二つの道
ルカスは台所の戸から入ってきた。
夜で、屋敷の表はもう閉めていた。女中が戸を開けると、外套の襟を立てた若い男が立っていて、酒の瓶を一本、胸に抱えていた。女中はエリアスを呼びに来て、「ヴァルデンの若様が、台所に」と言った。言い方に、どう扱えばいいのか分からない響きがあった。
「表から来ると、うちの者が誰かに言う」
ルカスは瓶を台所の卓に置いて、そう言った。外套を脱ぐと、下は絹でも革でもない、麻の服だった。
「三日後に北へ行くと聞いた。その前に一杯、と思って」
「誰から」
「バルト書記官の奥さんの妹が、うちの台所にいる」
エリアスは椀を二つ出した。
ルカス・ヴァルデンは十八で、エリアスより一つ下だが、騎士学校では同じ組だった。馬はルカスのほうが上手く、槌はエリアスのほうが強かった。それ以外は似たような成績で、二人とも、上のほうではなかった。ルカスは父親の嫡子で、エリアスは総長の末子で、二人とも家の中で誰にも期待されていない、というところが似ていた。
酒は葡萄で、公家の蔵の物だった。台所の卓で、麻の服で、公家の酒を飲んでいる。
「父は暴君じゃない」
二杯目で、ルカスが言った。
「そう言いに来たのか」
「そうだ。それと、来いと言いに来た」
「どこへ」
「父の側へ。北境砦は王女派の側だ。君がそこに行くのは、総長がそう決めたからで、君が決めたからじゃない」
「そうだ」
「なら、決め直せばいい。三日ある」
エリアスは椀を置いた。
「お前の父は、王女を王の子ではないと言った」
「言ったのは父じゃない。貼り紙だ」
「使ったのは父だ」
「使った」
ルカスは頷いた。隠さなかった。
「父は、それが本当かどうかは、どうでもいいと思っている。父にとって問題は、十六の娘が塗油なしで王になったら、この国は教会と割れる、ということだ。教会は塗油を下ろさない。下ろさないまま女王が立てば、教会は自分の権威を守るために何かをする。何をするかは分からない。分からない物を、父は嫌う」
「それで、自分が立つ」
「父が立てば、神託は下りる。父はそう信じている」
「なぜ」
「父が大司教と話したからだ。何を話したかは、私は知らない」
ルカスは椀の底を見た。
「私は父の考えが全部正しいとは思わない。だが、父の恐れは正しいと思う。八十年前、この国は王が弱かったから焼けた。父はそれを繰り返したくないだけだ」
「弱い王のせいで焼けたのか」
「そう教わった」
「私もそう教わった。記録院の書庫には、それ以外のことは書いてない」
ルカスは少し笑った。
「君は、そういう言い方をするようになったな」
「灰区で十日過ごした」
「聞いた。あの馬丁と一緒に。……彼は元気か」
「弟が、いなくなった」
ルカスは意味が分からなかったようだった。訊き返そうとして、エリアスの顔を見て、やめた。
しばらく二人とも黙って飲んだ。台所の竈の火が、小さくなっていた。
「行かない」
エリアスが言った。
「北へ行く。総長が決めたからだ。それ以外の理由は、今はない。だが、ある理由でお前の父の側には行けない」
「その理由は」
「まだ言えない。言えるようになったら、言う」
ルカスは瓶を持ち上げ、残りを二つの椀に均等に分けた。
「分かった。生きていたら、聞く」
彼は外套を着て、台所の戸から出て行った。瓶は卓に残った。公家の紋が、瓶の首に焼き付けてあった。エリアスはそれを、女中が見つける前に、水瓶の陰に隠した。
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翌日の午後、王宮から使いが来た。
王女が記録院の者を呼んでいる、と使いは言った。総長ではなく、記録院の者を。父はエリアスを行かせた。理由は言わなかった。三日後には王都を出る者なら、何を言われても引き摺られない、ということかもしれなかった。
王女の部屋は王宮の東側の、日の当たらない側にあった。王宮の主だった部屋は、いま摂政会議が使っている。塗油のない王女は、王の娘であっても、王ではない。部屋の場所が、それを言っていた。
扉の前に侍女が一人いた。十七ぐらい。黒髪を固く束ねて、目がエリアスの服の袖から靴まで、一度動いた。
「記録院の方ですか」
「エリアス・ロートヴェルです」
「ネリと申します。王女様の。中へ」
部屋は狭く、本が多かった。棚に入らない分が、床に積んである。窓辺の椅子に、王女が座っていた。膝の上に本を開いていて、エリアスが入っても、しばらく顔を上げなかった。
顔を上げると、葬列で頭巾の下にあった顔が見えた。細い顎。目の下に薄い影。十六には、少し老けて見えた。
「記録院には、王の巡幸の記録がありますね」
挨拶はなかった。
「あります」
「私が生まれた年の分を、見たいのです。父が、いつ王都を出て、いつ戻ったか。月と、日」
エリアスは、貼り紙の文を思った。王が北の巡幸に出ていた、その月まで書いてあった。
「王女様も、あの紙を」
「ネリが一枚剥がしてきました。読みました。父が北にいた月は、正しい。それは私も知っている。知らないのは、父が一度も戻らなかったのかどうか」
「巡幸の記録は、書庫にあります。今日のうちに写して、お届けできます」
「あなたが来てください。写しではなく、あなたが」
「私は三日後に、北へ」
「二日あります」
王女は本を閉じた。革の表紙に、記録院の印があった。書庫から貸し出された本だ。王女は記録院の本を読んでいた。
「記録官は、あの紙をどう見ましたか」
エリアスは少し考えた。
「文字は手で写したものです。六枚とも同じ手で、整っています。紙は厚く、灰色がかっていて、漉き目が縦に揃っています。教会の施し所で、帳面に使われていた紙と、同じ漉き方でした」
王女は、しばらくエリアスを見ていた。
「それを、他の誰かに言いましたか」
「いいえ」
「言わないでください。私は聞かなかったことにします」
彼女は立ち上がって、窓の外を見た。この部屋の窓からは、大聖堂は見えない。王宮の壁が見えるだけだ。
「記録院は王家に仕えている。ですが、王家は今、いない。私は王ではありません。摂政会議は叔父を怖れていて、叔父は大司教と話している。私に仕えている者は、ネリと、あと三人です」
「はい」
「だから、私が頼めるのは、事実だけです。父がいつ戻ったか。それだけを、正しく」
「明日、お持ちします」
王女は頷いた。それで用は終わりだった。
扉を出ると、ネリが廊下に立っていた。
「王女様は、ああいう話し方しかできません」
小声だった。
「慣れていないだけです。人と話すことに」
「分かりました」
「それと」
ネリは廊下の先を見て、誰もいないのを確かめてから言った。
「あなた、灰区に十日いたと聞きました。ヨナ、という人と」
「はい」
「弟のことも」
エリアスはネリの顔を見た。ネリは目を逸らさなかった。
「灰区の話は、王宮まで来ます。来る道があります」
それだけ言って、ネリは扉の中に戻った。
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巡幸の記録は、書庫の三十七番の棚にあった。禁書庫ではない、普通の書庫だ。
王女の生まれた年。王は春に北へ出て、秋に戻っている。貼り紙の書いた通りだ。ただ、夏の半ばに、王は一度、十二日だけ王都に戻っていた。北の諸侯との会合の書類に、王の署名が必要だったからだ。十二日。それだけの記載が、巡幸の帳簿の欄外に、小さく書き足されていた。
その十二日を、貼り紙は書いていなかった。
エリアスはその頁を写した。欄外の書き足しも、同じ位置に、同じ大きさで。写し終えて、原本の頁を見て、一つだけ気になった。欄外の書き足しは、本文と同じ筆跡だった。同じ書記が、あとで気づいて足したのだろう。墨の色が、わずかに違う。
翌日、王女はその写しを、長いあいだ見ていた。
「十二日」
「はい」
「私が生まれたのは、翌年の春の終わりです」
王女はそれ以上、何も言わなかった。写しを本の間に挟み、その本を膝に置いた。
「ありがとう。北で、生きてください」
それが、この部屋で聞いた、最初の挨拶らしい言葉だった。
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出立の朝、厩でヨナが馬に鞍を置いていた。
エリアスの馬ではなかった。屋敷で一番古い、鹿毛の去勢馬に、古い鞍を置いている。
「総長に暇を貰った」
振り向かずにヨナは言った。
「馬も」
「この一頭だけ。もう八つだ。屋敷にいても、来年には潰す。それなら乗って行けと言われた」
「東へ行くのか」
「東へ。荷車の跡を追う。月に一度、同じ道を通ってるなら、道の途中で誰か見てる」
「見つかるか」
「知らない。見つからなくても、他にやることがない」
ヨナは鞍の腹帯を締めた。去勢馬が息を吐いた。
エリアスは、自分の腰から短剣を外した。騎士学校を出たときに父が持たせた、飾りのない鋼の物だ。
「持って行け」
「持ってる」
ヨナは腰の短刀を叩いた。灰区に入るときのものだ。
「それは鈍い。こっちは研いである」
ヨナは短剣を受け取って、鞘から少し抜き、刃を見て、戻した。
「使い道は」
「見つけたら、名を彫れ。どこかに。石でも木でも」
「名がない」
「呼び名でいい。呼び名でも、彫れば残る」
ヨナは短剣を腰の反対側に差した。何か言おうとして、言わず、馬の鼻先を撫でた。
「あなたは戦争へ行く」
「総長が決めた」
「それでいい。俺はテオを探す。俺が決めた」
ヨナが馬に乗り、エリアスが門を開けた。
去勢馬は、ゆっくり歩いて、東へ曲がった。ヨナは振り向かなかった。
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北へ向かう隊は、王都の北門で編成された。
守備隊への補充が百二十名、荷車が九台。それに従軍記録官が一人。記録官は隊の後ろで、荷車の脇を馬で行く。隊長はホルストという名の、北境砦から迎えに来た年配の騎士で、記録官を一目見て「後ろにいろ、邪魔になるな」と言っただけだった。
王都を出て半刻ほどのところで、南から来る馬車と行き違った。
黒塗りの、公家の紋のある馬車だった。ヴァルデンの紋。王都を出る隊の脇を、王都へ入る方向にゆっくり通る。窓には幕が引かれていた。
エリアスは、それが姉の乗っている馬車かどうか、分からなかった。ヴァルデンの馬車は何台もある。分かったのは、馬車の御者台の脇に、姉の屋敷の紋を縫った鞄が括ってあることだけだった。
幕は動かなかった。
馬車は隊を追い越し、王都の門へ向かって遠ざかった。ヴィクトル公が諸侯を集めているのは王都の外だと、バルトは言っていた。姉の家は、その逆へ向かっている。
隊は歩みを止めなかった。前で、ホルストが何か怒鳴った。荷車の一台が轍に嵌ったのだ。
夕方、最初の宿営で、隊長の副官が名簿を持ってきた。
「記録官殿。名を」
「エリアス・ロートヴェル」
副官は名簿の末尾に、それを書いた。書きながら言った。
「ロートヴェル。記録院の総長の」
「末子です」
「そうか」
副官は名簿を閉じて、隊長の天幕へ持って行った。




