灰区
ヨナが最初の戸を叩いたとき、エリアスはまだ帳簿を開いていなかった。
叩き方が、屋敷の戸を叩くときと違っていた。拳の横で二度、少し待って、また二度。返事はない。ヨナは口の中で何か短く言った。エリアスに分からない言葉だった。灰人の間で使われている、八十年前の帝国の言葉の崩れたものだと、屋敷の女中たちは言う。女中たちが正しいのかどうか、エリアスは確かめたことがない。
戸が指二本分だけ開いた。女の顔の半分。ヨナが三つか四つ言葉を並べ、女がエリアスの帳簿を見て、何かを言い、戸を閉めた。閉める前に、戸の隙間の奥で、子供の頭が二つ引っ込むのが見えた。
「男二人、女一人、子供三人、ばあさんが一人」
「見せてもらえないのか」
「見せない。頼めば見せるだろうが、そうすると次の家が開かない」
「言われた数を、そのまま書くのか」
「隙間から見えた分と、大体合ってた。今のところは、それでいい」
エリアスは帳簿を開き、第一区画の頁に、二、一、三、一と書いた。灰区の空気は湿っていて、筆先の墨が紙の上で丸く留まる。乾くのを待つ間、次の家に歩いた。
道は柵の内側で石畳が切れて、雨のあとの黒い土になっていた。靴底に貼りつく。両側の家は屋根が低く、板を寄せ集めて石で押さえてあって、板の色も厚みも揃わない。王都で誰かが家を壊すと、その板がここに流れてくるのだと、ヨナが歩きながら言った。
男たちが道の脇に座って、皮を削っていた。腐った脂と灰汁が混じった匂いが、家の間にこもっていた。皮なめし、炭焼き、王都の汚穴の汲み取り、死んだ牛馬の解体。灰区の仕事は、記録院の税帳に「雑役」と一括りで書かれている。エリアスはその一行を何十回も写してきた。
男たちは手を止めなかった。一人がヨナに顎で挨拶し、また皮に目を戻した。
「なぜ隠れる」
歩きながら訊いた。
「隠れる、っていうか、出てこないだけだ。前に、数えられたあとで、頭数に合わせて何か取られた区画があったらしい。俺が生まれる前の話だ。本当かどうか知らないが、みんな覚えてる」
「何を取られた」
「知らない。ラーレに訊け。ラーレは何でも知ってることになってる」
午前中に二十七軒を回った。戸が開いたのは九軒だった。
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ラーレの家は第一区画の突き当たりにあった。他より屋根の板が揃っている。戸口の前に、木の椀を伏せて干す棚があり、椀が六つ並んでいた。
中は暗く、竈の煙と、豆を煮る匂いがした。老婆が竈の前に背を丸めて座っていて、振り向かずに言った。
「ヨナか。連れてきたんだろ、総長の坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめてくれ、と言ってる」
「じゃあ何て呼べばいい」
「エリアスです」
老婆は初めて振り向いた。顔が小さく、目が白く濁って見えるが、視線はまっすぐエリアスに来た。
「ラーレだ。呼び名だけどね」
「呼び名、というのは」
「あんたのは名だろう。記録院の紙に書いてある。あたしのは書いてない。誰かが呼んで、それで通ってる音だ。まあ、座りなさい。豆が煮える」
エリアスは土間の端の、丸太を切った腰掛けに座った。ヨナは壁に寄って立った。
「王様が死んだね」
「はい」
「額は塗ったかい」
「いえ。大司教が、神託を待つと」
「ふうん」
老婆は豆をかき混ぜた。
「昔は坊さんがよく言ってたよ。額が濡れるまでは、死んだ王様がまだ王様だってね。だから王様がいない日はないんだって。今はもう言わないのかね」
「分かりません」
「まあ、灰区には関係ないさ。塩の値が上がらなきゃ、誰が王様でもいい」
戸口に影が立った。
「兄さん!」
少年が飛び込んできて、ヨナの腰にぶつかった。裸足で、膝まで泥。髪が目にかかっている。ヨナは片腕で受けて、少年の頭を掌で押し戻した。
「テオ。靴はどうした」
「濡れるから脱いだ」
「泥のほうがましか」
「泥は乾くだろ」
少年は顔を上げてエリアスを見た。前歯が一本欠けていた。
「エリアスだ。総長のとこの」
「知ってる。兄さんが厩で寝てる家の人だ。馬に乗れる?」
「乗れる」
「俺、乗ったことない。兄さんが乗せてくれない」
「屋敷の馬だ」
「一回でいいのに」
エリアスは腰の袋から紙の包みを出した。
「姉から。干し杏」
テオは両手で受け取り、開けて、一つ口に入れた。噛みながら目を閉じ、それから包みを閉じて、ラーレに渡した。
「あんたが食えばいいだろう」
「今全部食べたら、明日ないだろ」
「口だけは達者だ」
ラーレは鼻で笑って、包みを竈の上の棚に置いた。テオはもう豆の鍋を覗き込んでいた。
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老婆は、訊かれなくても話した。
豆を椀に分けながら、塩の値の話をし、それから第三区画の誰かの嫁の話をし、それから急に、爺様の話になった。
「あたしの爺様は帝国の言葉が喋れた。いや、爺様じゃない、爺様の弟だ。爺様は喋れなかった。弟のほうが喋れて、あたしはその人から少し覚えた」
「ラーレ、前は爺様だって言ってた」
「どっちでもいいだろ。その人が言ってたんだよ。灰人の祖は名を持っていた。帝国の兵隊だったし、帝国の百姓だったし、こっちの国の百姓だった者もいた。戦争で吹き寄せられて、ここで名を失くした」
「取り上げられた、ということですか」
「あの人はそう言わなかったね。預けた、って言った」
エリアスは匙を止めた。ラーレはそれには気づかず、自分の椀に豆を入れている。
「預けた」
「そう。子供のあたしは、なら返してもらえばいいじゃないかと言ったんだ。そうしたら笑って、預かり証がないから無理だって。それから、塩を取ってこいって言われて、その話は終わった」
「それだけですか」
「それだけ。年寄りの言い方だよ。失くしたって言うのが嫌で、預けたって言う。あたしも最近そう言う。歯を預けた、目を預けた」
ヨナが壁から言った。
「その話、俺は二十回は聞いた」
「二十一回目だ。だいたい、あんた最初は爺様の弟だって聞いてたはずだよ。あんたが覚え違えてる」
「そうだったか」
テオが笑った。豆が、少し焦げていた。
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三日で第一区画から第三区画までを数え終え、屋敷の自室で前年度の帳簿と並べた。
第一区画。前年、男四十一、女五十八、子供三十、老人十二。今年、男二十九、女五十一、子供二十八、老人十四。
女と子供と老人の増減は、一年で人が死んだり生まれたり年を取ったりした分に見えた。男だけが十二減っている。第二区画も第三区画も同じだった。男だけが、三割ほど減っている。
エリアスは前年度の帳簿を閉じ、表紙を見た。革が乾いて角が反っている。この帳簿を書いた書記は、灰区の戸を叩いたのだろうか。
翌朝、柵の前でヨナに訊いた。
「前の担当は、どこで数えていた」
ヨナは柵に手をかけて、少し考えるふりをした。答えは持っている顔だった。
「施し所だ」
「教会の」
「そう。教会が月に二度、配給をやってる。粥と豆と、時々塩。区画ごとの人数で量を決めるから、教会に区画ごとの帳面がある。前の担当は、それを写した。半日で終わる」
「見たのか」
「見た。去年、俺も配給に並んでた。テオの分を取りに。あの人は奥の机で、司祭の帳面を横に置いて、写してた。こっちを一度も見なかった」
「教会の帳面を、見せてもらえるか」
「頼めば見せるだろう。あそこの司祭は、断るのが下手だ」
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施し所は第二区画の端にあった。灰区で唯一、石の土台がある。中は倉のように広く、樽と麻袋が積まれ、穀物の埃で空気が白い。
司祭は奥の机にいた。四十ほどの痩せた男で、灰色の司祭服の袖口が擦り切れている。エリアスが記録院の者だと名乗ると、立ち上がって椅子を勧め、自分の座る椅子を探して、見つからず、立ったままになった。
「ガレスと申します。灰区の担当を、七年」
「配給の帳面を、見せていただきたいのですが」
「帳面を」
「人数調査の照合です。前年の担当は、こちらで数字を頂いたと聞きました」
ガレスは机の引き出しの取っ手に手をかけた。かけたまま、袖口を反対の手で引いた。それから引き出しを開け、綴じた帳面を出して机に置いた。開かなかった。エリアスが手を伸ばすと、少し遅れて、自分の手を引いた。
書式は記録院の帳簿と同じだった。区画、男、女、子供、老人。
ただ、男の欄の右に、細い欄がもう一つ引かれていた。見出しはない。第一区画、十二。第二区画、十四。第三区画、十八。数字の隣に、小さく、二文字。
移送。
「これは」
「司教区の指示です。若い働き手を、地方の修道院に。開墾のために。灰区は人が多くて、食わせきれないので」
ガレスは一息に言った。用意していた言い方だと、エリアスにも分かる速さだった。
「どこの修道院ですか」
「司教区が決めます。私は送り出すだけで」
「戻ってきた者は」
ガレスは帳面を取り、引き出しに戻し、引き出しを閉めた。鍵を差そうとして、鍵を持っていないことに気づいたらしく、机の上を探し、それから司祭服の胸元を探った。鍵は出てこなかった。
「記録院に、書かれますか」
司祭が訊いた。
「数えたものは、書きます」
エリアスは礼を言って、施し所を出た。外で待っていたヨナが顔を見て、何も訊かずに歩き出した。
その夜、今年の帳簿の第一区画の頁を開き、備考欄に筆を置いた。前年度の帳簿では、どの頁も備考欄は空白だった。
「前年比、男十二減。教会配給帳に移送十二の記載あり。移送先の記載なし」
書いて、乾くまで待ち、頁を閉じた。
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六日目の夕方、ラーレの家で豆を食べていた。第四区画まで進んで、減り方は同じだった。ヨナは口数が減っていた。テオは変わらず、裸足で、豆を二杯食べた。
「明日、施しに行く」
二杯目を空にして、テオが言った。
「配給か」
「違う。月に一回の、若いのだけの日。司祭様が腹いっぱい食わせてくれる。肉が出ることもある」
ラーレが匙を置いた。
「テオ」
「行くよ。去年から行ってるだろ。ミロも行くし、ハンナの兄ちゃんも行く」
ヨナは壁に寄って、腕を組んでいた。
「兄さんも来る?」
「屋敷の仕事がある」
「だよな」
テオは椀を舐めた。ラーレは竈に薪を足した。
エリアスは膝の上で帳簿を開いた。第四区画。備考欄はまだ白い。移送、開墾、司教区の指示、鍵の出てこなかった胸元。それを並べて、十四の子供に、腹いっぱい食える日に行くなと言う。言い方を探して、見つからないうちに、帳簿を閉じた。
ヨナが壁から離れた。
「テオ。靴を履いて行け」
「泥だぞ」
「履いて行け。帰ったら洗え」
「分かったよ」
テオは椀を棚に伏せ、戸口の脇に転がっていた靴を拾って、泥を払わずに履いた。左右を間違えて、履き直した。




