第5話 人魚姫に靴を履かせるのは、だいたい難しい
佐藤健一は、玄関にしゃがみ込んでいた。
目の前には、サンダルが一足ある。
その向こうに、ルナの裸足がある。
問題は、たったそれだけのことだった。
人間が外に出る時は靴を履く。
靴を履かなければ、足が汚れる。怪我をする。コンビニにも行けない。
社会というものは、だいたい靴を履いている前提で設計されている。
だが、その前提は、人魚姫には少し厳しかった。
「これを、足に」
健一はサンダルを指差した。
ルナは真剣な顔でうなずく。
「足に」
「そうです」
「これは、足の服ですね」
「だいたい合っています」
「では、健一の足にも服があります」
「靴です」
「靴」
「はい」
ルナは健一のスニーカーを見た。
次に、自分用に買われたサンダルを見た。
それから、少しだけ眉を寄せる。
「健一の靴は、強そうです」
「走る用です」
「私の靴は、弱そうです」
「まずは履きやすさ優先です。あなたの足はまだ不安定なので」
「私の足は、初心者ですか」
「かなり初心者です」
ルナは自分の足を見下ろした。
白い足。
細い足首。
昨日まで海の中にあったとは思えないほど、人間の形をしている。
けれど、よく見ると、足首のあたりに薄い銀青の名残があった。
鱗ではない。
だが、光の角度によって、そこだけ海面のように揺れる。
健一は視線を逸らした。
見慣れてはいけないもののような気がした。
いや、慣れなければ生活できない。
でも、慣れたら慣れたで、自分が別の何かを失う気がする。
「まず、右足を」
「右」
ルナは左足を上げた。
「そちらは左です」
「左右は、人間社会の緩衝材ですか」
「違います。方向です」
「方向」
「右がこっち。左がこっち」
健一は自分の手を上げて示した。
ルナも真似する。
左右が逆になった。
向かい合っているからだ。
説明が一段難しくなった。
健一は一瞬、反転認識について説明しそうになり、やめた。
人魚姫に幾何を入れる前に、まず靴だ。
「とにかく、こっちの足です」
健一は床を指差した。
ルナはそろそろと足をサンダルに乗せる。
指先がストラップに引っかかった。
「痛いですか」
ルナは首を横に振った。
「くすぐったいです」
「靴はだいたいそういうものです」
「健一も、くすぐったいですか」
「慣れます」
「人間は、いろいろ慣れるのですね」
その言い方が、妙に静かだった。
健一は顔を上げる。
ルナはサンダルを見ている。
初めての靴。
初めての玄関。
初めての外出。
彼女にとっては、全部が新しい。
健一にとって当たり前のものが、彼女にはいちいち試練になる。
しかも、彼女はその試練を、自分で選んでここへ来た。
健一は咳払いした。
「無理なら、今日はやめてもいいです」
「いいえ」
ルナはもう片方の足もサンダルに入れた。
「外を見たいです」
「昨日の廊下くらいしか出てませんからね」
「海の上から見た陸と、陸の中から見る陸は、違います」
「哲学的ですね」
「てつがく」
「今のは覚えなくていいです」
「覚えました」
「そうですか」
健一は諦めた。
今日は、ルナを外へ連れ出す。
とはいえ、いきなり繁華街やショッピングモールは無理だ。
目的地はマンションから徒歩三分のコンビニ。
天気は晴れ。
降水確率十パーセント。
雨雲レーダーにも異常なし。
ルート上に噴水はない。
水たまりもない。
通学時間帯も過ぎている。
条件は整っている。
ただし、相手は人魚姫である。
条件が整っている時ほど、事故は来る。
健一はもう学び始めていた。
彼はリュックの中身を確認した。
タオル。
大きめの上着。
折りたたみ傘。
防水ポンチョ。
ビニール袋。
予備の靴下。
なぜか救急用アルミシート。
トライアスロンのレースより、装備が緊張している。
「健一」
「はい」
「これは、戦ですか」
「コンビニです」
「こんびに」
「小さな店です」
「敵はいますか」
「基本的にはいません」
「では、なぜそんな顔を」
「都市には予測不能な水があります」
ルナは納得したようにうなずいた。
「水は、強敵です」
「本当にそうです」
健一は玄関のドアを開ける前に、ルナを見た。
「ルールを確認します」
「はい」
「外では俺のことを」
「健一」
「よし。ご主人様は」
「禁止」
「限界まで」
「禁止」
「濡れる」
「……文脈によりますか?」
「禁止寄りです」
「難しい」
「難しいですが、禁止です」
ルナは真面目にうなずいた。
「水に触らない。知らない人についていかない。急に歌わない。商品を勝手に食べない。驚いても叫ばない。何か分からない時は、俺の袖を掴む」
「健一の袖」
「はい」
ルナは、すぐに健一の袖を掴んだ。
「今ではなく」
「予行練習です」
「それは大事です」
健一はドアを開けた。
廊下の空気が流れ込む。
ルナが一歩、外へ出た。
その瞬間、彼女は動きを止めた。
マンションの廊下。
白い壁。
非常灯。
遠くのエレベーター。
どこにでもある光景だ。
健一にとっては、何の感情も生まないただの共用部。
だが、ルナは息をのむように見つめていた。
「ここも、陸ですか」
「陸です」
「海が見えません」
「陸なので」
「すごいです」
何がすごいのか、健一には分からなかった。
けれど、ルナには本当にすごいらしい。
彼女はサンダルでゆっくり歩いた。
一歩。
一歩。
まだぎこちない。
だが、昨日のように膝が崩れることはない。
健一は少し後ろを歩きながら、いつでも支えられる距離を保った。
エレベーターの前で、ルナが足を止めた。
「これは?」
「箱です」
「箱」
「人が入る箱です」
ルナの目が、わずかに輝いた。
健一は嫌な予感がした。
「大切な箱ですか」
「違います」
「魂の墓場ですか」
「違います。移動手段です」
エレベーターが到着し、扉が開いた。
ルナは小さく身を引いた。
中には誰もいない。
健一は先に入り、ルナを手招きする。
「大丈夫です」
ルナはおそるおそる入った。
扉が閉まると、びくっと肩を跳ねさせ、健一の袖を掴む。
「閉じ込められました」
「すぐ開きます」
「健一は、毎日この罠に」
「罠ではありません」
「陸の民は強いですね」
「だいぶ誤解があります」
エレベーターが下がる。
ルナの表情が変わった。
足元が沈む感覚に驚いたのだろう。
彼女は健一の袖をさらに強く掴んだ。
「落ちています」
「制御されています」
「落ちています」
「制御された落下です」
「言い換えても落ちています」
「そこだけ理解が鋭いですね」
扉が開いた。
ルナは、外の光に目を細めた。
マンションのエントランスを抜けると、東京の昼が広がっていた。
車の音。
信号機の電子音。
遠くの工事現場の金属音。
自転車のベル。
コンビニの看板。
ビルの窓に反射する日差し。
どれも、健一にはただの街の音だった。
ルナは、全部を聞いていた。
右を向き、左を向き、空を見上げる。
海の底で光を見上げるように、ビルの隙間の青空を見つめている。
「明るい」
「今日は晴れです」
「空が、近いです」
「海の中から見るよりは、そうかもしれません」
「音が多い」
「東京なので」
「東京」
ルナはその言葉を大切そうに繰り返した。
健一は歩き出した。
ルナもついてくる。
サンダルの音が、ぺた、ぺた、と小さく鳴る。
健一は普段、歩行ペースも自然と速い。
だが今日は落とした。
ルナの歩幅に合わせる。
そのことに気づいて、少しむずがゆくなった。
「健一」
「はい」
「遅く歩いていますか」
「あなたがまだ慣れていないので」
「私のため」
「まあ、そうです」
ルナは袖を掴んだまま、嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
それは、正しい言葉だった。
健一は前を向いた。
「どういたしまして」
たったそれだけのやり取りなのに、昨日までより疲れる。
悪い意味ではない。
心拍数で言えばゾーン二。
長く続けると効いてくるやつだ。
コンビニはすぐそこだった。
自動ドアの前で、ルナが止まる。
ドアが勝手に開く。
ルナが健一の背中に隠れた。
「今、口が開きました」
「自動ドアです」
「この店は、生きていますか」
「生きていません」
「でも、私たちを食べようと」
「歓迎しています」
「陸の歓迎は、口を開けるのですね」
「だいぶ違います」
健一は店内へ入った。
冷気が来る。
ルナが目を丸くした。
棚に並ぶ商品。
飲み物。
弁当。
おにぎり。
雑誌。
菓子。
レジ横のホットスナック。
すべてが彼女には未知のものだ。
健一はまず、水分売り場から遠ざけた。
ペットボトルが並ぶ冷蔵棚は危ない。
開けた瞬間、結露した水滴が落ちる可能性がある。
人魚姫対策としては、細かすぎるくらいでちょうどいい。
「ここでは、必要なものだけ買います」
「必要なもの」
「食べ物です」
「鶏の肉ですか」
「今日はもう少し種類を増やします」
ルナの目が輝いた。
健一はカゴに、おにぎり、サラダチキン、ゆで卵、バナナ、プリンを入れた。
プリンを見たルナが固まる。
「これは」
「プリンです」
「ぷりん」
「甘い食べ物です」
「甘い」
ルナはプリンのカップを両手で持ち、光に透かして見た。
「太陽の卵」
「それはかなり詩的ですが、プリンです」
「食べると、どうなりますか」
「おいしいです」
「買います」
「一個だけです」
「二個」
「一個です」
「健一、私は初めてです」
「その言い方はコンビニでやめましょう」
近くにいた店員が、ちらりとこちらを見た。
健一は無表情を装った。
内心では全力疾走していた。
汗が出る。
レース中より汗が出る。
お台場のスイムより危険な区間が、コンビニのプリン棚にあるとは思わなかった。
次に、ルナは雑誌棚で止まった。
表紙のアイドルを見て、首を傾げる。
「これは、海の巫女ですか」
「雑誌です」
「この人たちは、なぜこちらを見ていますか」
「売るためです」
「視線で?」
「だいたいそうです」
「陸の商売は、呪術ですね」
「否定しきれません」
健一はルナをレジへ誘導した。
会計だけ済ませれば勝ちだ。
短距離走ならラスト百メートル。
油断してはいけない。
レジに並ぶ。
前にいた客が、アイスコーヒーを買っていた。
透明なカップに氷が入っている。
ルナがそれを見た。
「水です」
「見ないでください」
「凍っています」
「ええ」
「水が、死んでいます」
「その表現はやめましょう」
前の客が振り返った。
健一は軽く会釈した。
「詩を書いているんです」
なぜそんな嘘をついたのか、自分でも分からなかった。
ルナは感心したように健一を見る。
「健一は詩人ですか」
「違います」
「でも、今」
「生き残るための比喩です」
「陸は大変ですね」
「あなたが主な原因です」
会計を済ませる。
店員の「袋はご利用ですか」に健一が答える前に、ルナが身を乗り出した。
「袋は、必要です。健一の大切なものを包みます」
店員の表情が、わずかに揺れた。
健一は即座に言う。
「商品です」
「はい?」
「商品を包みます。普通に」
店員はプロだった。
笑わなかった。
健一は心の中で五つ星をつけた。
外へ出た瞬間、健一は深く息を吐いた。
生還した。
たかがコンビニ。
されどコンビニ。
人魚姫を連れていくと、日常は一気に高難度ダンジョンになる。
ルナは袋を両手で持ち、満足そうに歩いていた。
サンダルの音も、来た時より少し軽い。
「楽しかったです」
「それはよかったです」
「陸の店は、すごいです。太陽の卵も、死んだ水も、視線の呪術もあります」
「だいぶ誤解していますが、楽しそうなので今はいいです」
信号待ちで、ルナが空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
白く、薄い雲だった。
雨の気配はない。
健一は一応、スマホで雨雲レーダーを確認した。
問題なし。
「健一」
「はい」
「私は、外を歩けました」
「歩けましたね」
「靴も、少し分かりました」
「よかったです」
「でも、健一の袖がないと、まだ怖いです」
ルナはそう言って、袖を掴む手に少しだけ力を込めた。
健一は歩行者信号を見る。
赤から青に変わる。
人が流れ出す。
車が止まる。
東京のいつもの午後が、何食わぬ顔で動いている。
その中に、海から来た少女がいる。
自分の袖を掴んでいる。
健一は、ゆっくり歩き出した。
「慣れるまでは、掴んでいていいです」
ルナは顔を上げた。
「いいのですか」
「転ばれると困ります」
「転ばないため」
「そうです」
ルナは少し笑った。
「健一は、理由をつけるのが上手です」
健一は返事に詰まった。
正しい。
かなり正しい。
合理性。
安全管理。
生活支援。
命の恩人への義務。
言葉はいくらでもある。
だが、そのどれか一つだけでは説明できないものが、すでに始まりかけている。
マンションの前まで戻った時、ルナは空をもう一度見た。
「また、外に出られますか」
「条件が整えば」
「条件」
「晴れ。人が少ない。水がない。あなたが変なことを言わない」
「最後が一番難しいです」
「自覚があるなら、改善できます」
ルナは真面目にうなずいた。
「次は、もっと普通にします」
「期待しています」
エントランスへ入る。
自動ドアが閉まる。
ルナはもう驚かなかった。
エレベーターの中でも、袖は掴んでいたが、さっきほど震えてはいない。
部屋に戻ると、ルナは靴を脱ぐのに少し苦戦した。
サンダルから足が抜けると、ほっとしたように息を吐く。
「足の服は、疲れます」
「最初はそうです」
「でも、外へ行けます」
「そうですね」
ルナは買ってきたプリンをテーブルに置いた。
「健一」
「はい」
「これを、一緒に食べたいです」
健一は少しだけ驚いた。
ルナは続ける。
「一人で食べるより、健一と食べる方が、たぶん、おいしいです」
言葉はたどたどしい。
でも、間違っていなかった。
健一はスプーンを二本出した。
「では、半分ずつ」
「半分」
「はい」
「健一は、私を半分にするのですか」
「プリンをです」
「難しい」
「落ち着いて聞けば難しくありません」
二人はテーブルを挟んで座った。
健一がプリンのふたを開ける。
ルナはそれを、まるで宝箱が開くのを見るように見つめていた。
スプーンですくって渡すと、彼女は慎重に口へ運ぶ。
次の瞬間、ルナの目が丸くなった。
「……太陽の卵です」
「プリンです」
「甘いです」
「そうですね」
「陸は、すごいです」
ルナはもう一口食べた。
幸せそうだった。
健一は、自分の分を口に入れる。
普通のプリンだった。
コンビニで買った、普通のプリン。
なのに、少しだけ味が違った。
その時、ルナが真顔で言った。
「健一、私の中で甘いものが震えています」
「その表現は惜しいです」
「では?」
「おいしい、で十分です」
ルナはうなずいた。
「おいしいです」
健一は頷いた。
「はい」
その言葉なら、どこに出しても問題ない。
少なくとも今日は、少しだけ進歩した。
そう思ったところで、ルナがスプーンを握りしめ、にこりと笑った。
「次は、健一の鶏の肉にも、この黄色い甘さをかけましょう」
「絶対にやめましょう」
進歩はした。
だが、人魚姫の食育は、まだ始まったばかりだった。




