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第8話 雨の日の人魚姫は、だいたい不審者案件

 佐藤健一は、雨雲レーダーを信用していた。

 少なくとも、昨日までは。

 スマホの画面には、青い雲など一つも映っていなかった。

 天気予報は晴れ時々曇り。降水確率十パーセント。風は弱く、湿度も高くない。

 外出訓練にはちょうどいい日だった。

 目的地は、駅前の雑貨店。

 ルナ用のヘアゴム、室内用スリッパ、筆談用の小さなメモ帳、ついでに水に濡れても大丈夫な防水ポーチを買う予定だった。

 防水ポーチが必要な人魚姫、という言葉はかなり矛盾している。

 だが、東京で暮らす以上、矛盾には慣れるしかない。

 ルナは、玄関でサンダルを履きながら言った。

「今日は、白い山を食べますか」

「チーズケーキの話ですね」

「約束です」

「今日は雑貨店だけです」

「約束は、泡になりますか」

「重い方向に持っていかないでください。近いうちに食べます」

「近いうち」

「はい」

「陸の言葉は、逃げ道が多いですね」

「鋭すぎます」

 健一はリュックの中身を確認した。

 タオル。

 吸水クロス。

 防水ポンチョ。

 薄手の大きめコート。

 折りたたみ傘。

 予備の靴下。

 ビニール袋。

 そして、なぜかジップロックに入れた塩飴。

 自分でも用途が分からない。

 海由来の相手だから塩が必要かもしれない、という浅い判断だった。

 人魚姫を熱中症対策の延長で管理しようとしている時点で、かなり限界が来ている。

「健一」

「はい」

「今日は、戦ですか」

「雑貨店です」

「でも、装備が強いです」

「都市には水があります」

「水は強敵」

「その理解で合っています」

 ルナは真面目にうなずいた。

 外出前の確認も、もう習慣になっていた。

「外では俺のことを」

「健一」

「知らない人に話しかけられたら」

「健一を見る」

「水を見たら」

「逃げる」

「雨が降ったら」

 ルナは少し考えた。

「健一の袖を掴む」

「今日はそれに加えて、俺の指示に従ってください」

「はい」

 健一は玄関を開けた。

 外は晴れていた。

 少なくとも、その時は。

     *

 駅前までは、だいぶ慣れてきた。

 ルナはまだ健一の袖を掴むが、掴む力は前より弱くなっている。

 信号の音にも、自転車にも、バスにも、少しずつ驚かなくなった。

 自動ドアにはもう「店の口」と言わない。

 エレベーターを「制御された落下」と呼ぶのはまだ直っていないが、それは理屈として間違っていないので、健一も強く否定できなかった。

 雑貨店に入ると、ルナの目が輝いた。

 棚には、色とりどりの小物が並んでいた。

 ヘアゴム、マグカップ、タオル、ノート、シール、ハンカチ、ポーチ、謎の動物型クッション。

 健一にとっては、目的なく見ると疲れる空間だ。

 ルナにとっては、宝物庫らしい。

「健一」

「はい」

「陸には、小さなものが多いです」

「雑貨店なので」

「全部、必要ですか」

「不要なものも多いです」

「不要なのに、売るのですか」

「人間は、不要なものを必要だと思うのが得意です」

「健一の大切な箱も?」

「こちらの人格を狙撃しないでください」

 ルナはヘアゴムの棚の前で止まった。

 黒。

 白。

 青。

 赤。

 花飾り。

 リボン。

 パール風の飾り。

 彼女は一つ一つ手に取って見ている。

 海の底では、髪をまとめる道具など必要なかったのだろう。

 長い髪は水の中で自然に揺れていればよかった。

 陸では、風で絡まるし、食事の時に邪魔になるし、洗面所で排水口を詰まらせる。

 現実は美しくない。

「好きなものを選んでいいです」

 健一が言うと、ルナは驚いたように振り返った。

「私が?」

「はい。あなたが使うものなので」

「健一が決めるのではなく?」

「髪を結ぶのはあなたです」

 ルナはしばらく黙っていた。

 それから、青い小さな飾りのついたヘアゴムを選んだ。

「これがいいです」

「分かりました」

「海の色に似ています」

「似ていますね」

 健一はそれをカゴに入れた。

 次に、メモ帳。

 ルナは魚のイラストがついたものを手に取ったが、少しして棚に戻した。

「これは、少し違います」

「魚だからですか」

「私は魚ではありません」

「すみません」

「でも、水に戻ると、少し魚です」

「そのあたりの分類は慎重に扱います」

 結局、ルナは月の柄の小さなメモ帳を選んだ。

 自分の名前と同じだからだろう。

 健一は黙ってカゴに入れた。

 買い物は順調だった。

 順調すぎて、健一は少しだけ油断した。

 会計を終えて店を出た時、空の色が変わっていた。

 さっきまで白っぽく明るかったビルの隙間に、灰色の雲が伸びている。

 風が少し湿っていた。

 アスファルトの匂いも変わった。

 健一の首筋に、嫌な感覚が走る。

 スマホを見る。

 雨雲レーダーには、まだ何も映っていない。

「健一?」

 ルナが顔を上げた。

「急ぎます」

「なぜですか」

「雨が来るかもしれません」

 その言葉に、ルナの表情が変わった。

 恐怖が、まっすぐ目に出た。

 健一はすぐに言った。

「大丈夫です。まだ降っていません。駅の屋根を通れば――」

 ぽつり。

 頬に、冷たいものが当たった。

 健一は止まった。

 ルナも止まった。

 もう一滴。

 今度は、ルナの手の甲に落ちた。

 彼女の指先が、びくっと震えた。

「健一」

 声が小さかった。

 健一は即座にリュックを開けた。

 折りたたみ傘。

 ポンチョ。

 コート。

 どれを先に使うか、一瞬で判断する。

 傘は開くまでに時間がかかる。風で横から入る。ポンチョは被せるのに手間取る。

 まずコートだ。

 健一は大きめの薄手コートを取り出し、ルナの頭からかぶせた。

「顔を下げて。手も中へ」

「はい」

 雨粒が増える。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 道行く人々が空を見上げ、鞄から傘を出し始めた。

 誰かが小走りになる。

 店先の看板に雨粒が当たり、黒い点を作る。

 健一はルナをコートの中に包み込むようにして、肩を抱いた。

「走ります」

「走る」

「少しだけです」

「足が」

「支えます」

 健一はルナの身体を引き寄せた。

 ルナはサンダルでぎこちなく踏み出す。

 だが、足が痛むのか、すぐによろめいた。

 雨は、急に強くなった。

 天気予報が謝罪する間もなく、街に斜めの線が落ちてくる。

 傘を持たない人たちが一斉に軒下へ逃げる。

 駅前の歩道がざわついた。

 ルナの足元に雨粒が跳ねる。

 健一は判断した。

 抱えるしかない。

「すみません」

「え?」

 健一はルナの膝裏に腕を回し、そのまま抱き上げた。

 軽い。

 それでも、濡らさないように包み込むのは難しい。

 健一はコートを彼女の頭から足先まで被せ、自分の身体を雨除けにして走り出した。

 周囲の視線が一斉に刺さる。

 当然だった。

 駅前の歩道を、二十七歳の会社員が、コートで包んだ美少女を抱えて全力疾走している。

 不審者である。

 かなり完成度の高い不審者である。

「ちょ、あれ何?」

「大丈夫?」

「撮影?」

「誘拐じゃない?」

 聞こえてくる言葉の一つ一つが、健一の社会的寿命を削っていく。

 だが、止まれない。

 コートの中で、ルナが震えている。

「健一……」

「大丈夫です。濡れてません」

「足が、少し」

「見ないで。意識しないでください」

「海の音がします」

「ここは駅前です」

「でも、呼ばれています」

 健一は歯を食いしばった。

 ルナの声が、いつもの調子ではなかった。

 冗談でも、誤学習でもない。

 本当に怖がっている。

 水が彼女を人魚に戻す。

 その変化は、身体だけではないのかもしれない。

 海へ引き戻される感覚そのものが、彼女を怯えさせている。

 健一は速度を上げた。

 ローラー台で鍛えた脚。

 ランで削った肺。

 レースで使うために積み上げた身体が、駅前の不審者案件で役に立っている。

 人生はどこで何が活きるか分からない。

 できれば、もう少しまともな場面で活きてほしかった。

 駅ビルの軒下まで、あと二十メートル。

 その途中で、警備員と目が合った。

 健一の心拍が跳ねた。

 警備員の視線は、健一の顔、コートに包まれたルナ、雨の歩道、そしてまた健一の顔へ動いた。

 職務上、見逃してはいけない絵面である。

 健一は全力で自然な顔を作った。

 抱えて走っている時点で自然も何もないが、やらないよりはましだ。

「すみません、体調が悪くて!」

 健一は叫んだ。

 警備員が一歩動いた。

「大丈夫ですか!」

「大丈夫です! 水に弱いんです!」

 言ってから、しまったと思った。

 人間に使う説明ではない。

 警備員の顔に、理解不能の影が差した。

 健一は追加で叫ぶ。

「低体温です!」

 急に医学寄りに戻した。

 警備員は迷ったが、雨の中で倒れそうな女性を抱える男という状況を、どうにか善意側に解釈してくれたらしい。

「そこの屋根の下へ!」

「ありがとうございます!」

 健一は軒下に滑り込んだ。

 雨が、屋根に当たって強く鳴っていた。

 健一はルナを壁際に下ろす。

 コートを開く前に、自分の身体で視線を遮った。

 周囲には雨宿りの人々がいる。

 スマホを向けている者はいない。

 まだ大丈夫だ。

 たぶん。

「ルナ」

 小声で呼ぶ。

「足、見せてください」

 ルナは震えながら、コートの下から片足を少しだけ出した。

 足首に、銀青の鱗が浮かんでいた。

 雨粒が数滴、サンダルの上に落ちたらしい。

 完全には戻っていない。

 だが、肌の下に海が透けて見えるようだった。

 健一はタオルを取り出し、そっと水を拭いた。

「痛いですか」

「痛くは、ないです」

「気持ち悪い?」

「引っ張られます」

「海に?」

 ルナは小さくうなずいた。

 健一はタオルで足首を包んだ。

 さらにコートの裾をかける。

「ここで少し待ちます。雨が弱くなったら、タクシーで帰りましょう」

「タクシー」

「車です。歩かなくていい」

「健一は、濡れました」

「俺は戻りません」

「でも、冷たいです」

 ルナはコートの中から手を出し、健一の袖を掴んだ。

 健一のシャツは肩から背中にかけてかなり濡れている。

 彼女を覆った分、自分はほぼ無防備だった。

「平気です」

「平気ではありません」

「人間は、多少濡れても大丈夫です」

「私は、健一が冷たいのは嫌です」

 健一は返事に困った。

 コメディのはずだった。

 雨から人魚姫を守って、不審者に見られて、何とか逃げ込む。

 そういう騒ぎのはずだった。

 なのに、ルナの手は本気で震えている。

 健一は少しだけ声を落とした。

「大丈夫です。あなたを濡らさないためなら、このくらいは」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 かなり自然に出た。

 理屈ではない。

 義務でもない。

 命の恩人への返礼としては、少し踏み込みすぎている。

 ルナは、コートの奥から健一を見上げた。

「私のため?」

「……はい」

「困りますか」

「困っています」

 健一は正直に答えた。

「でも、嫌ではないです」

 ルナは一瞬、泣きそうな顔をした。

 それから、笑った。

「その言葉、覚えています」

「便利なので」

「健一は、困っても、いなくなれとは言いません」

「言いません」

「本当ですか」

「本当です」

 ルナの手から、少しだけ力が抜けた。

 雨はまだ降っている。

 軒下には人が増えていた。

 誰かが「すごい雨」と言い、誰かがタクシーアプリを開いている。

 現実は、思ったより普通に進んでいる。

 健一はスマホでタクシーを呼ぼうとした。

 その時、さっきの警備員が近づいてきた。

「大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」

 健一の背筋が伸びる。

 まずい。

 救急車はまずい。

 医療機関に運ばれれば、足首の鱗をどう説明する。

 皮膚疾患か。

 特殊メイクか。

 人魚病か。

 人魚病はたぶん保険適用外だ。

「ありがとうございます。もう落ち着きました。タクシーで帰ります」

「本当に?」

「はい。雨で少し具合が悪くなっただけなので」

 警備員はコートに包まれたルナを心配そうに見る。

 ルナは、健一に言われた通り黙っていた。

 完璧だった。

 ただ、沈黙のまま、コートの隙間から両手を出し、健一の袖をぎゅっと握っている。

 その姿は、どう見ても訳ありだった。

 警備員の眉が少し動く。

 健一は社会的説明を探した。

 妹。

 また妹か。

 いや、もう妹は無理がある。

 前回から増えすぎている。

 健一の家族構成がどんどん不穏になる。

「彼女、雨が苦手なんです」

 健一は言った。

 それ自体は真実だった。

 警備員は少し困った顔をした。

「そうですか。まあ、今日は急でしたからね」

「はい。助かりました」

 警備員はうなずき、少し離れた。

 健一は心の底から息を吐いた。

「健一」

 コートの中からルナが小声で言う。

「私は、彼女ですか」

 健一は固まった。

「今のは、説明上の言葉で」

「彼女」

「女性という意味もあります」

「でも、健一の声は少し変でした」

「観察精度を落としてください」

「私は、健一の彼女ですか」

 雨音が強い。

 周囲のざわめきもある。

 それでも、その質問だけは妙にはっきり聞こえた。

 健一は、慎重に言葉を選んだ。

「今は、保護対象です」

「ほごたいしょう」

「はい」

「彼女ではなく?」

「……今は」

 ルナはその二文字を拾った。

「今は」

「深読みしないでください」

「未来があります」

「言葉の隙間に潜らない」

 ルナは、少しだけ嬉しそうに笑った。

 タクシーが到着した。

 健一はルナをコートで包んだまま、慎重に抱え上げる。

 周囲からまた視線が刺さる。

 もう気にしていられない。

 ドアが開く。

 運転手がバックミラー越しにこちらを見る。

「すみません、近くなんですが」

「大丈夫ですよ。雨すごいですもんね」

 運転手は深く聞かなかった。

 今日の東京は、プロフェッショナルに支えられている。

 ルナを後部座席の奥に座らせ、健一が隣に乗る。

 コートで足元を覆う。

 タオルもかける。

 自分の濡れたシャツは気にしない。

 タクシーが動き出した。

 窓の外を、雨粒が流れていく。

 ルナはそれを見て、少しだけ身体を縮めた。

 健一は何も言わず、窓側との間に腕を置いた。

 直接水が入るわけではない。

 だが、何かを遮る形だけでも、彼女は少し安心したようだった。

「健一」

「はい」

「今日の雨は、怖かったです」

「はい」

「でも、健一のコートの中は、安全でした」

「それはよかったです」

「暗くて、狭くて、健一の匂いがしました」

「後半は言わなくていいです」

「なぜですか」

「運転手さんがいます」

 運転手が咳払いした。

 健一は窓の外を見た。

 社会的には、かなり手遅れかもしれない。

     *

 部屋に戻ると、健一はまずルナの足を確認した。

 鱗は薄くなっていた。

 完全には消えていないが、危険な状態ではなさそうだった。

 タオルで拭き、乾いた靴下を履かせる。

 ルナは少し恥ずかしそうにしていたが、抵抗はしなかった。

「今日はもう外出禁止です」

「はい」

「雨の日も、外出禁止」

「はい」

「急な雨の時は、すぐ屋根へ」

「はい」

「知らない人に話しかけられたら、俺を見る」

「はい」

 ルナは素直にうなずいた。

 健一は濡れたシャツを着替えるため、洗面所へ向かった。

 そこで鏡を見て、ひどい顔をしていることに気づいた。

 髪は乱れ、肩は濡れ、顔には疲労が出ている。

 不審者としての完成度が高い。

 着替えてリビングへ戻ると、ルナがホワイトボードの前に座っていた。

 今日の記録を書いている。

【雨=とてもこわい】

【コート=安全】

【警備員=よい人】

【タクシー=動く部屋】

【健一=濡れても戻らない】

【今は=未来がある】

 健一は最後の一行を見た。

「そこ、消しましょうか」

「なぜですか」

「誤解を生むので」

「誤解ではありません。健一が言いました」

「言葉には文脈があります」

「文脈は、逃げ道ですか」

「今日二回目の急所攻撃ですね」

 ルナは笑った。

 健一はホワイトボードの横に、小さく書き足した。

【雨雲レーダーは絶対ではない】

 ルナはそれを読んで、首を傾げた。

「雨雲れーだーは、敵ですか」

「味方だと思っていました」

「裏切ったのですね」

「そうですね」

「では、次は健一が勝ちます」

「何に?」

「雨に」

 健一は少し笑った。

「勝てるといいですね」

「勝てます。健一は速いです」

「駅前で不審者みたいに走っただけです」

「でも、私を濡らしませんでした」

 ルナは、まっすぐ健一を見る。

「ありがとう、健一」

 その言葉は、今日いちばん普通で、いちばん効いた。

 健一は視線をそらしながら答えた。

「どういたしまして」

 窓の外では、まだ雨が降っている。

 東京の雨は、ガラスを叩き、道路を濡らし、人を急がせている。

 けれど部屋の中は乾いていた。

 ルナの足も、もう海に戻りかけてはいない。

 健一はカーテンを少し閉めた。

 ルナが、買ってきた青いヘアゴムを手に取る。

「健一」

「はい」

「これで髪を結ぶと、雨に少し強くなりますか」

「物理的には関係ないです」

「でも、海の色です」

「気持ちの問題なら、少し強くなるかもしれません」

 ルナは嬉しそうに髪をまとめようとした。

 だが、うまくいかない。

 髪が長すぎて、指に絡まっている。

 健一は少し迷ったあと、手を出した。

「やります」

「健一が?」

「嫌なら」

「嫌ではないです」

 ルナは背を向けた。

 健一は彼女の髪をそっとまとめた。

 乾いた髪は、思ったより柔らかかった。

 海の匂いは、もう薄い。

 代わりに、部屋の洗剤の匂いが少し混ざっている。

 青いヘアゴムで結ぶ。

 ルナは振り返った。

「どうですか」

「普通に見えます」

「褒めていますか」

「かなり褒めています」

 ルナは笑った。

 窓の外で雨が強くなる。

 健一は、今度はすぐに雨雲レーダーを見なかった。

 どうせ、雨は降る時には降る。

 その代わり、ホワイトボードの最後に一行だけ書き足した。

【雨の日は、部屋で過ごす】

 ルナはそれを読んで、小さくうなずいた。

「次の雨の日は、何をしますか」

「室内でできることを考えます」

「白い山を食べますか」

「雨の日にチーズケーキですか」

「雨は怖いです。でも、白い山があれば、少し勝てます」

 健一は少し考えた。

「では、次の雨の日に」

「約束?」

「約束です」

 ルナは、雨音の中で笑った。

 その笑顔を見て、健一は思った。

 今日の外出は、失敗だった。

 不審者にも見えた。

 警備員にも心配された。

 タクシーの運転手には、おそらく妙な誤解を残した。

 だが、ルナは濡れなかった。

 それなら、ぎりぎり成功でいい。

 スマホが震えた。

 山下からだった。

〈駅前で女の子抱えて爆走してたってマジですか? 佐藤さん、ついに競技種目変えました?〉

 健一は静かにスマホを伏せた。

 雨は止みそうにない。

 噂も、止みそうになかった。


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