第3話 絶対に開けるなと言ったフォルダほど、開かれる
翌朝、佐藤健一は、床で目を覚ました。
腰が痛い。
首も痛い。
睡眠スコアは確認するまでもなく最低だろう。スマートウォッチは、健一の浅い眠りを遠慮なく記録しているはずだった。
数字は嘘をつかない。
たまに人の心を折るだけだ。
寝室のベッドでは、ルナが掛け布団を抱きしめて眠っていた。
昨日より、顔色は少しよくなっている。濡れていた髪も乾き、健一のパーカーの中で小さく丸まっている姿は、海の王国の姫というより、拾ってきた大型の迷子だった。
いや、迷子にしては美しすぎる。
顔立ちは整いすぎていて、こちらの常識が追いつかない。眠っているだけで、部屋の平均照度が上がる。
照明器具としては過剰性能だった。
健一は静かに立ち上がった。
今日は平日だ。
会社がある。
だが、海から来た人魚姫を部屋に残して出社するという選択肢は、社会人として正しいのか、人類として間違っているのか、判断がつかない。
有給を取るか。
スマホを手に取り、カレンダーを開く。
午前中に定例会議。午後にレビュー。
どちらも、健一がいなくても地球は回る。多少の軋みは出るが、地球規模では誤差だ。
健一は会社のチャットに短く送った。
〈体調不良のため、本日午前休をいただきます。午後は在宅で入ります〉
体調不良。
嘘ではない。
精神的には、かなり不良だった。
リビングへ出ると、昨日の痕跡がそこにあった。
玄関の水は拭いた。
タオルは洗濯機。
ソファには健一が寝た跡。
机の上には、急いで作った買い物メモが置いてある。
【買うもの】
・女性用の服
・サンダル
・下着
・筆談用ノート
・ホワイトボード
・ドライシャンプー
・髪をとかすブラシ
・水を弾く大きめの上着
リストだけ見ると、何かとんでもない同棲生活を始めた男に見える。
実態はもっととんでもないので、まだリストの方がましだった。
健一は朝食を用意した。
鶏胸肉。
卵。
ヨーグルト。
バナナ。
昨日よりは少し人間らしい。
ルナが起きてきた時、せめて驚かせないように皿を二つ並べる。箸は難しいだろうから、フォークを置いた。
しばらくして、寝室のドアが少しだけ開いた。
ルナが顔を出す。
髪は寝癖でふわりと広がり、パーカーの袖から指先だけが出ている。まだ声はない。
だが、目が合うと、彼女はほっとしたように笑った。
健一は胸の奥を不意に押された。
昨日まで存在しなかったものが、朝の部屋に当たり前のようにいる。
それは恐怖に近い。
けれど、悪いものではなかった。
「おはようございます」
健一が言うと、ルナは口を開いた。
お、は、よ、う。
声は出ない。
唇だけが真似をする。
「惜しいです。いや、発音は見た感じ合っています。音がないだけで」
何を褒めているのか、自分でも分からなかった。
ルナはテーブルの上の朝食を見ると、目を輝かせた。
昨日の鶏胸肉が相当うれしかったらしい。
彼女は椅子に座り、フォークを手に取った。
持ち方が完全に槍だった。
「刺し殺す道具ではありません」
健一が手本を見せる。
ルナは真剣に観察し、ぎこちなく真似た。
鶏胸肉を口に入れる。
頬がゆるむ。
卵を食べる。
さらにゆるむ。
ヨーグルトを一口食べた瞬間だけ、酸味に驚いて目を丸くした。
そのあと、なぜかもう一口いった。
気に入ったのか、戦っているのか分からない。
朝食後、健一はスマホのメモアプリを開き、簡単な絵を描いた。
水滴の絵。
それに大きくバツ。
ルナは即座にうなずいた。
次に、ドアの絵。
それにもバツ。
ルナは少し考え、うなずく。
「外に出ない。水に触らない。俺が戻るまで待つ。分かりますか」
ルナは、分かる、と言いたげに胸に手を当てた。
健一はさらに、机の引き出しを指差した。
昨日、外付けHDDをしまった引き出しだ。
「ここは触らないでください」
ルナは引き出しを見る。
次に、健一を見る。
「絶対に」
健一は、両腕で大きくバツを作った。
ルナも真似して、両腕でバツを作った。
少し嬉しそうだった。
ゲームだと思っている可能性がある。
「違います。これは遊びではありません。人間社会には、触れてはいけないものがあります。たとえば、他人のスマホ、財布、通帳、そして外付けHDDです。特に最後は、魂の墓場です」
伝わっていない。
ルナは真剣な顔で聞いているが、「魂の墓場」という概念だけが、無駄に神話っぽく届いた気がする。
よくない。
人魚姫に神話っぽい言い方をすると、むしろ興味を持たれる。
健一は言い直した。
「ここ、駄目」
ルナはこくこくとうなずいた。
健一は不安だった。
ものすごく不安だった。
だが、午前中の買い物はどうしても必要だ。服も、靴も、筆談用の道具もないままでは、何も進まない。
彼は財布とスマホを持った。
念のため、HDDを別の場所に隠すべきか迷った。
だが、動かせば逆に目立つ。
引き出しの奥に押し込んである。ケーブルも抜いてある。電源を入れなければただの箱だ。
ただの箱。
海の魔女が「彼の大切な箱」と言ったなら、真っ先に該当しそうな箱。
健一は嫌な予感を振り払った。
「一時間で戻ります。何かあったら、これ」
スマホの緊急連絡画面を見せようとして、そもそもルナは文字が読めないことを思い出した。
意味がない。
かわりに、彼は紙に自分の名前と電話番号を書き、テーブルに置いた。
これも意味が薄いが、何もしないよりは落ち着く。
玄関へ向かうと、ルナがついてきた。
「待っていてください」
ルナは不安そうに健一の袖を掴んだ。
その手を見て、健一は一瞬迷った。
連れていくべきか。
いや、無理だ。
彼女は靴もない。水に濡れたら危ない。服も健一のパーカーだ。
大型ショッピングモールにこの状態で連れていけば、別種の事件になる。
「すぐ戻ります」
健一は自分を指差し、ドアの外を指差し、また戻る動作をした。
ルナはしばらく見つめ、ようやく手を離した。
健一は玄関を出た。
ドアが閉まる直前、ルナは両腕で小さくバツを作った。
引き出しには触らない、という意味だろう。
健一は少しだけ安心した。
安心した自分を、あとで殴りたくなるとは、この時はまだ思っていなかった。
*
ルナは、ドアの前でしばらく立っていた。
健一が消えた扉。
その向こうから、足音が遠ざかっていく。
やがて、何も聞こえなくなる。
部屋は静かだった。
海の底の静けさとは違う。
海には、常に揺れがある。水の重み。遠くを泳ぐ魚の気配。砂が動く音。眠っている貝の沈黙。
だが、この部屋の静けさは乾いていた。
白い壁が息をしていない。
床は固く、空気はまっすぐで、匂いも少ない。
ルナはリビングを歩いた。
人間の足は、まだ痛い。
一歩ごとに、細い針を踏むようだった。
それでも、昨日よりは歩けた。
健一がくれた布の服は柔らかく、脚を包んでくれる。袖は長すぎたが、それも嫌ではない。
健一の匂いがした。
海ではない匂い。
汗と、洗剤と、少しだけ鉄のような匂い。
彼が走る人間だからだろうか。
ルナはテーブルに置かれた皿を見た。
空になった皿。
白い食べ物は酸っぱかった。
黄色いものは優しかった。
鳥の肉は、体の奥に熱をくれた。
陸には、不思議なものが多い。
光る板。
音の出ない小さな鏡。
冷たい箱。
熱くなる箱。
脚を動かさずに走るための変な台。
そして、健一。
海で死にかけていた人間。
冷たくなって沈んでいた人間。
ルナが抱き上げた時、彼の胸はまだ動いていた。
だから助けた。
そのあと、彼に会いたくなった。
会いたい、という気持ちは、海の中ではうまく説明できなかった。
姉たちは反対した。
人間はすぐ忘れる。
人間は陸のものだ。
人魚の恋は泡になる。
昔からそう決まっている。
それでも、ルナは来た。
声を失っても。
足が痛くても。
彼に、もう一度会いたかった。
だが、会えたのに、言葉がない。
ルナは喉に手を当てた。
声は戻らない。
胸の中には、言いたいことがある。
けれど、それを外へ出す道がない。
ありがとう。
会いたかった。
助けたかった。
あなたは、もう大丈夫ですか。
どれも、形にならない。
ルナは部屋を見回した。
健一は言っていた。
触ってはいけない場所。
引き出し。
そこには、人間社会で触れてはいけないものがあるらしい。
魂の墓場、と彼は言った。
魂。
墓場。
ルナは引き出しを見つめた。
海の魔女は言っていた。
――陸の言葉が欲しいなら、彼が大切にしている箱から学びなさい。
彼が大切にしている箱。
健一は、それを隠した。
触るなと言った。
つまり、とても大切なのだ。
ルナは胸の前で両腕を交差させた。
駄目。
約束。
しばらくそのまま立っていた。
五秒。
十秒。
二十秒。
人魚姫の好奇心は、たいていの場合、約束より泳ぎが速い。
ルナはそっと引き出しに近づいた。
開けるだけ。
見るだけ。
学ぶだけ。
健一に言葉を返すため。
彼に迷惑をかけないため。
彼の世界を知るため。
言い訳は、波のようにいくらでも寄せてきた。
ルナは引き出しを開けた。
中に、黒い箱があった。
小さく、四角い。
宝石箱ではない。
貝殻でもない。
だが、健一はこれを大切にしている。
ルナは両手でそっと持ち上げた。
冷たい。
生き物ではない。
けれど、何かが眠っているような気配がした。
近くに、細い紐があった。
健一が使っていた光る板につながりそうな形をしている。
ルナは机の上のノートパソコンを見た。
昨日、健一が触っていた。
指で叩くと、画面が光る道具。
少し苦戦したが、ルナは黒い箱とノートパソコンをつないだ。
画面が明るくなる。
ルナは息をのんだ。
文字が並んでいる。
読めない。
だが、いくつかの絵がある。
小さな四角。
音符のようなもの。
女の子の顔。
自転車。
星。
ハート。
ルナは指先で画面に触れた。
何も起きない。
昨日の小さな鏡とは違うらしい。
彼女は健一がやっていたように、下の板を動かした。
矢印が動く。
楽しい。
少し動かしすぎて、矢印が行方不明になった。
ルナは慌てて探した。
いた。
画面のすみで、こちらを見失った魚みたいに震えている。
やがて、ひとつのフォルダが開いた。
音が鳴った。
ルナはびくっと肩を跳ねさせる。
画面の中で、少女が笑っていた。
高い声。
明るい音楽。
見たことのない色彩。
海にはない色ばかりだった。
ピンク。
黄色。
人工の青。
女の子たちが制服を着て走り、歌い、手を伸ばしている。
言葉が流れ込んでくる。
おはよう。
大好き。
負けない。
約束。
ずっと一緒。
ルナは画面に近づいた。
これが、人間の言葉。
健一の大切な箱の中にある、健一の大切な言葉。
次の動画が再生された。
今度は、声が低かった。
耳元で囁くような声。
息が近い。
ルナは自分の耳に手を当てた。
画面の向こうの女の声は、やけに湿っていて、何度も何度も、妙な言葉を繰り返している。
ルナは真剣に聞いた。
これも、人間の言葉。
次のフォルダ。
自転車が変形したような少女たちが、レース場で叫んでいた。
ギア。
ケイデンス。
回して。
踏んで。
追い込んで。
限界。
もっと速く。
あなたのペダルで、私を連れていって。
ルナは目を輝かせた。
これも、人間の言葉。
次のフォルダ。
黒い服の少女が剣を掲げ、闇の契約がどうこう言っていた。
これも、人間の言葉。
次のフォルダ。
妙に甘い声の女が、ご主人様、と言っていた。
ルナは、はっとした。
健一は、佐藤健一。
この部屋の主。
ならば、彼はご主人様なのかもしれない。
ルナは学んだ。
猛烈な速度で、学んだ。
海の王国の末娘は、もともと歌と記憶に優れていた。人魚は、海流のわずかな変化を覚え、何年も前の月の満ち欠けを歌に残す。
耳で聞いたものを忘れない。
まして、海の魔女の契約は、失った言葉を再構築するためのものだった。
健一のHDDは、教材として最悪だった。
だが、量だけはあった。
*
健一が帰宅したのは、一時間二十分後だった。
予定より二十分遅れた。
女性用の服を買うのに時間がかかった。
サイズが分からない。
店員に相談するわけにもいかない。
用途も説明できない。
結果、健一は「妹が急に泊まりに来て」みたいな顔をしながら、無難そうな部屋着と下着とサンダルを買った。
妹はいない。
嘘の家族構成まで生まれた。
玄関の鍵を開ける。
「戻りました」
返事はない。
当然だ。
ルナは声が出ない。
健一は買い物袋を持ってリビングへ入った。
そこで止まった。
ノートパソコンが開いていた。
外付けHDDが接続されていた。
画面には、健一が中学時代に異常なほどハマっていた自転車擬人化アニメのオープニングが表示されていた。
健一の脳が、一瞬で冷えた。
買い物袋が、床に落ちる。
中から、彼女のために買った清楚な部屋着が転がった。
その横で、外付けHDDのアクセスランプが赤く点滅している。
まるで、犯行声明のように。
その直後、寝室のドアが開いた。
ルナが立っていた。
健一のパーカー姿のまま、髪を少し整え、妙に自信に満ちた顔でこちらを見ている。
昨日まで声のなかった彼女が、すっと息を吸った。
そして、澄み切った、あまりにも美しい声で言った。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
健一は動かなかった。
動けなかった。
人間は本当に危険な時、逃げるより先に固まる。
それを、健一はお台場の海と自宅リビングの二か所で学んだ。
ルナは両手を胸の前で組み、満面の笑みを浮かべる。
「今日も一日、よく頑張りましたね。さあ、汗と罪を洗い流して、私と一緒に限界まで追い込まれましょう」
健一は、ゆっくり買い物袋を拾い直そうとして、諦めた。
今拾うべきものは袋ではない。
尊厳だ。
「……何を」
声がかすれた。
「何を、見ましたか」
ルナは誇らしげに胸を張った。
「あなたの大切な箱から、愛の言葉を学びました」
健一は机に手をついた。
視界が揺れる。
お台場の海で溺れた時より、呼吸が苦しかった。
「それは愛の言葉じゃない」
「でも、たくさん入っていました」
「量の問題じゃない」
「何度も保存されていました」
「バックアップの話をするな」
「フォルダ名が、永久保存版でした」
「読むな!」
ルナは不思議そうに首を傾げた。
「ご主人様は、大切なものを隠すのですね」
「その呼び方をやめてください」
「では、主様?」
「悪化しました」
「健一ご主人様?」
「混ぜるな」
健一は崩れ落ちそうになった。
命の恩人だった。
海から来た人魚姫だった。
声を失っていたはずだった。
その彼女が今、健一の青春と黒歴史と性癖の墓場を教材にして、日本語を習得してしまった。
よりによって、最悪の教材で。
ルナは一歩近づいた。
足取りはまだぎこちない。
だが、表情だけは晴れやかだった。
「これで、あなたに伝えられます」
彼女は真っ直ぐ健一を見る。
その目は、昨日と同じように澄んでいた。
言葉だけが、壊滅的に間違っていた。
「私は、あなたのフロントディレイラーになりたいのです」
健一は天井を見た。
神はいない。
いたとしても、かなり悪趣味だ。
「……どこから説明すればいいんだ」
ルナは微笑んだ。
「優しく教えてください。私は、初めてなので」
「その言い方を、まずやめろ」
健一の部屋に、朝よりも深い沈黙が落ちた。
外付けHDDのアクセスランプだけが、赤く点滅していた。
命の恩人を部屋に入れた翌朝。
健一はようやく理解した。
東京で人魚姫を保護する時、本当に怖いのは水ではない。
Wi-Fiと、外付けHDDと、過去の自分である。




