灰人の旗
将校が証文の裏を明かりに向けて、炭の字を一つずつ指で追っていた。雨で流れた名の上で指が止まり、脇に立つエリアスの顔を見て、また紙に戻る。三度それを繰り返してから、記録院の者かと訊いた。
「エリアス・ロートヴェル。北境砦の従軍記録官でした」
「砦は落ちたと聞いている」
「落ちました。この七十三人は、そのあとで集まった者です」
将校は紙を持って天幕に入り、暫くして出てきた。七十三人は王女派の兵として受け入れる。傭兵十六人は、雇い主が記録官である間は記録官の下に置く。記録官は本営の書記方に出頭せよ。言い終えると、天幕に戻った。
旧い城の跡と呼ばれる本営は、八十年前に焼けた城の外壁の一部と井戸と地下の倉が残っているだけで、遠目には石の山に見えた。周りに天幕が並んでいる。旗が二種類あって、一つは王女の紋、もう一つは灰色の布に黒い縦線が一本引いてある。
「あれが灰人の旗か」
シルヴァが縦線の旗のほうを顎で示した。
「知らない」
「三千いるって使者が言ってたな」
シルヴァは黒い根を頬の反対側に移して、暫く灰色の旗の並びを眺めた。
「屋敷と馬三頭より、払いがいいかもしれん」
「何の話だ」
「雇い主の話だ。あんたは書記方に行け。あたしはその間に、あっちの陣で頭に会ってくる」
「証文がある」
「証文は王女派の本営に着くまでだ。着いた」
彼女は胸の札の裏から証文を抜いてエリアスの手に押しつけ、犬を呼んで歩いていった。犬は一度エリアスを振り返ってから、シルヴァについていった。
書記方は、倉の入口の脇に机を三つ並べただけの場所だった。座っている二人は、帳簿の綴じ方が商家のやり方で、どこかの冠家で家令をしていた者らしかった。北境砦の名簿は届いていない、と一人が言った。
「砦に置いてきました」
「では、何を出す」
エリアスは証文の裏を出した。家令は七十三の名を指で数え、自分の帳簿の新しい頁に「北境砦残存」と書いて、その下に七十三と書いた。名は写さなかった。
「名も写していただけますか」
「数が合っていれば、こちらはいい。名が要るときは、貴殿に訊く」
家令は証文の裏を返してよこした。
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鹿毛の去勢馬は灰人の陣の端で草を食っていた。
屋敷にいた頃より腹が出ている。毛艶もよく、冬毛が入り始めて首が太く見えた。エリアスが近づいても顔を上げず、草を引く音だけがした。
「食わせすぎだと言ってるんだが、誰も聞かない」
後ろから声が来た。
ヨナは灰色の外套を着ていた。旗と同じ灰色で、腰の両側に屋敷の短刀とエリアスの短剣が差してある。髪が伸びて後ろで結んでいた。
「馬が太った」
「灰人の兵が、自分の飯を減らして馬にやる。馬に乗れるのは俺だけだから、俺の馬が痩せてると、みっともないんだそうだ」
「乗れたのか」
「屋敷の裏で、あなたが見てないときに」
ヨナは馬の首を叩き、それからエリアスの左肩を見た。革の上からでも縫い目が分かる。
「砦だな」
「砦だ」
「斬ったのは」
馬が草を引く音がした。ヨナは待った。
「テオだ」
ヨナの手が馬の首の上で止まった。
「砦にいた。ヴァルデンの側の兵の中に、斬っても倒れない兵が十一いて、その一人だった。名を呼んだら、剣が肩に入って、そこで止まって、通り過ぎた」
「顔は」
「変わっていない」
「じゃなくて」
ヨナは馬から手を離した。
「どんな顔だった」
何も乗っていない、と言えばいいのか。林でひと月考えて、まだ言葉がなかった。エリアスが黙っている間に、ヨナのほうが先に口を開いた。
「テオがどうなったかは聞いてた。修道院を焼いたとき、中に坊主が何人かいて、一人が言った。ただ、見た奴がいなかった。あなたが最初だ」
「その坊主は」
「生きてる。あとで会わせる」
ヨナは馬の綱を取った。
「その前に飯を食え。それと、あなたの傭兵が、うちの陣で雇ってくれと言って回ってる。三千人に飯を食わせるのが精一杯だと言ったら、じゃあ犬だけ雇え、だと」
エリアスの口の端が動いた。ヨナは綱を引いて歩き出した。
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飯は、灰人の陣の焚火で出た。
鍋の中は稗の粥で、馬の脂が浮いていた。椀は焼いた土の器で、縁が欠けている。粥と一緒に平たいパンが配られた。灰の中に直に埋めて焼くパンで、外側に灰がこびりついている。灰人の兵はそれを払わずに齧った。エリアスが表面を指で払っていると、隣の男が笑った。
「払うと、焼けたとこが取れる。そこが旨いのに」
齧ると歯の間で灰が鳴った。苦くて、あとから麦の甘さが来た。
焚火の周りには二十人ほどいて、話す声は低かった。冬の初めで、吐く息が白い。火に向けた顔だけが熱く、背中は冷えていた。
食べ終わる頃に、年寄りが一人、エリアスの前に来た。
「記録院の方だと聞いた。名を、書いてもらえるか」
王都の訛りと灰人の言葉の訛りが、半分ずつ混じっていた。エリアスが袖を探っていると、年寄りは懐から薄い木の板と炭を出した。
「呼び名ですか」
「名だ。爺様の名だ」
年寄りが言った音を、エリアスは板に書いた。帝国の言葉の音で、王国の字には収まりが悪い。年寄りはそれを見て首を振り、もう一度言った。エリアスは字を一つ変えた。年寄りはまた首を振った。三度目に書いたものを見て、年寄りは暫く黙っていた。
「合っていませんか」
「違う。だが、あんたの字で書けば、こうなるんだろう。それでいい」
年寄りは板を懐に戻して、焚火の向こうへ戻っていった。
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ヨナの天幕は、他の灰人の天幕と同じ大きさだった。中に木の箱が一つあり、箱の中に油紙で包んだ紙が一枚あった。王女の紋の印。短い文面。王女イザベルは灰人の軍の忠誠を受け、勝利の後、王国内のすべての灰人に戸籍と名を与えることを、ここに誓約する。日付。王女の署名。
その下に、もう一つ署名があった。
ヨナ。
王女と同じ筆跡だった。
「俺は字が書けない。書けないから、王女が代わりに書いた。俺の呼び名を、王家の紙に。八十年で初めてだそうだ」
エリアスは紙を見た。王家の紙で、教会の漉き目ではない。印は本物で、署名も王女の部屋で見た筆跡と同じだった。
「本物だ」
「本物かどうかを訊いてるんじゃない」
ヨナは紙を油紙に戻し、箱の蓋を閉めた。
「何を言いに来たか、顔で分かる。言え」
「教会だ。この同盟は大司教が間に入ったと聞いた」
「そうだ」
ヨナは蓋の上に手を置いた。
「修道院を三つ焼いたあとで、大司教から使いが来た。灰人の軍が王女に忠誠を誓うなら教会は止めない、と。ヴァルデンの兵が灰人の陣を襲わないよう、教会が口を利く、と。俺はそれを受けた。三千人が飢えてたからだ」
「王女は」
「王女にも同じ使いが行ってた。灰人を受け入れろ、と。王女はその次の週に、摂政会議に黙って王都を出て、ここに来た。ネリが言うには、嫌がってたそうだ。だが他に兵がなかった」
「大司教は、なぜ」
「知らない。使いの坊主は、必要な混乱、と言った。混乱が要るんだそうだ。誰に、何のために要るのかは言わなかった」
ヨナはエリアスの顔を見た。
「テオをああした連中が仲立ちした同盟に、俺が乗ってる。それを言いに来たんだろう。言われなくても分かってる。寝る前に、毎晩出てくる話だ」
「言いに来たんじゃない」
「じゃあ何だ」
エリアスは袖の内側から紙片を出した。灰区の司祭が書いた二行は、川に落ちても林でひと月過ごしても、そこにあった。ヨナに見せ、読めないのを承知で、意味を言った。
「黒名簿。灰人の消された名を書いた帳簿がある。原本は教会に、写しは記録院の禁書庫に。棚の番号がここに書いてある。鍵は、俺の父が持っている」
ヨナは読めない二行を長いあいだ見ていた。
「総長が」
「知っていた。八十年で三人、その帳簿の名を知った記録官がいて、父は三人目だと言った。開けなかったから、総長でいられたと」
ヨナは紙片から目を上げた。
「じゃあ、こういうことか。俺はテオをああした連中と手を組んでる。あなたは、テオの名が書いてある帳簿を開けずに二十年座ってた男の息子だ」
「そうだ」
「どっちの手が汚れてないか、比べるか」
声は低く、天幕の外で灰人の兵が鍋を洗う音に紛れそうだった。
「比べない。取りに行くために来た。写しを。父が開けないなら、俺が開ける」
「開けて、どうする」
「分からない。テオの名がそこにあるなら、まず見る。そのあとは、そのあとで考える」
ヨナは紙片をエリアスに返した。
「一つ言っておく。俺は今、大司教が仲立ちした紙で三千人に飯を食わせてる。あなたが写しを取ってきて、教会が悪いと分かっても、それで飯は増えない」
「……ああ」
「行け。テオの名を見てこい。俺には読めない」
ヨナは天幕の入口の布を上げた。外は暗くなり始めていて、焚火の列が石の山の裾まで続いていた。
「坊主に会わせる」
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司祭は灰人の陣の中ほどの、荷車の陰に座っていた。
膝の上に板を置き、灰人の兵が一人ずつ言う呼び名を、板の上の紙に書いている。書く手は遅く、待たされる兵は足を踏み替えていた。灰色の司祭服は袖口だけでなく肘も擦り切れて、下に着た灰人の外套が覗いていた。
エリアスが荷車の陰に入ると、司祭は顔を上げた。
「……記録官」
ガレスは板を膝から下ろしかけて、下ろし切らずに、また膝に戻した。
「あなたに、紙を渡した、三日後に、司教区から外されました。東の修道院に送られて、そこで、初めて見ました。運ばれてきた子たちが、どうされるのか」
「テオも、そこで」
「テオは、私が着く前に、もう北へ。でも、同じことを、されたはずです。……そのあと修道院が焼けて、私は、灰区の者が顔を覚えていたので」
ガレスは板を少し持ち上げた。呼び名の列だった。
「灰人の兵の呼び名を、全部書け、と言われました。俺には読めないが、書いてあれば誰かが読める、と、この人が」
ヨナは荷車に背をつけて聞いていた。
「テオの呼び名を紙から読み上げた坊主だ」
ヨナが言った。平らな声だった。
「殺したかった。灰区の者に止められた。この人は毎月、施し所で誰を呼ぶか一晩中悩んで、朝に目を赤くしてた、と。それで殺さなかった。それだけの理由だ」
ガレスは膝の上の板を見たままだった。
「殺さなかったから、書かせてる。字が書けるのが、こいつしかいない」
「ヨナ。この人が、禁書庫の棚の番号を書いた」
ヨナはガレスを見た。
「連れて行けと、この坊主は昨日から言ってる。記録官が来たら、と。王都へやったら、二度と戻らないと思ってる」
「戻ります」
ガレスが言った。小さい声だった。
「戻らなければ、この帳面を書く者がいません。それは……分かっています」
ヨナは暫く黙って、それから荷車から背を離した。
「連れて行け。馬は俺のを使え。帳面はネリに書かせる。字は下手だが、書ける」
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王女は石の山の地下の倉にいた。床に本が積んであり、その中に座って、北境砦の記録を写しで読んでいた。エリアスが林で書いた証文の裏の名簿も脇にある。
「七十三人」
「証文の裏に、炭で書いたものです」
王女は名簿の端に触って指を黒くした。
「王都で私は、記録院は王家に仕えている、と言いました。その記録院は、今、摂政会議の下にある。摂政会議はヴァルデンの兵に囲まれて、開城の条件を話している。あなたの父が総長でいられるのも、あと何日か」
「聞いていません」
「なら、今、知らせました」
王女は名簿から指を離した。
「あなたは王都に戻るつもりでしょう。ヨナがそう言った顔をしていた。行くなら頼みがあります。私のことではなく」
少し言葉を切った。
「塗油なしで王になる方法が、どこかに書いてあるか。八十年前の、この国に教会がなかった頃、王がどうやって王になっていたか。記録院の書庫に、その頃の物が残っているか」
「灰の戦争で、ほとんどは」
「ほとんど、でしょう。全部ではない。私は本を読みます。他にできることがなかったので。読んで分かったことが一つあります。消した者は、消し方をどこかに書く。書いておかないと、次に消すときに困るから」
エリアスは答えなかった。
倉を出ると、階段の上にネリが立っていた。手に、ガレスの板を持っていた。
「あの司祭から、これを渡されました。書き方を教われと」
「書けるのか」
「王女様に習いました。下手です」
ネリは板を胸に抱え直して、階段の下に誰もいないのを確かめた。
「王宮で、灰区の話は王宮まで届く、と私が言ったのを覚えていますか」
「覚えている。テオのことも、もう知っていた」
「あれは、私が自分で聞いてきた話です。灰区には、月に一度行っていました。王女様の用ではなく、私の用で」
「何の用だ」
ネリは板を抱えたまま、倉のほうへ下りていった。
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二日後の朝、西へ向かう道の入口に、馬が二頭と犬が一匹いた。
エリアスは王女派の厩から借りた葦毛に、ガレスは司祭服を脱いで灰人の外套だけになり、鹿毛の去勢馬に乗っていた。ヨナは鞍を置くのを手伝って、最後に鹿毛の腹を叩き、太らせすぎた、と言って陣に戻った。
シルヴァの隊は、結局、灰人の陣に雇われた。払いは日に一度の粥と、犬に干し肉一枚。ヨナが本当に、犬の分を証文に書かせたのだ。
見送りに来たシルヴァは、犬の首に紐を結んで、端をエリアスに渡した。
「王都で迷ったら放せ。ここまで帰る。干し肉は一日一枚だ。二枚やると、あんたについて帰ってこなくなる。こいつの雇い主はヨナだからな、勝手に雇い直すなよ」




