む名だった。
大司教の目が動いた。窓の外の渦から、机の上の原本へ。原本から、エリアスの顔へ。それから、どこでもないところへ。
「……それが、私の名か」
葬列の日に広場の隅まで届いた声とは、別の声だった。灰区の、第三区画のほうの訛りがついていた。
大司教の重さが崩れていった。肩から、胸から、膝の上の手から。法衣が中から畳まれて、椅子の上に灰が積もった。灰の上から、細い湯気が一本立って、灯りの炎を少しだけ揺らした。
ガレスが筆を持ったまま、椅子の上の灰を見ていた。
「……八千、二百、十四」
ガレスは筆を置いて、立ち上がった。机の端の、原本から一番遠いところに置いていた前掛けの包みを取って、椅子の上の灰の脇に、そっと並べて置いた。それから膝をついて、また筆を取った。
エリアスは自分で頁をめくった。今度は指が紙を掴んだ。
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九千を過ぎて、声が出なくなりかけた。
喉の奥が擦れて、息だけになった。
ガレスが膝で寄ってきて、水差しの椀をエリアスの口元に当てた。エリアスは灰の味の水を二口飲んだ。
「私が、読みます。残りを」
ガレスの手の椀が揺れて、水が少しこぼれた。
「お前は、数えろ」
「私の名なら、灰区で、誰も困りません」
「数を間違えたら、王が立つ」
ガレスは椀を持ったまま、エリアスの顔を見ていた。それから椀を置いて、二冊目の見返しの前に戻り、筆を取った。
エリアスは息だけで次の名を読んだ。声にならない、擦れた息だった。窓の外で、渦の裾から灰が一筋ほどけて、平原に落ちた。次の名も息で読んだ。また一筋、ほどけた。窓の外の渦の、頭の位置の膨らみが、少しずつ削れていくのが見えた。削れた灰が、渦から離れて、北へ流れていった。風は西から吹いていたはずだった。それが、平原の上でだけ、北へ曲がっていた。
九千九百を過ぎて、最後の頁に来た。
朱の点は残り三つだった。一つ目を読んだ。二つ目を読んだ。三つ目の名は、去年の秋の日付で、第五区画の、まだ若い男の名だった。呼び名の欄は白いままだった。
エリアスはその名を読んだ。
ガレスの筆が、見返しの紙の上で、最後の線を引いた。
「一万」
窓の外で、渦が崩れた。
頭の位置の膨らみがほどけ、肩がほどけ、人の背丈の十倍あった灰の柱が、上から順に、音もなく風に解けていった。解けた灰は平原に落ちずに、北へ、峡谷のほうへ、国境のほうへ、長い帯になって流れていった。夕日がその帯の中を通って、帯の色を、灰色から赤へ、赤から灰色へ変えた。
平原に立っているのは、人だけになっていた。傾いた灰色の旗の下に、馬が一頭、首を垂れて立っていた。この高さからでは毛色までは見えなかったが、馬の脇に、人が一人、馬の首に額をつけて立っていた。
部屋の熱が、窓から抜けていった。背中の汗が冷えて、外套の裏で肌に貼りついた。扉の前で座り込んでいた犬が立ち上がって、エリアスの足元まで来て、脛に体を押しつけた。椅子の上の灰からは、もう湯気が消えていた。
エリアスは柄に触った。
指の腹に触れるのは、木目だけだった。
ガレスが筆を置いて、立ち上がった。原本の前に立ったまま動かない男の顔を見た。口を開けて、閉じて、もう一度開けて、記録官、と言った。




