第2話 幻覚だと思った人魚姫が、マンション前にいた
玄関の床に、水が落ちていた。
一滴。
二滴。
三滴。
ぽた、ぽた、ぽた。
佐藤健一は、その音を聞きながら、自分の生活がいま静かに侵食されていることを理解した。
水は廊下から持ち込まれたものではない。目の前の彼女の髪から落ちている。肩から、腕から、頼りない白い布の裾から、海の匂いを含んだ水がぽたぽたと落ち、きれいに掃除したはずの玄関タイルに小さな水溜まりを作っていた。
目の前の女は、三日前、お台場の海で健一を救った人魚だった。
少なくとも、健一の脳はそう判断している。
判断するな、と理性は言っている。
低酸素状態の幻覚を、三日後の夜にマンションの玄関で再生しているだけかもしれない。
いや、そんなわけがない。
幻覚がインターホンを鳴らすな。
彼女は健一のシャツを掴んだまま、震えていた。寒さだけではない。両足が痛むのだろう。裸足の足裏は赤く、ところどころ擦れていた。
人間の足に慣れていない。
そう考えると、頭の奥で何かが嫌なほどきれいにつながった。
つまり。
この子は、海から来た。
足を手に入れて。
声を失って。
俺の部屋まで来た。
情報量が多い。
処理落ちしそうだ。
「……立てますか」
健一が尋ねると、彼女は顔を上げた。
深い海の色をした目が、こちらを見る。唇が動く。だが、声は出なかった。
喉の奥で、空気だけが小さく震える。
「あ……」
それは言葉ではなかった。
彼女は驚いたように、自分の喉に手を当てた。もう一度、何かを言おうとする。だが、やはり声は出ない。唇だけが形を作っては、何も生まれずに崩れていく。
その顔に、不安が広がった。
健一はまず、玄関のドアチェーンを確認した。
閉まっている。
廊下に人の気配はない。管理人も、隣人も、宅配業者もいない。
いまならまだ、社会的被害は局所的で済む。
局所的で済むとは何だ。
人魚を家に入れている時点で、人生はすでに広域災害だ。
「とりあえず、座ってください。いや、座るという概念は分かりますか」
彼女は、分からない、という顔をした。
健一は自分の言葉選びが間違っていることに気づいた。
人魚に「座ってください」は雑だった。
人類史の中でも、かなり雑な初期対応だと思う。
健一は廊下に置いてあった折りたたみ椅子を引き寄せ、自分で腰を下ろして見せた。
「こうです」
彼女はじっと見ていた。
それから、おそるおそる真似をする。
膝を曲げた瞬間、痛みが走ったのか、表情が歪んだ。
健一は反射的に手を伸ばした。
彼女の身体が傾き、健一の腕の中に収まる。
軽い。
だが、存在感は奇妙に重かった。
海そのものを抱えてしまったような、扱いを間違えれば世界の規則が一つ壊れるような感覚があった。
「すみません。いや、謝る相手が合っているのか分かりませんが」
彼女は首を傾げた。
その仕草だけは、びっくりするほど可愛い。
ただし状況は一ミリも可愛くない。
まず、服だ。
このままではまずい。
彼女がまとっている布は、服というより、何か儀式の残骸だった。肩も脚も見えすぎている。人魚姫としては幻想的かもしれないが、東京都の集合住宅においては通報案件である。
健一はクローゼットを開けた。
女性用の服などない。
あるのはスポーツウェア、会社用のシャツ、ランニング用の防寒ジャケット、レースTシャツ、タイツ。
人生の選択肢がそのまま布になったようなラインナップだった。
「これを着てください」
健一は、大きめのパーカーとスウェットパンツを差し出した。
彼女はそれを両手で受け取り、布地を不思議そうに見つめる。
それから、頬をすり寄せた。
素材確認の方法が海洋生物寄りだった。
「服です。服。人間は、基本的にこれを着ます」
彼女は健一を見た。
次に、自分の身体を見た。
それから、パーカーの首の穴に片腕を突っ込んだ。
「違います」
健一は即座に止めた。
危なかった。
人魚姫とパーカーの初戦は、パーカー側の圧勝で終わるところだった。
*
数分後、健一はリビングの外で壁を見つめていた。
彼女に服を着せるわけにはいかない。
だが、彼女一人に任せると、おそらくパーカーとの戦いが永遠に終わらない。
結果として、健一はドア越しに手順を説明するという、人生でも上位に入る奇妙なタスクを実行することになった。
「頭を、丸い穴から出してください。はい。腕は左右の筒です。違います、それはフードです。そこに腕は入りません」
中から布の擦れる音がした。
少しして、小さな物音。
たぶん転んだ。
「大丈夫ですか」
返事はない。
そもそも声が出ない。
健一は額に手を当てた。
「一回だけ開けます。必要最低限しか見ません」
自分で言って、ひどく怪しい台詞だと思った。
ドアを少し開ける。
彼女はパーカーをなんとか着ていた。
前後は逆だった。
フードが胸側に来ている。
スウェットパンツは、片脚に両足を入れかけていた。
健一は視線を天井と床だけに固定しながら、衣類の構造を説明した。
「服というのはですね、基本的に、穴の数と身体の突起を対応させるものです」
言ってから気づいた。
説明が最悪だ。
しかし彼女は真剣に聞いていた。
申し訳なさがすごい。
さらに十分後。
ようやく彼女は、健一のパーカーとスウェットを身につけて、ソファに座っていた。
袖は長すぎて手が隠れ、ズボンの裾も余っている。
だが、少なくとも通報危険度は下がった。
東京では、それだけで大きな進歩だった。
彼女は袖口から指を少しだけ出し、部屋の中を見回している。
白い壁。机。モニター。ローラー台。洗濯物。プロテインの袋。補給食の箱。
観葉植物はない。
無駄なものを置かない生活のはずだった。
その生活の中央に、海から来た女が座っている。
無駄どころか、世界観が違う。
健一はスマホを取り出した。
メモアプリを開き、文字を打つ。
〈あなたは、三日前に俺を助けた人ですか〉
彼女に画面を見せる。
彼女は目を細めた。
文字が読めないらしい。
「日本語、読めない……ですよね」
健一は次に、翻訳アプリを開こうとして止まった。
何語に翻訳すればいい。
人魚語という選択肢はない。
アプリ開発者も、そこまでは想定していない。いや、最近ならベータ版にあっても驚かないが、少なくとも健一のスマホにはない。
彼女は健一のスマホを興味深そうに覗き込んだ。
画面に映った自分の顔に気づき、びくっと肩を跳ねさせる。
「鏡です。いや、鏡ではないですが、だいたい鏡です」
彼女はスマホを両手で包むように持ち、自分の顔を見つめた。
濡れた髪。白い頬。怯えた目。
少しして、彼女は画面の中の自分に向かって、こつんと額をぶつけた。
「それは触れません」
健一はスマホを取り返した。
意思疎通がほぼ不可能だった。
だが、彼女が自分を頼ってここへ来たことだけは分かる。
三日前、健一は海で死にかけた。
彼女はそれを助けた。
そして今、彼女の方が助けを必要としている。
これを追い返す選択肢はない。
道徳以前に、借りが大きすぎる。
「名前。名前はありますか」
健一は自分を指差す。
「佐藤。健一」
ゆっくり言う。
彼女は真剣に聞いていた。
「さ、とう。けん、いち」
彼女の唇が動く。
声は出ないが、形だけは真似している。
その仕草に、健一の胸の奥が少しだけ変な動きをした。
自分の名前を呼ぼうとしている。
音はない。
それでも、なぜかちゃんと届いた気がした。
次に、健一は彼女を指差した。
「あなたは?」
彼女は少し考えた。
自分の胸に手を当てる。
唇が動く。
る。
な。
そう見えた。
「ルナ?」
健一が言うと、彼女の表情がぱっと明るくなった。
ルナ。
月。
海から来た女にしては、できすぎた名前だった。
だが、いまの健一には、それを疑う余力がない。
「分かりました。ルナさん」
彼女――ルナは、さん、の部分に首を傾げた。
「敬称です。人間社会の緩衝材です。大事です」
伝わっていない。
ただ、なぜかルナは真面目にうなずいた。
緩衝材だけ覚えられても困る。
その時、ルナの腹が鳴った。
かなり素直な音だった。
ぐう、ではない。
きゅるる、でもない。
もっと、腹部が正式に空腹届を提出したような音だった。
ルナは驚いて、自分の腹を押さえた。
健一も少し驚いた。
人魚も腹が鳴るのか。
いや、鳴るだろう。
生物である以上、エネルギー収支は存在する。魚部分が消えているなら、なおさら消費は大きいはずだ。
「食べますか」
健一は冷蔵庫を開けた。
鶏胸肉。
ゆで卵。
ブロッコリー。
無糖ヨーグルト。
プロテイン。
補給ジェル。
夢がない。
人魚姫をもてなすには、あまりにも夢がない。
竜宮城なら鯛や平目が舞うのかもしれないが、健一の冷蔵庫では鶏胸肉が静かに冷えているだけだった。
健一は温めた鶏胸肉と、ゆで卵と、少量の塩を皿に載せた。
ルナはそれを見つめる。
匂いを嗅ぐ。
恐る恐る指でつつく。
「食べ物です」
健一は自分で一切れ食べて見せた。
ルナは目を丸くする。
それから、同じように鶏胸肉を口に入れた。
次の瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。
「え、まずかったですか」
ルナは首を横に振った。
両手で頬を押さえ、もう一切れ食べる。ゆっくり噛む。飲み込む。目を閉じる。
どうやら、感動しているらしい。
健一は複雑な気分になった。
鶏胸肉でここまで感動されると、こちらの食生活が急に神話になる。
いや、神話にしてはタンパク質が多すぎる。
ルナは皿の上をきれいに空にした。
ゆで卵も食べた。
ブロッコリーは最初だけ疑っていたが、最終的には食べた。
塩を少し舐めて、懐かしそうな顔をした。
海の生き物だからだろうか。
それとも、単純に塩分が足りていなかったのだろうか。
健一は一応、スマホのメモに追加した。
【ルナ】
・名前はルナ
・声が出ない
・日本語は読めない
・鶏胸肉で泣く
・塩を懐かしがる
書いてから思った。
これ、他人に見られたら完全に病院案件だ。
*
食後、健一は風呂の問題に直面した。
彼女は濡れている。
髪も服も、玄関も床も濡れている。
普通ならシャワーを浴びるべきだ。
だが、彼女は水に触れて大丈夫なのか。
いや、そもそも人魚なのに水が駄目とはどういうことだ。
考えれば考えるほど分からない。
健一は洗面所の蛇口を少しひねった。
水が流れる。
その瞬間、ルナの身体が、びくりと強張った。
目に、はっきりと恐怖が浮かぶ。
その反応だけで十分だった。
「水、駄目なんですね」
ルナは強くうなずいた。
自分の脚を押さえる。
健一は膝をついた。
ズボンの裾を少しだけ上げてもいいか、視線で確認する。
ルナは迷ったあと、小さくうなずいた。
健一は、できるだけ慎重に裾を上げた。
足首のあたりに、薄い鱗のようなものが浮かんでいた。
銀青の、小さな光。
健一は言葉を失った。
現実だった。
証拠というには美しすぎる。
だが、逃げられないほど明確だった。
水に濡れれば、彼女は人魚に戻る。
少なくとも、そういう変化が起きる。
健一はそっと裾を戻した。
「分かりました。水は避けます。できるだけ」
できるだけ。
言った本人が頼りないと思った。
東京は水だらけだ。
雨が降る。
飲み物がこぼれる。
清掃員が床を拭く。
子どもが水鉄砲を撃つ。
マンションのスプリンクラーだってある。
文明は便利だが、人魚姫に対しては無神経だった。
健一はメモに追記する。
【絶対注意】
・水に濡らさない
・雨、風呂、シャワー、水道、水たまり、飲み物、スプリンクラー
・たぶん全部アウト
書き終えたところで、ルナがソファにもたれかかった。
まぶたが落ちていく。
歩いてきた距離は分からない。
だが、人間の足に慣れないまま、ここまで来たのだ。
限界だったのだろう。
「寝る場所……」
健一は部屋を見回した。
ベッドは一つ。
ソファは一つ。
床は硬い。
迷う余地はなかった。
「ベッドを使ってください。俺はソファで寝ます」
ルナは意味が分からないまま、健一に導かれてベッドへ向かった。
布団に触れると、また驚いた。
沈む感覚が不思議らしい。
彼女はおそるおそる横になり、掛け布団を抱きしめた。
その瞬間、表情がふにゃっと緩む。
反則だった。
海から来た美少女が、初めての布団に敗北している。
健一が部屋を出ようとすると、袖を掴まれた。
ルナが、こちらを見ていた。
一人にしないでほしい。
声はない。
だが、そう言っていることは分かった。
健一は少し考え、ベッドの横の床に座った。
「寝るまで、ここにいます」
ルナは安心したように目を閉じた。
しばらくして、寝息が聞こえた。
健一は壁にもたれ、天井を見た。
人魚がいる。
自分の部屋に。
ベッドで寝ている。
水に濡れると魚に戻る。
声は出ない。
名前はルナ。
鶏胸肉で泣く。
情報量が多すぎた。
明日の仕事はどうする。
服はどうする。
食事はどうする。
戸籍は。
病院は。
警察は。
海の王国は住民票を発行するのか。
そもそも、この状況を誰に相談すればいい。
山下か。
いや、山下は絶対に茶化す。
陽子か。
もっと駄目だ。
陽子は健一の部屋に女がいる時点で、別の問題として処理する。
健一は静かに立ち上がり、リビングへ戻った。
机の上を片づける。
濡れたタオルを洗濯機に入れる。
玄関の水を拭く。
ルナのために、明日買うものをスマホにメモする。
【明日買うもの】
・女性用の服
・サンダル
・下着
・筆談用のノート
・ホワイトボード
・ドライシャンプー
・髪をとかすブラシ
・水を避けられる上着
最後で手が止まった。
水を避けられる上着。
いや、レインコートは水を弾くが、着るまでが危ない。
そもそも、雨の日に外へ出していい存在ではない。
人魚姫、思った以上に運用が難しい。
考えることが多すぎる。
健一は机の奥に手を伸ばした。
そこには外付けHDDがあった。
黒い小さな箱。
人には絶対に見せられない、健一の過去の圧縮ファイル。
彼はそれを見つめた。
なぜか、胸騒ぎがした。
もちろん、ただの記憶媒体だ。
電源を入れなければ何も起きない。
中には古い動画や音声や、若い頃の自分が熱心に集めた、いま見返すには精神的筋力を必要とするデータが入っているだけだ。
危険物ではない。
爆発もしない。
たぶん。
健一はHDDを引き出しの奥に押し込んだ。
そして、引き出しを閉めた。
「これは、絶対に触らせない」
小声で言った。
寝室の方から、ルナの寝息が聞こえる。
健一はもう一度、引き出しを見た。
黒い箱は、静かだった。
ただ静かに、そこにある。
まるで物語上、とても重要なアイテムです、とでも言いたげに。
フラグという言葉が、脳裏をよぎった。
健一は即座に打ち消した。
そんな非科学的なものは存在しない。
存在しないはずだった。
少なくとも、その時の健一は本気でそう思っていた。
翌朝、その判断が甘すぎたと知ることになる。




