表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/10

第6話 人魚姫の普通は、だいたい社会に刺さる

 佐藤健一は、玄関の前で深呼吸をした。

 外に出るだけだ。

 たったそれだけのことが、今の健一にとっては、トライアスロンのスタートラインより緊張する。

 海に飛び込むより、むしろ怖い。

 海には水しかない。

 だが東京には、宅配業者、管理人、店員、通行人、隣人、そして社会的な誤解がある。

 水より速く人を沈めるもの。

 それが世間の目だ。

 ルナは玄関で、昨日買ったワンピースを着て立っていた。

 まだ外出用の服としては少し危なっかしいが、部屋着よりはずっと人間らしく見える。髪もブラシで整えた。靴も履いた。

 見た目だけなら、少し浮世離れした美少女で済む。

 問題は、口を開いた瞬間だった。

「外での呼び方は?」

「健一」

「危ない言葉は?」

「健一が赤くなる言葉は禁止」

「かなり正しいです」

「限界まで、も禁止」

「よくできました」

「私は、困らない程度に普通になります」

「その方針でお願いします」

 ルナは胸の前で両手を握った。

「困らせたら、ごめんなさい」

 健一は少しだけ言葉に詰まった。

「困ることと、嫌なことは違います」

 言ってから、少し早かったかもしれないと思った。

 ルナはその言葉を、大切そうに受け取った。

「困るけど、嫌ではない」

「今は外出訓練に集中しましょう」

「はい、健一」

 いい返事だった。

 健一は玄関を開けた。

 最初の試練は、廊下に出た瞬間に来た。

     *

「あ、佐藤さん」

 管理人だった。

 エレベーター前で、ちょうど清掃用具を持って立っていた。

 健一の背中に冷たいものが走る。

 昨日、玄関付近を何度も拭いた。ルナが現れた時に濡れた痕跡は残っていないはずだ。

 だが、管理人という存在は、人の生活の不自然な湿り気を見逃さない。

「おはようございます」

 健一は、ごく普通に頭を下げた。

「おはようございます。昨日、廊下が少し濡れていたみたいでね」

 来た。

「すみません。荷物を運ぶ時に、少し水をこぼしたかもしれません」

 健一は即座に用意していた説明を出した。

 短い。

 無難。

 社会的。

 勝てる。

 管理人はルナを見た。

「あら、お客さん?」

 ルナが一歩前に出た。

 健一の呼吸が止まる。

「はい。私は健一に保護されている者です」

 負けた。

 開始二分で負けた。

 管理人の表情が、ほんの少しだけ固まった。

 健一は即座に笑顔を作った。

「親戚の子です。日本語の距離感を勉強中で」

「そうなの」

「はい。かなり独特な教材で覚えてしまいまして」

「まあ、外国の方?」

「遠いところから来ました」

 嘘ではない。

 ただし、遠さの種類が違う。

 ルナは真面目な顔で頷いた。

「海の近くから来ました」

「海の近く」

 管理人が復唱する。

 健一は即座に挟んだ。

「沿岸部です」

 ルナが健一を見る。

「沿岸部」

「便利な言葉です。あとで説明します」

「はい。私は沿岸部です」

「人間に使う言い方ではありません」

 管理人は、困ったように笑った。

「滑ると危ないから、気をつけてくださいね」

「はい。以後注意します」

 健一は頭を下げ、ルナの袖をそっと引いた。

 エレベーターの中に入った瞬間、健一は小さく息を吐いた。

「ルナさん」

「はい」

「保護されています、は外で言わない方がいいです」

「なぜですか」

「警察に近づきます」

「警察」

「強い陸の番人です」

「強い番人は、健一を捕まえますか」

「場合によっては」

「では、禁止です」

「そうです」

 ルナは神妙に頷いた。

「外では、私は沿岸部」

「それも禁止寄りです」

 エレベーターの扉が開いた。

 まだ一階に降りただけなのに、健一はすでに軽く疲れていた。

     *

 宅配ロッカーは、マンションのエントランス横にある。

 健一はスマホを操作し、ロッカーを開けた。

 中には通販で頼んだタオルと、ルナ用の追加の服が入っている。

 水難対策と社会化対策は、だいたい布製品から始まる。

 ルナはロッカーの扉が開くのを見て、目を輝かせた。

「壁が、荷物を吐きました」

「言い方」

「では、壁が健一の所有物を差し出しました」

「まだ強いです」

 ちょうどその時、隣のロッカーを開けに来た若い女性が、ちらりとこちらを見た。

 健一は荷物を素早く取り出した。

「ただの宅配ロッカーです」

「ただの」

「はい」

「ただの壁の口」

「戻りましたね」

 ルナは荷物を見た。

「これは何ですか」

「タオルです」

「水と戦う布」

「かなり正しいですが、外ではタオルです」

「タオル。水と戦う布」

「後半は胸にしまってください」

「胸に」

 ルナは両手で胸を押さえた。

 隣の女性が、気まずそうに目を逸らした。

 健一は社会的体力が削れる音を聞いた。

     *

 次はクリーニング店だった。

 健一が普段使っている駅前の小さな店だ。

 店員は五十代くらいの女性で、健一の顔を覚えている。

 これが厄介だった。

 初対面なら通り過ぎる違和感も、顔見知りには残る。

 自動ドアが開く。

 ルナが少し身構えた。

「店が開きました」

「自動ドアです」

「店の口ではありません」

「よく覚えました」

 店員が笑顔で迎えた。

「いらっしゃいませ。佐藤さん、今日はお預かりですか?」

「受け取りです」

 健一は控えを出した。

 ここまでは普通だった。

 店員が奥へ行く。

 その間、ルナはカウンター横に置かれたアイロン仕上げの案内を見ていた。

「健一」

「はい」

「服にも、しわがあります」

「ありますね」

「言葉にも、しわがありますか」

「急に詩的ですね」

「私の言葉は、しわが多いですか」

「しわというより、布地が足りないことがあります」

「裸ですか」

「店内でその単語を出さない」

 店員が戻ってきた。

「お待たせしました。こちらですね」

「ありがとうございます」

 健一が受け取ろうとした時、ルナが一歩前に出た。

「健一の服を、きれいにしてくれてありがとう」

 健一は少し驚いた。

 まともだ。

 かなりまともだ。

 店員もにこりとした。

「あら、丁寧ね」

 ルナは嬉しそうに続けた。

「健一は、外では黒い布をよく着ます。部屋では、もっと薄い布です」

「後半が要りません」

 店員の笑顔が止まった。

 健一は即座に言った。

「日本語の練習中で、観察したものを全部言ってしまうんです」

「そうなのね」

「はい。かなり全部言います」

 ルナは真剣に頷いた。

「健一は、朝、髪が少し乱れています」

「もう黙りましょう」

「沈黙」

「はい」

 ルナは口を閉じた。

 店員は、かなり何か言いたそうだったが、プロだった。

 会計を済ませ、袋を渡してくれた。

 店を出た瞬間、健一は軽く空を見上げた。

 晴れている。

 それだけが救いだった。

「ルナさん」

「はい」

「人の部屋での様子は、外で言わない」

「なぜですか」

「社会的な服が脱げます」

「言葉だけではなく、健一の社会も裸になりますか」

「はい」

「それは大変です」

「本当に」

 ルナは少し考えた。

「では、健一の朝の髪は、胸にしまいます」

「お願いします」

「胸がいっぱいになります」

「どんな情報を詰めているんですか」

     *

 最後はドラッグストアだった。

 健一は、ここが一番危険だと考えていた。

 理由は単純。

 水が多い。

 化粧水。

 保湿ミスト。

 シャンプー。

 入浴剤。

 目薬。

 冷却スプレー。

 濡れティッシュ。

 現代のドラッグストアは、水分と薬品と生活の欲望でできている。

 健一は入口で念を押した。

「店内では、商品に勝手に触らない」

「はい」

「特に、スプレー、ミスト、液体、ジェル、水、泡と書いてあるもの」

「泡」

「泡も注意です」

「泡は、海の最後です」

 健一は一瞬だけ黙った。

 ルナは自分で言ってから、少し不安そうな顔をした。

「……今のは」

「外では言わない方がいいですが、俺には言っていいです」

「健一には?」

「はい」

 ルナは小さく頷いた。

「では、胸に半分しまいます」

「半分でいいです」

 店内に入る。

 ルナは目を輝かせた。

 棚。

 棚。

 棚。

 色とりどりのボトル。箱。袋。鏡。宣伝ポップ。テスター。店内放送。

 健一にとっては、必要なものを取って早く出たい場所。

 ルナにとっては、陸の民の秘密倉庫らしい。

「健一」

「はい」

「ここは、人間の体を補修する店ですか」

「かなり正しいです」

「壊れたら、ここへ来るのですね」

「軽い不調なら」

「では、私の足も」

「足はここでは無理です」

「なぜですか」

「分類が違います」

「私は、分類が難しいです」

「本当に」

 健一はまず、ルナ用のヘアゴムと櫛を見る。

 次に歯ブラシ。タオル。絆創膏。保湿クリーム。

 濡れない生活など不可能なのだから、せめて乾いたケア用品を選びたい。

 その時、ルナが棚の前で止まった。

 健一の背中に嫌な予感が走る。

 彼女が見ているのは、美容用ミストだった。

 小さなボトルに、こう書いてある。

【ひと吹きでうるおいチャージ】

 ルナが手を伸ばす。

「触らない」

 健一は素早く止めた。

「これは何ですか」

「ミストです」

「小さな雨」

「そうとも言えます」

「人間は、小さな雨を顔にかけるのですか」

「そういう美容もあります」

「なぜ」

「乾燥するからです」

「乾くのは、良いことでは?」

「あなたの場合はそうかもしれませんが、人間は乾きすぎると困ります」

 ルナはミストのボトルをじっと見た。

「これは、私には危険です」

「かなり危険です」

 そこへ店員が近づいてきた。

「何かお探しですか?」

 健一が答えるより早く、ルナが言った。

「水に濡れると足がほどける女には、どれが安全ですか」

 終わった。

 ドラッグストアで、終わった。

 店員の笑顔が空白になった。

 健一は即座に言った。

「乾燥肌の比喩です」

 店員は瞬きをした。

「乾燥肌」

「はい。かなり敏感で、合わないと足元から崩れる感じがするそうで」

 苦しい。

 説明がかなり苦しい。

 しかし、店員はプロだった。

「でしたら、低刺激のものがよろしいかもしれませんね」

「お願いします」

 ルナは健一を見る。

「健一」

「はい」

「乾燥肌の比喩は、便利です」

「乱用しないでください」

「私は、乾燥肌の比喩です」

「あなた自身が比喩にならない」

 店員は低刺激の保湿クリームを出してくれた。

 水分量はあるが、塗るものだ。

 飛ばない。

 ミストよりは安全。

 健一はすぐにカゴへ入れた。

 次に、入浴剤コーナーを通りかかった。

 ルナが立ち止まる。

「健一」

「見ない」

「これは、湯を海にする粉ですか」

「見ない」

「青い湯、白い湯、泡の湯」

「通過します」

「人間は、なぜ自分から水に入りますか」

「人間だからです」

「私は、まだ人間が遠いです」

 その言葉は、少しだけ静かだった。

 健一は足を止めた。

 ルナは入浴剤の棚を見ている。

 怖がっているわけではない。

 けれど、どこか遠くを見ているような目だった。

「遠くてもいいです」

 健一は言った。

「少しずつで」

 ルナが顔を上げる。

「少しずつ」

「はい。今日はドラッグストアまで来ました」

「たくさん失敗しました」

「かなり」

「健一は困りました」

「かなり」

「でも、嫌ではない?」

 健一は、答えに一瞬だけ迷った。

 店内放送が流れている。

 レジの音がする。

 誰かが近くでシャンプーを選んでいる。

 完全に外だった。

 それでも、言った。

「嫌ではないです」

 ルナの顔が、少し明るくなった。

「その言葉は、外でも使っていいですか」

「小声なら」

「健一は、困っても嫌ではない」

「もっと小声で」

 通りかかった客が、ちらりとこちらを見た。

 健一はカゴを持ち直した。

「会計します」

「はい」

     *

 レジで、最後の事故が起きた。

 店員が商品を読み取っていく。

 歯ブラシ。

 櫛。

 ヘアゴム。

 保湿クリーム。

 タオル。

 絆創膏。

 ルナは興味深そうに見ている。

「健一」

「はい」

「この店は、人間の壊れたところを直すものが多いです」

「そうですね」

「私は、健一の壊れたところを直せますか」

 健一は固まった。

 店員の手も、一瞬止まった。

「……それは」

「健一は、海で沈みました。心にも地下室があります。時々、困っていない顔で困っています」

 ルナの声は真剣だった。

 店員は完全に聞いている。

 健一は、すぐには止められなかった。

「私は、まだ普通ではありません。でも、健一が沈みそうな時は、助けたいです」

 健一は、言葉を失った。

 レジ袋の音だけがした。

 店員は、少しだけ表情を柔らかくして言った。

「お連れの方、優しいですね」

 健一は、ようやく息をした。

「……はい」

 ルナが健一を見る。

「私は、優しいですか」

「かなり」

「普通ですか」

「困らない程度に」

「困らない程度に、優しい」

「それは、かなりいいです」

 店員が小さく笑った。

 健一は会計を済ませ、袋を受け取った。

 店を出ると、外の空気がやけに軽く感じた。

     *

 帰宅後。

 ルナは真っ先にリビングへ向かった。

 健一はホワイトボードを出しかけて、一度、手を止めた。

 以前なら、出かける前にルールを書き、出かけた後に禁止語を書き、たぶん明日にはホワイトボードが部屋の主になっていた。

 だが、もう分かった。

 ルナの誤学習は、机の上で完全に直せる種類ではない。

 現場で爆発する。

 ならば、ホワイトボードは戦前会議ではなく、戦後処理でいい。

「今日の反省会をします」

「はい」

 健一は赤ペンを持った。

 ボードに、最低限だけ書く。

【今日の禁止語】

・保護されています=警察が近づく

・沿岸部です=人間には使わない

・部屋での健一=外で言わない

・足がほどける=ドラッグストアで言わない

・健一の壊れたところ=レジで言わない

 ルナは真剣に読んだ。

「たくさんあります」

「これでも厳選しました」

「げんせん」

「大事なものだけ選ぶことです」

「では、今日の良い言葉も厳選します」

 ルナはペンを受け取り、ゆっくりと書いた。

【今日のよかった言葉】

・困っても、嫌ではない

・困らない程度に、普通

・困らない程度に、優しい

 健一はそれを見た。

 禁止語より、そちらの方が少し大きな字だった。

「それは残しましょう」

「はい」

 ルナは満足そうに頷いた。

 数分後。

 健一が昼食の準備をしていると、リビングから明るい声が聞こえた。

「健一、鶏の肉を、困らない程度に激しく焼きましょう」

「激しくは焼かない」

「では、普通に焼きます」

「それでお願いします」

 フライパンの上で、鶏胸肉が静かに音を立てた。

 普通への道は、まだ遠い。

 だが、今日は外を歩けた。

 管理人に疑われ、クリーニング店で社会的に揺れ、ドラッグストアで乾燥肌の比喩になった。

 それでも、ルナは泣かなかった。

 水にも濡れなかった。

 そして、健一を助けたいと言った。

 総合評価。

 かなり危険。

 だが、前進。

 健一はフライパンを見ながら、少しだけ笑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ