冠なき者
「名の欄は、どうする」
バルトは筆を持ったまま、机の上の紙から顔を上げずに言った。
記録院の北の翼は、焼けた梁を取り払って、新しい木の足場が組んであった。足場の上で大工が槌を打っていて、そのたびに机の上の墨の皿がわずかに震えた。バルトの机は、仮に三階の総長室だった部屋の隅に置かれていた。窓の大きなその部屋は、焼けずに残った数少ない部屋の一つだった。
「空けておいてください」
「空けた通行証なんぞ、関所で笑われるぞ」
「笑われたら、名のない記録官だと言います」
バルトは筆の尻で額を掻いた。紙は北の関所を通るための通行証で、書式は記録院のものだった。持ち主の名、生まれ、身分、行き先。名の欄の横に、身分の欄がある。バルトはそこに、記録院、従軍記録官、と書いた。行き先の欄に、北境、と書いた。名の欄には、筆を一度当てかけて、離した。
「なあ」
バルトは筆を置いた。
「君の名は、北の名簿で線が引いてあった。俺はその線を見た。線の上に何が書いてあったか、いくら考えても出てこない。女房にも訊いた。あいつは君の顔を知ってる。市場で、総長のところの末の坊ちゃんの話を三十回はしてる。それなのに、名のところで、ああ、何だったかね、と言う」
「はい」
「名がなくても、字は書ける」
バルトは机の上の判を取って、朱肉に押しつけた。
「ここに残れ。記録院は人が足りない。焼けた分を書き直すのに、十年かかる。君なら、名のないまま書記がつとまる。俺が保証する。名のない書記の保証をするのは、初めてだが」
エリアスは、バルトの手の判を見ていた。
「北へ行きます」
「北に何がある」
「読めない名が、一つ」
バルトは判を持ったまま、暫くエリアスの顔を見ていた。それから、通行証の身分の欄の下に、判を押した。名の欄は白いまま残った。
バルトは机の引き出しを開けて、布にくるんだものを一つ出した。布をほどくと、柄の焦げた小刀が出てきた。刃は煤で黒く、刃先だけが、研ぎ直したように光っていた。
「禁書庫の焼け跡から、大工が拾った。総長が羽根筆を削ってたやつだ。刃先だけ、俺が研いだ」
エリアスは小刀を受け取った。柄の焦げた木が掌の中でざらついた。父の指の当たっていたところだけ、焦げの下で木が少し窪んでいた。
「女房には言わん」
バルトは通行証を乾かすために、窓の桟に立てかけた。
「言ったら、明日には市場中だ。……名のない坊ちゃんが北へ行った、とな。それはそれで、あいつは喜んで喋るだろうが」
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灰区の柵は、外されていた。
柵の跡の土に、杭を抜いた穴が等間隔に並んでいて、その穴を、子供が三人、片足で跳んで越えていた。門だったところの脇に、新しい板の小屋が建っていて、小屋の戸口に、ヨナの摂政府の札が掛かっていた。戸籍の書き入れ所だった。
ラーレの家の戸口の棚には、椀が伏せて並んでいた。並びの端に、縁が一箇所欠けた椀が、他の椀より少しだけ離して伏せてあった。
「犬を連れてる奴は、叩かなくていい」
戸の内側から声がした。ラーレは竈の前で、豆を煮ていた。振り向いて、エリアスを見て、犬を見て、また鍋に向いた。
「北へ行くんだって」
「誰から」
「書記の女房から。市場で」
エリアスは土間の端の丸太に座った。ラーレは豆を椀によそって、エリアスの前に置いた。それからもう一つよそって、犬の前に置いた。
「名がないと、どこへ行っても困るだろう」
「困ります」
「困ったら、帰っておいで」
ラーレは自分の椀にもよそって、エリアスの向かいに座った。
「豆を食いに来るなら、名なんか要らないよ。顔で分かる。顔も忘れたら、腹の鳴る音で分かる。腹の音を忘れるほど耄碌したら、そのときは、あんたも諦めな」
エリアスは豆を口に入れた。少し焦げていた。
「それと、表を見な」
ラーレは匙で戸口を指した。
戸口の外の、柵の杭の穴の脇に、鹿毛の去勢馬が繋いであった。腹が少し引っ込んで、冬毛が抜けかけていた。鞍の上に、布の袋が一つ括りつけてあった。
「ヨナが、今朝繋いでった。摂政様が、自分で手綱を引いてきたんだよ。灰区の子らが、後ろにぞろぞろついてきてね」
「ヨナは」
「すぐ帰った。忙しいんだと。あんたに、痩せさせたら返しに来い、とさ」
ラーレは鍋の残りの豆を布の袋に詰めて、口を紐で縛り、エリアスの膝に置いた。
「鞍の袋にも入ってる。あたしが詰めた。北は豆が高いって、帝国の人が言ってたからね」
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ヴァルデンの分家の屋敷は、王都の西の坂の途中にあった。
エリアスは坂を下りながら、屋敷の二階の窓の前を通った。窓は開いていて、窓辺に椀が一つ置いてあった。椀の中に、干した杏が盛ってあった。
窓の内側に、姉がいた。
濃い緑の服を着て、手紙のようなものを読んでいた。読みながら、杏を一つ口に運んでいた。坂の下から上ってくる荷車の音に顔を上げて、窓の外を見た。
エリアスと目が合った。
姉は首を少し傾げた。手紙を膝に下ろして、窓の外の男を見ていた。口が何か言いかけるように開いた。開いたまま、暫くそうしていた。
それから姉は、窓辺の椀から杏を一つ取って、窓の外へ投げた。
杏は坂の石畳の上で一度跳ねて、エリアスの足元に転がった。
姉は投げた自分の手を見下ろしていた。手を開いたり閉じたりした。窓の奥から、若い女中の声がした。
「奥様、お知り合いですか」
「知らない人。……知らない人よね。杏を、つい。どこかで見た背格好で。誰だったかしら。杏、今年は高いのよ。北の街道が荒れてたでしょう、荷が来なくて。書記の奥さんなんか、市場で一つずつ数えて買ってたわ」
姉は手紙を取り上げ直して、顔を下げた。窓の奥の声は、それきり小さくなった。
エリアスは杏を拾った。乾いて固く、指で押すと、皮の皺が少しだけ沈んだ。外套のかくしに入れた。
犬が坂の下で待っていた。
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ガレスは灰区の施し所にいた。
樽も麻袋も運び出されて、石の土台の上に、がらんとした広い部屋が残っていた。その壁に、ガレスは墨で名を書いていた。床から、腕を伸ばして届く高さまで、細い字で、名が隙間なく並んでいた。名の脇に、呼び名と、区画と、生まれた年。死んだ者の名には、脇に小さく線が一本引いてあった。
「施し所で、名を、取っていたので」
ガレスは筆を壁から離して言った。袖口が墨で黒くなっていた。
「ここに、返して、いるつもりです。書けるだけ、全部。生きている者も、死んだ者も。灰区の分が終わったら、地方の修道院の分も。……教会の、新しい、決まりにしました。すべての名を記せ、と」
「教会は、許したのか」
「司教区には、まだ、何も言っていません。言えば、誰かが、私の上に立つので」
ガレスは自分の言ったことに気づいて、筆を持ったまま、少し笑った。
エリアスは壁の名を見上げた。壁の一番上、梯子でなければ届かない高さに、名が一つも書かれていない幅が一行分あって、そこに墨で、横に一本だけ線が引いてあった。その下から、灰区の訛りの名、帝国の音の名、自分でつけた名が始まっていた。字が下のほうほど小さく、上のほうほど大きかった。ガレスの腕が疲れていくのに合わせて、字が崩れていた。
「いつか、これも、名簿になる」
エリアスは言った。
「……分かっています」
ガレスは袖口を掴んで、引いた。
「それでも、記さないより、記すほうを選びます。消されたら、また、書きます」
エリアスは背中の鞄から、原本を出した。
黒い革の表紙は、大聖堂の最上階から運んできたときのままだった。中を開くと、頁は白かった。一万の名の欄も、朱の点も、墨が浮いて粉になり、紙の目に沈んで、灰色の薄い染みしか残っていなかった。八十年分の頁がほとんど白紙に戻っていた。
エリアスは最後の頁を開いて、ガレスに見せた。
頁の一番下に、一行だけ、名が残っていた。
朱の点はなかった。呼び名の欄も、区画の欄も、日付の欄も空いていた。名だけが、細い字で書いてあった。王国の字ではなかった。
エリアスは胸の内側から、帝国の使者の白い紙を出した。シルヴァの名と、その下の空いた欄と、何の字の始まりでもない一画の上に、帝国の文字が三行刷ってある。その三行と、原本の最後の一行を、並べて見た。
文字の形が同じだった。横に寝た鉤のような線と、点の打ち方と、行の終わりで下へ流す癖。紙は違っても、字の作りは同じ国のものだった。
「帝国の、名です」
ガレスが言った。
「読めますか」
「読めない。音も分からない。朱の点がないから、灰原に立っていた者の名でもない」
「では、誰の」
「北へ行けば、読める者がいる」
ガレスは原本の最後の一行を見て、それから、壁の名を見上げた。
「……壁に、書く場所を、一つ空けておきます。読めたら、帰ってきて、書いてください」
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北の門を出たところで、後ろから蹄の音が追いついてきた。
栗毛だった。鞍の上にルカスがいて、ヴァルデンの紋の入った外套を着ていた。後ろに騎馬が十ほど続いていた。ルカスは栗毛をエリアスの鹿毛の横に並べて、歩みを合わせた。
「領地を一回りしてから、北境の砦を建て直しに行く。ひと月先になる」
ルカスは栗毛の首を叩いた。
「取り返した。やっぱり、俺のより足がいい」
「二つ若い」
「よく覚えてるな、墨」
ルカスは笑って、手綱を引いた。栗毛が少し前に出た。
「砦の板を一枚、建て直しても捨てずに取っておく。点が三つ描いてあるやつだ。……北で会おう」
騎馬の列は鹿毛を追い越して、西の領地へ向かう分かれ道のほうへ遠ざかっていった。
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七日後、エリアスは北境の峡谷の口にいた。
北境砦は、石の土台だけが残っていた。木の建物は焼け落ち、外壁の石の上に、黒い梁が何本か斜めに倒れかかっていた。厨のあった場所に、割れた鍋の欠片が一つ落ちていた。
エリアスは鹿毛を降りて、石の土台の上を歩いた。隊長の部屋のあったあたりの床に、焦げて反った板が一枚、壁から落ちて伏せてあった。裏返すと、炭で描いた顔の紙の切れ端が一枚だけ、釘に引っかかって残っていた。目と鼻と口の位置に、点が三つ。
エリアスはそれを釘から外さずに、板を元のとおりに伏せた。
峡谷の奥から、風が吹き下ろしてきた。
風に、灰が混じっていた。灰原から、ここまで流れてきた灰だった。峡谷の壁に当たって巻き、それから、北へ、峡谷の向こうへ、国境の向こうへ流れていった。犬が鼻を上げて、その風の匂いを嗅いだ。
峡谷を抜けた先に、帝国の関所があった。
石造りの低い門で、門の脇に小屋が一つあり、小屋の窓から灰色の煙が出ていた。小屋の前に、白い外套の役人が一人立っていた。帝国の使者と同じ白だった。
エリアスは門の前で、王国の通行証と、帝国の白い紙を差し出した。
役人は通行証を見て、名の欄が空いているのを見て、眉を少し上げた。それから白い紙を見た。帝国の文字の三行を読み、その下の、王国の字で書かれた名を見た。
「シルヴァ」
役人は王国の訛りで、その名を読んだ。
「姓の欄が空いています」
「空けておいてくれ」
役人は頷いて、小屋の中から帳面を一冊持ってきた。白い表紙の、分厚い帳面で、頁の紙も、使者の紙と同じ、漉き目の見えない白だった。役人は帳面を小屋の窓の桟に載せて開き、筆を取って、白い紙の名を帝国の文字で写した。姓の欄は空けたまま、次の行へ移った。筆を運ぶ音が、峡谷の風の音の合間に、細く聞こえた。
エリアスは外套のかくしに手を入れていた。指先に、固い杏と、柄の焦げた小刀が触れた。鹿毛が後ろで鼻を鳴らし、犬が足元に座った。犬の背の毛に、峡谷を渡ってきた灰が薄く積もっていた。
役人は筆を持ったまま、エリアスを見た。
「では、あなたのお名前を。記録院の書式です。入国される方は、全員」




