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第1話 お台場で俺を助けたのは、人魚姫だった

 佐藤健一は、溺れる予定など組んでいなかった。

 ましてや、その三日後、命の恩人である人魚姫を自宅マンションに連れ込むことになるなど、人生管理アプリのどこにも入力していなかった。

 いや、入力欄があったとしても困る。

【予定】二十二時。人魚姫、来訪。

 そんな通知がスマホに出たら、俺は迷わず再起動する。端末ではなく、人生を。

 その朝、健一はお台場の海にいた。

 トライアスロン大会、午前七時二十分スタート。スイム一・五キロ。想定タイム二十八分台。心拍数は序盤で上げすぎず、二つ目のブイを回ったあたりから巡航に入る。

 補給のタイミングも、バイクへのトランジションで飲むジェルの種類も、前日の睡眠時間も、すべてアプリに入力済みだった。体重、安静時心拍、天候、潮の流れ。管理できるものは管理した。管理できないものについては、管理できないという事実だけを把握した。

 それで十分なはずだった。

 お台場の海は、朝の光を薄く弾いていた。遠くにはレインボーブリッジ。ビルのガラスはまだ眠そうで、観覧車の跡地の空だけが妙に広い。

 海面は、正直そこまできれいではない。

 だが、都心で泳げるだけありがたい。そう割り切ることにした。

 割り切りは得意だった。

 二十七歳。都内のIT企業勤務。趣味はトライアスロン。

 平日は仕事前にローラー台、退勤後にラン。週末はロングライドかオープンウォータースイム。食事は鶏胸肉、玄米、卵、ブロッコリー。酒は付き合いで一杯だけ。

 恋愛は、効率が悪いので後回し。

 後回しにしているうちに、だいぶ遠くへ行ってしまった。

「佐藤さん、今日こそ三時間切りですか」

 隣でウェットスーツの首元を直していた男が声をかけてきた。

 大会で何度か顔を合わせた相手だ。名前は覚えている。たしか山下。職業は覚えていない。

 健一にとって重要なのは、彼のバイクの巡航速度が自分より少し遅いことだった。

「コンディション次第です」

「出た。いつものやつ」

「事実なので」

「そういうところですよ、佐藤さんがモテないの」

「スタート前に不要な情報を入力しないでください」

 山下は笑った。

 健一は笑わなかった。笑うとゴーグルの位置がずれる。小さな不快は、大きなロスになる。

「いやー、でも佐藤さんって恋愛も管理表とか作りそうですよね」

「作りません」

「ほんとですか?」

「作る相手がいません」

「急に重い」

「事実なので」

「そういうところですよ」

 なぜ二回言う。

 スタート地点に選手たちが集まっていく。黒いウェットスーツの群れが、陸に上がったアザラシのように足踏みしていた。誰かが肩を回し、誰かが深呼吸し、誰かがやたら陽気に冗談を言っている。

 健一は腕時計の画面を確認した。

 心拍は少し高い。

 問題ない。レース前としては正常範囲。

 号砲が鳴った。

 海へ入る。

 最初の数十メートルは、いつも混む。腕が当たる。足が当たる。泡が視界を白くする。ゴーグルの内側で息がこもり、水の中に無数の手足がある。

 健一はそれを嫌っていない。

 むしろ、そういうものだと分かっているものは怖くない。

 右で呼吸。三掻き。左で呼吸。六掻き。前方確認。ブイは予定よりわずかに左。修正。ペースを上げすぎるな。心拍を見たいが、いま時計を見る必要はない。身体感覚で分かる。まだ余裕がある。

 そのはずだった。

 最初のブイを回ったあたりで、後方から来た選手の肘が、健一のこめかみに当たった。

 痛みは鋭かった。

 だが、それだけならよくある。健一は一瞬だけ水を飲み、顔を上げた。呼吸を整える。大丈夫だ。問題ない。二掻きで戻せる。

 その時、別の選手の脚が胸に入った。

 肺の奥で、空気が潰れた。

 海が、少しだけ重くなった。

 健一は立て直そうとした。

 フォームを崩すな。焦るな。仰向けになれば浮く。救助艇を呼ぶ必要はない。ここでロスしても、バイクで取り戻せる。ランで削ればいい。計算はまだ成立する。

 だが、計算は水を吸わない。

 もう一度、波が顔にかぶさった。

 息を吸うつもりで、水を吸った。

 喉が焼ける。身体が勝手に暴れる。腕が空を掻き、足が水を蹴る。前が分からない。上が分からない。近くにいた選手の水音が、急に遠くなった。

 おかしい。

 こんな予定ではなかった。

 視界の端に、橋が見えた気がした。だがそれは水面の揺れで砕け、ビルの輪郭も、ブイの色も、選手たちの黒い影も、全部混ざった。

 耳の奥で心臓が鳴っている。

 速い。速すぎる。これはゾーン二ではない。インターバルでもない。

 危険域だ。

 助けを呼ぶべきだ。

 そう判断した時には、声が出なかった。

 水が入る。喉が閉じる。腕が重い。ウェットスーツは浮力を持っているはずなのに、身体は沈んでいく。

 お台場の海は、思ったより深かった。

 あるいは、健一の中の余裕が、思ったより浅かった。

 光が遠のいた。

 水中は静かだった。さっきまであれほど騒がしかったのに、ある深さを越えると、音が布の向こう側へ行ってしまう。泡だけが上へ逃げていく。

 健一の肺から出た、最後の空気だった。

 馬鹿だな、と健一は思った。

 部屋のエアコン、切っただろうか。

 なぜそんなことを考えたのか、自分でも分からなかった。もっと他に考えることがあるはずだった。仕事のこと。親のこと。未払いのカード明細。

 外付けHDDの中身。

 いや、それは死ぬ前に思い出すべきではない。

 絶対に違う。

 暗くなる。

 その時、青い光が見えた。

 最初は、救助艇のライトかと思った。あるいは、誰かの腕時計が水中で反射したのかもしれない。

 だが、光は近づいてきた。

 水の奥から、揺れながら、まっすぐに。

 人の形だった。

 長い髪が、水の中で夜の海藻のように広がっていた。肌は月の裏側みたいに白く、肩から腕にかけて淡く光っている。顔は若い。少女と言ってもいい。

 だが、人間の少女ではなかった。

 腰から下に、脚がない。

 銀青の鱗があった。

 魚の尾が、水を一度だけ打った。

 健一は、低酸素状態における幻覚の可能性を考えた。

 人間の脳は、極限状態で非現実的な映像を見ることがある。だからこれは幻覚だ。合理的にはそうだ。

 人魚など存在しない。

 少なくとも、東京都港湾局の管理下に本物の人魚がいるという報告を、健一は見たことがない。

 だが、幻覚にしては、彼女の手は冷たかった。

 その手が、健一の頬に触れた。

 彼女は何かを言った。

 水の中だから、言葉にはならない。唇だけが動いた。健一には読めなかった。

 けれど不思議と、怖くなかった。

 彼女の目は、深い海の色をしていた。

 次の瞬間、健一の身体が引き上げられた。

 細い腕なのに、信じられない力だった。水が割れる。泡が流れる。耳の奥に音が戻る。胸が痛む。肺が空気を求めて暴れた。

 光が近づく。

 海面を破った。

 健一は咳き込んだ。肺から水が出る。空気が痛い。世界が白い。誰かの叫び声が聞こえる。ホイッスル。救助スタッフの声。遠くで観客がざわめく音。

 砂の感触が背中にあった。

 お台場の人工の砂浜だった。

 健一は横向きになり、激しく咳をした。胃の中までひっくり返りそうだった。喉が焼け、目が痛み、手足が冷えている。

 誰かが駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか!」

 大丈夫ではない。

 だが、死んではいない。

 健一は顔を上げた。

 波打ち際に、彼女がいた。

 上半身だけを海から出し、こちらを見ていた。濡れた髪が頬に張りついている。朝の光の中で、彼女の鱗は青とも銀ともつかない色に光った。

 周囲の誰も気づいていない。

 あるいは、気づく前に彼女の姿が波に隠れてしまうのかもしれない。

 彼女は健一を見て、少しだけ微笑んだ。

 その笑顔は、神秘的だった。

 とても神秘的だった。

 ただ、次の瞬間、尾びれが浅瀬の何かにぶつかったらしく、彼女は小さく顔をしかめた。

 ……人魚も、尾びれをぶつけるのか。

 健一がそんな馬鹿なことを考えていると、彼女の唇がもう一度動いた。

 今度も声は聞こえなかった。

 ありがとう、と言うべきなのは健一の方だった。だが喉が潰れて、音にならない。腕を伸ばそうとしたが、力が入らなかった。

 彼女は尾をひるがえした。

 波が一枚、白く崩れた。

 次の瞬間には、もういなかった。

 救護スタッフが健一の肩にタオルをかけた。

「聞こえますか。名前、言えますか」

「……佐藤、健一」

「分かりますか、今どこにいますか」

「お台場」

「何がありましたか」

 健一は答えようとした。

 人魚に助けられました。

 口に出す直前で、理性が全力でブレーキを踏んだ。

「……溺れました」

「そうですね。無理に動かないでください」

 スタッフはうなずいた。

 健一も小さくうなずいた。

 正しい回答だった。社会的にも、医学的にも、たぶんそれが正しい。

 救護テントに運ばれ、体温を測られ、血圧を測られ、医師らしき人物に簡単な質問をされた。低体温と軽いパニック、海水を飲んだことによる咳。病院に行くかと聞かれたが、健一は状態を確認してから断った。

 無理はしない。

 だが救急搬送が必要なほどではない。

 大会はリタイアになった。

 その文字が記録に残ることだけが、妙に重かった。

 完走率。過去タイム。練習量。積み上げたもの。すべてが一度、途中で切れた。

 健一は救護テントの椅子に座り、濡れたウェットスーツのまま、遠くの海を見た。

 あれは何だったのか。

 低酸素状態の幻覚。脳の防衛反応。光の屈折。救助スタッフの姿を誤認した可能性。説明はいくつも作れる。

 作れるものは、事実とは限らない。

 だが、作れないものを事実と呼ぶのはもっと危険だ。

 健一はそう考えた。

 そう考えたことにした。

     *

 帰宅後、健一はいつも通り記録をつけた。

 リタイア。

 原因、スイム中の接触およびパニック。

 対策、オープンウォーターでの接触練習、呼吸リカバリー、混雑時のライン取りの見直し。

 感情は書かなかった。

 書く欄がなかった。

 シャワーを浴び、洗濯機を回し、補給用に用意していた鶏胸肉を食べた。味はしなかった。

 スマホには山下や陽子から心配のメッセージが来ていた。

 山下からは、

〈佐藤さん生きてます? 生きてたら返信ください。死んでたら既読だけでも〉

 陽子からは、

〈本当に大丈夫? 佐藤くん、“問題ありません”って言う時ほど問題あるから〉

 健一は短く返信した。

〈問題ありません。次に備えます〉

 送信してから、自分でも少し嫌になった。

 問題はあった。

 だが、それを書くと面倒になる。

 夜、ベッドに入ってからも、彼女の顔が頭から離れなかった。

 水の中の青い光。冷たい手。声にならなかった唇。銀青の鱗。浅瀬で尾びれをぶつけた時の、少しだけ情けない顔。

 すべてが妙に鮮明だった。

 幻覚なら、もう少し雑であってほしい。

 翌日も、その翌日も、健一は普通に出勤した。

 会社では誰にも人魚の話をしなかった。

 するわけがない。

 IT企業の会議室で「お台場の海に人魚がいました」と言えば、心配されるか、休職を勧められるか、Slackの裏チャンネルで伝説になる。

 三日目の夜、健一はローラー台を回した。

 軽くだ。まだ強度は上げない。身体は回復途中で、肺の奥には海水を飲んだ時の嫌な重さが少し残っている。

 画面には心拍数、ケイデンス、パワーが並んでいた。

 数字は嘘をつかない。

 少なくとも、数字は人魚を出してこない。

 脚は重かった。

 軽いギアに落とせばいい。そうすれば回転は戻る。呼吸も楽になる。分かっている。分かっているのに、健一は一段だけ重いまま踏んだ。

 苦しいなら、踏み方を変える。

 フォームを整える。

 呼吸を合わせる。

 もう少し耐える。

 そうやってきた。仕事でも、練習でも、たいていのことはそうしてきた。誰かに「軽くしろ」と言われることはない。言われる前に自分で数字を見て、自分で修正する。

 それで済むなら、誰にも迷惑はかからない。

 汗が額から落ちた。

 心拍数は安定していた。

 安定しているように見えた。

 だから問題ない、と健一は判断した。

 インターホンが鳴ったのは、午後十時を少し過ぎた頃だった。

 健一はペダルを止めた。

 こんな時間に来客の予定はない。宅配ならアプリに通知がある。管理会社からの連絡もない。

 モニターを見ると、エントランスではなく、部屋の前のカメラが映っていた。

 誰かが、直接玄関前に立っている。

 若い女だった。

 長い髪が濡れている。白いワンピースのような布をまとっているが、服と呼ぶには頼りない。足元は裸足だった。

 マンションの廊下なのに、彼女の周りだけ波打ち際のように見えた。

 健一は息を止めた。

 画面の中の彼女が、顔を上げる。

 深い海の色をした目。

 低酸素状態ではない。

 海の中でもない。

 救護テントでもない。

 彼女は、健一の部屋の前にいた。

 インターホン越しに、彼女の唇が動いた。

 けれど、音声は入らなかった。

 声が出ていないのだと、健一はなぜか分かった。

 彼女はもう一度、口を開いた。必死に何かを伝えようとしていた。だが喉は震えるだけで、言葉にならない。

 片手で壁にすがり、もう片方の手で胸元を押さえている。膝が震えていた。一歩歩くたびに痛むのだろう。裸足の足は赤くなっていた。

 健一は玄関へ向かった。

 鍵を開ける前に、一瞬だけ考えた。

 開けたら終わる。

 今まで数字で整理できていた生活に、整理不能なものが入ってくる。

 心拍数でも、タイムでも、アプリでも扱えない何かが。

 それでも、健一は鍵を回した。

 ドアを開ける。

 彼女がそこにいた。

 海の匂いがした。

 彼女は健一の顔を見た瞬間、泣きそうに表情を歪めた。

 それから、倒れ込むように彼の胸に飛び込んできた。

 身体は冷たかった。髪から水が落ち、玄関の床に小さな水溜まりを作る。

 健一は両手を浮かせたまま固まった。

 命の恩人だった。

 人魚だった。

 そして今、どう見ても、健一の部屋の前で行き倒れかけている。

 彼女は声にならない息で、何かを訴えた。

 健一は天井を見た。

 エアコンは切ってある。

 洗濯物は畳んでいない。

 冷蔵庫には鶏胸肉しかない。

 それから、机の奥には、絶対に他人に見られてはいけない外付けHDDがある。

 問題は山ほどあった。

 だが、最初に言うべきことは一つだった。

「……とりあえず、入ってください」

 彼女は意味が分からないまま、健一のシャツをぎゅっと掴んだ。

 その指先は、震えていた。

 健一は玄関の外を確認し、誰もいないことを見てから、静かにドアを閉めた。

 この時の彼は、まだ知らなかった。

 命の恩人を部屋に入れることよりも、そのあと彼女を一人で留守番させることの方が、はるかに危険だということを。

 そして、人魚姫に絶対に触らせてはいけないものランキング第一位が、東京の水道水ではなく、外付けHDDだったということも。


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