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第4話 ご主人様呼びは、社会的に死ぬ

 外付けHDDのアクセスランプが、赤く点滅していた。

 健一には、それが心臓の鼓動に見えた。

 自分のものではない。

 もっと恥ずかしい何かの鼓動だ。

 机の上に置かれた黒い箱は、つい一時間前までただの記憶媒体だった。

 いまは違う。

 人魚姫に日本語を教えた、最悪の家庭教師である。

 ルナはソファに座り、健一を見上げていた。

 健一のパーカーを着て、袖から指先だけを出し、澄み切った目をしている。

 その姿だけなら、海から来た無垢な少女そのものだった。

 問題は、口を開くと健一の人生が削れることだ。

「ご主人様?」

「まず、それをやめましょう」

「それ?」

「ご主人様」

 ルナは目を丸くした。

「違うのですか」

「違います」

「あなたは、この巣の主です」

「巣ではなく部屋です」

「では、部屋の主」

「大家ではないので、それも少し違います」

「では、何と呼べば」

「健一でいいです」

 ルナは真剣な顔で、唇を動かした。

「けんいち」

 声に出た。

 健一は一瞬、言葉を失った。

 昨日まで声が出なかった彼女が、自分の名前を呼んだ。

 それだけなら、胸に来る場面だった。

 実際、来た。

 かなり来た。

 ただし、その直後にルナは少し首を傾げ、覚えたての甘い声で言い直した。

「健一様」

「様もいりません」

「健一きゅん」

「どこで覚えた」

「大切な箱です」

「今後その箱を“大切”と呼ぶのを禁止します」

 健一は頭を抱えた。

 まず、状況を整理する必要がある。

 ルナは声を取り戻した。

 正確には、健一のHDDに保存されていた映像と音声から、日本語の音声出力を再構築したらしい。

 原因は分からない。

 海の魔女がどうこう言っていた可能性が高いが、現時点で追及しても、健一の胃が先に泡になる。

 問題は、その学習元だった。

 深夜アニメ。

 美少女ゲーム。

 ASMR。

 自転車擬人化アニメ。

 妙に艶っぽいトレーニング応援音声。

 中二病台詞集。

 要するに、健一の人生における「誰にも見せないでください」フォルダである。

「ルナさん」

「はい、健一」

 今度は普通だった。

 健一は少し安心した。

 やればできる。

 人魚姫の学習能力は高い。

 教材が腐っていただけだ。

「これから、人間社会で安全に暮らすためのルールを教えます」

「はい。調教ですね」

「教育です」

「教育」

「そうです。まず、外では変な言葉を使わない」

「変な言葉とは」

「ご主人様、限界まで追い込んで、初めて、優しくして、踏んで、回して、私を使って、などです」

 ルナは指折り数えている。

「多いですね」

「なぜ被害者みたいな顔をするんですか」

「健一の大切な箱には、もっとたくさんありました」

「忘れてください」

「人魚は、一度聞いた歌を忘れません」

「そこだけ神話性能を発揮しないでください」

 健一はホワイトボードを取り出した。

 朝買ってきたものだ。

 小さめの卓上サイズ。

 こういう時、可視化は大事だ。仕事でもトレーニングでも、混乱したら紙に書く。

 人魚姫の社会化にも、たぶん有効なはずだった。

 ボードに大きく書く。

【外で言ってはいけない言葉】

 その下に、項目を並べる。

・ご主人様

・プレイ

・責める

・攻める

・初めて

・濡れる

・限界まで

・もっと激しく

・フロントディレイラー

 最後の項目を書いた時、健一はペンを持つ手を止めた。

「これは別に外でも内でも言わなくていいです」

「でも、健一が大切にしていました」

「していません」

「永久保存版」

「人の墓を掘り返すな」

 ルナはホワイトボードをじっと見つめた。

「では、何を言えばよいのですか」

「普通の言葉です。おはよう、ありがとう、すみません、おいしい、大丈夫、みたいな」

「おいしい」

「そうです」

「健一の鶏の肉は、おいしい」

 健一は少しだけ固まった。

 普通の言葉だった。

 意味も正しい。

 しかも、褒められている。

「……それは、いいです」

「いい」

「はい。とてもいいです」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 その笑顔は、反則だった。

 健一の中の防衛線が一部溶ける。

 言葉は壊滅しているが、表情はまっすぐだ。

 彼女は、本当に言葉を覚えようとしている。

 自分のために。

 健一と話すために。

 だからこそ、教材が悔やまれる。

 なぜ、せめてニュース番組を保存していなかったのか。

 いや、保存していても「政府は本日」とか言い出す人魚姫になっていたかもしれない。

 それはそれで困る。

 健一は次の項目を書いた。

【水に注意】

「次。水です」

 ルナの表情が少し強張った。

 健一はすぐに声を和らげる。

「怖がらせたいわけではありません。ただ、確認です。水に濡れると、脚が戻るんですよね」

 ルナは自分の膝に手を置いた。

「はい。たぶん」

「たぶん?」

「陸の脚は、まだ不安定です。水を浴びると、海を思い出します」

「詩的に言うと綺麗ですが、状況としてはかなり危険です」

「魚になります」

「その表現で合っていますが、外で言わないでください」

 健一はボードに書く。

・雨

・シャワー

・風呂

・水たまり

・飲み物

・噴水

・スプリンクラー

 書けば書くほど、東京が罠に見えてくる。

 ルナは真剣に読んでいた。

 まだ漢字は怪しいらしく、ところどころ唇で音を追っている。

 その仕草は可愛い。

 可愛いが、「スプリンクラー」を読もうとしている人魚姫という絵面がすでにおかしい。

「今日は外に出ません」

「外」

「はい。まずは部屋で練習します。言葉と、歩き方と、服の着方」

「服は覚えました」

「昨日、パーカーを前後逆に着ていました」

「前後も、人間社会の緩衝材ですか」

「物理的構造です」

 ルナはうなずいた。

 分かったのかどうかは怪しい。

 健一は買ってきた服を袋から出した。

 シンプルな部屋着、下着、靴下、サンダル。

 色は地味だ。

 店で最も無難なものを選んだ。

 健一が選んだ女性服に個性などあってたまるか、という判断だった。

 ルナは服を見て、目を輝かせた。

「これは、健一が私に」

「必要なので買いました」

「贈り物」

「生活必需品です」

「贈り物」

「……まあ、そうです」

 ルナは服を胸に抱いた。

「ありがとう、健一」

 今度は、完全に正しい言葉だった。

 健一は視線をそらした。

「どういたしまして」

 照れる必要はない。

 ただ服を買っただけだ。

 相手が人魚姫で、昨日自分を助けて、今日自分のHDDをすべて見た、という特殊条件を除けば、ただの買い物である。

 特殊条件が多すぎて、もはや別競技だが。

 その時、ルナが袋の中から別のものを取り出した。

 下着だった。

 健一は反射的に天井を見た。

「それは、あとで説明します」

「これは何ですか」

「あとで」

「防具?」

「ある意味では」

「急所を守るのですね」

「武具説明に寄せないでください」

 健一は袋ごとルナに渡し、寝室を指差した。

「着替えてください。分からなかったら、声で聞いてください。俺は入りません」

「なぜですか」

「人間社会の緩衝材です」

 ルナは納得したようにうなずいた。

 便利だな、緩衝材。

 ルナが寝室に入ると、健一は深く息を吐いた。

 まだ午前中だというのに、すでに一日分の精神力を使っている。

 トライアスロンなら補給タイミングを考えるところだが、これは何を摂取すれば回復するのか分からない。

 糖質か。

 倫理か。

 数分後、寝室の中から声がした。

「健一」

「はい」

「これは、首に通すものですか」

「どれですか」

「小さい防具です」

「違います」

 健一は壁に額をつけた。

 人魚姫に下着を説明する日が来るとは思わなかった。

 人生は予測不能だ。

 だから嫌いだった。

 さらに十分後、ルナは部屋着に着替えて出てきた。

 白い長袖のカットソーに、ゆったりしたパンツ。

 サイズは少し大きいが、悪くない。

 少なくとも、健一のパーカーよりは人間社会に近づいている。

 髪はまだ少し乱れているが、それも含めて妙に似合っていた。

 ルナはくるりと回った。

「どうですか」

「普通に見えます」

「普通」

「褒めています」

「嬉しいです」

 ルナは笑った。

 健一は小さくうなずいた。

 よし。

 一歩前進だ。

 その瞬間、インターホンが鳴った。

 健一の身体が固まった。

 画面を見る。

 宅配業者だった。

 朝、注文していた追加のタオルと防水マットだ。

 受け取るだけなら問題ない。

 ルナを寝室に入れておけばいい。

「ルナさん、少し待っていてください。人が来ました」

「人」

「はい。外の人です。あなたは出ないでください」

 ルナはこくりとうなずいた。

 健一は玄関へ向かった。

 ドアチェーンをかけたまま少し開け、荷物を受け取る。

 サインをして、無難に済ませる。

 よし、問題ない。

 世界はまだ崩れていない。

「ありがとうございました」

 健一がドアを閉めようとした、その背後から声がした。

「健一、ご主人様。私は隠れていた方がよいのですか?」

 宅配業者の手が止まった。

 健一の手も止まった。

 廊下に、重たい沈黙が落ちる。

 宅配業者は、健一の顔を見た。

 健一は、宅配業者の顔を見た。

 目と目の間に、説明不可能な荷物が置かれた。

「……妹です」

 健一は言った。

 宅配業者は、何も聞かなかったことにする顔をした。

 社会人として、非常に優秀だった。

「お荷物、こちらです」

「ありがとうございます」

 ドアを閉めた。

 鍵をかけた。

 チェーンをかけた。

 健一はゆっくり振り返った。

 ルナは不安そうに立っていた。

「駄目でしたか」

「駄目です」

「ご主人様が」

「そこです」

「健一きゅん?」

「もっと駄目です」

「部屋の主?」

「遠ざかっています」

 ルナはしゅんとした。

 その顔を見て、健一は怒りを削がれた。

 彼女は悪意で言っているわけではない。

 むしろ、覚えた言葉を使おうとしているだけだ。

 最悪の教材から拾っただけで。

 健一はホワイトボードを持ってきて、赤いペンで大きく書いた。

【外では「健一」だけ】

 ルナはそれを見て、真剣にうなずいた。

「健一」

「はい」

「外では、健一」

「そうです」

「中では、ご主人様?」

「中でも健一」

「厳しい」

「社会はもっと厳しいです」

 ルナは少し考えたあと、小さく笑った。

「では、練習します」

「何を」

「健一」

 彼女は、まっすぐ健一を見る。

「健一」

「……はい」

「健一」

「はい」

「健一」

「もう大丈夫です」

「健一」

「少し恥ずかしくなってきました」

 ルナは嬉しそうに笑って、もう一度言った。

「健一」

 その声は、HDDのどのフォルダにも入っていない音だった。

 健一は、しばらく返事を忘れた。

 言葉はまだ危ない。

 社会的にもかなり危ない。

 だが、少なくとも彼女は、健一の名前を覚えた。

 それは、たぶん悪くない進歩だった。

 そう思った直後、ルナが真面目な顔で言った。

「では次は、私を限界まで追い込む練習ですか」

「全部台無しにしないでください」

 健一はホワイトボードに、新しい項目を書き足した。

【限界まで、禁止】

 赤い文字が、やけに虚しく光っていた。


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