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Nameless Crown  作者: 宵野 綴
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3/19

移送

「帰ってない」


 七日目の朝、柵の前でヨナはそう言った。前の晩から屋敷に戻っていなかった。革の胴着の肩が濡れて、目の下が黒い。


「施しは、いつ終わる」


「夕方だ。去年は日が落ちる前に帰った。昨日は夜中になっても帰らない。ラーレが起きて待ってた」


「他の子は」


「ハンナの兄ちゃんは帰った。ミロは帰ってない」


 ヨナは柵を押した。エリアスは帳簿を抱えたまま後を追った。今日は第五区画のはずだった。


 ハンナの兄という少年は、第二区画の井戸の脇に座っていた。十五か十六。久しぶりに腹が膨れて、動くのが面倒なのだろう、ヨナが来ても立たなかった。ヨナが灰人の言葉で訊き、少年が答え、また訊いて、また答えた。途中で少年が一度、施し所の方を指し、それから東を指した。


「食ったあとで、司祭が紙を見て呼び名を読んだ。呼ばれた奴は奥の戸から出て、荷車に乗った。十人ぐらい。地方の修道院、いい所だ、腹いっぱい食える、と言われたそうだ。テオは呼ばれた。ミロも」


「テオは、嫌がらなかったのか」


「呼ばれて行かない奴はいない。行かないと言ったら、次から施しに来られない」


「荷車は」


「夜明け前に東門を出た」


 少年が、二人を見上げて何か言った。ヨナは短く返して、少年の頭に一度手を置いた。それから立ち上がって、東門へ歩いた。


 東門の衛士は、二人の服を見て、用件を聞く前に首を振った。


「教会の荷車は調べない。積み荷も、人も」


「どこへ行くと」


「言わないし、訊かない。月に一度、夜明け前だ。中に灰人が乗ってるらしいことは知ってる。それだけだ」


 衛士は槌を持った手で街道の先を示した。東の街道は緩く下って、森に入って見えなくなる。ヨナは暫くそれを見て、来た道を戻った。


「どこへ」


「ラーレのところだ。待ってるから」


---


 ラーレは竈の前にいた。火は入っておらず、膝の上の笊で豆を選っていた。虫食いの豆を摘んで、脇の椀に落とす。ヨナが灰人の言葉で二言言い、老婆は頷いて、豆を選り続けた。


 エリアスは戸口に立っていた。


「帰ってくることは」


 ラーレは手を止めなかった。


「連れて行かれた子で、帰ってきた子はいないよ。あたしが覚えてる限りではね」


「修道院に、開墾に、と言われています」


「そう言われてる。訊きに行く先がないんだ。教会に訊けば司教区が決めたと言われる。司教区がどこにあるかあたしは知らない。記録院に訊けば、そんな者は戸籍にいないと言われる。いないんだから、いなくなったとも言えないだろう」


 豆が一つ、椀の縁で跳ねて土間に落ちた。ラーレは拾わなかった。


「ヨナが連れて行かれなかったのは、屋敷にいたからだ。屋敷勤めの者は教会も呼ばない。テオも置いてくれって、十一年前にあたしは頼んだ。乳飲み子は無理だと言われて、それで――」


「ラーレ」


 ヨナが遮った。


「あんたのせいじゃない」


「じゃあ誰のだ」


 ヨナは答えず、土間に落ちた豆を拾って、椀に入れた。


 エリアスは膝の上の帳簿を見た。第四区画までの数字が入っている。今日、第五区画を数えて、備考欄に同じことを書く。前年比、男何名減。移送の記載あり。移送先の記載なし。


 彼は帳簿を腰掛けの横に置いて、立った。


「ガレス司祭のところへ行きます」


---


 施し所の戸は閉まっていた。叩くと、しばらくして開いた。ガレスは昨日と同じ服だった。戸を開けたまま後ろに下がって、エリアスが入ると、また戸を閉めた。


「昨日、ここで若い者を荷車に乗せた」


「はい」


「呼び名を、紙を見て読んだと聞きました。その紙は」


「司教区から。月に一度、人数と……人数だけです。誰をとは書いてない。私が、選ぶ」


「どう選ぶ」


「身寄りのない者から、と。指示が。今月は、いつもの倍と言われて」


「身寄り」


「屋敷勤めの兄がいる、というのは、戸籍がないので、身寄りに数えられません。私は、数えなかった。数えろとは言われていない。……言われていないから、数えなかった」


 ガレスは机まで後ろ向きに歩いて、机に手をついた。


「それと、順番だけ言います。あなたが帳面を見に来たのが、先週。倍にせよと言ってきたのが、三日後です。関係があるかは知りません。順番だけです」


 エリアスは黙って立っていた。ガレスも黙った。倉の奥で、麻袋の中の何かが小さく崩れる音がした。


「移送先を」


 エリアスが言った。


「知りません」


「知っていることを」


 ガレスは机についていた手を離し、司祭服の胸元に手を入れた。昨日、鍵を探した場所だ。今日はそこから、折った紙を一枚出した。


「昨夜、書きました。あなたが今日来なければ、燃やすつもりで」


 紙は小さく、二行だけあった。


 一行目に、黒名簿。


 二行目に、棚番号。記録院の書庫の番号の付け方だった。禁書庫の、番号だった。


「私は灰区に来る前、司教区の書庫で三年、下働きをしました。この書名は、書庫の者はみな知っています。見た者はいない。原本は教会に、写しは記録院の禁書庫に、その棚に。そう聞いただけです。聞いただけの物を、あなたに渡している」


「なぜ記録院に写しが」


「知りません」


 ガレスは自分の袖口を掴んだ。


「私はこのあと、司教区に、記録院の者に帳面を見せたと報告します。報告しないで後から分かるほうが悪い。報告すれば灰区から外されるでしょう。それは、いい。七年、送っていた。もう、いい」


 エリアスは紙を畳んで、袖の内側に入れた。礼を言おうとして、何に礼を言うのか分からなくなって、頭だけ下げた。ガレスは戸を開けた。


---


 記録院の禁書庫は、三階の総長室の隣にある。鉄の扉で、鍵は一つ。総長が持っている。扉の前の廊下には窓がなく、午後でも足元が見えない。


 エリアスはその扉の前に立った。灰区から直接来て、服に煙の匂いが残っている。帳簿は屋敷に置いてきた。


 扉には札が貼ってあり、内側の棚は二十番から四十番、と書かれている。紙片の番号は、その間にある。


 彼は鉄に掌を当てた。冷たかった。それだけだった。鍵はなく、鍵は隣の部屋にあり、隣の部屋には父がいる。


 廊下の奥からバルトが来た。エリアスを見て、鼻を動かした。


「灰区の匂いだ。まだ五日あるだろう」


「用ができて、戻りました」


「総長にか」


「はい」


 バルトは扉とエリアスを見比べて、何か言いかけて、やめた。


「おられる。行け」


 そう言って、階段を下りていった。


---


 父は窓を背に座っていた。夕方で、光は弱く、顔が見えた。羽根筆の先を小刀で削っていた。


「灰区は、まだ五日あるはずだ」


「ヨナの弟が、教会の荷車で連れて行かれました。昨日の夜明け前に」


 父は小刀を止めた。


「それで」


「教会の配給帳に移送の欄があります。移送先はありません。前任は配給帳を写しただけで、灰区に入っていない。去年も、その前もです。男だけが毎年三割減っています」


「知っている」


「知っている、と」


「灰区の帳簿は毎年、私の机を通る」


「では、なぜ」


「何を、なぜと訊いている」


 エリアスは袖から紙片を出して、机に置いた。父はそれを見た。手に取らなかった。羽根筆の削り屑を、掌で集めて椀に落とした。


「誰から、と訊いても言わんだろう。言わなくていい。灰区の司祭だ。七年目の」


 父は水を一口飲んだ。


「その帳簿の名を知っている記録官は、私の知る限り、この八十年で三人いる」


「今は」


「一人は辞めて田舎へ帰った。一人は四十年前の書庫の火事で死んだ。一人は、私だ」


 エリアスは父を見た。父は削りかけの羽根筆を見ていた。


「私は開けなかった。名だけ知って、開けなかった。だから今、ここに座っている。座っているから、お前を記録院に入れられた」


「中に何があるか、ご存じですか」


「知らん。知らんまま二十年、隣の部屋にいる。それがどういうことか、お前にはまだ分からんだろう」


 父は紙片を指二本でエリアスの方へ押し戻した。


「お前を四人目にしたくない」


「私は」


「まだだ。名を聞いただけだ」


 父は立って、窓の方を向いた。


「灰区の調査はバルトに引き継がせる。お前は明日から別の任に就く。明朝、辞令が出る。今夜は屋敷へ帰って寝ろ」


 エリアスは紙片を取って、部屋を出た。扉を閉めるとき、父がまた小刀を取ったのが見えた。


---


 辞令はバルトが持ってきた。


 写字室の机に封をした紙が一枚。北境砦の守備隊へ、従軍記録官として赴任せよ。日付は今日。出立は三日後。


「北境って、どこと戦うんだ」


 バルトが言った。


「知らないのですか」


「知ってるさ。王都中が知ってる。昨夜、ヴィクトル公が公家の兵を動かした。王女は王の子ではない、王妃は不義を犯した、だから塗油が下りないのだ、と諸侯に廻状を出した。王都の外に集まれと」


 バルトは椅子を引き寄せて座った。珍しいことだった。


「北境砦は王女派が最初に固める場所だ。総長は君を、王女派の側に置いた。記録院は王家に仕えているから、当然と言えば当然だが」


「王女が王の子でない、というのは」


「噂だ。昨日の午後には市場で言ってた。今朝は壁に貼ってある」


「見てきます」


「見てこい。それと」


 バルトは机の上の、灰区人数帳を指した。エリアスが今朝持ってきた、今年の帳簿だ。


「これは俺が引き継ぐ。見た。備考欄」


「はい」


「書いたのは、君だな」


「はい」


 バルトは帳簿を取り上げて、しばらく表紙を見ていた。


「写しを取っておけ。備考の頁だけでいい。今日のうちに」


「なぜですか」


「俺が引き継いだ帳簿の備考欄が、来週も同じ文であるかどうか、俺には約束できない」


 そう言って、帳簿を抱えて写字室を出た。


---


 王宮前の広場の、噴水に近い壁に人が集まっていた。同じ紙が、五枚か六枚、間を空けて貼ってある。


 王妃の名。相手の名はない。王女の生まれた年と、その年、王が北の巡幸に出ていた月が書いてあった。文字は整っていて、手で写したものだった。六枚とも、同じ手だった。


 衛士が一人いた。剥がしていなかった。読んでいた。


 エリアスは端の一枚を剥がした。紙は厚く、少し灰色がかっていて、指で撫でると漉き目が縦に揃っている。施し所でガレスが出した帳面と同じ漉き目だった。


 彼はそれを二つに折って、袖に入れた。


 隣で読んでいた老人が言った。


「剥がしていいのか、それ」


「記録院の者です」


「なら、いいのか」


「分かりません」


 老人は肩をすくめて、次の一枚のほうへ歩いていった。


 記録院に戻ると、バルトはもういなかった。エリアスは自分の机に座り、袖から二枚の紙を出した。辞令と、貼り紙。


 それから帳簿を借りに、三階へ上がった。備考の頁を写すためだった。


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