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第36話 準備


床に倒れ込んだチャンさんを見下ろしながら、ボイスは困ったように眉を下げた。


「……チャンさん。本当に申し訳ありません」


ボイスはチャンさんのそばにしゃがみ込むと、懐から財布を取り出した。


そして――。


「大便さんが食べた20人前の高級中華代だけでも、きちんと返しておきますね」


そう呟きながら、チャンさんの懐へそっと金を入れる。


「これで……少なくとも食事代だけは弁償したことにしておきましょう」


「おいおい、勝手にオレの借金を肩代わりしていいのか?」


大便が縄で縛られたまま、呑気に尋ねる。


「いいんですよ。今回の件は僕が責任を持ちます」


ボイスはそう答えると、ゆっくり立ち上がった。


そして、部屋にいる全員を見渡す。


「それでは皆さん。ヒガーシの街へ向かうにあたって、まずは出発の準備をしないといけません」


「おっ、準備か」


大便が少しだけ興味を示す。


すると、ロジナスがすぐに手を挙げた。


「じゃあさ、途中で食べるお菓子とか買っていかない?」

「オレ、唐揚げも欲しいな」


「唐揚げいいじゃん!ロジナスも!」


「…………」


ボイスの眉間に、ほんの少しだけシワが寄った。


しかし、その横ではアーマーまで顎に手を当てて真剣に考えていた。


「酒は現地で買えばいいか?」


「ヒガーシは地酒が有名だからな」


ホワイトが腕を組み、したり顔で頷く。


「わざわざ持っていく必要はないだろう」


「そうですねえ」


レンズも眼鏡のブリッジをクイッと押し上げる。


「それより、ヒガーシに眼鏡屋さんはありますかね?」


「眼鏡?」


大便が首を傾げる。


「ええ。そろそろこの眼鏡も買い替えたいんですよ」


レンズは自分の眼鏡のフレームを指で軽く触った。


「…………」


ボイスの額に青筋が浮かんだ。


「皆さんッ!!」


宿屋の部屋中に、ボイスの怒声が響き渡る。


「旅行に行くんじゃないんですよッ!!」


「「「…………」」」


全員が一斉にボイスを見る。


「僕たちはこれから、ガーディアンズが壊滅した危険地帯へ向かうんですよ!? お菓子だの唐揚げだの、お酒だの眼鏡だの……もっと緊張感を持ってください!!」


ボイスが必死に訴える。


するとロジナスが、そんなボイスの顔をジーッと見つめた。


「……ふーん」


「な、何ですか?」


「怒った顔も可愛いな!」


「え?」


次の瞬間――。


チュッ。


ロジナスが、ボイスの頬に軽くキスをした。


「…………」


ボイスの顔が一瞬で真っ赤になる。


「な、な、な……」


「怒った顔も可愛いし、照れた顔も可愛いじゃん♡」


ロジナスがニヤニヤしながら顔を覗き込む。


「な、何するんですかッ!!」


ボイスが慌てて頬を押さえる。


耳まで真っ赤になっている。


それを見た大便が、呆れたように首を傾げた。


「チューされたくらいで顔真っ赤にするなんて、お前どんだけ女に免疫ないんだよ?」


「うるさいですよッ!!」


「いや、マジで初心すぎるだろ」


「だからって何で僕が責められるんですか!?」


すると、アーマーが冷静な顔でツッコんだ。


「いや、ロジナスは男だろ」


「…………」


ボイスが固まる。


ロジナスはジト目のまま、アーマーを睨みつけた。


「それ、今言う必要ある?」


「いや、事実だろうが」


「空気読んでよ」


「何でオレが怒られるんだッ!!」


そんなくだらないやり取りを眺めながら、レンズが小さくため息を吐いた。


「……準備の話が全然進みませんね」


「そうでしたッ!!」


ボイスがハッと我に返る。


そして改めて全員へ向き直った。


「とにかく! 今回の準備で必要なのは、お菓子やお酒ではありません!」


ボイスは指を一本立てる。


「武器や防具。そして、負傷したときに使う回復薬などです!」


「なるほど」


大便が頷く。


「ようやくちゃんと異世界っぽい話になってきたな」

 

「異世界っぽい?」


ボイスが首を傾げる。


「いや、なんでもない」


大便は誤魔化すように笑った。


そして、ふと周囲を見回す。


「……そういやさ」


大便はアーマーとボイスの鎧を見比べた。


「アーマーやボイスは鎧を着てるのに、ホワイトやレンズは鎧を着てないんだな?」


「ああ、それはですね」


ボイスがすぐに説明を始める。


「僕は騎士ですから、当然防具を装備しています」


そしてアーマーを指差す。


「多分、アーマーさんは戦士なので鎧を着ているんでしょう」


「多分って何だッ、戦士戦士!!」


アーマーが不満そうに叫ぶ。


ボイスは気にせず続けた。


「ホワイト隊長は武闘家なので、身軽さを重視しているんだと思います」


「うむ!」


ホワイトが得意げに胸を張る。


「そしてレンズさんは科学者なので、そもそも前線で戦うための重装備が必要ないんですよ」


「なるほどな」


大便が腕を組む。


「職業によって装備できる防具が違うみたいなもんか。そこは異世界っぽいな」


「まあ、そういうことです」


ボイスが頷く。


するとホワイトが、自分の格好を見下ろした。


ビキニパンツ一丁。


「……ちなみに、オレが防具を着ていない理由は別にある」


「何?」


大便が尋ねる。


ホワイトは少し気まずそうに目を逸らした。


「単純に……オレの体がデカすぎて、普通の防具ではサイズが合わないんだ」


「…………」


一瞬、部屋が静まり返った。


ロジナスの口元が徐々にニヤついていく。


「あはははは!」


「何がおかしいッ!!」


「いや、ずっとただの露出狂だと思ってたけどさ」


ロジナスはホワイトの姿を上から下まで眺める。


「身体がデカすぎて防具のサイズがないから、仕方なくパンツ一丁だったんだ」


「そうだッ!!」


「それはそれでウケるんだけど」


「誰が露出狂だッ!!」


ホワイトが顔を真っ赤にして叫ぶ。


「オレだって好きでこんな格好をしているわけではないッ!!」


「でもパンツは履いてるんだな」


大便が冷静に指摘する。


「当たり前だろうがッ!!」


「じゃあ、ほぼ裸じゃん」


「ほぼ裸ではないッ!!」


するとアーマーが、ホワイトの姿を見ながらボソッと呟いた。


「……いや、ほぼ裸とそんな変わらんぞ」


「貴様まで言うかァァァッ!!」


ホワイトの怒声が宿屋中に響き渡った。


そんな騒ぎの中、ボイスは大便とロジナスへ向き直った。


「そういえば、お二人の防具も用意しておいたほうがいいですね」


「ロジナスのも?」


「はい。ヒガーシは危険な街ですから」


ボイスが真面目な顔で頷く。


「大便さんにも、ロジナスさんにも、それぞれ身体に合った防具を用意します」


「えー……」


大便は露骨に嫌そうな顔をした。


「鎧とかクソ重そうでイヤだな」


「ご安心ください!」


ボイスが食い気味に答える。


そして、どこからともなく防具のカタログを取り出した。


「今回用意するのは、圧倒的な軽さと熱伝導の良さを誇るアルミニウム合金――いわゆるアルミを使用した最新式の鎧です!」


「アルミ?」


大便が怪訝そうに眉をひそめる。


「さらに特殊加工によって極限まで薄くした軽量鉄、そしてチタンなどを組み合わせることで、従来の鎧とは比較にならないほど軽量化されています!」


ボイスは完全に商品説明モードへ突入していた。


「しかも耐久性は抜群! 軽いのに頑丈! そして熱にも強い!」


「…………」


大便はしばらく無言でカタログを眺める。


そして――。


「通販番組の鍋とかフライパンと同じじゃねえかッ!!」


「違いますよッ!!」


ボイスが顔を真っ赤にして反論した。


「こっちは人間の命を守るための防具です!!」


「『軽くて丈夫! 熱伝導も抜群!』とか言い始めた時点で、オレには通販の調理器具にしか聞こえねえよ!」


「そんなこと言われても困りますッ!!」


大便とボイスの言い争いを横目に、ロジナスは防具のカタログを覗き込んだ。


「……でも、これならちょっと欲しいかも」


「本当ですか!?」


ボイスの表情が一気に明るくなる。


「うん。軽いなら悪くないじゃん」


「では、ロジナスさんのサイズに合わせて――」


「あと、可愛いデザインにして」


「…………」


ボイスの笑顔が止まった。


「防具に可愛さを求めるんですか?」


「当然じゃん」


ロジナスはジト目のまま即答した。


「…………」


ボイスは深いため息を吐いた。


こうして――。

ヒガーシへ向かうための準備は、なかなか予定通りには進まないまま、少しずつ始まっていくのだった。


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