死なぬ兵
鐘は外壁の隅の櫓にあって、夜勤が打つ。三つ打って四つ目が来ないのはどういう場合か、エリアスは階段を下りながら考え、打つ者が打てなくなった場合しか思いつかなかった。
剣は腰にあった。騎士学校を出たときの物で、砦に来てから一度も鞘から出していない。帳簿は机の上に、墨の皿の隣に置いてきた。階段を下りきってからそれに気づいたが、戻る気にはならなかった。
中庭には霧が出ていた。鍋底が夕食のときに言った通り、風が止んだ次の朝の霧が夜のうちに降りてきていて、松明の火はどれも滲んで、十歩先の人間は輪郭だけになった。
「内門を閉めろ! 外壁は捨てる! 弓は内壁に上がれ!」
ホルストの声が霧の奥から来て、人が走った。エリアスはその流れの脇に立っていた。誰も彼に何も言わない。記録官に出す指示を、この砦は持っていなかった。
内門の横木が落ちる音がして、それから暫くは何も聞こえなかった。
外壁のほうから足音が来た。二十か三十。走っておらず、揃ってもいない。ただ歩いてくる足音だった。
内壁の上で弓が鳴り、矢は霧に吸われて、当たった音だけが返ってきた。木の柱に釘を打つような音だった。足音は変わらなかった。もう一射、と誰かが叫び、また同じ音がして、足音はやはり変わらなかった。
外壁と内壁の間の通路から最初の一人が霧を抜けて出てきたとき、エリアスはその胸と肩に矢が立っているのを見た。若い男で、剣を持っていて、剣の持ち方だけは兵のものだった。歩き方は外壁の上で峡谷を眺めていた男と同じで、重心が動かない。
階段の下にいた砦の兵が槌を突き出し、槌は男の胸に入った。男は槌ごと一歩前に出て、兵が手を離すより早く剣を横に振った。兵の首の横から血が出た。男のほうからは何も出なかった。槌が抜けた穴から、乾いた粉が少しこぼれただけだった。
次の一人、次の一人が霧から出てきた。全部で十一だった。数えてしまったことに気づいて、エリアスは口の中で舌を噛んだ。十一の後ろから今度は揃った足音が走ってきて、霧の中に公家の旗が白い布のように浮いた。
外壁の門を、内側から開けた者がいる。
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剣を抜いたのは階段の下でだった。
誰かと打ち合うというより、霧から出てきた人間の胸に公家の紋を見て剣を出し、相手も出し、どこかに当たる、というだけのことだった。騎士学校で習った型はどれも当てはまらなかった。二度、剣が人に当たった。一度は腕だった。一度はどこに当たったのか分からず、相手が倒れてから、倒れてくれたことにほっとした。
三度目に当たった相手は倒れなかった。
脇腹に深く入り、手に骨の感触があった。相手はそれを見なかった。エリアスの顔を見て、剣を振った。エリアスは剣を抜いて後ろに跳んだ。跳べたのは相手が遅かったからだ。引いた刃を見ると血がついておらず、根元に灰色の乾いた物が薄く残っていた。相手の脇腹の穴から、灰区の土に染みていたあの煙の匂いがした。
「墨!」
厨の戸口から鍋底が包丁を持って出てきていた。
「そいつは駄目だ! 斬っても駄目だ! こっち来い!」
離れると、相手は追ってこなかった。追いかけるということを知らない様子で、ただ次に近い人間のほうへ向きを変えた。
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ホルストは内門の前に倒れていた。
内門は開いていた。外壁と内壁の間に取り残された者を入れるために隊長が開けさせて、その門から取り残された兵と、追う公家の兵と、歩く者たちが一緒に入ってきたのだ。ホルストの周りには公家の兵が三人倒れていて、ホルスト自身は腹を横に開かれていた。息はあった。
エリアスは膝をついた。
「墨か」
頰の刀傷が引っ張られていた。
「隊長」
「板の……絵を、持ってこい。俺の部屋の」
「隊長、今は」
「無しの……十枚。あれは、描けんかった」
ホルストは瞬きをして、エリアスの顔に目を戻した。何を言っていたのか、自分で分からなくなったように見えた。
「墨。お前、帳面に……名を消すときは、読み上げるんだ。ここでは」
「聞きました」
「あいつら、名簿に……ない。ないんだ。ないものを……」
最後まで言わず、ホルストは胸元を探った。剣ではなく、胸元の袋に手をやって、そこから小さな炭の塊を掴み出し、握った。それから何も言わなかった。
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顔を上げたとき、中庭の反対側の霧が少し薄れていて、松明の火が届いていた。歩く者の列が見えた。十一人のうちの残りが、間を空けて一人ずつ、砦の兵のほうへ向かっている。
その中に一人、背の低い者がいた。
肩が細い。手に対して剣が大きい。顔は松明の裏側で影になっている。
エリアスは立った。ホルストの手を離した。中庭を斜めに横切って歩いた。走らなかったのは、走れば転ぶと思ったからで、なぜそう思ったのかは分からない。横を誰かが走り抜け、前で誰かが倒れ、それを跨いだ。
背の低い者がこちらを向いた。
髪が目にかかっていた。誰も切ってやっていない。口が少し開いていて、上の前歯が一本欠けていた。
「テオ」
声は出た。
テオはエリアスを見た。目は開いていて、そこに何も乗っていなかった。エリアスが思い出したのは干し杏でもヨナでもなく、ラーレの家の戸口で靴を左右間違えて履き直したときの、ちょっと舌を出した顔だった。その顔と同じ顔が、今、何も乗せずにこちらを向いている。
剣が上がった。
エリアスは自分の剣を持っていた。腕は上がらなかった。
「テオ」
剣が下りてきた。遅かった。避けられる速さだったが避けず、左の肩に受けた。革が裂けて肉に入り、熱いと思った。
テオの剣はそこで止まった。
矢が刺さっても止まらない者たちが、肉に入ったところで止まっている。テオの目が一度揺れた。松明の火が映って揺れただけかもしれなかった。
「テオ」
テオは剣を抜き、下げた。そしてエリアスの脇を通り過ぎて、次に近い人間のほうへ歩いていった。
エリアスはその背中を見ていた。
それから笑った。喉から出たのは笑い声で、自分で止められなかった。中庭の真ん中で、肩から血を流して、死なない子供の背中に向かって笑っている。
横から平手が来た。
鍋底の太い掌が頬を張って、目の前で火花が散った。
「馬鹿か、墨! こっちだ!」
腕を掴まれて引かれた。足は勝手に動いた。厨の裏、井戸の脇、内壁の東側の階段。鍋底は太っているのに速く、階段の途中で一度振り返って包丁を投げ、何かに当たった音がした。
内壁の東側は峡谷の川に面している。壁の下がすぐ崖で、崖の下が川だ。
「泳げるか」
「……多分」
「多分でいい」
鍋底はエリアスの襟を掴んだ。
「墨。生きて王都に書け。ここで何があったか。分からんなら分からんと。親父がお前にそう言ってたろう」
「聞いていたのか」
「厨からは何でも聞こえる。それより」
鍋底は頬を揺らして笑った。
「椀が一つ減るな」
そして、エリアスを壁の外へ投げた。
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落ちた衝撃で息が全部出て、水が口に入って、流された。峡谷の川は速く、岩に肩をぶつけた。斬られたほうの肩だった。一度意識が飛んで、戻ってきたときもまだ流されていた。
空が白くなっていた。霧ではなく、夜明けの白さだった。
背中が流木に引っかかり、それに掴まって流れた。川は峡谷を出て緩くなり、幅が広くなって、両岸に木が見えた。
岸に人がいた。四人。革の鎧で、槌を持っていて、紋も旗もない。一人が槌を逆さにして柄のほうを川に差し出し、エリアスはそれを掴んだ。掴んだ左手の指が黒かった。ホルストの手を離したときについた炭が、川の水でも落ちていなかった。
砂利の上に腹から落ちて水を吐いた。吐き終えて顔を上げると、女が立っていた。
背が低く、髭のない男のように見えた。三十ぐらいで、髪はごく短く、こめかみに白いものが混じっている。口を動かしていた。何かを噛んでいる。革の鎧の胸に木の札が一枚下がっていて、札に焼き印があった。
「上流の砦の者か」
女が訊いた。声が嗄れていて、しばらく大声を出し続けたあとの声だった。
「……記録官だ」
「記録官」
女は噛んでいた物を頰の反対側に移して、後ろの男たちを見た。一人が肩をすくめた。
「砦は」
「落ちた。夜に。霧の中で」
「ヴァルデンか」
「ヴァルデンと、それと」
エリアスは言葉を探した。
「斬っても倒れない兵がいた。矢が刺さっても歩く。血が出ない。中から灰みたいな物が出る」
女の顔は動かなかった。噛んでいる口だけが動いていた。
彼女は砂利に膝をついて、エリアスの左肩の革を剥いだ。傷を見て、それから右肩を掴んで動かし、脇を押し、脚を叩いた。馬の脚を見るときの手つきだった。腰の袋から布を出して肩に巻きながら言った。
「あたしはシルヴァ。この四人と、あと十二人。王女派の南の隊に雇われてた。三日前にその隊が潰れて、雇い主が死んだから、北へ流れてる。北も潰れてるなら、どこへ流れるか考え直さないと」
「南の隊が」
「潰れた。ヴァルデンの兵は千もいなかったのにな」
布を強く縛った。
「あの手の兵は、こっちにもいた」
シルヴァは噛んでいた物を砂利に吐き捨てた。黒い、根のような物だった。
「あたしが雇われてた王女派の隊にもだ。顔の分からん連中が二十人ほど混じってた。三日前の朝まで味方のはずだった連中が、朝になったら味方を斬ってた」
彼女は立って、川の上流を見た。峡谷の口の霧はもう晴れていた。
「旗はどっちだっていいんだよ。あれは、戦争のどっちかじゃない」
男たちのほうへ顎をしゃくった。
「立たせろ。歩けるなら歩かせる。歩けないなら担ぐ。日が高くなる前に林に入る」




