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第10話 瀬戸陽子は、佐藤健一の終わりを見た

 瀬戸陽子は、佐藤健一という男をそれなりに知っている。

 初めて会ったのは、三年前のトライアスロン練習会だった。

 その時の健一は、他の参加者が自己紹介をしている横で、腕時計の設定を確認していた。

 感じが悪い、というほどではない。

 無愛想ではあるが、礼儀はある。

 聞かれたことには答えるし、練習後の片づけも手伝う。

 ただ、会話の優先順位が低い。

 心拍数。

 ペース。

 ケイデンス。

 補給。

 フォーム。

 睡眠。

 疲労管理。

 そういうものには異様に真面目なくせに、人間関係になると途端に雑になる。

 飲み会に誘えば「明日ロングライドなので」と断る。

 褒めても「コンディションが良かっただけです」と返す。

 冗談を言っても、処理に二秒かかる。

 面倒な男だ。

 だが、嫌いではなかった。

 嘘をつかない。

 見栄を張らない。

 人の練習を馬鹿にしない。

 派手な言葉はないが、困っている人間には手を貸す。

 その不器用さを、陽子は少しだけ気に入っていた。

 だから、最近の噂はかなり気になっていた。

 駅前のカフェで、謎の美少女といた。

 雨の中、その子を抱えて爆走していた。

 練習場で、その子に「回すとき綺麗」と応援されていた。

 同居しているらしい。

 保護しているらしい。

 しかも、その子は佐藤さんのことを「ご主人様」と呼ぶらしい。

 最後の情報で、陽子はスマホを握りしめた。

 佐藤健一、終わったかもしれない。

 まさかと思った。

 いや、健一に限って、という気持ちはある。

 ただし、人は分からない。

 ストイックすぎる人間が、ある日突然、変な方向へ折れることはある。

 糖質制限の反動で深夜にホールケーキを食べる人間もいる。

 練習量を管理していた男が、心のどこかを管理し損ねていても不思議ではない。

 その朝、陽子は合同練習に向かう途中だった。

 場所は、川沿いのランニングコース。

 健一がよく使っている練習場でもある。

 もし噂が本当なら、そこに彼女がいる。

 そう思いながら駅前の通りを抜けようとした時、陽子は足を止めた。

 佐藤健一がいた。

 黒いランニングウェアではない。

 今日は練習前だから、軽いパーカーにパンツ姿だった。

 片手にスポーツショップの紙袋。

 もう片方の手で、誰かの袖を掴んでいる。

 いや、逆だった。

 掴まれているのは、健一の袖だった。

 隣に、少女がいた。

 青いヘアゴムで長い髪をまとめ、白いブラウスに淡い色のスカート。

 遠目にも分かるほど顔立ちが整っている。

 整っている、というより、光の当たり方がおかしい。

 駅前のスポーツショップの前に、急に別ジャンルのヒロインが配置されたようだった。

 噂は、盛られていなかった。

 陽子は反射的に建物の陰へ身を寄せた。

 何をしているのか、自分でも分からない。

 声をかければいい。

 健一とは練習仲間だ。

 別に隠れる必要はない。

 だが、足が止まった。

 その少女が、店先のミストシャワーを見ていた。

 夏場でもないのに、スポーツショップの入口には小さな加湿用ミストが出ている。

 店内の乾燥防止か、商品演出か、理由は分からない。

 細かい霧が白く漂っていた。

 少女の顔色が変わった。

 健一も、ほぼ同時に気づいた。

「ルナさん、こっちへ」

 声は低い。

 だが、明らかに焦っている。

 健一は少女をミストの届かない側へ移動させた。

 少女は素直に従ったが、目はまだ白い霧を見ている。

「健一」

 少女が言った。

「あの小さな雨は、私をほどきますか」

 陽子は、息を止めた。

 小さな雨。

 私をほどく。

 何だ、それは。

 健一は周囲を確認してから、小声で言った。

「ほどきません。いや、ほどくかもしれませんが、外で言わないでください」

「では、胸にしまいます」

「はい」

「小さな雨は、胸に」

「その言い方も少し危険です」

 通りかかった男性が、ちらりと二人を見た。

 健一は即座に営業用のような薄い笑顔を作った。

「すみません。日本語の比喩表現を勉強中で」

 苦しい。

 かなり苦しい。

 だが、健一は本気だった。

 少女は、店先のマネキンにかけられたランニングウェアを見上げる。

「これは、健一が苦しむ時の服ですか」

「練習用ウェアです」

「陽子も、こういう服ですか」

 自分の名前が出て、陽子は身体を固くした。

 健一も一瞬だけ止まった。

「瀬戸さんのことですか」

「はい。健一と一緒に苦しむ人」

「練習仲間です」

「練習仲間」

 少女はその言葉を、大切そうに繰り返した。

「私は、練習仲間になれますか」

「焦らなくていいです」

「でも、私はまだ歩く練習です」

「それで十分です」

 健一の声が、少しだけ柔らかくなった。

 陽子は、その声を聞いてしまった。

 健一が人にこういう声を出すのを、陽子はあまり知らない。

 練習で遅れた人に「大丈夫ですか」と声をかけることはある。

 だが、それとは違う。

 もっと近い。

 もっと、相手の足元を本気で見ている声だった。

 少女は店内へ入る前に、もう一度ミストを見た。

「健一」

「はい」

「私は、今日はほどけません」

「はい。ほどけさせません」

 陽子は、喉の奥が少し乾くのを感じた。

 これは何なのか。

 恋人か。

 同居人か。

 保護対象か。

 怪しい教室か。

 特殊なプレイか。

 健一が変な方向に行ったという噂を否定する材料を探していたはずなのに、街中の時点で証拠が増えている。

 陽子はスマホを握り直した。

 合同練習で、直接確かめるしかない。

     *

 練習場に着くと、山下が先に来ていた。

「陽子さん、おはようございます」

「おはよう。佐藤さんは?」

「もう来てますよ。あと、例の子もいます」

 山下がにやにやした。

 陽子は平静を装った。

「例の子って?」

「ルナさん。いや、すごいですよ。綺麗だし、言葉が独特だし、佐藤さんが完全に振り回されてます」

「へえ」

 自分の声が少し低かった。

 山下は気づいていない。

 こういうところは助かる。

「あ、ほら。あそこです」

 山下が指差した先に、健一がいた。

 今度は黒いランニングウェアだった。

 無駄のないフォーム。

 いつも通り、正確なピッチで走っている。

 陽子は見慣れた姿に少し安心した。

 少なくとも、競技者としての健一はまだ壊れていない。

 問題は、その近くに座っている少女だった。

 朝、駅前で見た少女。

 青いヘアゴムで長い髪をまとめ、レジャーシートの上にちょこんと座っている。

 足元にはタオル。

 隣には水筒らしきものはない。

 普通、練習場に来た人間は水分を持っている。

 だが、彼女の周囲には水気がない。

 意図的に避けているように見えた。

 陽子は、あのミストシャワーの前での顔を思い出した。

 怖がっていた。

 大袈裟ではなく、本当に。

 健一が一周して戻ってくる。

 少女はぱっと顔を上げた。

「ナイス健一。いいペースです」

 声が澄んでいた。

 言葉も、ぎりぎり普通だった。

 健一は小さくうなずいて、そのまま走り抜ける。

 陽子は山下を見た。

「普通じゃない」

「今のは普通です。前回はもっとすごかったです」

「すごいって何」

「佐藤さんは回すとき綺麗、とか」

 陽子は山下を見つめた。

「何を?」

「ペダルを」

「……でしょうね」

 でしょうね、とは言ったが、心は落ち着かなかった。

 健一が次の周回を終え、ようやく止まった。

 汗を拭き、腕時計を確認する。

 そこまではいつもの健一だ。

 だが、そのあと彼は少女の方へ歩いた。

 少女は立ち上がり、タオルを差し出した。

「健一、胸の太鼓が速いです」

 陽子は止まった。

 胸の太鼓。

 何。

 健一は周囲を確認してから、小声で言う。

「心拍です」

「心拍」

「外では心拍と言ってください」

「胸の太鼓は、禁止ですか」

「詩的すぎます」

「では、健一の心拍が速いです」

「それもあまり大声で言わないでください」

 少女は真面目にうなずいた。

 陽子は、こめかみを押さえた。

 街中で見た時点でもう普通ではなかったが、近くで見ると、さらに普通ではなかった。

 そして、健一が普通ではない。

 人間関係の優先順位が低かったはずの男が、彼女の一言ごとに周囲を確認し、言葉を直し、タオルを受け取り、足元を見ている。

 管理しているというより、守っている。

 健一がこちらに気づいた。

 わずかに表情が固まる。

 陽子は、その一瞬を見逃さなかった。

 やましいことがある顔だ。

 いや、健一は普段から表情が少ない。

 だが、今のは明らかに「まずい」と思った顔だった。

「瀬戸さん」

 健一が歩いてくる。

「おはよう」

「おはようございます」

「久しぶり。最近、練習会に顔出してなかったね」

「少し忙しくて」

「忙しい?」

「諸事情で」

 諸事情。

 陽子は、その言葉の後ろにいる少女を見た。

 少女も陽子を見ていた。

 目が合う。

 深い青のような、不思議な色の目だった。

 カラーコンタクトかと思ったが、何か違う。

 作り物にしては、奥行きがありすぎる。

 少女は健一の横に来て、丁寧に頭を下げた。

「こんにちは。私はルナです」

 声はきれいだった。

 発音も自然だった。

 ただ、間が少し独特だった。

「瀬戸陽子です。佐藤さんの練習仲間」

「練習仲間」

 ルナはその言葉を大切そうに繰り返した。

「陽子は、健一と苦しむ人ですか」

「言い方」

 健一が即座に入った。

 陽子は健一を見た。

「苦しむ人?」

「練習をする人、という意味です」

「へえ」

 陽子は笑った。

 笑ったつもりだった。

 たぶん、笑えていない。

「ルナさんは、佐藤さんとどういう関係?」

 直球で聞いた。

 健一がわずかに動いた。

 ルナは少し考える。

 健一を見る。

 また陽子を見る。

「私は、健一に保護されていて」

「ルナさん」

 健一が遮る。

 ルナは言い直した。

「健一の同居人です」

 山下が後ろで噴き出した。

 陽子は、ゆっくり健一を見た。

「同居人」

「事情があります」

「でしょうね」

「誤解を招く表現ですが」

「招いてるのは表現だけ?」

 健一は黙った。

 勝った、という気はしなかった。

 むしろ、聞いたこちらの方が傷を負っている。

 健一が女性と同居している。

 しかも、これだけ目立つ相手と。

 しかも、その相手は健一のことを自然に名前で呼ぶ。

 陽子の胸の奥に、薄く苦いものが広がった。

 それを見せたくなくて、彼女は少し強めに言った。

「佐藤さん、説明くらいしてくれてもよかったんじゃない?」

「まだ、説明できる段階ではなく」

「説明できない同居って、だいぶ危ないよ」

「その通りです」

「認めないでよ」

 ルナが不安そうに二人を見比べた。

「健一、私は、陽子を困らせていますか」

 陽子は少し驚いた。

 この子は、こちらの感情を見ている。

 言葉は変だが、表情はまっすぐだ。

 健一は、少し声を落とした。

「今は、説明が足りないだけです」

「説明」

「はい」

「では、私は黙っています」

 ルナは両手で自分の口を押さえた。

 その動作があまりに素直で、陽子は少しだけ毒気を抜かれた。

 可愛い。

 悔しいが、可愛い。

 しかも、作っている感じがない。

 世間知らずというより、本当に世界に慣れていないように見える。

 地面の上に立っていること自体がまだ不思議、みたいな目をしている。

 陽子は視線を下げた。

 ルナの足元。

 サンダル。

 靴下。

 普通に見える。

 だが、彼女は立っている時、ほんのわずかに健一側へ重心を寄せていた。

 すぐ支えてもらえる位置にいる。

 そして健一も、無意識にその距離を保っている。

 陽子の胸の苦さが、少し濃くなった。

「ルナさんは、トライアスロンやるの?」

 陽子は話題を変えた。

 ルナは口から手を離し、首を横に振った。

「私は、まだ歩く練習です」

「歩く練習?」

「はい。足が初心者です」

 陽子は健一を見る。

「足が初心者」

「そのままの意味です」

「どんな意味?」

「事情があります」

「便利だね、事情」

 山下が横から入る。

「ルナさん、歩くのだいぶ上手くなりましたよね」

「はい。健一の袖があると、歩けます」

「袖?」

 陽子が見ると、確かにルナの指は健一の袖を軽く掴んでいた。

 当たり前みたいに。

 遠慮なく。

 でも、強くはなく。

 健一も、それを許している。

 陽子は、自分が知らない健一を見ている気がした。

 健一は人に触れられるのが得意ではない。

 練習後に肩を叩かれても、少しだけ身構える男だった。

 なのに、ルナの指は健一の袖を掴んでいて、健一はそれを当然のように受け入れている。

 山下が余計なことを言った。

「雨の日なんて、佐藤さん、ルナさんをコートで包んでお姫様抱っこでしたからね」

「山下さん」

 健一の声が低くなった。

 陽子は山下を見た。

「本当に?」

「見た人がいるって話ですけど。たぶん本当ですよね?」

 健一は否定しなかった。

 ルナが小さく言う。

「雨は、怖いので」

 その声は、さっきまでと違った。

 陽子はルナを見た。

 冗談ではなかった。

 本当に怖い顔だった。

 今朝、ミストシャワーの前で見た顔と同じだった。

「雨が苦手なの?」

「はい」

「濡れるのが?」

 ルナの指が、健一の袖を強く掴んだ。

 健一が一歩、前に出る。

「瀬戸さん」

「何」

「その話は、今は」

 庇った。

 はっきりと。

 陽子は、自分の中で何かが小さく軋むのを感じた。

 健一が誰かを庇うところを見たことはある。

 車道側を歩くとか、練習で遅れた人を待つとか、そういう小さな配慮はできる男だ。

 でも今のは違う。

 もっと反射的で、もっと近い。

 ルナの秘密に触れさせない。

 そういう動きだった。

「……ごめん。嫌なこと聞いた?」

 陽子はルナに向かって言った。

 ルナは少し驚いた顔をしてから、首を横に振った。

「陽子は悪くありません。水が、悪いです」

「水が?」

「はい。水は強敵です」

 陽子は言葉を失った。

 健一が淡々と補足する。

「彼女は、雨で体調を崩しやすいんです」

「だから、水が強敵」

「そうです」

 嘘をついている。

 陽子はそう思った。

 健一は嘘が下手だ。

 今の説明は、嘘というより、事実の一部だけを切り出している感じだった。

 何かを隠している。

 ルナも、たぶん普通ではない。

 でも、問い詰める空気ではなかった。

 山下が場を軽くしようとしたのか、明るく言った。

「まあまあ。せっかくだし、みんなで軽く一周しません? ルナさんは歩きで、佐藤さんが付き添いで」

「私は走るよ」

 陽子は言った。

「佐藤さんも走るでしょ?」

 少しだけ挑発だった。

 健一はルナを見た。

 ルナはすぐに言った。

「私は大丈夫です。ここで待っています」

「でも」

「健一は、練習に来ました。前に進む健一を見たいです」

 その言葉に、陽子は胸を刺された。

 ルナは、健一が何を大事にしているか、もう知っている。

 健一はしばらく迷ったあと、うなずいた。

「では、一周だけ」

 陽子は軽くストレッチした。

「じゃあ、行こう」

     *

 走り出すと、健一はいつもの健一だった。

 フォームは安定している。

 呼吸も乱れない。

 入りは抑えめ。

 陽子のペースに合わせているようで、実際にはこちらが無理をしないぎりぎりの速度を保っている。

 昔からそうだ。

 この男は、言葉よりペース配分の方が優しい。

「で」

 陽子は前を向いたまま言った。

「本当にどういうこと?」

「説明が難しいです」

「そればっかり」

「すみません」

「付き合ってるの?」

 健一の呼吸が、わずかに乱れた。

 陽子はそれを聞き逃さなかった。

「違います」

「即答にしては遅かった」

「瀬戸さん」

「同居してるんでしょ」

「はい」

「保護してるんでしょ」

「……はい」

「雨が駄目で、足が初心者で、言葉が変で、すごく綺麗で、佐藤さんの袖を掴んでる」

「はい」

「あと、駅前のミストシャワー見て固まってた」

 健一の足音が、ほんの少し乱れた。

「見ていたんですか」

「偶然ね」

「どこから」

「小さな雨は私をほどきますか、のあたり」

 健一は深く息を吐いた。

「最悪に近いタイミングですね」

「かなりね」

「誤解です」

「何が」

「いや、誤解ではない部分もありますが」

「佐藤さん、説明下手になったね」

「元から得意ではありません」

「知ってる」

 陽子は、少しだけ声を落とした。

「危ないことに巻き込まれてない?」

 健一は答えなかった。

 沈黙が、答えに近かった。

「巻き込まれてるんだ」

「彼女が困っているのは事実です」

「それで、佐藤さんが助けてる」

「助けられたのは、俺が先です」

 陽子は足を止めそうになった。

「助けられた?」

「お台場の大会で、俺が溺れた時です」

「あの時の?」

「はい」

 健一の声は静かだった。

「彼女が助けてくれました」

 陽子は、あの日のことを思い出した。

 お台場の大会。

 健一がスイムでリタイアした。

 救護テントに運ばれたと聞いて、陽子はかなり心配した。

 本人は「問題ありません」とだけ返してきた。

 いつもの健一らしい、短い返信だった。

 あの時、何かがあったのだ。

 陽子は少しだけ声を落とした。

「命の恩人ってこと?」

「そうです」

「だから、放っておけない」

「はい」

「それだけ?」

 健一は答えなかった。

 今度の沈黙は、さっきと違っていた。

 陽子は笑った。

 少しだけ苦く。

「佐藤さん、分かりやすくなったね」

「そうですか」

「前は、何考えてるか分からなかった」

「今も、俺自身は分かっていません」

「それも分かりやすい」

 一周を終えて戻る。

 ルナはレジャーシートの上で、こちらを見ていた。

 健一が戻ってくると、ぱっと表情が明るくなる。

 陽子が隣にいることも忘れたように、両手を振った。

「ナイス健一。いいペースです」

 それから、少し考えて、陽子にも言った。

「ナイス陽子。困らない程度に、普通に速いです」

 山下がまた笑った。

 陽子も、今度は少し笑ってしまった。

「普通に速い、か。褒めてる?」

「褒めています」

「なら、ありがとう」

「どういたしまして」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 陽子はその顔を見て、思った。

 悪い子ではない。

 むしろ、かなりいい子だ。

 だから、余計に面倒だった。

 悪い女なら、分かりやすく嫌えばいい。

 変な女なら、警戒すればいい。

 でも、ルナは違う。

 おかしくて、危なっかしくて、綺麗で、健一をまっすぐ見ている。

 そして健一は、その視線から逃げていない。

「ルナさん」

 陽子は言った。

「はい」

「佐藤さん、かなり面倒な人だけど、大丈夫?」

 健一が何か言いかけたが、陽子は無視した。

 ルナは真剣に考えた。

「健一は、難しいです」

「うん」

「すぐ理由をつけます」

「分かる」

「困っているのに、嫌ではないと言います」

「……言いそう」

「でも、私が怖い時、前に立ちます」

 ルナは健一を見た。

「だから、大丈夫です」

 陽子は息を吐いた。

 負けた、とは思わなかった。

 勝負ですらないのかもしれない。

 ただ、自分が見ていた健一と、ルナが見ている健一は、少し違う。

 そして今の健一は、ルナが見ている方へ近づいている。

「そっか」

 陽子は短く言った。

「じゃあ、変なことされたら、私に言いな」

「変なこと」

「佐藤さんが」

「瀬戸さん」

「大事でしょ。女同士の連絡先」

 ルナはぱっと目を輝かせた。

「陽子と、連絡」

「スマホ持ってる?」

 ルナは健一を見た。

 健一は疲れた顔で言った。

「まだ持っていません」

「買ってあげなよ」

「検討中です」

「陸の逃げ道ですね」

 ルナが言った。

 陽子は笑った。

「いいね、それ。佐藤さん、検討中は禁止」

「なぜ瀬戸さんまで」

「必要だから」

 陽子はルナに向かって手を差し出した。

「よろしく、ルナさん」

 ルナは一瞬迷ったあと、その手を握った。

「よろしく、陽子」

 握手。

 普通の光景だった。

 ただし、ルナは握った陽子の手をじっと見て、言った。

「陽子の手は、強いです」

「鍛えてるからね」

「水を怖がっていません」

「まあ、普通はね」

 ルナは少しだけ羨ましそうに笑った。

 陽子はその顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。

「今度、雨じゃない日に、買い物行こうか」

 言ってから、自分でも驚いた。

 ルナの顔が明るくなる。

「陽子と?」

「うん。佐藤さんが選ぶ服、たぶん地味でしょ」

「地味です」

「即答しないでください」

 健一が小さく言った。

 山下がまた笑う。

 練習場に、少しだけ軽い空気が戻った。

     *

 帰宅後、ルナはホワイトボードに今日の記録を書いた。

【陽子=強い手の人】

【練習仲間=一緒に苦しむ人】

【小さな雨=外で言わない】

【健一は理由をつける】

【検討中=陸の逃げ道】

【ナイス陽子=使っていい】

【買い物=約束】

 健一はそれを見て、額に手を当てた。

「小さな雨の件も入りますか」

「陽子は見ていました」

「そうですね」

「陽子は、目が強いです」

「手も目も言葉も強いですね」

「はい。強い陽子です」

 ルナは嬉しそうだった。

 陽子と会ったことが、彼女にとって怖い出来事にならなかったのは良かった。

 ただ、健一としては、状況がさらに複雑になった。

 山下には笑われている。

 陽子には疑われている。

 ルナには同居人と紹介された。

 そして、スマホ購入を迫られそうになっている。

 健一の静かな生活は、もうかなり遠い。

 スマホが震えた。

 陽子からだった。

〈今日のこと、まだ全然納得してないから。今度ちゃんと説明して〉

 続けて、もう一通。

〈でも、ルナさんは悪い子じゃなさそう。変なことしたら怒るから〉

 さらに、三通目。

〈あと、駅前のミストシャワーは本当に何?〉

 健一は画面を見つめた。

 その横から、ルナが覗き込む。

「陽子ですか」

「はい」

「怒っていますか」

「少し」

「小さな雨のことですか」

「そこも含みます」

「健一が変なことをしたら?」

「俺はしません」

「変なこととは、何ですか」

 健一はスマホを伏せた。

「今日はもう、日本語の勉強は終わりです」

「検討中ですか」

「終了です」

 ルナは笑った。

 健一は天井を見た。

 瀬戸陽子は、佐藤健一の終わりを見た。

 たぶん、そう思っている。

 だが健一自身は、少し違うことを考えていた。

 終わったのは、以前の生活だ。

 心拍数とタイムと予定表だけで組まれていた、静かで乾いた生活。

 では、始まったものが何なのか。

 それはまだ、検討中だった。

 ホワイトボードの赤字が目に入る。

【検討中=陸の逃げ道】

 健一は、しばらくそれを見た。

 そして小さく息を吐いた。

「逃げ道も、塞がれ始めていますね」

「陽子が塞ぎます」

「強いですね」

「はい」

 ルナは、嬉しそうに言った。

「でも、私は少し安心です」

「なぜですか」

「健一の逃げ道が減ると、健一がここに残ります」

 健一は、返事に少し困った。

 それは、また少し中が見える言葉だった。

 ルナはそれ以上言わず、ホワイトボードの端に小さく書き足した。

【健一は、ここに残る】

 健一は消そうとして、やめた。

 今日は、消すには少し惜しかった。


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