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24/25

第24話 フロントディレイラーになりたかったのです

 満月の夜、お台場の海は静かだった。

 大会の日の喧騒は、もうない。

 仮設フェンスも、案内板も、ゴールアーチも撤去されていた。

 砂浜には夜の風だけがあり、波は黒い布のように寄せては返している。

 レインボーブリッジの灯りが水面に細く揺れ、その向こうで東京のビル群が、まるで他人事のように光っていた。

 月は、丸かった。

 嫌になるほど、丸かった。

 佐藤健一は、ルナの隣に立っていた。

 ルナは白いワンピースを着ていた。

 陽子が選んだものだ。

 青いヘアゴムで髪を結び、肩には薄いカーディガンを羽織っている。

 手には、青いマグカップではなく、月の柄のメモ帳を持っていた。

 陽子は少し後ろにいた。

 タオルとコートを抱えている。

 山下もいた。

 本人いわく「荷物番兼、現実の目撃者」らしい。

 いつもの軽さはあるが、今日はさすがに声が小さい。

 そして、波打ち際の向こうに、三人の姉たちがいた。

 青い髪の姉。

 白い髪の姉。

 緑の髪の姉。

 さらにその少し後ろ、濃い夜の影の中に、マダム・マリーンが立っていた。

 いつもの濃い青のワンピースに、真珠のネックレス。

 手には古いビデオケースを持っている。

 どう見てもこの場に必要ない小道具だが、本人は大事そうに抱えていた。

「満月ね」

 マリーンが言った。

「見れば分かります」

 健一が返すと、マリーンは嬉しそうに笑った。

「こういう夜にまで理屈っぽいの、嫌いじゃないわ」

「褒めなくていいです」

「褒めてないわよ」

 陽子が小声で言った。

「この魔女、ほんと腹立つね」

 山下も小声で返す。

「でも、場慣れ感がすごいですね」

「場慣れしてる魔女って何」

「分かりません」

 ルナは、その会話を聞いて少しだけ笑った。

 だが、すぐに表情を戻した。

 今夜で決まる。

 陸に残るのか。

 泡になるのか。

 海へ帰るのか。

 ルナの歌。

 健一の言葉。

 それを海が聞く。

 満月の光が、ルナの足元まで伸びていた。

 水に触れていないのに、彼女の足首には薄い銀青の光が浮かんでいる。

 海が近い。

 月が近い。

 契約が、終わりに近づいている。

 健一は、彼女の手を握った。

「大丈夫です」

 ルナは健一を見た。

「まだ、歌っていません」

「それでも、大丈夫にします」

「健一は、すぐそう言います」

「言います」

「今夜は、本当に大丈夫にしてください」

「はい」

 ルナは、少しだけ深く息を吸った。

 海の姉たちは、黙って待っている。

 悪意はない。

 だが、甘くもない。

 緑の髪の姉が言った。

「ルナ。最後よ」

「はい」

「歌いなさい。借り物ではなく、あなたの言葉で」

 白い髪の姉が続ける。

「海も聞く。陸も聞く。私たちも聞く」

 青い髪の姉が、健一を見る。

「人間。あなたは受け取りなさい。今夜は、少し、では足りない」

 健一はうなずいた。

「分かっています」

「本当に?」

「はい」

「逃げ道は?」

 陽子が後ろから言った。

「塞いであります」

 山下が小さく手を上げる。

「検討中も禁止です」

 マリーンが笑った。

「いい仲間を持ったわね」

 健一はルナの手を、少しだけ強く握った。

「はい」

     *

 ルナは、一歩前に出た。

 波打ち際までは距離がある。

 水には触れていない。

 だが、月光が彼女の足元を濡らすように広がっていた。

 ルナはメモ帳を開かなかった。

 ずっと書いてきた。

 何度も直した。

 健一に聞かせ、陽子に聞かせ、山下にも一部聞かせた。

 マリーンには聞かせていない。

 聞かせたら余計な感想が返ってきそうだったからだ。

 でも今夜は、見ない。

 見なくても、歌は胸の中にあった。

 ルナは歌い始めた。

 声は、最初から澄んでいた。

「海には姉の声がある――

 陸にはあなたの朝がある――

 どちらも私を呼ぶけれど――

 私はここで、名前を呼ぶ――」

 波が静かになった。

 健一は、息を止めて聞いていた。

「沈むあなたを見つけた海で――

 私は初めて陸を見た――

 冷たい水のその向こうに――

 不器用な声が、待っていた――」

 ルナの声が、夜に広がる。

 観客はいない。

 大会のスピーカーもない。

 スマホを向ける人もいない。

 ただ、海と、月と、数人の人間と、人魚の姉たちと、魔女だけが聞いている。

「白いカップに、朝が残って――

 甘い卵は、太陽で――

 黒い水には、白がいて――

 知らない街は、怖くてきれい――」

 陽子が小さく息をのんだ。

 山下は、黙っていた。

 健一は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 カフェ。

 プリン。

 東京。

 ホットミルク。

 最初は全部、ただの事故みたいな日常だった。

 それが、ルナの歌の中で、陸に残る理由になっている。

「雨の音には、泡が混じって――

 水の光は、足をほどいた――

 それでも袖を、握った夜に――

 あなたの腕が、岸になった――」

 健一は、あの日の雨を思い出した。

 コートで包んだ。

 タクシーの中で震えていた。

 水鉄砲の水を、自分の胸で受けた。

 ゲリラ豪雨の中、彼女を抱えて走った。

 守ったつもりだった。

 でも、実際には何度も間に合わなかった。

 それでも、手を離さなかった。

「陽子の手は、強くてやさしい――

 山下の声は、少しおかしい――

 笑う人たちが、増えていって――

 私の陸は、広くなった――」

 山下が小さく言った。

「少しおかしい……」

 陽子が小声で返す。

「合ってる」

「合ってますね」

 ルナは歌い続ける。

「姉さまたちの海は遠く――

 でも、今も私の中にある――

 捨てるのではなく、消すのでもなく――

 帰る場所を、増やしたい――」

 海の姉たちの表情が変わった。

 白い髪の姉が、目を伏せる。

 青い髪の姉は、じっとルナを見ている。

 緑の髪の姉だけが、まだ厳しい顔をしていた。

 ルナは、最後のフレーズへ入ろうとした。

 その時だった。

 彼女の声が、ほんの少し揺れた。

 足元に、泡が生まれた。

 白い、小さな泡。

 月光の中で、かすかに光っている。

 健一の手に力が入った。

「ルナ」

 ルナは振り返らない。

 歌を続けようとする。

 だが、足元の泡は増えた。

 水に触れていない。

 雨も降っていない。

 それでも、満月の契約が彼女の足をほどき始めている。

 泡の足音。

 また聞こえた。

 ルナの声が震える。

「あなたが――」

 続かない。

 喉が詰まったように、歌が止まる。

 マリーンが静かに言った。

「最後の言葉で迷ったわね」

 健一は振り返る。

「どういうことですか」

「最後の歌詞が、まだ借り物なのよ」

 マリーンは、表情を変えずに言った。

「きれいな言葉にしようとしすぎた。海にも陸にも、あなたにも、姉たちにも届くように整えすぎた。よく書けているけれど、それだけじゃ足りない」

「そんな」

 陽子が言う。

「ここまで来て?」

「ここまで来たからよ」

 マリーンはルナを見る。

「最後だけは、飾ったら沈む」

 ルナの足元から、泡がさらにこぼれる。

 銀青の鱗が浮かぶ。

 足の輪郭が薄くなる。

 姉たちが動いた。

「ルナ!」

 白い髪の姉が前へ出る。

 緑の髪の姉は健一を睨んだ。

「もう限界よ。海へ渡しなさい」

 健一はルナの肩に手を添えた。

「ルナ、無理にきれいな言葉を探さなくていい」

「でも」

 ルナは震える声で言った。

「最後は、ちゃんとした言葉でなければ」

「ちゃんとしていなくていい」

「海が聞いています。姉さまたちも聞いています。陽子も、山下も、健一も」

「だからです」

 健一は彼女の前に回った。

 ルナの目には涙が浮かんでいた。

 足元は泡になりかけている。

 それでも、彼女は歌おうとしている。

「俺は、きれいな歌だけを受け取りたいわけじゃない」

「健一」

「あなたの言葉をください」

「私の言葉」

「はい。最悪でも、変でも、社会的に危険でも」

 陽子が後ろで小さく言った。

「そこは危険じゃない方がいいけど」

 山下が小声で返す。

「でも今回はたぶん危険な方ですね」

 ルナは、泣きそうな顔で笑った。

 その笑顔の中に、見覚えがあった。

 初めて健一の名前を呼んだ時。

 ホットミルクを飲んだ時。

 ご主人様呼びを必死に直そうとした時。

 そして、あの最悪の一言を言った時。

 私は、あなたのフロントディレイラーになりたいのです。

 健一は、その記憶にたどり着いた。

 ルナも、同じ場所にいた。

「健一」

「はい」

「笑わないでください」

「分かりません」

「そこは、笑わないと言ってください」

「すみません。笑っても、受け取ります」

 ルナは、涙をこぼした。

 泡が増える。

 けれど、彼女はもう逃げなかった。

 ルナは、健一を見た。

 そして、歌ではなく、ほとんど話すように言った。

「私は」

 声が震える。

「私は、あなたのフロントディレイラーになりたかったのです」

 夜が止まった。

 海も、姉たちも、陽子も、山下も、マリーンも、全員が止まった。

 健一も止まった。

 言葉としては最悪だった。

 満月の夜。

 人魚姫の運命が決まる場面。

 海の姉たちが見守る前。

 そこで出す言葉ではない。

 だが、ルナの声は濁っていなかった。

 透き通っていた。

 ルナは続けた。

「最初は、意味を間違えました」

 涙が頬を伝う。

「健一の大切な箱に、その言葉がありました。自転車の映像で、何度も出てきました。ギアを変えるもの。坂道で、平地で、速く行く時も、苦しい時も、足の力を別の形にするもの」

 健一は、息を止めていた。

「私は、それを見て思いました」

 ルナの足元の泡が、ゆっくり浮かぶ。

「健一は、いつも前に進みます。でも、一人で進む時、苦しそうでした。心拍も、ケイデンスも、補給も、予定も、全部自分で見ていました。困っても、困っていない顔をしました」

 健一の胸に、その言葉が刺さる。

「私は、最初、自分が健一のギアをもっと重くしていると思いました」

 ルナの声が、一度だけ小さく沈んだ。

「仕事も、練習も、眠る時間も、私が来てから重くなりました。健一はそれでも、問題ありませんと言って、一人で踏みました。私は、それが怖かったです」

 ルナは、ゆっくり息を吸った。

「私は、健一を速くしたかったわけではありません。健一を私のものにしたかったわけでもありません。健一が苦しい坂に来た時、少しだけギアを変えるものになりたかったのです」

 陽子が、口元を押さえた。

 山下は、もう笑っていなかった。

「重いまま踏まなくていいように。空回りしないように。沈む方ではなく、進む方へ力が移るように。私は、健一の横で、そういうものになりたかった」

 ルナの声が、歌に戻っていく。

 話すようで、歌うようで、祈るようだった。

「でも、私は水が怖いです。雨も怖いです。足も弱いです。言葉も変です。健一の生活を困らせます。私は、立派な姫ではありません」

 健一は首を横に振った。

 ルナは続ける。

「それでも、健一が沈みそうな時、ギアを変えたい。健一が一人で重いところを踏んでいる時、軽くしたい。健一が前に進むなら、私はその力のどこかにいたい」

 泡が、止まりかけていた。

 海の姉たちが、それに気づく。

 マリーンが、静かに笑った。

「出たわね。最悪で、最高の言葉」

 ルナは、健一に手を伸ばした。

「健一」

「はい」

「私は、あなたのフロントディレイラーになりたかったのです」

 もう一度。

 今度は、はっきりと。

「変ですか」

 健一は、泣きそうになった。

 笑いそうにもなった。

 その両方だった。

「変です」

 ルナの目が少し揺れる。

 健一は、すぐに続けた。

「でも、最高です」

 ルナの涙が止まらない。

 健一は一歩近づき、彼女の手を取った。

「受け取りました」

 言葉が、自然に出た。

「全部、受け取りました。意味を間違えていたことも、そこから自分の意味を作ったことも。俺を進ませたいと思ってくれたことも」

 健一は、はっきりと言った。

「俺は、あなたにそうなってほしいです」

 ルナの手が震えた。

「でも、部品です」

「部品ではありません」

「では」

「相棒です」

 健一は、月の光の中でルナを見る。

「俺が前に進む時、隣にいてほしい。苦しい時に、ギアを変えてほしい。俺も、あなたが海に引かれそうな時、陸へ戻る力になりたい」

 ルナの足元の泡が、さらに弱くなる。

「俺は、あなたを愛しています」

 今度は、迷わなかった。

「海も、姉たちも、変な言葉も、最悪の比喩も、全部含めて。あなたが俺の生活に入ってきて、俺の予定を壊して、ホワイトボードを変なルールでいっぱいにして、俺の静かな部屋に歌を持ち込んだことを、もう手放したくない」

 健一は、ルナの手を両手で握った。

「あなたは俺の邪魔ではありません」

 ルナが息をのむ。

「あなたは、俺の進み方を変えた人です」

 泡が止まった。

 完全に。

 月光の中で、ルナの足元に残っていた白い泡が、ふっと消えた。

 銀青の鱗が薄れていく。

 足の輪郭が戻る。

 白い砂の上に、人間の足が立っていた。

 ルナは、立っていた。

 陸に。

 健一の前に。

 海へほどけずに。

 白い髪の姉が、小さく泣いた。

 青い髪の姉は、長く目を閉じた。

 緑の髪の姉は、腕を組んだまま顔を背けた。

「……フロントディレイラーって何よ」

 緑の髪の姉が低く言った。

 山下が小声で言う。

「自転車の前側の変速機です」

「聞いてない」

「すみません」

 陽子は笑いながら泣いていた。

「なんで、こんな変な言葉で泣かされるの」

 マリーンが、古いビデオケースで口元を隠した。

「いいじゃない。人魚姫が王子の変速機になりたいなんて、現代的で最高だわ」

「黙ってください」

 健一が言うと、マリーンは満足そうに笑った。

     *

 海が、静かになった。

 月の光が、ルナの足元から少しずつ引いていく。

 青い髪の姉が前に出た。

「ルナ」

「はい」

「足は?」

 ルナは自分の足を見た。

 人間の足だった。

「あります」

「声は?」

 ルナは少し息を吸い、短く歌った。

「ここに――」

 その声は、澄んでいた。

 借り物ではなかった。

 青い髪の姉は、ゆっくりうなずいた。

「海が、契約を閉じた」

 白い髪の姉が言った。

「泡にはならない」

 その言葉を聞いた瞬間、ルナの身体から力が抜けた。

 健一が支える。

「ルナ」

「健一」

「大丈夫ですか」

「分かりません」

「分からない?」

「泡にならないのが、初めてなので」

 陽子が笑いながらタオルで目を押さえた。

「そりゃそうだ」

 山下は大きく息を吐いた。

「よかった……。いや、ほんとよかったです。フロントディレイラーは全然分かんないけど」

「山下」

 ルナが呼ぶ。

「はい」

「ナイス山下」

 山下は胸を押さえた。

「今のは泣きます」

「そこ?」

 陽子が言う。

 緑の髪の姉は、まだ納得していない顔で健一を見ていた。

「人間」

「はい」

「ルナを泣かせたら、海は覚えている」

「はい」

「困らせたら?」

「俺も困ると思います」

「何それ」

「一緒に困ります」

 緑の髪の姉は一瞬黙り、それから小さく鼻を鳴らした。

「変な男」

「よく言われます」

「でしょうね」

 白い髪の姉がルナに近づいた。

 手を伸ばし、彼女の髪に触れる。

「小さな妹。帰る場所を増やすのね」

「はい」

「海を忘れない?」

「忘れません」

「私たちを?」

「忘れません」

「その男の変な部品になるの?」

 ルナは少し考えた。

「部品ではありません」

 健一を見る。

「相棒です」

 健一の胸が、もう一度熱くなる。

 白い髪の姉は、泣き笑いのような顔をした。

「なら、行きなさい」

 青い髪の姉も言った。

「海は、あなたを失うわけではない。あなたの帰る場所が増えるだけ」

 緑の髪の姉は、最後まで不機嫌そうだった。

 だが、小さく言った。

「たまには帰ってきなさい」

 ルナの目に、また涙が浮かぶ。

「はい」

 健一はすぐタオルを出した。

 陽子も出した。

 山下まで出した。

 ルナは三枚のタオルを見て、笑った。

「保護体制が多いです」

「今日は多めでいい」

 陽子が言った。

 ルナは泣きながら笑った。

     *

 マリーンが、ぱん、と手を叩いた。

「はい、契約終了。返品不可。延滞料金なし。よかったわね」

 健一は彼女を見た。

「あなたは結局、何をしたかったんですか」

「面白い恋が見たかった」

「最低ですね」

「あと、ルナを助けたかった」

 マリーンは軽く言った。

 その声は、少しだけ本気に聞こえた。

「海にいても、陸にいても、この子はたぶん歌ったわ。だったら、変な男のそばで変な歌を覚えた方が、この子らしいでしょう」

「変な男が余計です」

「事実よ」

 マリーンはルナを見る。

「小さな姫。声はもうあなたのもの。脚も、当面は安定するでしょう」

「当面?」

 健一が反応する。

「細かいことを聞かないの。水に濡れれば普通に濡れるし、風邪もひく。泳げば、まあ少し問題は起きるかもしれない」

「問題」

「でも、泡にはならない」

 ルナは胸に手を当てた。

「泡にはならない」

「ええ。ただし、言葉の誤学習は残るわ」

「そこは残るんですか」

 健一が言うと、マリーンは当然の顔をした。

「個性よ」

「かなり厄介な個性です」

「愛しているんでしょう?」

 健一は止まった。

 ルナが見ている。

 陽子も見ている。

 山下も、姉たちも、マリーンも。

 健一は、少しだけ息を吐いた。

「はい」

 言えた。

 もう、逃げなかった。

「愛しています」

 ルナは、今度は泣かずに笑った。

「私も、愛しています」

 少し不慣れな言葉だった。

 でも、まっすぐだった。

 海が静かに揺れた。

 それは、祝福のようにも、ため息のようにも聞こえた。

     *

 姉たちは、月の光の中で少しずつ遠ざかっていった。

 海へ戻るのではなく、海そのものに溶けるように。

 ルナは、最後まで手を振っていた。

 健一は隣に立ち、その手を離さなかった。

「寂しいですか」

「はい」

「帰りたいですか」

 ルナは少し考えた。

「いつか、帰りたいです」

 健一はうなずいた。

「一緒に行けますか」

「健一は沈みます」

「そうでした」

「でも、海岸までは一緒に来てください」

「行きます」

「約束」

「約束です」

 ルナは、安心したように笑った。

 陽子が背伸びをしながら言った。

「じゃあ、帰ろっか。なんか、ものすごく疲れた」

 山下が頷いた。

「分かります。俺、今日ほぼ何もしてないのに、フルマラソン後くらい疲れてます」

「ナイス山下だったよ」

「陽子さんまで……ありがとうございます」

 ルナが言った。

「みんなで、白い山を食べたいです」

 健一は少し笑った。

「チーズケーキですか」

「はい。今日は、帰還祝いです」

「帰還というか」

 陽子が言う。

「契約終了祝い?」

 山下が続ける。

「フロントディレイラー記念日?」

 健一は即座に首を振った。

「それはやめましょう」

 ルナは真剣な顔で言った。

「大事な日です」

「大事ですが、記念日の名前としては」

「フロントディレイラー記念日」

「本気ですか」

「はい」

 陽子が笑った。

「いいじゃん。二人らしくて」

 山下もうなずく。

「絶対忘れないです」

 健一は夜空を見上げた。

 満月が光っている。

 人魚姫の運命が決まった夜に、フロントディレイラー記念日。

 たしかに、忘れようがなかった。

「……では、内輪だけで」

 ルナの顔が明るくなった。

「はい」

     *

 帰り道、ルナは健一の袖を掴まなかった。

 代わりに、手を握っていた。

 お台場の夜道を、四人で歩く。

 海は後ろにある。

 月もまだ見えている。

 だが、もう足元に泡の音はしない。

 ルナは、時々自分の足を見た。

 人間の足。

 陸を歩く足。

 海も覚えている足。

「健一」

「はい」

「私は、歩いています」

「はい」

「泡になりません」

「はい」

「フロントディレイラーにも、なれますか」

「比喩としてなら」

「相棒です」

「はい。相棒です」

 ルナは嬉しそうに笑った。

「では、健一が重いギアで苦しそうな時は、言います」

「何を」

「変速しましょう」

 健一は少し笑った。

「お願いします」

「健一も、私が海に引かれそうな時は言ってください」

「何を」

「陸へ変速しましょう」

 健一は、ルナの手を握り直した。

「分かりました」

 陽子が少し前を歩きながら振り返る。

「いいね。変速カップル」

「その名称はちょっと」

 健一が言う。

 山下が楽しそうに続ける。

「ギア比高めですね」

「山下さん」

「すみません。でも、今日くらいは言わせてください」

 ルナは笑った。

 健一も、少しだけ笑った。

 笑えるようになった。

 この変な言葉で。

 この最悪の比喩で。

 この、どうしようもなくルナらしい告白で。

 泣いて、笑えた。

     *

 部屋に戻ると、ホワイトボードの前に全員が集まった。

 満月まで、という文字がまだ残っている。

 健一はそれを見た。

 もう、この数字は必要ない。

 ペンを取り、そっと消した。

【満月まで十二日】

【お台場大会まで五日】

【大会の日、逃げない】

【海の姉たち対策】

【水は避ける。怖さは共有する】

 いくつかは残す。

 いくつかは消す。

 水への注意はまだ必要だ。

 怖さの共有も必要だ。

 海の姉たちのことも、完全には終わっていない。

 家族なのだから。

 だが、泡になる期限は消した。

 その下に、ルナがペンを持って書いた。

【泡は止まった】

 陽子が、その下に書き足す。

【好きは検討中にしない】

 山下も、遠慮がちにペンを持つ。

【ナイス全員】

 健一は、最後に赤ペンを取った。

 少し考えた。

 そして書いた。

【フロントディレイラー記念日】

 ルナが、両手で口元を押さえた。

「健一が、書きました」

「内輪だけです」

「はい」

「でも、大事な日なので」

 ルナは、また泣きそうになった。

 健一はタオルを用意した。

 陽子も用意した。

 山下も用意した。

 ルナは笑った。

「今日は、泣きません」

「そうですか」

「はい。今日は、歌います」

 ルナは、青いマグカップを手に取った。

 そして、小さく歌った。

「泡は止まり、月は満ちて――

 海には帰る道がある――

 陸には白い朝がある――

 あなたの隣で、変速する――」

 健一は思わず言った。

「最後の一行」

「駄目ですか」

「変です」

「でも?」

 健一は笑った。

「最高です」

 ルナは満足そうにうなずいた。

 歌は、部屋に静かに広がった。

 もう、借り物ではない。

 もう、泡に向かう歌でもない。

 陸に残る歌だった。

 海も覚えたまま、陸を歩くための歌。

 健一は、それを受け取った。

 今度は、全部。


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