第75話 連呼
ボイスが、変わった。
変わった、という表現は、この局面に於いては正確さを欠いている。強くなった、というのも本質ではない。
ボイスは元々、ミーナミのガーディアンズの副隊長であり、実戦的な剣は最初から使えた。
ただ、使える人間の剣が、その人間が肉体的に内包する限界の数値を唐突にオーバーフローした。
筋肉の収縮速度、シナプスの伝達効率、あるいは網膜が捉える空間の座標データ、そのすべてが何らかの力によって、異常なまでに最適化されている。
そういうことだと思う。
「では、まずは、あちらの豚さんからお相手を…。」
シルヴァン・メルクリウスが言った。
手入れの行き届いた指先で、アーマーを示した。
それは高級ホテルのラウンジで、退屈な客に紅茶のおかわりを上品に勧めるような、ひどく洗練された手つきだった。
ボイスの姿が、唐突に景色から消えた。
消えた、というのは、オレの目が彼の移動スピードの初速に完全に置き去りにされた、という意味だ。
次の瞬間、空間が不自然に爆ぜ、アーマーの愛用していた二本のムチが綺麗に二つに切断されて、硬質な床の上へと哀れに転がっていた。
「ちょ、待てよ!オレだよ!?アーマーだよ!」
アーマーが叫んだ。
「エクスカリバーは、僕が貰います」
ボイスが言った。
丁寧な声だった。その丁寧な声のまま、抜かれた鉄の刃が、アーマーの体を正確に三回、通過した。
アーマーが倒れた。
それはあまりにも一方的だった。
反撃の隙は、一秒もなかった。
致命傷ではない。
たぶん。
「オレが行く…!」
バウンスが、感情を排した声で前に出た。
ボイスの放った高速の斬撃を、硬い腕の骨で強引に受け止めた。
受けて、止まった。
そして、そこから一ミリも動かなかった。
「跳躍偏向」は、
この局面では使えない。
受けた斬撃を倍にしてそのまま叩き返せば、
ボイスの腕が飛ぶ。
「倍にして返したら、コイツが死ぬな…。」
バウンスが言った。
誰に対して放たれたセリフなのかは、オレには分からなかった。
ただ、剣が来る。
バウンスが下がる。
また鋭い剣が空気を裂く。
バウンスが下がる。
彼は完全に、防戦の一方に立たされていた。
そのバウンスの背後から、無駄に重い足音が近づいてきた。
ホワイトだった。
右肩を突き出していた。
「『白夜閃光』!」
ショルダータックルが、無防備なボイスの背中へとクリーンヒットした。
ボイスの身体が、前方の赤いカーペットの上へと吹き飛んだ。
「卑怯、ですね。」
シルヴァンが言った。
笑顔のままだった。
「背後から、というのは。ふふ、騎士道とは、無縁のお方のようで…。」
「操られてる仲間を止めるんだッ、多少の卑怯は許されるッッ!!」
ホワイトが胸を張った。
胸を張った、その、わずか数秒後だった。
ボイスが立ち上がった。
ゆっくりと立ち上がった、というよりは、最初から倒れていなかったかのような、不気味で滑らかな動きだった。
振り向きざまの一閃が、ホワイトの胸へと、鮮やかな赤い線を引いた。
「ぐおっ……!」
ホワイトが膝をついた。
そのまま、横に倒れた。
「エクスカリバーは、僕が貰います」
ボイスが言った。
「さっきからソレしか言ってねえな、オマエ!!」
オレは声を大にしてツッコんだ。
事実だった。
ボイスは、さっきからそれしか言っていない。
操られている設定のくせに、本音が剥き出しになりすぎている。
オレは、エクスカリバーを抜いた。
ずっしりと重かった。
重い、というのは、オレの腕に対してという意味だ。
握り方のバランスは、おそらく構造的に間違っていた。
オレは斬りかかった。
斬りかかった、というのは、ただ腕の力だけで剣を振った、という意味だ。
ボイスは動かなかった。
動いて避ける必要が、最初からなかったのだと思う。
ボイスの剣が、恐ろしい速度で返ってきた。
オレは避けた。一回目。二回目。三回目。
オレがどうにかボイスの刃から生き延びられたのは、優れた剣技によるものではなく、ただ足のステップ(逃走の本能)のおかげだった。
まともな剣技のデータなど、オレの中には最初から一ビットも存在しなかった。
「剣技は才能は全くですね。しかし、身のこなしは中々……ふふ、感心いたしました。」
シルヴァンが穏やかに言った。
どう考えても、
褒められているという気がしなかった。
「ボイスさんは、殺さないように倒さないといけませんね…死なれたら、副隊長の補充を会議にかける手間が増えますから。」
レンズが、眼鏡のブリッジを人差し指でクイッと押し上げながら、淡々と一人で納得していた。
「理由がそこかよ!!」
オレは絶叫した。
ボイスの斬撃を必死に避けながら、息を切らしてツッコんだ。
息は、すでに限界値まで上がっていた。
「ロジナスなら、首に手刀とか、顎先パンチで気絶させられるだろ!早くやれよ!」
「さっきから、それやろうとしてるんだけどさ。」
ロジナスがだるそうな声を漏らした。
ロジナスのジト目は、激しく動くボイスではなく、その奥のシルヴァンを冷酷に射抜いていた。
「シルヴァンのおぢ、隙なさすぎて出来ないんだよね。」
シルヴァン・メルクリウスは、紅茶を勧める姿勢のまま、赤いカーペットの上で一歩も動いていなかった。
その足の位置は、さっきから、一ミリもずれていない。
ボイスの細い剣先が、オレの腰のエクスカリバーへと再び真っ直ぐに向けられた。
「エクスカリバーは、僕が貰います」
「……よし、分かったよボイス」
オレは、激しく上下する肩の呼吸をどうにかコントロールしながら、芝居がかった、ひどく諦念に満ちたトーンで呟いた。
「そこまで言うなら、このエクスカリバーはオマエにやる。」
オレはそう言うと、ヘリックス・ボワイドーの血の海から掠め取ったばかりの白銀の聖剣を、ゆっくりとボイスに差し出した。
「エクスカリバーは、僕が貰います」
ボイスが言った。
ボイスの動作が、その物欲に塗れた台詞の完了と同時に、カチリと音を立てて変化した。
彼はオレに向けていた剣を、何の躊躇もなく自らの鞘へと納めた。
納めた、というよりは、物欲の報酬を受け取るために、右手のデバイスを完全にニュートラルな状態へと戻したのだと思う。
ボイスは両手を厳かに前へと差し出し、オレの持つエクスカリバーを受け取ろうとした。
その、無防備な両手が、オレの胸元にまで届いた、まさにその瞬間だった。
オレは引き抜いたエクスカリバーを左手一本で掲げながら、空いた右手で、背中にあるカクガリクンの卒業証書の筒の蓋を、ほんの基本の隙間にして一ミリだけ、一秒間だけ、優しく解放した。
パカッ。
「……ッ!?」
ボイスの端正な顔が、一瞬にして、一晩中、硫黄の匂いを浴び続けたかのような、悍ましい土気色へと変色した。
人間の、あるいは異世界のいかなる生物の嗅覚データにも存在し得ない、純粋な汚物としての波動が、ボイスの鼻腔の粘膜を最短距離でダイレクトに破壊したのだ。
それは、シルヴァンの『葬送の礼服』のプログラムを、より低次元かつ圧倒的な物理的暴力によって、根底から上書きして強制終了させるための、もっとも確実な一手だった。
ボイスの目は、瞬時に白目を剥いた。
この一秒の破壊力は凄まじかった。
差し出した両手を力なく下ろすと、そのまま赤いカーペットの上へと、糸の切れた人形のようにパタリと崩れ落ちて完全な気絶へと沈んでいった。
パチン、と心地よい音を立てて、オレはカクガリクンの筒の蓋を閉じた。
「ボイスを無傷で捕獲完了……!」
オレは満足げに、左手のエクスカリバーを腰の鞘へと収め直した。
結局のところ、どんなに限界を超えたスピードや剣技を持っていようとも、その個体が「呼吸をしている生き物」である限り、オレのこの我が魂の聖剣の前には無力なのだ。
「オエエエエッ……!!黒マスクの上からでも、ドブ川の底のヘドロを炙ったようなニオイしてんだけど……っ!!」
ロジナスが、再び涙目で激しくえずきながら、オレに向かってガチの暗殺者の目を向けた。
「ふふ、これはまた……。随分と、アヴァンギャルドで不潔なおもてなしですね……!」
正面の赤いカーペットの先で、シルヴァン・メルクリウスだけが未だ一ミリも足の位置を動かさないまま、
引きつった笑顔で冷や汗を流していた。




