北境砦
砦の兵はエリアスを「墨」と呼んだ。
着いた日の夕方には、もうそう呼ばれていた。誰が言い出したのかは分からない。砦では誰でも着いた日のうちに呼び名がつく。隊長のホルストは「親父」、副官は「帳面」、料理番は「鍋底」、そして記録官は「墨」だった。名で呼ばれるのは、死んだときだけだと、鍋底が言った。
「死んだら名簿から消す。消すときに、初めて本名を読み上げる。それまでは呼び名だ。いいだろ、楽で」
北境砦は、王都から北へ七日、国境の峡谷の入口に立っていた。八十年前の戦争で一度焼けて、石の土台だけが残り、その上に木で建て直したものだ。壁は石、その上の建物は木。木は冬のたびに歪んで、廊下の床がどこも傾いている。エリアスは着いて三日、部屋の机の上で墨の皿が勝手に滑るのを、板で止めなければならなかった。
仕事は帳簿だった。砦に何人いるか、誰が来て誰が出たか、矢が何束、粥が何桶、薪が何束。それを毎日書いて、七日ごとに王都へ送る。王都に着くのは、また七日後だ。届く頃には、書いたことの半分は変わっている。
「それでも書け」
ホルストはそう言った。五十を過ぎた、首の太い男だった。頬に古い刀傷があって、笑うとそこが引っ張られて、笑っているのか怒っているのか分からなくなる。
「記録官の目で、兵を見ろ」
「兵を、ですか」
「俺は兵の顔を見る。お前は帳面を見る。両方あったほうがいい。俺は字が遅いんだ」
字が遅い、というのが、この男の言い方だった。読めなくはない。書けなくもない。ただ遅い。ホルストは代わりに、絵を描いた。
それを見せられたのは、五日目だった。隊長の部屋の壁に、板が一枚掛かっていて、その板に紙が何十枚も貼ってある。一枚に一人、顔。炭で描いた、下手な顔だ。輪郭と、目と、鼻と、口と、それに髭や傷や欠けた耳。下に呼び名が書いてある。
「着いた日に描く。全員だ。呼び名も俺がつける」
「これで、顔を覚えるのですか」
「描いた顔は忘れん。描いてない顔は忘れる」
エリアスは板の前に立った。百数十枚。ほとんどは、笑ってしまうほど下手だった。だが、下手なりに一枚ずつ違っていた。鼻が曲がっている。左目が小さい。口が大きい。並べると、それが百数十人の別々の人間だと分かる。
その中に、十枚ほど、様子の違う紙があった。
輪郭だけ描いてある。目と鼻と口の位置に、点が三つ。それだけ。下に呼び名はなく、代わりに「無し」と書いてあった。
「これは」
「描けなかった」
ホルストは言った。
「十日前に来た補充だ。修道院から送られてきた志願兵。四十人。そのうち十人ほど、描けなかった。目を見て炭を持つと、何を描けばいいか分からなくなる。年を取ったかと思った」
「他の三十人は」
「描けた。普通に」
ホルストは板から紙を一枚外して、エリアスに渡した。点が三つ。
「墨。お前は帳面を見ろ。俺の絵は当てにならん」
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帳面を見た。
補充の四十人は、王都の徴募所を通さず、東の修道院から直接来ていた。名簿には四十人分の名が書いてあり、出身地の欄には、全員に同じ修道院の名があった。生まれがそこだというのではない。志願した場所がそこだという意味だ。書式上は、それで通る。
次に、鍋底の帳面を借りた。料理番は毎食、桶の数と、椀の数を書いている。椀は一人一つ。取りに来なければ書かれない。
補充の四十人が来た日から、椀の数は、三十ほどしか増えていなかった。
「気づいてた」
鍋底は言った。太った、腕の毛の濃い男だった。
「飯を取りに来ない奴がいる。十人か、十一人か。最初は、腹でも壊してるのかと思った。三日、五日、来ない。十日来ない。それで親父に言った」
「隊長は」
「兵が飯を食わなきゃ飯が余る。文句はない、って」
鍋底は肩を揺らして笑った。
「親父はな、そう言って、その晩からその連中を外壁に回した。外壁は夜勤だ。夜勤の奴は、昼に寝てて飯を取りに来なくても、誰も変に思わん」
「隠したのですか」
「知らん。俺は鍋底だ。椀を数えてるだけだ」
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その十人は、名簿の上では、他の三十人と区別がなかった。
エリアスは外壁に上がった。夜勤の交代は日没で、日没の少し前に上がれば、昼勤と夜勤の両方がいる。
外壁の上は風が強く、峡谷の奥から吹き下りてくる風が、石の隙間で鳴っていた。昼勤の兵は、交代の前に胸壁に腰を下ろして、乾いた肉を噛んだり、靴の中の砂を出したりしている。夜勤は、その脇に立っていた。
立ち方が、違った。
昼勤の兵は、立っていても、どこかが動いている。足の重心を替える、首を回す、指で胸壁の石を弾く。夜勤の十人ほどは、動かなかった。石の上に、石が置いてあるように立っていた。
エリアスは、一番近い一人に近づいた。
若い男だった。二十歳前後に見える。髪は短く刈ってあり、顔に傷はない。目は開いていて、峡谷の奥を見ている。近づいても、こちらを見なかった。
「記録院の者だ。名簿の確認をしている」
男は、ゆっくりと顔を向けた。
「名を」
男は口を開けた。少し遅れて、声が出た。
「ミロ」
エリアスは、帳簿を持っていた手を止めた。
ミロ。灰区の呼び名だ。ハンナの兄が井戸の脇で言った、呼ばれて荷車に乗った子の一人。テオと一緒に。
だが、名簿にミロという名はない。この男は補充の名簿の、どの名でもない名を言った。
「出身は」
「東の」
「東の、どこだ」
男は少し考えた。考えているように見えた。それから、峡谷の方を見た。
「今日は、風が強い」
「そうだな」
「明日も、強い」
「……そうか」
「風が強い日は、矢が曲がる」
男の声は平らだった。訛りがない。灰人の言葉の訛りも、王都の訛りもない。何もない声だった。
「名簿に、お前の名はない」
「ある」
「ミロという名はない」
「ミロは、呼び名だ」
男はそう言って、また峡谷の奥に顔を戻した。
エリアスは、それ以上訊かなかった。名簿を閉じて、外壁を下りた。階段の途中で、鍋底の帳面の椀の数を思った。三十。十人は、飯を食わない。飯を食わない人間はいない。食わなければ、十日で立てなくなる。
この男は、十日、立っている。テオを乗せた荷車が東門を出た朝から数えれば、十六日だ。
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ホルストは、エリアスの話を最後まで聞いた。刀傷を指で撫でながら、聞いた。
「補充兵の名簿は、いつも雑だ」
聞き終えて、そう言った。
「修道院は、志願した奴の名を、その場で書き取る。字の読めん坊主が書き取る。名が違ってても驚かん」
「隊長」
「食わん奴は、食わん奴で置いとけ。俺は四十人貰った。三十人分の飯で足りる。悪い話じゃない」
「隊長は、あの十人を、描けなかったと言った」
ホルストは指を止めた。
「言った」
「描けない顔は、隊長の目にも、何かが」
「墨」
ホルストは椅子から立った。首の太さが、座っているときより目立った。
「俺は五十二だ。この砦に二十年いる。兵は何百人も見た。描けない顔は、初めてだ。初めてだから、分からん。分からんことを、王都の帳面に書けるか」
「書けます。分からない、と」
「書いてみろ。王都は、七日後に読んで、分からんと言うだろう。七日後だ。それまで俺は、あの十人と、同じ壁の上で寝る」
ホルストは板の前に行った。「無し」の紙を一枚外し、しばらく見て、また戻した。
「外壁に回した。夜だ。夜なら、他の奴と混ざらん。それだけだ。それ以上は、俺には思いつかん。お前に思いつくか」
「……いえ」
「なら、帳面を書け。分からんことは、分からんと書け。それで、お前の仕事は済む」
声が、少しだけ柔らかかった。
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ヴィクトル公の軍が峡谷の南の口に着いたのは、それから四日後だった。
斥候が数を数えて戻ってきた。旗が七つ。公家の旗と、六つの冠家の旗。兵は千二百から千五百。砦の兵は、補充を入れて三百十。
「囲む気だな」
ホルストは胸壁から眺めて、そう言った。
「攻める気なら、もっと少なくていい。囲んで、飢えさせて、開けさせる。それが冠家の戦だ。八十年、それしかやってない」
翌朝、敵陣から使者が来た。
白い布を槌の先に括った騎馬が一騎、堀の手前で止まった。兜を取った。
ルカスだった。
エリアスは胸壁の上から、それを見た。ルカスは馬上で、砦の門を見上げ、それから、胸壁の上を端から端まで見た。エリアスを探しているのだと分かった。見つけた。目が合った。ルカスは、頷きも、手を挙げもしなかった。ただ、見た。
使者の口上は、副官の帳面が受けた。ヴァルデン公は王女の正統性を認めない。砦は摂政会議に属さず、王国に属する。門を開ければ兵は帰郷を許す。開けなければ、囲む。三日、待つ。
帳面はそれを書き取って、ホルストに渡した。ホルストは読むのに時間をかけた。読んでから、胸壁から身を乗り出して、堀の向こうへ怒鳴った。
「若様。親父さんに言え。三日と言わず、冬まで待てと。冬になれば、峡谷は雪で閉じる。そうしたら、俺らも、あんたらも、飢える。飢えたら、話し合いはしやすい」
ルカスの顔が、少し動いた。笑ったのかもしれなかった。
それから、ルカスは胸壁の上のエリアスを見て、声を張った。
「墨」
砦の呼び名を、知っていた。三日で、敵陣まで届いている。
「あの栗毛は、どうした」
騎士学校で、エリアスが乗っていた馬だ。ルカスがいつも、自分の馬より筋がいいと言っていた。
「屋敷にいる」
エリアスは、声を返した。
「連れて来ればよかったのに」
「北は、寒い。老けた馬だ」
「老けてない。俺のより二つ若い」
「よく覚えているな」
「馬のことだけは」
ルカスは兜を被った。被る前に、もう一度、エリアスを見た。今度は、何かを言おうとした顔だった。言わなかった。馬首を返して、白い布を揺らしながら、峡谷の口へ戻っていった。
胸壁の兵たちは、しばらく黙って、それを見ていた。それから鍋底が、後ろで言った。
「墨、お前、敵の若様と馬の話をしてたのか」
「そうだ」
「呑気なもんだ」
誰かが笑った。エリアスは笑わなかった。
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三日目の夜、風が止んだ。
峡谷の風が止むのは珍しいと、鍋底が夕食のときに言った。止むと、翌朝、霧が出る。霧が出ると、外壁から堀が見えなくなる。
エリアスは、その夜、帳簿を書いていた。粥、十二桶。椀、二百九十七。矢、四百六十束。薪、七十二束。補充兵四十名のうち十一名、着任以来、食事の記録なし。理由、不明。
最後の一行を書いて、墨が乾くのを待った。皿は板で止めてある。木の建物は、風がないと、逆に音を立てた。梁が、どこかで鳴った。
鐘が鳴った。
外壁の鐘だ。夜襲を知らせる鐘。一つ、二つ、三つ。四つ目は、鳴らなかった。




