塗油の途絶
牛が四頭、棺を曳いていた。
王の棺を曳くのは馬ではなく牛だと決まっている。理由をエリアスは知らない。子供の頃に父に訊いて、「そう決まっている」と言われ、それ以来訊いていない。牛の歩みは遅く、蹄が石畳を打つ音は間延びして、葬列の後ろの方ではその音より、前の人間の靴の音や、民の咳払いや、どこかの子供がぐずる声の方がよく聞こえた。
九月の朝で、風はなかった。棺を覆う灰色の布は少しも揺れず、太陽が高くなるにつれて、その布が実は上等な羊毛で、光を受けると銀に近い色に見えるのだと分かった。灰色というのは、王家が使うと、こういう色になるらしかった。
記録院の列は葬列の一番後ろだった。王家、教会、冠家、軍、それから記録院。記録する者は起きたことの後ろに立つ、と院の入口には彫ってある。バルト書記官は「つまり最後に酒場に入るということだ」と言う。エリアスは前を歩く軍の列の、革の背嚢と汗の匂いを嗅ぎながら、半刻以上そこにいた。
行列の先頭は見えない。ただ大通りが緩く曲がる場所で、一度だけ、前の方が見えた。
大司教が壺を持っていた。
両手で、胸の前に。両肘を軽く張って、脇を空けている。あれは重い物を長く持つときの持ち方だ、とエリアスは思った。厩でヨナが飼葉桶を運ぶときに、ああいう肘をする。老人が、六十を過ぎた人間が、あの姿勢で半刻歩いている。
その壺の中身を、エリアスは見たことがない。生きている者でも、見た者はごく僅かだ。八十年前、灰の戦争のあとに立った王のとき。その子のとき。そしてハラルド王のとき。蓋が開いたのは三度で、今度が四度目のはずだった。額に塗る、と教義にはある。灰の油を。それだけだ。壺は蓋をされたまま大聖堂の奥に置かれていて、王が死ぬと運び出される。
大司教の二十歩ほど後ろに、灰色の頭巾が一つ。王女だろう。その後ろに背の高い男。王弟ヴィクトル公。それ以上は、また道が曲がって見えなくなった。
大聖堂前の広場に着いたとき、日は真上にあった。
記録院の列は広場の隅、噴水の縁に近い場所に押し込まれた。噴水は止められている。水盤の底に落ち葉が張りついていて、乾いた苔の匂いがした。そこからは、階段の上の棺と、その前に立つ大司教が、人の頭の隙間から見えた。
棺が台に置かれる。大司教が階段を上る。中ほどで止まる。
ここで蓋が開くはずだった。エリアスは記録院の書庫で先代の即位の記録を読んでいる。「大司教、階を上り、壺を開き、王女の額に触れる。民、声を上げる」。三行で終わる記録だ。書いた者はよほど手が寒かったのか、それ以上何も書いていない。今日はもっと書けるだろうと思って、エリアスは袖の中の手帳の角を指で確かめた。
大司教は壺を台に置いた。
置いて、手を離した。
誰かが、エリアスの右のほうで、鼻から息を吐いた。それが広場で最初の音だった。
「神託を待つ」
声はそれほど大きくなかった。だが広場は狭くはないのに、隅まで聞こえた。皆が黙っていたからだ。
「灰は語る。だが今は、沈黙している。我らは、待つ」
大司教はそれだけ言って、階段を下りた。壺は棺の隣に、蓋をされたまま、置かれたままだった。
王女は動かなかった。頭巾で顔は見えない。両手だけが見えた。祈りの形ではなかった。右手が左手の指を、一本ずつ握り込んでいる。
ヴィクトル公は、壺を見ていた。
エリアスは手帳を取り出さなかった。書くべきことは分かっていた。「大司教、階を上り、壺を開かず」。それを書く手が、どういうわけか動かなかった。周りの記録官たちも誰一人書いていない。バルト書記官が、隣で小さく、「まずいな」と言った。何がまずいのか、彼は説明しなかったし、エリアスも訊かなかった。
その晩、王都には王がいなかった。
記録院は王宮の北の翼にある。三階建てで、窓が小さい。紙は日に焼けるので、窓は小さくなければならない。そのせいで廊下はいつも薄暗く、灯りを節約する院の方針のため、昼でも足元に気をつけて歩く。
翌朝、エリアスは常より早く登院した。眠れなかったからだ。
二階の写字室には、まだ誰もいなかった。机の上に、昨日の午後に写しかけていた税帳がそのまま開いている。墨は乾いて、皿の底で膜になっていた。水を一滴落として筆で溶かす。この時期の墨は、朝の冷えで粘る。指先に黒がついた。
書き始めて四半刻もしないうちに、バルトが来た。
「ロートヴェル。三階だ」
「何かありましたか」
「知らん。総長がお呼びだ」
「父が、ですか」
「総長が、だ」
バルトは筆立てから自分の筆を一本抜き取り、それを見て、また戻した。手を動かしていないと落ち着かないのだ。昨日の「まずいな」の続きを、エリアスは訊かなかった。
三階の総長室は、記録院で唯一、窓が大きい部屋だった。総長は日に焼ける紙を持たないからだ。父はその窓を背にして立っていた。朝日が真後ろにあって、顔の輪郭だけが見えた。
「灰区の人数調査を、お前にやらせる」
「灰区」
「王都東の灰区だ。年に一度、住んでいる人間の数を数える。担当の書記が熱を出した。代わりだ」
父は机の帳簿を一冊、指二本で押してきた。薄い。革の表紙が乾いて、角が白く反っている。「灰区人数帳・前年度」。
「同じ書式で書け。区画ごとに、男、女、子供、老人。名は書かん」
「灰人に名はない、と」
「戸籍がない。戸籍にない者の名は、書式にない」
父の返事はいつも、こう返ってくる。訊いたことに答えるのではなく、訊いたことの前提のほうを直してくる。
エリアスは帳簿を手に取った。前年度の帳簿は、片手で楽に持てた。頁を開くと、几帳面な数字がびっしり並んでいた。第三区画。男四十一。女五十八。子供三十。老人十二。備考欄は空白。次の頁も、その次も。
「父上」
言ってから、ここでは総長と呼ぶべきだったと思ったが、父は何も言わなかった。
「昨日のことは、誰が書くのですか」
「昨日のこと」
「大司教が、蓋を開けなかったことです」
父は窓のほうへ半分向いた。そうすると横顔が影から出て、目の下のたるみと、剃り残した髭が見えた。父は五十八になる。
「書かれる」
「誰が」
「書くべき者が、書くべきときに」
「私では、ないと」
「お前は灰区だ。明後日から。十日だ」
父は書類を一枚取り上げ、読み始めた。話は終わりだという合図だ。エリアスは帳簿を抱えて、部屋を出た。
扉を閉めるとき、父がまだ書類を読んでいないのが見えた。書類を持って、窓の外の、大聖堂の屋根を見ていた。
階段を下りながら、エリアスは帳簿の匂いを嗅いだ。古い革と、書庫の埃と、ごくわずかに、煙の匂い。灰区に持って行かれた帳簿は、戻ってくると皆この匂いをつけているのだと、あとでバルトが言った。
姉が来たのはその日の夕方だった。
ベアトリクスは玄関で外套を脱がなかった。長居しないという合図だ。外套は濃い緑で、雨に濡れた羊毛と、姉の使っている柑橘の香油の匂いが混じっていた。夕方から降り始めたのだ。
「顔が悪いわね。寝てないの」
「少し」
「私も寝てないわよ。屋敷中が起きてたもの。夫の従兄弟が夜中に三回も出たり入ったりして。何をしてるのか訊いたら、馬の様子を見に、だそうよ。うちに馬なんて二頭しかいないのに」
姉は居間の椀から干し杏を一つ取り、齧った。
ベアトリクスは二十六で、七年前にヴァルデン家の分家に嫁いだ。ヴァルデンは王弟ヴィクトル公の領する公家の名で、分家といっても公の従兄弟の家だ。姉はよく喋る。嫁いでからのほうがよく喋るようになった。屋敷の中でどこの誰が何を喋ったか、それを弟に聞かせにくる。エリアスは聞くだけで、記録院には持ち込まない。姉もそれを分かっていて話す。
「灰区に行くんだって」
「誰から」
「バルト書記官の奥さん。市場で会ったの。あの人、口が軽いのを自覚してない」
姉は杏の種を掌に出し、しばらく見て、椀の縁に置いた。
「いいと思うわ」
「何が」
「十日、灰区にいるってことよ。あそこは王宮から遠い。遠いところにいれば、見えない。見えなければ、書けない。書けなければ――」
姉はそこで言葉を切って、笑った。
「何を言いたいのか、自分でも分からなくなった。父様みたいな喋り方はやめよう」
「姉上」
「何」
「昨日、あの広場で、何が起きたのですか」
「私、広場にいなかったのよ。屋敷で女たちと待ってたの。だから何も見てない」
嘘だった。姉はそういう嘘を、弟にだけ、わざと下手につく。
「一つだけ言うわ。うちの夫が言ったこと。あの壺の蓋を開けたい人間は今、王都に山ほどいる。開けて王女の額に塗りたい人。開けて別の人の額に塗りたい人。それから――中に何が入ってるのか見たい人」
姉は弟の顔を見た。
「あなた、三番目でしょう」
エリアスは答えなかった。
「記録官はみんなそうなんだって。父様も昔はそうだったって、母様が言ってた。今は違うわね。だから総長でいられるのよ」
姉は外套の襟を立てて、玄関に向かった。扉の前で一度止まり、振り向かずに言った。
「テオに、干し杏持って行ってあげなさい。あの子、いつも腹を空かせてるから」
そして出て行った。雨の音が一度大きくなり、扉が閉まって小さくなった。
椀には杏が七つ残っていた。エリアスはそれを紙に包んで、帳簿の隣に置いた。
厩に行くと、ヨナは馬の脚を拭いていた。
夕方の雨で、四頭とも脚が泥だらけになっていた。ヨナは桶と布を持って、一頭ずつ、前脚、後脚と拭いている。藁が濡れて、厩の中は湿った草と馬の体温の匂いが濃かった。
「灰区、だろ」
顔を上げずにヨナが言った。
「誰から聞いた」
「台所。バルト様の従僕が、うちの女中に言ってた。末の坊ちゃんが灰区に数を数えに行くって」
「あの人は、口が軽い」
「奥さんもだ。夫婦で王都中に流してる」
ヨナは布を桶で絞った。水が黒くなっていた。
ヨナは二十歳で、姓がない。灰人だから。十一年前、父が灰区から連れてきた。弟が一人いて、当時はまだ乳離れしたばかりだったので、灰区の老婆に預けられたまま、今もそこで暮らしている。ヨナがなぜ連れてこられたのか、エリアスは訊いたことがなく、ヨナも言ったことがない。ただ、当時九つだったヨナが、屋敷に来た最初の晩に厩で寝ると言い張って、それから十一年、そこで寝ている。
「俺も行く」
「随行は、記録院の許しが」
「総長は断らない」
「なぜ分かる」
「あの人が俺を拾ったのは、こういうときのためだろ」
ヨナは次の馬に移った。栗毛の牝馬で、脚を触られるのを嫌がる。ヨナは鼻先を一度撫でてから、前脚を持ち上げた。
「テオに会える」
「元気か」
「元気だよ。腹は減ってる。あいつ、いつも減ってる」
「姉が、干し杏をくれた」
「あれか。あの人、去年もくれたな」
ヨナは少し笑った。牝馬の脚を下ろし、腰を伸ばした。エリアスより頭半分高い。
「あなた、灰区、行ったことないだろ」
「ない」
「門の前までは?」
「……門の前までは、ない」
「そうか」
ヨナはそれについて何も言わなかった。桶の水を厩の外の溝に捨て、新しい水を汲みに行った。エリアスは残された栗毛の鼻先に手をやった。牝馬は鼻を鳴らして、掌を舐めた。塩気を舐めているのだ。
翌日、総長室で許しを求めると、父は書類から目を上げずに「そのつもりだった」と言った。
灰区への門は、王都の東の端にある。
王都の門は七つだと教わる。市の門、河の門、北の門、それから四つの小門。灰区へ通じる門は数えられていない。石造りの門ではなく、木の柵に鉄板を打ち付けた、農場の柵の切れ目のような物だ。柵の内側と外側で、石畳が途切れている。外側は土だった。
明け方で、霧が出ていた。エリアスは帳簿を胸に抱え、杏の包みを腰の袋に入れて、その柵の前に立っていた。
匂いがする。炊事の煙ではない。そういう匂いも混じっているが、その下に、もっと古い、土に染みた煙の匂いがある。雨のあとで土が湿っているせいで、それが強く立っていた。
「八十年前の匂いだって、ばあさんたちは言う」
ヨナが隣に立って言った。革の胴着を着て、腰に短刀を差している。厩にいるときと同じ服だ。灰区に入るときは、いつもこれなのだろう。
「本当か」
「知らないよ。俺は八十年前にいなかった」
霧の向こうで、誰かが咳をした。長い咳だった。誰も慰めなかった。
「怖い?」
「いや」
「嘘だ」
「……少し」
「いいよ。怖いほうがいい。前の担当の奴は怖くなかった」
「どうなった」
「数が減った」
エリアスはヨナの顔を見た。ヨナは柵の向こうを見ていた。
「どういう意味だ」
「入れば分かる」
ヨナは柵に手をかけて、それから手を止めた。何か考えているように見えた。それから、柵に手をかけたまま、エリアスの方を見ずに言った。
「一つだけ。あなたはこれから、数を書く。俺たちは、数えられるほうだ」
「分かっている」
「分かってない。同じ紙を見ても、見えてる物が違う。それだけ、覚えといてくれ」
言い方がぶっきらぼうで、ヨナ自身、言いながら顔をしかめていた。うまく言えていないのが分かっているのだろう。それ以上は何も言わず、柵を押した。鉄板が軋んで、土の上に扉の跡が弧を描いた。
エリアスは帳簿の表紙を一度撫でて、それから中に入った。




