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第7話 スタバで闇の魔力を注文するな

 佐藤健一は、朝から天気予報を三つ見比べていた。

 スマホの天気アプリ。

 気象庁の降水短時間予報。

 雨雲レーダー。

 すべて晴れだった。

 降水確率は十パーセント。空には薄い雲があるが、雨雲ではない。湿度も高くない。風も穏やか。外出条件としては悪くない。

 ただし、相手は人魚姫である。

 健一はもう、天気予報を全面的には信用していなかった。

 東京には、予報に載らない水がある。

 道路清掃車。

 子どもの水鉄砲。

 店先の打ち水。

 カフェのこぼれたアイスコーヒー。

 噴水。

 突然のスプリンクラー。

 人類は、水を便利に使いすぎている。

 ルナは玄関で、サンダルを履く練習をしていた。

 昨日よりは上達している。

 右と左も、だいたい分かるようになった。サンダルのストラップに足の指を引っかけて固まることも減った。

 大きな進歩だ。

 人魚姫の社会化は、まず足元から始まる。

「健一」

「はい」

「今日は、遠くへ行くのですか」

「少しだけです」

「少し」

「駅の近くまで。カフェと、服を買う店を見ます」

「かふぇ」

「飲み物を飲む店です」

 ルナは顔を上げた。

「水ですか」

「水以外もあります」

「水以外」

「コーヒーとか、ミルクとか」

「黒い水と、白い水」

「言い方はだいたい合っていますが、外では控えめに」

 ルナは真剣にうなずいた。

 今日の目標は、コンビニより少し難しい。

 カフェ。

 買い物。

 人の多い歩道。

 いきなり駅前まで連れていくのは早い気もした。

 だが、ルナはこの世界を見たがっている。

 部屋の中で日本語を矯正しているだけでは、彼女は陸に来た意味を失ってしまう。

 健一にも、それくらいは分かった。

 問題は、彼女の発言である。

「今日の危ない言葉は?」

「健一が赤くなる言葉」

「だいたい正解です」

「ご主人様、限界まで、濡れる、初めて、ぷれい」

「最後の方はなるべく小声でお願いします」

「闇の力は?」

「禁止です」

 ルナは少し止まった。

「でも、黒い水に闇を感じた場合は?」

「感じても胸にしまってください」

「胸に」

「言葉にしない」

「陸の民は、闇を隠すのですね」

「そういう話ではありません」

 健一はリュックを背負った。

 中身は昨日より多い。

 タオル、防水ポンチョ、予備の靴下、薄手の上着、ビニール袋、折りたたみ傘。

 さらに今日は、カフェ対策として吸水クロスも入っている。

 トライアスロン用の補給食より、人魚姫用の水難対策の方が充実してきた。

「行きます」

「はい、健一」

 ルナは健一の袖を掴んだ。

 もう、それは外出時の標準装備になりつつあった。

     *

 マンションを出ると、ルナはすぐに空を見上げた。

 晴れた午前の東京は、少しだけよそ行きの顔をしていた。

 ビルの窓が光り、街路樹の葉が揺れ、車の屋根が白く反射している。

 海の底とはまったく違う光の跳ね方だった。

「空が、割れていません」

「割れる予定はないです」

「でも、建物の間で細くなっています」

「都会なので」

「東京は、空を切って住んでいるのですね」

「たまに鋭いことを言いますね」

 ルナは不思議そうに健一を見た。

「褒めていますか」

「褒めています」

「嬉しいです」

 彼女は少し笑った。

 健一は歩幅を落として歩いた。

 前回と同じく、ルナの足取りはまだぎこちない。

 だが、表情には余裕があった。

 自動ドアにも、エレベーターにも、信号にも、少しずつ慣れてきている。

 その代わり、目に入るものすべてに反応する。

 道路を走るバス。

 犬を連れた女性。

 ビルの大型広告。

 ガラス張りの美容室。

 自転車で通り過ぎる配達員。

「健一、あの黄色い鞄の人は、陸の使者ですか」

「配達員です」

「物を運ぶ人」

「そうです」

「あの犬は、海に入りますか」

「犬によります」

「あの大きな女の顔は、なぜ壁に貼られているのですか」

「広告です」

「視線の呪術」

「昨日の雑誌から離れてください」

 ルナは街の看板を見上げるたびに、目を輝かせた。

 健一が普段なら見もしないドラッグストアの電飾、カラフルなポスター、カフェのロゴ、雑居ビルのガラス。

 彼女にとっては、全部が初めての景色だった。

 東京は、健一にとって効率の悪い移動空間だった。

 人が多い。

 信号が多い。

 音が多い。

 だが、ルナの目を通すと、少し違って見える。

 光りすぎている街。

 意味の多すぎる壁。

 食べ物の匂いが道まであふれる場所。

 人が水から離れて、こんなにたくさん歩いている場所。

 健一は、少しだけ歩く速度を緩めた。

「健一」

「はい」

「私は、遅いですか」

「いいえ」

「本当ですか」

「本当です。今日は、速く歩く日ではありません」

「では、何の日ですか」

 健一は少し考えた。

「慣れる日です」

「慣れる日」

「はい」

 ルナはその言葉を覚えるように、小さく繰り返した。

「慣れる日」

 駅前に近づくと、人が増えた。

 ルナの手に力が入る。

 健一の袖が引っ張られた。

 彼女は驚いている。

 怖がってもいる。

 だが、目は閉じない。

 視線はずっと前を向いている。

「人が、多いです」

「駅の近くなので」

「みんな、どこへ行くのですか」

「仕事とか、買い物とか、学校とか」

「みんな、目的があります」

「たぶん」

「健一の目的は?」

「あなたをカフェに連れていくことです」

 ルナは健一を見上げた。

「私が、目的ですか」

「今日に限れば」

「今日だけ」

「……今日だけではないかもしれません」

 健一は言ってから、しまったと思った。

 だが、ルナはその言葉をきちんと受け止める前に、視線を別のものに奪われていた。

 カフェの看板だった。

 緑の丸いロゴ。

 ガラス越しに見える席。

 紙カップを持った人々。

 カウンターの奥で動く店員。

 コーヒーの香りが、店の外まで流れている。

「ここですか」

「はい」

「かふぇ」

「そうです」

 自動ドアが開いた。

 ルナは少しだけ身構えたが、もう「店が口を開けた」とは言わなかった。

 成長している。

 健一は心の中で小さく拍手した。

 店内は混んでいた。

 学生らしき二人組。

 ノートパソコンを開く会社員。

 ベビーカーを押した母親。

 イヤホンをした若い男。

 カウンターの前に列ができている。

 ルナは、空間全体を見て固まった。

「海の中の珊瑚みたいです」

「カフェです」

「人が、それぞれの穴に入っています」

「席です」

「みんな、黒い水を飲んでいます」

「コーヒーです。あと、声の大きさを少し下げましょう」

 ルナは口元を両手で押さえた。

「小さい声」

「はい」

 健一は列に並んだ。

 ルナは彼の袖を掴んだまま、メニュー表を見上げている。

 カタカナの列。

 英語のようなもの。

 サイズ表記。

 彼女には呪文に見えるだろう。

「健一」

「はい」

「どれが、いちばん安全ですか」

「安全基準で選ぶ人は少ないですが……ホットミルクか、カフェラテでしょうか」

「白い水」

「ミルクです」

「黒い水は?」

「コーヒーです」

「闇の魔力が」

「胸にしまって」

 ルナは両手で胸を押さえた。

「しまいました」

「よし」

 前の客が注文を終え、健一たちの番になった。

 店員が笑顔で尋ねる。

「ご注文をどうぞ」

 健一は即座に言った。

「ホットのカフェラテを一つと、ホットミルクを一つ。どちらもショートで」

 ここまでは完璧だった。

 しかしルナが、横からメニューをじっと見つめていた。

 そして、カウンターの奥で黒いコーヒーが紙カップに注がれるのを見て、我慢しきれなかったように小さく呟いた。

「闇の魔力……」

 店員の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。

 健一は即座に言う。

「すみません、そういう作品を書いているんです」

 まただ。

 なぜ自分は、彼女の発言を創作活動で処理しようとするのか。

 しかも、前回は詩人で、今回は作家だ。

 このままだと健一の職歴がどんどん文化人になっていく。

 店員は「そうなんですね」と笑った。

 プロだった。

 東京のカフェ店員は、多少の闇の魔力では揺れない。

 会計を済ませ、受け取り口で待つ。

 ルナは周囲を見回している。

 ショーケースのケーキを見つけた瞬間、目が変わった。

「健一」

「はい」

「あれは」

「ケーキです」

「白い山があります」

「チーズケーキですね」

「あれは食べ物ですか」

「そうです」

「陸は、山も食べるのですね」

「山ではありません」

「買いますか」

「今日は飲み物だけです」

 ルナの表情が分かりやすく沈んだ。

 健一は耐えた。

 ここで負けてはいけない。

 甘いものは悪ではないが、毎回買う流れになると危険だ。

 人魚姫の食育が、プリンとケーキで崩壊する。

「次の機会に」

「次」

「はい」

「約束ですか」

 健一は一瞬黙った。

「……約束です」

 ルナの表情が明るくなった。

 人魚姫に約束を渡すのは、少し重い。

 だが、チーズケーキくらいなら、まあいい。

 たぶん。

 おそらく。

 飲み物を受け取る。

 ここからが危険だった。

 紙カップには蓋がついている。

 だが、中身は液体。

 ルナにとっては爆発物に近い。

 健一はホットミルクを慎重に持たせた。

「傾けない。振らない。蓋を開けない。熱いので、ゆっくり」

「はい」

 ルナは両手でカップを包んだ。

 その瞬間、彼女の顔が変わる。

「温かいです」

「ホットなので」

「手が、温かい」

「はい」

「陸の飲み物は、手を温めるのですね」

「そういう面もあります」

 ルナはカップを胸元に抱えるように持った。

 ホットミルクの熱が、彼女の指に伝わっている。

 海から来た彼女にとって、温かい飲み物を持つこと自体が、初めてなのかもしれない。

 席を探す。

 窓際に二人席が空いていた。

 健一はまずテーブルを確認した。

 水滴なし。

 こぼれた跡なし。

 よし。

 椅子も乾いている。

 安全確認としては過剰だが、人魚姫連れでは適正だ。

 ルナを座らせ、健一も向かいに座る。

 窓の外には、東京の通りが見えた。

 人が行き交い、信号が変わり、バスが停まり、自転車が走る。

 ルナはカップを持ったまま、その景色を見つめていた。

「すごいです」

「何がですか」

「みんな、流れています」

「人の流れですね」

「海みたいです。でも、水がありません」

「都会の比喩としては、かなり正しいです」

 健一は自分のカフェラテを飲んだ。

 いつもの味だった。

 だが、落ち着かない。

 ルナが飲み物をどう扱うか気になる。

 カップを傾けすぎないか。

 蓋を外さないか。

 熱くて驚かないか。

 ミルクをこぼさないか。

 視線が完全に保護者だった。

「健一」

「はい」

「飲んでも、いいですか」

「もちろんです」

「これは、白い水ではなく、みるく」

「そうです」

「みるくは、安全」

「あなたの脚にかからなければ」

「分かりました」

 ルナは慎重にカップを口元へ運んだ。

 ひと口。

 その瞬間、彼女の目が大きく開いた。

「……甘くない」

「砂糖を入れていないので」

「でも、やさしいです」

「ミルクなので」

「温かくて、やさしい」

 ルナはもう一口飲んだ。

 今度は目を閉じた。

 健一は黙ってそれを見ていた。

 ルナが何かを食べたり飲んだりするたび、健一はいつも少しだけ驚く。

 彼女は、いちいち世界を初めて受け取る。

 プリンも、鶏胸肉も、ホットミルクも。

 健一が日常として流してきたものを、彼女は宝物のように持ち上げる。

「健一」

「はい」

「陸に来てよかったです」

 健一は、カップを置いた。

 ルナは窓の外を見ている。

「海から見た陸は、光っていました。でも、遠かったです。音も、匂いも、温かさもありませんでした」

「今は?」

「うるさくて、怖くて、足が痛くて、水が怖くて、言葉も難しいです」

「だいぶ大変ですね」

「でも、温かいみるくがあります」

 ルナはカップを両手で包んだ。

「健一もいます」

 健一は返事に困った。

 こういう時、どう答えるのが正解なのか。

 ありがとうでいいのか。

 俺もです、は重い。

 そうですね、は軽すぎる。

 よかったです、は会社のメールみたいだ。

 健一が答えを探していると、ルナがふとカップの中を見た。

「健一の黒い飲み物は、どんな味ですか」

「少し苦いです」

「飲んでみたいです」

「これはカフェラテなので、黒いというほどでは」

「闇の魔力は、薄めてあるのですか」

「もう闇から離れましょう」

 健一は自分のカップを少し差し出した。

「少しだけなら」

 ルナは身を乗り出し、健一のカップに口をつけようとした。

 健一は止めた。

「待ってください」

「なぜですか」

「これは俺が飲んだものです」

「はい」

「つまり、その……間接的に」

 言いかけて、健一は面倒になった。

 説明すればするほど変になる。

 彼は新しいスプーンを取り、少しだけカフェラテをすくって差し出した。

「これで」

 ルナはスプーンから飲んだ。

 眉を寄せる。

「苦いです」

「でしょうね」

「でも、少し甘い」

「ミルクが入っています」

「闇の中に、白がいます」

「言い方は変ですが、詩としては悪くないです」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 その時、隣の席の女子高生二人が、ちらちらこちらを見ていることに健一は気づいた。

 ルナの容姿は目立つ。

 しかも発言も目立つ。

 健一はカップを持ち直し、平静を装った。

 その片方が、小声で言った。

「なんか、撮影かな」

 もう片方が答える。

「めっちゃ可愛い。モデル?」

 健一は聞こえないふりをした。

 ルナは聞こえていた。

 人魚だから耳がいいのかもしれない。

 彼女は健一に顔を寄せる。

「もでる、とは何ですか」

「人に見られる仕事です」

「私は、見られていますか」

「少し」

「なぜ」

「あなたが目立つからです」

「この服が変ですか」

「いいえ。あなたが綺麗だからです」

 言ってから、健一はカップを落としそうになった。

 完全に失言だった。

 いや、事実ではある。

 だが、外で、カフェで、面と向かって言うべき言葉ではない。

 ルナに言葉の服を着せている場合ではない。

 自分の言葉が半裸で出ていった。

 ルナは、ぽかんと健一を見た。

「綺麗」

「……一般論です」

「健一は、私を綺麗だと思いますか」

「外見に関しては、客観的に」

「健一が」

「主観的にも、まあ」

「嬉しいです」

 ルナはカップを両手で持ち、少しだけ顔を赤くした。

 健一は窓の外を見た。

 車が走っている。

 信号が変わる。

 東京は何も知らない顔で流れている。

 助けてほしい。

 できれば、今すぐトライアスロンのスイムパートに戻りたい。

 あちらは水が危険だが、会話よりはルールが単純だった。

「健一」

「はい」

「私も、健一を綺麗だと思います」

「俺は綺麗ではないです」

「水の中で沈んでいた時、静かでした」

「それは溺れていただけです」

「でも、私は見つけました」

 ルナは真面目な顔で言った。

「見つけた時、助けたいと思いました」

 健一は、返事を失った。

 カフェのざわめきが少し遠くなる。

 コーヒーの香り。

 ミルクの湯気。

 窓の外の光。

 全部が一瞬だけ薄くなり、あの日の海の青が戻ってくる。

 健一は、カップを置いた。

「助けてくれて、ありがとうございます」

 ルナは目を瞬かせた。

「ありがとう」

「はい。まだ、ちゃんと言っていなかったので」

 ルナは唇を結んだ。

 それから、うれしそうに笑った。

「どういたしまして、健一」

 それは、完璧な日本語だった。

 健一は頷いた。

 今日の外出は、ここまででも十分だった。

 カフェで闇の魔力を口走ったが、致命傷ではない。

 チーズケーキの約束は増えたが、許容範囲だ。

 ルナはホットミルクを飲み、東京を見て、健一の名前を呼んだ。

 帰ろう。

 そう思った瞬間だった。

 店内の奥で、小さな悲鳴が上がった。

 子どもが、紙カップを倒していた。

 アイスドリンクが床に広がる。

 透明な液体と氷。

 水が、光を反射しながら、ゆっくりこちらの方へ流れてくる。

 ルナの顔が強張った。

 健一は即座に立ち上がる。

「ルナ、足を上げて」

「はい」

 ルナは椅子の上に足を上げた。

 周囲の客が少し驚く。

 健一はリュックから吸水クロスを取り出し、水の流れを止めるように床へ置いた。

 店員が慌てて駆け寄ってくる。

「すみません、大丈夫ですか」

「大丈夫です。滑ると危ないので」

 健一は平静を装って言った。

 内心では、心拍数がレース終盤だった。

 ルナは椅子の上で、カップを抱えたまま固まっている。

 健一は彼女に小さくうなずいた。

「大丈夫です」

 ルナは、健一の言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。

「水は、強敵です」

「本当に」

 健一は小声で答えた。

 店員が床を拭き、周囲が落ち着く。

 女子高生たちがまたこちらを見ていた。

 さすがに、椅子の上に足を上げる美少女と、リュックから吸水クロスを即座に出す男は目立つ。

 健一はもう諦めた。

 社会的に自然であることと、ルナを守ること。

 両方を完璧に満たすのは無理だ。

 なら、優先順位は決まっている。

「帰りましょう」

「はい」

 ルナは椅子からそっと足を下ろした。

 床はもう乾きかけている。

 健一が念のため確認してから、彼女を立たせた。

 店を出る時、ルナは名残惜しそうにショーケースを見た。

「白い山」

「次です」

「約束」

「約束です」

 外へ出ると、午前の光が少し強くなっていた。

 ルナは健一の袖を掴む。

 だが、来た時より、少し力が弱い。

 怖さが減ったのかもしれない。

 あるいは、少しだけ慣れたのかもしれない。

「健一」

「はい」

「かふぇは、危険ですが、好きです」

「だいたい合っています」

「黒い飲み物は、闇の魔力ではありません」

「よく覚えました」

「苦いけど、白がいます」

「それはそのままでいいです」

 ルナは満足そうに笑った。

 帰り道、彼女は街を見ながら言った。

「東京は、きらきらしています」

「そう見えますか」

「はい。でも、水もあります。人も多いです。音も多いです。怖いです」

「はい」

「でも、健一の袖があります」

 健一は自分の袖を見た。

 ルナの指が、そこを掴んでいる。

「そのうち、袖なしでも歩けます」

「歩けるようになりますか」

「なります」

「では、その時も、掴んでいいですか」

 健一は、少しだけ考えた。

「必要なら」

「必要ではなくても?」

 信号が青に変わる。

 健一は歩き出した。

 ルナも隣を歩く。

「……邪魔にならない程度なら」

 ルナは笑った。

「困らない程度に、普通」

「そうです」

 東京の歩道を、人魚姫が歩いている。

 サンダルで、少しぎこちなく。

 片手にホットミルクの匂いを残して。

 もう片方の手で、健一の袖を掴んで。

 健一はその速度に合わせて歩いた。

 いつもの移動なら、遅すぎる。

 トレーニングなら、何の意味もない。

 だが今日は、これでよかった。

     *

 帰宅後、ルナはホワイトボードに自分で書いた。

【黒い水=こーひー】

【白い山=次】

【東京=きらきらして、少しこわい】

【健一の袖=安全】

 健一はそれを見て、最後の一行だけ消そうか迷った。

 結局、消さなかった。

 その代わり、横に小さく書き足した。

【ただし、強く引っぱらない】

 ルナはそれを読んで、真面目にうなずいた。

「分かりました。優しく掴みます」

「はい」

「健一を、優しく」

「そこで切ってください」

「優しく掴みます」

「よし」

 今日の会話練習は、辛うじて成功だった。

 ただし翌日、健一のスマホには、山下から一通のメッセージが届いた。

〈駅前のカフェに、めちゃくちゃ美人といたって聞いたんですけど。しかも吸水クロス持参って何してるんですか?〉

 健一は画面を見つめた。

 東京は広い。

 しかし噂は、意外と泳ぎが速い。


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