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Nameless Crown  作者: 宵野 綴
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2/19

灰区

 ヨナが最初の戸を叩いたとき、エリアスはまだ帳簿を開いていなかった。


 叩き方が、屋敷の戸を叩くときと違っていた。拳の横で二度、少し待って、また二度。返事はない。ヨナは口の中で何か短く言った。エリアスに分からない言葉だった。灰人の間で使われている、八十年前の帝国の言葉の崩れたものだと、屋敷の女中たちは言う。女中たちが正しいのかどうか、エリアスは確かめたことがない。


 戸が指二本分だけ開いた。女の顔の半分。ヨナが三つか四つ言葉を並べ、女がエリアスの帳簿を見て、何かを言い、戸を閉めた。閉める前に、戸の隙間の奥で、子供の頭が二つ引っ込むのが見えた。


「男二人、女一人、子供三人、ばあさんが一人」


「見せてもらえないのか」


「見せない。頼めば見せるだろうが、そうすると次の家が開かない」


「言われた数を、そのまま書くのか」


「隙間から見えた分と、大体合ってた。今のところは、それでいい」


 エリアスは帳簿を開き、第一区画の頁に、二、一、三、一と書いた。灰区の空気は湿っていて、筆先の墨が紙の上で丸く留まる。乾くのを待つ間、次の家に歩いた。


 道は柵の内側で石畳が切れて、雨のあとの黒い土になっていた。靴底に貼りつく。両側の家は屋根が低く、板を寄せ集めて石で押さえてあって、板の色も厚みも揃わない。王都で誰かが家を壊すと、その板がここに流れてくるのだと、ヨナが歩きながら言った。


 男たちが道の脇に座って、皮を削っていた。腐った脂と灰汁が混じった匂いが、家の間にこもっていた。皮なめし、炭焼き、王都の汚穴の汲み取り、死んだ牛馬の解体。灰区の仕事は、記録院の税帳に「雑役」と一括りで書かれている。エリアスはその一行を何十回も写してきた。


 男たちは手を止めなかった。一人がヨナに顎で挨拶し、また皮に目を戻した。


「なぜ隠れる」


 歩きながら訊いた。


「隠れる、っていうか、出てこないだけだ。前に、数えられたあとで、頭数に合わせて何か取られた区画があったらしい。俺が生まれる前の話だ。本当かどうか知らないが、みんな覚えてる」


「何を取られた」


「知らない。ラーレに訊け。ラーレは何でも知ってることになってる」


 午前中に二十七軒を回った。戸が開いたのは九軒だった。


---


 ラーレの家は第一区画の突き当たりにあった。他より屋根の板が揃っている。戸口の前に、木の椀を伏せて干す棚があり、椀が六つ並んでいた。


 中は暗く、竈の煙と、豆を煮る匂いがした。老婆が竈の前に背を丸めて座っていて、振り向かずに言った。


「ヨナか。連れてきたんだろ、総長の坊ちゃん」


「坊ちゃんはやめてくれ、と言ってる」


「じゃあ何て呼べばいい」


「エリアスです」


 老婆は初めて振り向いた。顔が小さく、目が白く濁って見えるが、視線はまっすぐエリアスに来た。


「ラーレだ。呼び名だけどね」


「呼び名、というのは」


「あんたのは名だろう。記録院の紙に書いてある。あたしのは書いてない。誰かが呼んで、それで通ってる音だ。まあ、座りなさい。豆が煮える」


 エリアスは土間の端の、丸太を切った腰掛けに座った。ヨナは壁に寄って立った。


「王様が死んだね」


「はい」


「額は塗ったかい」


「いえ。大司教が、神託を待つと」


「ふうん」


 老婆は豆をかき混ぜた。


「昔は坊さんがよく言ってたよ。額が濡れるまでは、死んだ王様がまだ王様だってね。だから王様がいない日はないんだって。今はもう言わないのかね」


「分かりません」


「まあ、灰区には関係ないさ。塩の値が上がらなきゃ、誰が王様でもいい」


 戸口に影が立った。


「兄さん!」


 少年が飛び込んできて、ヨナの腰にぶつかった。裸足で、膝まで泥。髪が目にかかっている。ヨナは片腕で受けて、少年の頭を掌で押し戻した。


「テオ。靴はどうした」


「濡れるから脱いだ」


「泥のほうがましか」


「泥は乾くだろ」


 少年は顔を上げてエリアスを見た。前歯が一本欠けていた。


「エリアスだ。総長のとこの」


「知ってる。兄さんが厩で寝てる家の人だ。馬に乗れる?」


「乗れる」


「俺、乗ったことない。兄さんが乗せてくれない」


「屋敷の馬だ」


「一回でいいのに」


 エリアスは腰の袋から紙の包みを出した。


「姉から。干し杏」


 テオは両手で受け取り、開けて、一つ口に入れた。噛みながら目を閉じ、それから包みを閉じて、ラーレに渡した。


「あんたが食えばいいだろう」


「今全部食べたら、明日ないだろ」


「口だけは達者だ」


 ラーレは鼻で笑って、包みを竈の上の棚に置いた。テオはもう豆の鍋を覗き込んでいた。


---


 老婆は、訊かれなくても話した。


 豆を椀に分けながら、塩の値の話をし、それから第三区画の誰かの嫁の話をし、それから急に、爺様の話になった。


「あたしの爺様は帝国の言葉が喋れた。いや、爺様じゃない、爺様の弟だ。爺様は喋れなかった。弟のほうが喋れて、あたしはその人から少し覚えた」


「ラーレ、前は爺様だって言ってた」


「どっちでもいいだろ。その人が言ってたんだよ。灰人の祖は名を持っていた。帝国の兵隊だったし、帝国の百姓だったし、こっちの国の百姓だった者もいた。戦争で吹き寄せられて、ここで名を失くした」


「取り上げられた、ということですか」


「あの人はそう言わなかったね。預けた、って言った」


 エリアスは匙を止めた。ラーレはそれには気づかず、自分の椀に豆を入れている。


「預けた」


「そう。子供のあたしは、なら返してもらえばいいじゃないかと言ったんだ。そうしたら笑って、預かり証がないから無理だって。それから、塩を取ってこいって言われて、その話は終わった」


「それだけですか」


「それだけ。年寄りの言い方だよ。失くしたって言うのが嫌で、預けたって言う。あたしも最近そう言う。歯を預けた、目を預けた」


 ヨナが壁から言った。


「その話、俺は二十回は聞いた」


「二十一回目だ。だいたい、あんた最初は爺様の弟だって聞いてたはずだよ。あんたが覚え違えてる」


「そうだったか」


 テオが笑った。豆が、少し焦げていた。


---


 三日で第一区画から第三区画までを数え終え、屋敷の自室で前年度の帳簿と並べた。


 第一区画。前年、男四十一、女五十八、子供三十、老人十二。今年、男二十九、女五十一、子供二十八、老人十四。


 女と子供と老人の増減は、一年で人が死んだり生まれたり年を取ったりした分に見えた。男だけが十二減っている。第二区画も第三区画も同じだった。男だけが、三割ほど減っている。


 エリアスは前年度の帳簿を閉じ、表紙を見た。革が乾いて角が反っている。この帳簿を書いた書記は、灰区の戸を叩いたのだろうか。


 翌朝、柵の前でヨナに訊いた。


「前の担当は、どこで数えていた」


 ヨナは柵に手をかけて、少し考えるふりをした。答えは持っている顔だった。


「施し所だ」


「教会の」


「そう。教会が月に二度、配給をやってる。粥と豆と、時々塩。区画ごとの人数で量を決めるから、教会に区画ごとの帳面がある。前の担当は、それを写した。半日で終わる」


「見たのか」


「見た。去年、俺も配給に並んでた。テオの分を取りに。あの人は奥の机で、司祭の帳面を横に置いて、写してた。こっちを一度も見なかった」


「教会の帳面を、見せてもらえるか」


「頼めば見せるだろう。あそこの司祭は、断るのが下手だ」


---


 施し所は第二区画の端にあった。灰区で唯一、石の土台がある。中は倉のように広く、樽と麻袋が積まれ、穀物の埃で空気が白い。


 司祭は奥の机にいた。四十ほどの痩せた男で、灰色の司祭服の袖口が擦り切れている。エリアスが記録院の者だと名乗ると、立ち上がって椅子を勧め、自分の座る椅子を探して、見つからず、立ったままになった。


「ガレスと申します。灰区の担当を、七年」


「配給の帳面を、見せていただきたいのですが」


「帳面を」


「人数調査の照合です。前年の担当は、こちらで数字を頂いたと聞きました」


 ガレスは机の引き出しの取っ手に手をかけた。かけたまま、袖口を反対の手で引いた。それから引き出しを開け、綴じた帳面を出して机に置いた。開かなかった。エリアスが手を伸ばすと、少し遅れて、自分の手を引いた。


 書式は記録院の帳簿と同じだった。区画、男、女、子供、老人。


 ただ、男の欄の右に、細い欄がもう一つ引かれていた。見出しはない。第一区画、十二。第二区画、十四。第三区画、十八。数字の隣に、小さく、二文字。


 移送。


「これは」


「司教区の指示です。若い働き手を、地方の修道院に。開墾のために。灰区は人が多くて、食わせきれないので」


 ガレスは一息に言った。用意していた言い方だと、エリアスにも分かる速さだった。


「どこの修道院ですか」


「司教区が決めます。私は送り出すだけで」


「戻ってきた者は」


 ガレスは帳面を取り、引き出しに戻し、引き出しを閉めた。鍵を差そうとして、鍵を持っていないことに気づいたらしく、机の上を探し、それから司祭服の胸元を探った。鍵は出てこなかった。


「記録院に、書かれますか」


 司祭が訊いた。


「数えたものは、書きます」


 エリアスは礼を言って、施し所を出た。外で待っていたヨナが顔を見て、何も訊かずに歩き出した。


 その夜、今年の帳簿の第一区画の頁を開き、備考欄に筆を置いた。前年度の帳簿では、どの頁も備考欄は空白だった。


「前年比、男十二減。教会配給帳に移送十二の記載あり。移送先の記載なし」


 書いて、乾くまで待ち、頁を閉じた。


---


 六日目の夕方、ラーレの家で豆を食べていた。第四区画まで進んで、減り方は同じだった。ヨナは口数が減っていた。テオは変わらず、裸足で、豆を二杯食べた。


「明日、施しに行く」


 二杯目を空にして、テオが言った。


「配給か」


「違う。月に一回の、若いのだけの日。司祭様が腹いっぱい食わせてくれる。肉が出ることもある」


 ラーレが匙を置いた。


「テオ」


「行くよ。去年から行ってるだろ。ミロも行くし、ハンナの兄ちゃんも行く」


 ヨナは壁に寄って、腕を組んでいた。


「兄さんも来る?」


「屋敷の仕事がある」


「だよな」


 テオは椀を舐めた。ラーレは竈に薪を足した。


 エリアスは膝の上で帳簿を開いた。第四区画。備考欄はまだ白い。移送、開墾、司教区の指示、鍵の出てこなかった胸元。それを並べて、十四の子供に、腹いっぱい食える日に行くなと言う。言い方を探して、見つからないうちに、帳簿を閉じた。


 ヨナが壁から離れた。


「テオ。靴を履いて行け」


「泥だぞ」


「履いて行け。帰ったら洗え」


「分かったよ」


 テオは椀を棚に伏せ、戸口の脇に転がっていた靴を拾って、泥を払わずに履いた。左右を間違えて、履き直した。


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