第9話 トライアスロンの応援が不適切すぎる
佐藤健一は、自分の趣味を説明するのが苦手だった。
トライアスロン。
泳いで、自転車に乗って、走る競技。
言葉にすれば単純だ。
だが、たいていの人間はそこで首を傾げる。
「なんで?」
その質問に、健一はいまだにうまく答えられない。
泳ぐだけでも疲れる。
自転車だけでも疲れる。
走るだけでも疲れる。
それをなぜ三つ続けるのか。
苦しいのに、なぜ金を払って大会に出るのか。
休日を潰してまで、なぜ心拍数とタイムを管理するのか。
理由はいくつかある。
数字が出るから。
努力が、タイムという形で返ってくるから。
余計な感情を、身体の疲労で黙らせられるから。
だが、そんな説明をすると面倒な人間に見える。
実際、面倒な人間なのだろう。
「健一」
玄関でルナが言った。
「今日は、健一が苦しむ場所へ行くのですね」
「言い方」
「違いますか」
「練習場です」
「練習は、苦しくないのですか」
「苦しいです」
「では、合っています」
「合っていますが、外では言い方に服を着せましょう」
ルナは真剣にうなずいた。
今日は、ルナを練習場へ連れていく。
正確には、屋外のランニングコースと、その近くにある自転車練習用の広場だ。
スイムはなし。
水がある場所に連れていくのはまだ早い。
プールなど論外だ。
人魚姫をプールに入れたら、練習ではなく事件になる。
天気は晴れ。
雨雲レーダーは確認した。
もちろん、もう全面的には信用していない。
リュックにはいつもの装備が入っている。
タオル。
防水ポンチョ。
吸水クロス。
予備の靴下。
折りたたみ傘。
薄手のコート。
塩飴。
補給ジェル。
さらに今日は、ルナ用に小さなレジャーシートも入れた。
地面に座る時、水気があると危ないからだ。
ルナは健一のロードバイクを見て、目を輝かせていた。
「これが、健一の乗る魚ですか」
「自転車です」
「でも、細くて速そうです」
「速いです」
「海のカジキに似ています」
「それは少し嬉しいですね」
健一の愛車は、黒いカーボンフレームのロードバイクだった。
軽く、硬く、よく走る。
健一が人生で買ったものの中で、外付けHDDの次に他人に説明しづらい情熱が詰まっている。
いや、金額で言えばこちらの方がはるかに上だ。
ルナはフレームに触れようとして、手を止めた。
「触ってもいいですか」
「はい。ただし倒さないように」
ルナはそっと指先でトップチューブに触れた。
「冷たい」
「カーボンです」
「かーぼん」
「素材です」
「健一は、これに乗って速くなるのですね」
「そうです」
「では、この子も、健一を運びたいのですね」
健一は少し黙った。
「……そういう考え方は、悪くないです」
「名前は?」
「名前はつけていません」
「なぜですか」
「自転車なので」
「大切なのに?」
ルナは不思議そうに言った。
健一は答えに詰まった。
確かに、大切だった。
だが、名前をつけるのは少し恥ずかしい。
大切なものほど、変に距離を取ってしまう癖があるのかもしれない。
「あとで考えます」
「約束?」
「……努力します」
「陸の逃げ道」
「だんだん覚えてきましたね」
*
練習場は、川沿いの広いコースだった。
休日の午前。
ランナー、自転車乗り、散歩中の老人、犬を連れた人、ベビーカーを押す夫婦。
人はそこそこいるが、駅前よりは空間が広い。
水辺は近いものの、ルナは川に近づけない。
健一は芝生の乾いた場所を選び、レジャーシートを敷いた。
「ここに座っていてください」
「健一は?」
「まず、バイクの練習をします。この周回を何本か」
「ばいく」
「自転車です」
「健一のカジキ」
「その呼び方、少し気に入りそうで困ります」
ルナはシートの上に座った。
今日は青いヘアゴムで髪を結んでいる。服は白い長袖と動きやすいパンツ。
見た目だけなら、練習を見に来た恋人か妹に見えなくもない。
問題は、口を開くとすぐ海底王国と深夜アニメが混ざることだ。
「応援してもいいですか」
「静かにお願いします」
「静かに応援」
「はい。大声は出さない。変な言葉も使わない」
「頑張ってください、健一」
「完璧です」
健一は少し安心した。
今日は大丈夫かもしれない。
そう思った。
健一はヘルメットをかぶり、グローブをはめ、バイクにまたがった。
サイクルコンピューターを確認する。
心拍計接続。
ケイデンスセンサー接続。
パワーメーター接続。
問題なし。
周回コースへ入る。
最初は軽め。
脚を温める。
心拍を上げすぎない。
回転数は九十前後。
呼吸は安定。
風は弱い。
今日は悪くない。
一周目。
ルナはシートの上で、両手を膝に置いて見ていた。
目がずっと健一を追っている。
健一が通過すると、彼女は小さく手を振った。
「頑張ってください、健一」
素晴らしい。
健一はうなずいた。
二周目。
「健一、速いです」
まだ普通だ。
三周目。
「健一、足がきれいに回っています」
競技理解が少し出てきた。
悪くない。
四周目。
「健一、もっと回しても大丈夫です」
少し怪しくなってきた。
五周目。
「健一、私を見てください。ケイデンスが落ちています」
事実だった。
ケイデンスが八十七まで落ちている。
見ていたのか。
いや、彼女に数値は見えていないはずだ。
音か。
ペダルの回転音で分かるのか。
人魚の聴覚、恐ろしい。
少し向かい風が出ていた。
大した風ではない。
だが、脚には分かる。
ペダルがわずかに重くなる。
呼吸の底に、薄い抵抗が溜まる。
軽いギアに落とせばいい。
一段落とせば、回転はすぐ戻る。ケイデンスも九十台に乗る。脚への負担も散る。
分かっていた。
けれど健一は、落とさなかった。
この程度なら踏める。
フォームを崩さず、呼吸を合わせ、少しだけ我慢すれば戻せる。
そう判断した。
いつもの判断だった。
仕事でも練習でも、健一はだいたいそうしてきた。
少し重いなら、少し強く踏む。
苦しいなら、苦しくない顔をする。
誰かに軽くしろと言われる前に、自分で耐える。
前方を見る。
肩を落とす。
腹圧を抜かない。
もう一度、踏む。
その時だった。
「健一」
ルナの声が、さっきより少しだけ真面目になった。
「重いままです」
健一は、思わず視線を動かしかけた。
数値は見えていないはずだ。
ギアも、彼女には分からないはずだ。
「苦しそうなのに、なぜ軽くしないのですか」
健一は答えなかった。
答える余裕がなかった、ということにした。
ルナの声だけが、後ろから追いかけてきた。
「重いなら、少し変えればいいです」
六周目。
「そうです、もっと滑らかに。焦らず、でも止めないで。健一の中のリズムを、私に聞かせてください」
周囲のランナーが、一人振り返った。
健一の精神心拍が跳ねる。
七周目。
「いいです、健一。今の踏み込み、熱いです」
違う。
違わないが、違う。
八周目。
「もう少しです。限界の手前で、優しく回してください」
健一はブレーキを握りそうになった。
禁止ワードが混ざり始めている。
九周目。
「健一、心拍が上がっています。私の声で、もっと上がっていますか?」
近くでストレッチをしていた男性が、明らかにこちらを見た。
健一はコースを外れ、ルナの前で停止した。
「一回、止めます」
「なぜですか」
「応援が不適切です」
ルナはきょとんとした。
「不適切」
「はい」
「でも、私は健一の心拍とケイデンスを応援しました」
「言葉の服が薄いです」
「また裸ですか」
「かなり」
ルナは両手で口を押さえた。
「恥ずかしいです」
「俺がです」
「ごめんなさい」
健一はバイクを降りた。
周囲の視線がまだ痛い。
晴れた休日の練習場で、妙に美しい少女が「もっと回して」「心拍が上がっている」などと応援している。
状況だけ切り取れば、かなりアウト寄りだ。
健一はリュックからメモ帳を取り出した。
「応援の言葉を決めましょう」
「決める」
「はい。使っていい言葉だけ」
メモ帳に書く。
【使用可】
・頑張って
・いいペース
・落ち着いて
・あと少し
・ナイス
水分補給して、も書きかけてやめた。
「水分補給は、あなたが言うと少し怖いですね」
「水は強敵」
「はい」
ルナはメモ帳を真剣に読んだ。
「頑張って。いいペース。落ち着いて。あと少し。ナイス」
「そうです」
「ナイス」
「いいです」
「ナイス健一」
「まあ、許容範囲です」
「ナイス健一、もっと――」
「そこから先は禁止」
ルナは口を閉じた。
健一は深呼吸した。
「次はランです。走ります」
「私も走れますか」
「まだ駄目です。足に負担が大きい」
「少しだけ」
「駄目です」
「健一と同じことをしたいです」
その言葉は、まっすぐだった。
健一は少しだけ困った。
練習に連れてきた時点で、彼女がただ見ているだけで満足するとは思っていなかった。
海から陸に来た彼女は、ずっと見る側だったのだろう。
海の中から、陸を。
店の外から、カフェを。
健一の隣から、東京を。
今度は、自分も動きたい。
その気持ちは分かる。
「では、ウォーキングだけです。走らない。痛くなったらすぐ止める」
「歩く練習」
「はい」
「健一の隣で?」
「俺はジョグなので、あなたのペースに合わせます」
ルナは嬉しそうに立ち上がった。
健一はバイクを置き、ランニングシューズに履き替える。
ルナはサンダルだ。
長距離は無理。
芝生の横の平坦な道を、ほんの少し歩くだけにする。
二人で並んで歩き出した。
健一にとっては、練習にもならない速度だ。
だが、ルナにはちょうどいい。
彼女は足元を確かめながら、一歩一歩進む。
青いヘアゴムが揺れる。
「健一は、いつももっと速いです」
「今日はあなたに合わせます」
「練習になりません」
「回復走という言葉があります」
「かいふくそう」
「疲労を抜くために、ゆっくり走ることです」
「では、私は健一を回復させていますか」
「そうかもしれません」
ルナは嬉しそうだった。
歩いているだけで、彼女は何度も周囲を見る。
川面は怖いのか、あまり近づかない。
だが、遠くからなら見る。
光を弾く水面に、少しだけ懐かしそうな目をする。
「海とは違います」
「川ですから」
「細い海」
「だいぶ違います」
「でも、流れています」
「それは同じですね」
健一は横を見る。
ルナの足取りはまだ危うい。
だが、昨日よりも、さらにその前よりも、少しずつ人間の歩き方に近づいている。
歩けるようになっている。
この世界に、慣れようとしている。
そう思った瞬間、後ろから声が飛んだ。
「佐藤さーん!」
健一の背筋が固まった。
山下だった。
ランニングウェア姿で、軽快にこちらへ走ってくる。
最悪だ。
いや、山下本人は悪くない。
悪くないが、今いちばん会いたくない相手の一人だった。
「やっぱり佐藤さんじゃないですか。最近噂になってますよ。駅前で美人とカフェ、雨の中でお姫様抱っこ、今日は練習場デートですか」
「事実関係に誤解があります」
「誤解しかない人生ですね」
山下は笑いながら、ルナを見た。
「こんにちは。佐藤さんの……彼女さん?」
ルナは健一を見た。
昨日の「今は」を覚えている顔だった。
まずい。
健一は先に言う。
「知人です」
「知人って距離感じゃないでしょ」
山下がにやにやする。
ルナは少し考えたあと、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。私はルナです。健一に保護されています」
山下の笑顔が止まった。
健一も止まった。
「保護」
山下が繰り返す。
「違います」
「いや、本人が」
「言葉の選択ミスです」
「佐藤さん、何したんですか」
「何もしていません」
「警察に言う前に相談してくださいね」
「違います」
ルナは不安そうに健一を見る。
「駄目でしたか」
「保護は外で言わない方がいいですね」
「では、何と言えば」
健一が答える前に、山下が面白がって言った。
「同居人?」
ルナはぱっと顔を上げた。
「同居人」
「覚えなくていいです」
「健一の同居人です」
山下の目が輝いた。
「同居してるんですか」
「事情が」
「ありますよね。そりゃありますよね」
「その顔をやめてください」
山下は完全に楽しんでいた。
健一の平穏が、また一つ人に知られていく。
噂は泳ぎが速いどころではない。
もはやバイクパートに入っている。
山下はルナに笑いかけた。
「佐藤さん、練習になると変に真面目でしょ」
「はい」
「心拍とかケイデンスとか、数字ばっかり見るんですよ」
「見ています」
「応援してあげてください」
「しています」
健一は嫌な予感がした。
ルナは胸を張った。
「健一は、回すとき、とてもきれいです」
山下が吹き出した。
健一は目を閉じた。
「ルナさん」
「はい」
「言葉の服」
「着せたつもりでした」
「まだ薄いです」
山下は腹を抱えて笑っている。
「佐藤さん、いいじゃないですか。最高の応援ですよ」
「他人事だから言えるんです」
「じゃあ俺も一周走ってくるんで、応援お願いします」
「山下さん、やめましょう」
「いいじゃないですか。ルナさん、俺にもお願いします」
ルナは少し困ったように健一を見た。
健一は首を横に振ろうとした。
だが、山下はすでに軽く走り出している。
十メートルほど先で振り返り、手を振った。
「一言だけ!」
ルナはメモ帳を見た。
使用可の言葉。
頑張って。
いいペース。
落ち着いて。
あと少し。
ナイス。
ルナは大きく息を吸った。
「ナイスです、山下。困らない程度に、普通に走ってください」
山下がつまずきかけた。
健一は思わず笑った。
ルナが振り返る。
「駄目ですか」
「いえ」
健一は笑いをこらえながら言った。
「かなりいいです」
「応援になりましたか」
「なりました。少なくとも、忘れられない応援です」
ルナは嬉しそうに笑った。
山下は遠くでまだ笑っている。
健一は軽く肩を回した。
「もう少しだけ歩きましょう」
「はい」
二人はまた並んで歩き出した。
川沿いの風が吹く。
水の匂いが、ほんの少し混じっている。
ルナは怖がらなかった。
健一の袖を、軽く掴んでいるだけだった。
「健一」
「はい」
「私は、健一の練習を見ているのが好きです」
「そうですか」
「苦しそうなのに、前に進んでいます」
「それが練習なので」
「海で沈んでいた時とは違います」
健一は足を止めかけた。
ルナは前を見ていた。
「あの時の健一は、下に行っていました。でも今日は、苦しくても前に行きます」
「……そうですね」
「私は、前に行く健一を応援したいです」
健一は少し黙った。
心拍数、ケイデンス、ペース、補給。
彼が見ていたものは、いつも数字だった。
けれど、ルナは違うものを見ている。
苦しそうでも、前に進んでいる。
それだけを見ている。
健一は、ゆっくり息を吐いた。
「では、次からは普通の言葉でお願いします」
「頑張って、健一」
「はい」
「いいペースです」
「はい」
「落ち着いて」
「はい」
「あと少し」
「はい」
「ナイス健一」
「それは少し恥ずかしいですが、許可します」
ルナは満足そうにうなずいた。
*
練習を終えた頃、健一の体力より精神力の方が削れていた。
山下には同居人の存在を知られた。
ルナの応援はだいぶ不適切だった。
周囲の視線もそれなりに浴びた。
だが、ルナは水に濡れず、転ばず、最後まで歩けた。
総合的には、成功。
最近、成功判定が甘くなっている。
帰り道、ルナは買っておいた補給ジェルを興味深そうに見ていた。
「これは、何ですか」
「運動中に飲むエネルギーです」
「健一の燃料」
「そうです」
「飲むと、速くなりますか」
「多少は」
「私も飲めますか」
「今日はやめておきましょう。味が強いので」
ルナは残念そうにした。
「健一だけ、燃料を入れるのですね」
「あなたはプリンで十分です」
「白い山は?」
「次の雨の日です」
「約束が増えています」
「管理しています」
「健一らしいです」
健一は苦笑した。
帰宅後、ルナはホワイトボードに今日の記録を書いた。
【ケイデンス=足の歌】
【心拍=胸の太鼓】
【補給ジェル=健一の燃料】
【山下=よく笑う人】
【応援=言葉に服が必要】
【ナイス健一=使っていい】
健一は最後の行を見た。
「まあ、いいでしょう」
「許可ですか」
「許可です」
ルナは嬉しそうに笑った。
数分後、健一のスマホが震えた。
山下からだった。
〈今日の名言:佐藤さんは回すとき綺麗。チーム内に共有していいですか?〉
健一は即座に返信した。
〈絶対にやめてください〉
すぐに返事が来た。
〈ナイス健一〉
健一はスマホを伏せた。
ルナが横から覗き込む。
「山下は、応援していますか」
「していません」
「ナイス健一」
「あなたまで言わない」
ルナは笑った。
健一は天井を見た。
トライアスロンは、泳いで、自転車に乗って、走る競技だ。
そこに人魚姫の応援が加わるとは、どの教本にも書いていなかった。
だが、不思議なことに。
次の練習が、少しだけ楽しみになっていた。




