戸籍
大聖堂の丘を下りきって、くるぶしまで沈む灰の平原を、犬を先に立ててガレスと二人で歩いていくと、夜明けの冷えた空気の中で、昨日まで人の形をしていた灰が風に均されて、どこに誰が立っていたのかもう分からない、ただ一面の灰色の起伏になっていて、その真ん中に、傾いた灰色の旗が一本と、その下に鹿毛が一頭いた。
ヨナは鹿毛の首に額をつけて立っていた。夜通しそうしていたのか、外套の肩に霜が白く降りていた。
犬が駆け寄って、ヨナの脛に体を押しつけた。ヨナは額を鹿毛から離して、犬を見下ろし、それから、エリアスを見た。
「あなた」
ヨナは言った。それから、口を開けたまま、次の音を探した。屋敷の厩で、灰区の柵の前で、浅瀬で、何度も口にしてきたはずの音だった。ヨナの唇が一度だけ形を作りかけて、ほどけた。
「……出てこない」
「知ってる」
「テオのは出てくる。母さんがつけた名も、あなたが耳に入れた音も、全部。あなたのだけが」
ヨナは鹿毛の首を一度叩いた。叩いて、手をそこに置いたままにした。
「屋敷の裏で俺が馬に乗ってたのを、あなたが見てなかったことまで覚えてる。名だけが」
エリアスは腰から短剣を外して、鞘ごとヨナに差し出した。柄は木目だけになっていた。
「終わった」
ヨナは柄を見て、受け取らずに、首を振った。
「まだ彫らない」
「何を彫るつもりだった」
「テオの名だ。……今なら彫れる。もう灰になってるから、誰が読んでも構わない」
ガレスが、少し離れたところで、二冊の即位名簿を胸に抱えて立っていた。ヨナはガレスを見た。
「坊主。数えたのか」
「……一万、です。最後の一本まで」
「そうか」
ヨナはそれ以上ガレスに訊かずに、短剣の柄に指を伸ばして、木目を撫でた。
「でも、先に彫らなきゃいけないのが、もう一つ増えた。持っててくれ。そっちが出てくるまで」
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ヴァルデンの降伏の書付けを持ってきたのは、ルカスだった。
決戦から六日目の昼で、ルカスは父の葬いを済ませた足で、白い布を括った槍を一本だけ従者に持たせて、王女の天幕の前に来た。腰には、父の剣の代わりに、短い剣が一本だけ下がっていた。窪地に立てたまま置いてきたあの剣は、まだそこに立っていると、灰人の斥候が言っていた。
書付けは十二枚あった。ヴァルデンを含めて七つの冠家の、降伏と、所領の安堵の願いと、王女の即位に異を唱えないという誓いが、一家一枚ずつ、同じ手で清書してあった。
エリアスはそれを、王女の天幕の隅で受け取って、一枚目を見た。
字が父に似ていた。右に傾かず、行の終わりで跳ねない、記録院の書記に叩き込まれる字だった。ただ、一つの文が長く、読点のたびに話が少しずつ横道へ逸れて、最後には必ず元へ戻ってくる。王都で、杏を齧りながら喋っていた声と、同じ運びだった。
「誰が書いた」
「義姉だ。君の姉上だよ」
ルカスは天幕の中で、エリアスの顔を見た。
「七つの家を三日で回って、全部まとめた。諸侯は皆、あの人の言うことなら聞く。喋らせておくと、いつの間にか判を押してる」
「姉は」
エリアスは言いかけて、言葉を選び直した。
「あの人は、弟のことを、何か言っていたか」
ルカスは少し考える顔をした。
「北の砦で死んだと聞いた弟がいる、と言っていた。その話をするたびに、名のところで黙る。黙って、杏を一つ齧って、次の話に移る」
王女が床几から立った。ルカスは王女の前に膝をついた。
「ヴァルデン公、ルカス。父の名を継ぎました」
王女は何も言わずに、ルカスの頭の上を見ていた。
「父は間違っていました。ですが、父の恐れは間違っていません。北から灰が降っていると、帝国の使者が言ったそうですね。いつか、北と、また戦います。そのときは、私が北境へ行きます」
「立ちなさい」
ルカスは立った。王女は書付けの束をエリアスから受け取って、一枚目をめくり、二枚目をめくり、三枚目で手を止めて、ルカスに言った。
「ヴァルデン公。あなたの栗毛は」
ルカスは少し笑った。
「まだ、取り返せていません」
ルカスは天幕を出るときに、隅のエリアスのほうを振り返った。
「墨」
エリアスは顔を上げた。
「何だ」
「栗毛は、俺が取り返しておく。王都の屋敷から。乗るのは俺だ」
ルカスは返事を待たずに天幕を出ていった。入口の布が下りる前に、もう一度だけ、墨、と外で呼ぶ声がした。従者に何か言いつけたついでのような、軽い呼び方だった。
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戸籍の書き入れは、決戦から十日目の朝に始まった。
灰人の陣の真ん中に机を三つ並べて、ネリとガレスとエリアスが座った。冬の朝で、硯の墨は縁から凍りかけていた。エリアスは筆を口に含んで温め、凍った縁を筆の尻で割ってから、墨を溶いた。灰人が一人ずつ前に立ち、名を言い、書き手がそれを書く。名を言いたくない者は呼び名を。自分でつけた名を言う者は、その名を。
最初に机の前に立ったのは、ラーレだった。
夜明け前から、エリアスの机の前に、荷車から下ろした丸太を一つ据えて、そこに座って待っていた。
「あんたが書くのかい」
「書きます」
「名のない者が、名を書くのかい」
「字は書けます」
「なら、いい」
ラーレは丸太から身を乗り出して、エリアスの耳に口を寄せた。
短い名だった。灰区の訛りで、ほとんど息だけの音だった。七十年、誰の口からも出ていなかった音の、乾いた手触りがあった。
エリアスはそれを書いた。書いて、紙をラーレのほうへ向けた。字の読めないラーレは、それでも紙を見て、指で字の上をなぞった。
「母さんが、そう呼んだ」
ラーレは指を離した。
「若い頃は、それで呼ばれりゃ振り向いたもんさ。今呼ばれても、腰が回らない」
ガレスが隣の机で、筆を持ったまま笑った。ネリも笑った。灰人の列の前のほうで、何人かが笑った。
「それと」
ラーレは丸太から立ち上がらずに言った。
「死んだ子の名も書いとくれ。あんたの帳面に書いてあるだろう。テオと、ミロと、それから、豆をくすねてた坊主と」
「死んだ者の欄はありません。戸籍は、生きている者の」
「じゃあ、欄を作りな。記録官だろう」
エリアスは筆を置いた。紙の右端に、細い線を一本縦に引いて、欄を作った。欄の頭は白いまま、そこにテオと、ミロと、豆泥棒の名を書いた。
昼前には、ガレスの紙にもネリの紙にも、右端に縦の線が引かれていた。灰人の列は、その欄の分だけ、朝より長くなった。名を言い終えた者が、列の後ろへ戻ってもう一度並び直し、今度は死んだ者の名を耳打ちしていった。
昼過ぎに、ヨナが列の後ろのほうから来て、エリアスの机ではなく、ネリの机の前に立った。ヨナは身をかがめて、ネリの耳に何か言った。ネリは筆を止めて、ヨナの顔を見上げ、それから、紙に何かを書いた。
エリアスの机からは、その字は見えなかった。ヨナは紙を見ずに体を起こして、エリアスのほうへ顎だけ向けた。
「屋敷でも灰区でも、呼び名で通してきた。……母さんが、耳に入れたやつがあったんだ」
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異端者の話が出たのは、その晩だった。
王女の天幕に、司教区の司教が二人と、七つの冠家の名代が来ていた。大司教が死に、大聖堂の原本が読まれ、灰兵がすべて灰に戻った。司教たちは、その次第を、どう書き残すかを話しに来たのだった。
「大聖堂の最上階で、大司教様は灰になって見つかりました。原本は開かれ、聖典の余白には、刃物で削った跡がある。何者かが聖所に入り、聖典を損ない、大司教様を害した。そう書かねば、教会は立ちません」
年嵩の司教は、手元の紙に目を落としたまま言った。
「教会が立たねば、殿下の即位に、司教区は異を唱えずにいられない。異を唱えれば、灰人の戸籍の話も、司教区の内では通りません」
「誰が害した、と」
王女が言った。
「名のない者が。名を記さぬ異端者が、と。……誰も、その者の名を知らぬのですから、嘘にはなりますまい」
天幕の隅で、ネリが顔を上げた。
「それは」
ヨナが、ネリの肩に手を置いた。
「黙ってろ」
「でも、あの人は」
「異端者一人で、灰人三千に戸籍が出る。安い」
ヨナはネリのほうを見ずに言った。手は、ネリの肩に置いたままだった。指が、肩の布を少しだけ掴んでいた。
司教がヨナを見て、それから王女を見た。王女は黙っていた。ヨナも口を閉じた。天幕の中で、灯りの芯が一度、小さく爆ぜた。
エリアスは天幕の入口の脇に立っていた。
「書け」
皆がエリアスのほうを向いた。年嵩の司教は、エリアスの顔を見て眉を寄せた。
「どこかで、お会いしましたか」
「王の葬列で。一番後ろに」
「名を記さぬ異端者、で書け。大聖堂に入ったのも、余白を読んだのも、本当のことだ。嘘になるのは、害したというところだけだ」
ヨナがネリの肩から手を離した。
「あなたは」
「書かれないなら、どう書かれても同じだ」
ネリが立ち上がって、天幕を出ていった。入口の布が、エリアスの肩に当たって揺れた。
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即位は、決戦からひと月後、大聖堂の丘の石段の下で行われた。
塗油の壺の代わりに、丘の裾に、灰原の石切り場から切り出した平らな石が一枚立てられた。人の背丈の倍ほどの高さがあって、その表に、王女の陣で一晩で書いた名簿の名が、石工の手で彫り込まれていた。三千八百十一の名。名のある者は名で、呼び名の者は呼び名で、自分でつけた名の者は、その名で。
石工の頭が、即位の前の日に、王女の天幕へ訊きに来た。
「名簿の一番上の紙が、白いのですが」
王女はその紙を見た。姓のところで一度掠れて、なぞった跡がある、と、王女はひと月前に見ている。今、紙は白かった。墨が浮いて、粉になって、紙の目に沈んでいた。指で擦ると、灰色の粉が少しだけ指についた。
「そこは、空けておきなさい。一行目を、空けて彫りなさい」
即位の朝、石の一行目は、空いていた。
王女は石段の下に立ち、石の前で、名簿の三つの写しを胸に抱えて、集まった者に向かって言った。塗油はない。この石に名のある者が、私を立てる。言い終えると、挨拶もせずに口を閉じた。灰人の陣から、王女派の陣から、冠家の名代の列から、誰かが声を上げ、別の誰かが続き、平原のほうまで声が広がっていった。
列の端で、鍋底が公の陣から持ってきた鉄の鍋を火に掛けていた。即位の前から炊いていたらしく、石段の下まで粥の湯気が流れてきた。ラーレは荷車の上で、布をかぶせた椀を膝に載せて、石を見ていた。
声が収まりかけた頃、ヨナが石の前に出た。
摂政の外套を着ていた。灰色の布に黒い縦線が一本、胸のところに縫い取ってある。ヨナは振り返って、列の後ろに立っていたエリアスを見た。それから手を差し出した。
エリアスは腰から短剣を外して、ヨナの手に載せた。
ヨナは鞘から抜いて、石の一行目の空いたところに、刃先を当てた。
刃先が石の上で止まった。
ヨナの手首に、筋が浮いていた。刃先を石に当てたまま、ヨナは暫く動かずにいた。口が動いた。声を出さずに、何かの音の形を作ろうとして、作りかけて、ほどけた。もう一度作ろうとして、またほどけた。
ヨナは刃先を、石の上で横に引いた。刃が石を噛む音が、細く高く鳴って、丘の上の鐘楼の壁に当たり、遅れて返ってきた。
一本の線が石に彫られた。名の頭の一画にしては長く、何の字の始まりでもない線だった。石の粉が、刃の脇からこぼれて、ヨナの靴の上に落ちた。
ヨナは短剣を鞘に戻して、エリアスに返した。返すとき、柄を先に向けた。
荷車の上で、ラーレが膝の椀の布を押さえ直した。犬がエリアスの足元から立ち上がって、石の前まで歩いていき、線の下の石の粉を一度嗅いで、戻ってきた。
王女が石工の頭を呼んだ。
「その線は、そのまま残しなさい。磨かずに。上から何も彫らずに」




