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第11話 人魚姫、はじめて嫉妬を覚える

 ルナは、その感情の名前を知らなかった。

 胸の奥に、小さな泡が生まれる。

 それは海の泡とは違った。

 白くて軽いものではない。

 もっと熱くて、少し苦くて、消えない。

 喉の奥に引っかかるような、指先に力が入るような、よく分からないものだった。

 きっかけは、陽子だった。

 次の合同練習の日。

 健一は、朝からいつもより少しだけ落ち着かない顔をしていた。

 腕時計を確認する回数が多い。

 シューズの紐を結び直す。

 補給ジェルを二つ並べて、結局一つだけ戻す。

 リュックの中身を確認して、また確認する。

 玄関に置いたタオルを一度手に取り、さらにもう一枚追加する。

 ルナは玄関でそれを見ていた。

「健一」

「はい」

「今日は、陽子に会いますか」

「たぶん来ると思います」

「たぶん」

「合同練習なので」

 健一は普通に答えた。

 普通に。

 それが、なぜかルナの胸に小さな泡を増やした。

「陽子は、速いですか」

「速いです。ランは俺より強い日もあります」

「健一より」

「距離とコンディションによりますが」

「陽子は、健一と一緒に苦しめます」

「練習仲間なので」

「練習仲間」

 ルナはその言葉を繰り返した。

 前に、陽子は言っていた。

 佐藤さんの練習仲間、と。

 一緒に走る人。

 一緒に汗をかく人。

 健一の心拍やペースを、見なくても分かる人。

 雨を怖がらない人。

 靴を自然に履ける人。

 水を見ても足が震えない人。

 ルナは自分の足元を見た。

 サンダル。

 まだ、走ることはできない。

「私も、練習仲間になれますか」

 健一はリュックのファスナーを閉めながら振り返った。

「なれます。ただ、焦らなくていいです」

「焦る」

「足が慣れてからです。今は歩ける距離を伸ばしましょう」

「陽子は、待たなくても走れます」

「瀬戸さんは人間なので」

「私は、人魚です」

「そうですね」

「不利です」

 健一は少しだけ困った顔をした。

「競技としては、スイムだけなら有利かもしれません」

「泳いだら、戻ります」

「そうでした」

 ルナは少し唇を尖らせた。

 健一はそれを見て、首を傾げる。

「どうしました」

「分かりません」

「何が?」

「胸の中で、泡ではない泡が出ます」

 健一の動きが止まった。

「苦しいですか」

「少し」

「水に触りましたか」

「触っていません」

「足は?」

「足ではなく、胸です」

 健一は真面目な顔で考え込んだ。

 たぶん体調不良だと思っている。

 心配してくれている。

 それは分かる。

 けれど、今欲しい答えとは少し違う気がした。

「今日は無理に外へ行かない方がいいかもしれません」

「行きます」

「でも」

「陽子に会います」

 自分で言って、ルナは驚いた。

 なぜ、そう言ったのか分からない。

 会いたいのか。

 会いたくないのか。

 確かめたいのか。

 胸の泡が、もう一つ増えた。

     *

 練習場へ行く前に、健一はスポーツショップへ寄ることにした。

 目的はルナ用の歩きやすい靴を見ることだった。

 前回、陽子から「そのサンダルで歩き続けるのは危ない」と言われていた。

 健一も同意だった。

 ルナの足は、まだ陸に慣れていない。

 長く歩くなら、柔らかくて安定する靴が必要だ。

 店に入ると、ルナはすぐに固まった。

 壁一面に靴が並んでいる。

 黒。

 白。

 赤。

 青。

 軽いもの。

 厚底のもの。

 速く走るためのもの。

 山を歩くためのもの。

 足を守るためのもの。

 ルナにとっては、陸の民が足に装着する大量の防具に見えたらしい。

「健一」

「はい」

「ここは、足の武器庫ですか」

「靴屋寄りのスポーツショップです」

「足の防具を選ぶ場所」

「かなり近いです」

「私は、足が初心者です。初心者用の防具はありますか」

 近くにいた店員が、少しだけこちらを見た。

 健一は即座に笑顔を作った。

「長く歩くのに慣れていないので、初心者向けのウォーキングシューズを探しています」

「なるほど。でしたら、こちらのあたりですね」

 店員は普通に受け入れてくれた。

 健一は内心で深く息を吐いた。

 今日はまだ勝てる。

 そう思った直後、店の奥から陽子が現れた。

「あれ、佐藤さん。ルナさんも」

 ルナの胸の泡が、また一つ増えた。

 陽子は黒のスポーツウェアに、軽いジャケットを羽織っていた。

 髪を後ろで結び、手にはランニングソックスを持っている。

 自然だった。

 あまりにも自然に、この場所に馴染んでいた。

「おはようございます」

 健一が言う。

「おはよう。練習前に買い物?」

「ルナさんの靴を見ています」

「ああ、それ大事。今のサンダルだと、たぶん足首にくるよ」

 陽子はしゃがみ、ルナの足元を見た。

 その動きが慣れていた。

 距離が近い。

 でも、いやらしくない。

 ごく自然に、人の足元を見て、必要なことを判断している。

「ルナさん、ちょっと歩いてみて」

「歩く」

「そう。いつも通りでいいから」

 ルナは数歩歩いた。

 陽子はそれを見て、すぐに言った。

「右足に少し頼ってる。左が怖い?」

 ルナは驚いた。

「分かりますか」

「見れば分かるよ」

 ルナは健一を見た。

「陽子は、私の足の声が分かります」

「フォームを見てるだけです」

 陽子は笑った。

 健一も頷く。

「瀬戸さんは、そういうのを見るのがうまいです」

「まあ、練習仲間のフォームはよく見るからね。佐藤さんの癖もだいたい分かるし」

 ルナの胸で泡が弾けた。

「健一の癖」

「うん」

 陽子は何気なく言った。

「疲れてくると、左肩が少し上がる。あと、無理してない顔で無理する」

「それは分かります」

 ルナは即答した。

 陽子が少し笑う。

「そこはルナさんも分かるんだ」

「はい。健一は、困っていない顔で困ります」

「分かる」

 陽子とルナが、同じ方向を見て笑った。

 健一だけが少し困った顔をした。

 ルナは、その笑いの中に自分も入れたはずなのに、なぜか胸が苦しくなった。

 陽子は、健一の癖を知っている。

 ルナも知っている。

 でも、陽子はずっと前から知っている。

 その時間の長さが、ルナの知らないものだった。

 店員が靴を持ってきた。

「こちら、軽くてクッションも柔らかいです。サイズはこのあたりでしょうか」

 陽子がルナの足を見る。

「二十三くらい?」

 健一も言った。

「たぶん二十三前後です」

 陽子が健一を見る。

「佐藤さん、よく見てるね」

「必要なので」

「必要」

 ルナはその言葉を小さく繰り返した。

 店員が靴を出す。

 ルナは椅子に座り、健一が靴紐をほどこうとした。

 陽子が自然に言う。

「佐藤さん、靴紐は最初ゆるめにしてあげて。足まだ慣れてないなら、甲を締めすぎない方がいい」

「なるほど」

「あと、かかとを合わせてから」

「はい」

「歩く時、最初は店内一周くらい」

「分かりました」

 健一が素直に聞いている。

 ルナは、その光景を見た。

 陽子は健一に教えられる。

 健一は陽子の言葉を受け入れる。

 それが、なぜか嫌だった。

 陽子が嫌いなわけではない。

 陽子は優しい。

 手が強い。

 言葉も強い。

 ルナに靴を選んでくれている。

 でも、健一と陽子が普通に並んで、普通に分かり合って、普通に会話するのを見ると、胸の泡が熱くなる。

 健一がルナの靴紐を結ぶ。

 その指は慎重だった。

「痛くないですか」

「痛くありません」

「少し歩きましょう」

 ルナは立ち上がった。

 新しい靴は、サンダルよりずっと安定していた。

 足の裏が包まれている。

 陸が少し近くなる。

 嬉しいはずだった。

 でも、陽子が言った。

「いいじゃん。佐藤さん、これでルナさんと一緒に歩く距離、伸ばせるね」

 健一が頷く。

「はい。助かります」

 助かります。

 健一が陽子にそう言った。

 ルナは胸を押さえた。

「ルナさん?」

 健一が気づく。

「苦しいですか」

「少し」

「足ですか」

「足ではありません」

 陽子も心配そうに見る。

「座る?」

「大丈夫です」

 ルナは健一を見た。

「健一」

「はい」

「私は、陽子のように健一を助けられますか」

 店内の空気が、一瞬だけ止まった。

 健一は答えに迷った。

 陽子も、少しだけ目を伏せた。

「助けられています」

 健一は言った。

「本当ですか」

「はい」

「靴のことは、陽子が分かりました」

「それは瀬戸さんが詳しいからです」

「健一の癖も、陽子が分かります」

「ルナさんも分かっています」

「でも、陽子は長く分かっています」

 言ってから、ルナは自分の言葉に驚いた。

 健一も陽子も、黙った。

 言葉に服がない。

 いや、服は着ている。

 でも、中身が見えすぎている。

 ルナは、急に恥ずかしくなった。

「今のは、外で言わない方がいい言葉ですか」

 健一は少し困った顔をした。

 陽子が、先に笑った。

「外で言ってもいいよ。たぶん」

「たぶん」

「うん。ただ、佐藤さんが固まる」

「陽子は強いです」

「まあね」

 陽子はルナの新しい靴を見た。

「似合ってるよ。陸っぽい」

 ルナは足元を見る。

「陸っぽい」

「うん」

「では、これにします」

 健一が店員を呼んだ。

 会計へ向かう途中、ルナはもう一度、陽子と健一の距離を見た。

 陽子は、健一の昔を知っている。

 健一の走り方を知っている。

 健一の癖を知っている。

 ルナは、健一の今を見ている。

 でも、過去は知らない。

 胸の泡は、まだ消えなかった。

     *

 練習場に着くと、山下がすでにいた。

「おはようございます。あれ、ルナさん、新しい靴ですか」

「はい。足の防具です」

「いいですね。強そうです」

「強い足になります」

「ナイス足」

「ナイス足」

「そこは覚えなくていいです」

 健一が即座に言った。

 陽子は笑いながらストレッチを始める。

 ルナはレジャーシートの上に座った。

 今日は新しい靴を履いたままだ。

 足元が安定している。

 それだけで少し嬉しい。

 けれど、胸の泡は残っている。

 練習が始まった。

 今日のメニューは、軽いジョグのあと、短めのビルドアップ走。

 健一と陽子と山下がコースに入る。

 ルナは見学する。

 健一が走る。

 隣に、陽子がいる。

 最初は並んでいた。

 二人の足音がそろう。

 腕の振り。

 呼吸。

 会話は少ないが、互いのペースを分かっているように見えた。

 ルナは、月の柄のメモ帳を握った。

 応援の言葉は覚えている。

 頑張って。

 いいペース。

 落ち着いて。

 あと少し。

 ナイス。

 健一が近づいてくる。

「ナイス健一。いいペースです」

 健一は小さくうなずく。

 その横で、陽子が笑った。

「ルナさん、私には?」

「ナイス陽子。普通に速いです」

「普通に、いらないかな」

「では、ナイス陽子。速いです」

「ありがと」

 陽子は軽く手を振った。

 その時、健一が陽子に何か言った。

 声は聞こえない。

 陽子が頷く。

 二人は速度を少し上げた。

 足音がそろったまま、遠ざかっていく。

 胸の泡が、また増えた。

 ルナはメモ帳に書いた。

【陽子=健一と速くなれる】

【陽子=健一の癖を知っている】

【陽子=靴を選べる】

【私=足が初心者】

 書いてから、その文字をじっと見つめる。

 何かが嫌だった。

 陽子が嫌いなわけではない。

 陽子は優しい。

 手が強い。

 言葉も強い。

 ルナの靴を選んでくれた。

 今度買い物へ行こうとも言ってくれた。

 でも、健一と陽子が並んで走るのを見ると、胸の奥がざわざわする。

 海が荒れる前の感じに似ていた。

 遠くから二人が戻ってくる。

 陽子が健一の背中を軽く叩いた。

「佐藤さん、今日ちょっと重いんじゃない?」

「昨日、ローラーを少し長めに回したので」

「出た。少し長めって言う人の少しは信用できない」

「予定より二十分だけです」

「それを少しって言うのが佐藤さんだよ」

 陽子は笑ってから、健一のバイクのギアをちらりと見た。

「あと、佐藤さんは重いギアを踏みたがる」

「そうですか」

「そう。軽くして回せばいいところで、我慢して踏む。坂でも、向かい風でも、仕事でもたぶん同じ。少し重いくらいなら、自分が強く踏めばいいと思ってる」

「必要な負荷です」

「ほら、それ」

 陽子は呆れたように笑った。

「そうやって、苦しいのを理屈に変えるところ。佐藤さんの癖」

「癖ですか」

「癖。フォームにも出る。疲れてくると左肩が少し上がるし、顔だけ平気そうにする」

「よく見ていますね」

「練習仲間だからね」

 陽子は何気なく言った。

 練習仲間。

 その言葉が、ルナの胸の中で小さく沈んだ。

 陽子は、健一が重いギアを踏みたがることを知っている。

 疲れると左肩が上がることも、平気そうな顔で無理をすることも知っている。

 ルナも、健一が困っていない顔で困ることを知っている。

 でも、陽子はそれを前から知っている。

 健一が自分に会う前から、知っている。

 陽子は笑い、健一もわずかに笑った。

 健一が笑った。

 ルナはそれを見た。

 健一は、ルナの前でも笑う。

 でも、今の笑い方は少し違った。

 気を抜いた笑い方だった。

 長く知っている人にだけ見せるような、短くて、軽くて、自然な笑い方。

 ルナの胸の泡は、熱を持った。

「健一」

 ルナは立ち上がった。

 健一が振り向く。

「どうしました」

「私も走ります」

 健一の顔が即座に変わった。

「駄目です」

「新しい足の防具があります」

「靴です。防具ではありません」

「陽子が選びました」

「だからこそ、最初は歩くところからです」

「少しだけ」

「足に負担が大きいです」

「陽子は走っています」

「瀬戸さんは慣れています」

「私も慣れます」

「段階があります」

「私は、段階を飛ばします」

「飛ばさないでください」

 ルナはむっとした。

 胸の泡が言葉を押し上げる。

 でも、それに合う言葉が分からない。

 分からないから、覚えた言葉の中から、一番近そうなものを探した。

「健一は、陽子とばかり追い込んでいます」

 周囲の空気が止まった。

 山下が遠くで「おっ」と言った。

 陽子が目を丸くする。

 健一は、両手で顔を覆いかけた。

「ルナさん」

「はい」

「言葉の服」

「着せました」

「かなり薄いです」

「でも、健一は陽子と苦しそうに走っています」

「練習です」

「私は、健一と苦しめません」

「苦しむことを目的にしないでください」

「では、私は何ですか」

 ルナの声が少し震えた。

 健一が黙る。

 陽子も、山下も黙った。

「私は、健一を見ています。でも、陽子は健一と走れます。健一の胸の太鼓も、足の歌も、陽子は近くで聞けます。陽子は、健一の癖も知っています。靴も選べます。健一に、それは助かりますと言われます」

 ルナは、言いながら自分でも分からなくなっていた。

 何を言いたいのか。

 なぜこんなに苦しいのか。

「私は、健一の横にいたいです。でも、足が初心者です。雨も怖いです。水も怖いです。言葉も、裸になります」

 言葉が止まらない。

「だから、陽子を見ると、胸の中で変な泡が出ます」

 健一は、ゆっくりルナの前に来た。

「ルナさん」

 その声は静かだった。

「それは、たぶん嫉妬です」

「しっと」

 ルナはその言葉を繰り返した。

 知らない言葉だった。

 でも、胸の泡が少しだけ形を持った気がした。

「嫉妬」

「誰かが、自分の欲しい場所にいるように見えて、苦しくなる気持ちです」

「陽子が、私の欲しい場所にいますか」

 陽子が少し気まずそうに視線を逸らした。

 健一は答えに迷った。

 その迷いも、ルナには見えた。

「私の欲しい場所は、健一の横です」

 言ってしまった。

 練習場の空気が、さらに止まった。

 山下が咳き込んだ。

 陽子は天を仰いだ。

 健一は完全に固まった。

 ルナは不安になった。

「これは、言葉が裸ですか」

「……かなり」

「駄目ですか」

「駄目ではないです」

 健一は、ようやく答えた。

「ただ、外で言うには、少し強いです」

「服を着せると?」

 健一は考えた。

 陽子が横から言った。

「一緒にいたい、くらいでいいんじゃない?」

 ルナは陽子を見た。

「一緒にいたい」

「うん。それなら普通」

「私は、健一と一緒にいたい」

 陽子は少しだけ笑った。

「うん。普通。あと、ちょっと強い」

「強い」

「でも、悪くない」

 ルナは胸に手を当てた。

 嫉妬。

 一緒にいたい。

 欲しい場所。

 新しい言葉が、胸の泡に名前をつけていく。

 健一は小さく息を吐いた。

「走るのは、まだ駄目です」

 ルナの顔が曇る。

「でも、今日は隣で歩きましょう。練習の後で、あなたのペースで」

「健一が?」

「はい」

「陽子とは?」

 健一は陽子を見た。

 陽子は肩をすくめた。

「行ってきなよ。こっちは山下さんと走るから」

「え、俺?」

 山下が言った。

「ほら、行くよ。困らない程度に普通に速く走って」

「それ、定着するんですか」

 陽子は笑いながら山下を引っ張っていった。

 健一とルナだけが残る。

 ルナはまだ少し不安そうだった。

「健一」

「はい」

「嫉妬は、悪いものですか」

「扱いを間違えると、面倒なものです」

「私の言葉みたいです」

「かなり近いです」

「では、服を着せます」

「そうですね」

 健一はルナの横に立った。

「歩きましょう」

「はい」

 二人は川沿いの道をゆっくり歩き始めた。

 健一にとっては、練習にもならない速度。

 ルナにとっては、人間の足で進むための精一杯。

 それでも、並んでいた。

 陽子と健一が並んでいた時とは違う。

 速くはない。

 息も上がらない。

 タイムにもならない。

 だが、ルナの胸の泡は、少しずつ静かになっていった。

「健一」

「はい」

「私は、陽子が嫌いではありません」

「分かっています」

「でも、陽子が健一の近くにいると、泡が出ます」

「はい」

「私は、悪い人魚ですか」

「違います」

 健一は即答した。

 ルナは顔を上げる。

「そういう気持ちは、たぶん誰にでもあります」

「健一にも?」

「あります」

「健一も、嫉妬しますか」

「……します」

「誰に?」

「今は言いません」

「陸の逃げ道」

「便利な言葉を覚えましたね」

 ルナは少し笑った。

 川の水が、遠くで光っている。

 ルナはそちらを見たが、怖がりはしなかった。

「嫉妬は、海の泡と違います」

「どう違いますか」

「海の泡は、消えます。でも、この泡は、言葉にしないと残ります」

「言葉にできてよかったです」

「でも、裸でした」

「次から服を着せればいいです」

「一緒にいたい」

「はい」

「健一の横がいい」

「それは、少し薄着です」

「では、もう少し一緒に歩きたい」

「それなら大丈夫です」

 ルナはうなずいた。

「もう少し一緒に歩きたいです、健一」

 健一は少しだけ視線を逸らした。

「はい」

 その返事で、ルナの胸の泡はさらに小さくなった。

     *

 練習の後、陽子はルナにスポーツドリンクを差し出しかけて、途中で手を止めた。

「あ、水、駄目なんだっけ」

「飲むのは大丈夫です。かかるのは怖いです」

「そっか。じゃあ、これは佐藤さん経由で」

 陽子はボトルを健一に渡した。

 健一が蓋を開け、ルナ用の紙コップに少しだけ注ぐ。

 ルナは両手で受け取り、慎重に飲んだ。

「甘い水です」

「スポーツドリンク」

「陽子は、これで強くなりますか」

「まあ、ちょっとは」

「では、陽子は甘い水で強い」

「なんか可愛い言い方だね」

 陽子は笑った。

 ルナは少し迷ってから言った。

「陽子」

「ん?」

「私は、陽子に嫉妬しました」

 健一がむせた。

 陽子は目を瞬かせる。

 ルナは続ける。

「でも、陽子は嫌いではありません」

「うん」

「陽子は、健一と走れます。健一の靴も分かります。健一の癖も分かります。私はまだ歩くことしかできません。それが、苦しかったです」

 陽子は黙って聞いていた。

 ルナの言葉は、今度はちゃんと服を着ていた。

 薄手ではあるが、外に出せる服だった。

 陽子は少しだけ表情を柔らかくした。

「そっか。言ってくれてありがと」

「怒りませんか」

「怒らないよ」

「陽子は強いです」

「強くないよ。普通に、ちょっと悔しいだけ」

「悔しい」

「うん。私もたぶん、ちょっと嫉妬してる」

 ルナは驚いた。

「陽子も?」

「するよ。人間なので」

「人間は、嫉妬しますか」

「めちゃくちゃする」

 陽子は笑った。

「でも、だからって相手を嫌いになるとは限らない」

 ルナは、その言葉をゆっくり覚えた。

 嫉妬しても、嫌いではない。

 胸が苦しくても、手を離さなくていい。

 言葉にすれば、少しだけ形が変わる。

「陽子」

「何?」

「今度、買い物に行きたいです」

「行こう。佐藤さん抜きで」

 ルナは健一を見た。

「健一抜き」

「女子の買い物だから」

「じょし」

「そう」

「陽子と、女子」

「うん」

 ルナの顔が、ぱっと明るくなった。

 健一は少し不安そうにした。

「瀬戸さん、無理は」

「佐藤さん」

「はい」

「検討中、禁止」

「まだ何も言っていません」

「顔が言ってる」

 山下が横で笑った。

「佐藤さん、完全に保護者ですね」

「否定しづらいです」

 ルナは健一を見て、少し得意げに言った。

「私は、陽子と女子になります」

「女子になるのは構いませんが、水に注意してください」

「はい」

「知らない人についていかない」

「はい」

「変な言葉を使わない」

「はい」

「陽子の言うことを聞く」

「はい」

 陽子が苦笑した。

「ほんとに保護者だ」

 ルナは少し考えて、言った。

「健一は、困らない程度に保護者です」

「それはどの程度ですか」

「好きな程度です」

 健一が固まった。

 陽子が「おお」と小さく言った。

 ルナはすぐに両手で口を押さえた。

「これは裸ですか」

 健一は額に手を当てた。

「かなり」

 陽子は笑った。

「でも、悪くないよ」

     *

 帰宅後、ルナはホワイトボードに今日の記録を書いた。

【嫉妬=胸の中の泡】

【嫉妬しても、嫌いではない】

【一緒にいたい=服あり】

【健一の横がいい=薄着】

【陽子も嫉妬する】

【陽子=健一の癖を知っている】

【靴=足の防具ではなく靴】

【女子=陽子と買い物に行く】

【好きな程度=裸】

 健一は最後の一行を見て、しばらく黙った。

「それは消しましょう」

「なぜですか」

「教育上」

「でも、今日学びました」

「学ばなくていい方向もあります」

「健一は、すぐ隠します」

「隠さないと社会が寒いんです」

 ルナは少し笑った。

 そして、青いヘアゴムを外しながら言った。

「健一」

「はい」

「私は、今日、嫌な泡が出ました。でも、言葉にしたら少し小さくなりました」

「それはよかったです」

「次に出たら、また言います」

「できれば、少し服を着せてからお願いします」

「一緒にいたい、ですか」

「はい」

 ルナはうなずいた。

「健一、明日も一緒にいたいです」

 健一は答えに詰まった。

 その言葉は、きちんと服を着ていた。

 なのに、中身がまっすぐ見えすぎる。

「……明日も、います」

 ルナは笑った。

 窓の外には、夕方の光が残っていた。

 雨は降っていない。

 水の匂いもしない。

 それでもルナの胸には、今日覚えた泡の感覚が少しだけ残っている。

 嫉妬。

 怖い言葉ではなかった。

 扱いを間違えると面倒なもの。

 でも、言葉にすれば、少しだけ人に近づけるもの。

 ルナはホワイトボードの一番下に、小さく書き足した。

【嫉妬=健一の横に行きたい気持ち】

 健一はそれを見て、消さなかった。

 ただ、赤ペンで横に小さく書いた。

【外では小声で】

 ルナはそれを読んで、真面目にうなずいた。

「小声で、嫉妬します」

「その宣言も、かなり強いです」

 健一の静かな訂正に、ルナは楽しそうに笑った。


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