第24話 フロントディレイラーになりたかったのです
満月の夜、お台場の海は静かだった。
大会の日の喧騒は、もうない。
仮設フェンスも、案内板も、ゴールアーチも撤去されていた。
砂浜には夜の風だけがあり、波は黒い布のように寄せては返している。
レインボーブリッジの灯りが水面に細く揺れ、その向こうで東京のビル群が、まるで他人事のように光っていた。
月は、丸かった。
嫌になるほど、丸かった。
佐藤健一は、ルナの隣に立っていた。
ルナは白いワンピースを着ていた。
陽子が選んだものだ。
青いヘアゴムで髪を結び、肩には薄いカーディガンを羽織っている。
手には、青いマグカップではなく、月の柄のメモ帳を持っていた。
陽子は少し後ろにいた。
タオルとコートを抱えている。
山下もいた。
本人いわく「荷物番兼、現実の目撃者」らしい。
いつもの軽さはあるが、今日はさすがに声が小さい。
そして、波打ち際の向こうに、三人の姉たちがいた。
青い髪の姉。
白い髪の姉。
緑の髪の姉。
さらにその少し後ろ、濃い夜の影の中に、マダム・マリーンが立っていた。
いつもの濃い青のワンピースに、真珠のネックレス。
手には古いビデオケースを持っている。
どう見てもこの場に必要ない小道具だが、本人は大事そうに抱えていた。
「満月ね」
マリーンが言った。
「見れば分かります」
健一が返すと、マリーンは嬉しそうに笑った。
「こういう夜にまで理屈っぽいの、嫌いじゃないわ」
「褒めなくていいです」
「褒めてないわよ」
陽子が小声で言った。
「この魔女、ほんと腹立つね」
山下も小声で返す。
「でも、場慣れ感がすごいですね」
「場慣れしてる魔女って何」
「分かりません」
ルナは、その会話を聞いて少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
今夜で決まる。
陸に残るのか。
泡になるのか。
海へ帰るのか。
ルナの歌。
健一の言葉。
それを海が聞く。
満月の光が、ルナの足元まで伸びていた。
水に触れていないのに、彼女の足首には薄い銀青の光が浮かんでいる。
海が近い。
月が近い。
契約が、終わりに近づいている。
健一は、彼女の手を握った。
「大丈夫です」
ルナは健一を見た。
「まだ、歌っていません」
「それでも、大丈夫にします」
「健一は、すぐそう言います」
「言います」
「今夜は、本当に大丈夫にしてください」
「はい」
ルナは、少しだけ深く息を吸った。
海の姉たちは、黙って待っている。
悪意はない。
だが、甘くもない。
緑の髪の姉が言った。
「ルナ。最後よ」
「はい」
「歌いなさい。借り物ではなく、あなたの言葉で」
白い髪の姉が続ける。
「海も聞く。陸も聞く。私たちも聞く」
青い髪の姉が、健一を見る。
「人間。あなたは受け取りなさい。今夜は、少し、では足りない」
健一はうなずいた。
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「逃げ道は?」
陽子が後ろから言った。
「塞いであります」
山下が小さく手を上げる。
「検討中も禁止です」
マリーンが笑った。
「いい仲間を持ったわね」
健一はルナの手を、少しだけ強く握った。
「はい」
*
ルナは、一歩前に出た。
波打ち際までは距離がある。
水には触れていない。
だが、月光が彼女の足元を濡らすように広がっていた。
ルナはメモ帳を開かなかった。
ずっと書いてきた。
何度も直した。
健一に聞かせ、陽子に聞かせ、山下にも一部聞かせた。
マリーンには聞かせていない。
聞かせたら余計な感想が返ってきそうだったからだ。
でも今夜は、見ない。
見なくても、歌は胸の中にあった。
ルナは歌い始めた。
声は、最初から澄んでいた。
「海には姉の声がある――
陸にはあなたの朝がある――
どちらも私を呼ぶけれど――
私はここで、名前を呼ぶ――」
波が静かになった。
健一は、息を止めて聞いていた。
「沈むあなたを見つけた海で――
私は初めて陸を見た――
冷たい水のその向こうに――
不器用な声が、待っていた――」
ルナの声が、夜に広がる。
観客はいない。
大会のスピーカーもない。
スマホを向ける人もいない。
ただ、海と、月と、数人の人間と、人魚の姉たちと、魔女だけが聞いている。
「白いカップに、朝が残って――
甘い卵は、太陽で――
黒い水には、白がいて――
知らない街は、怖くてきれい――」
陽子が小さく息をのんだ。
山下は、黙っていた。
健一は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
カフェ。
プリン。
東京。
ホットミルク。
最初は全部、ただの事故みたいな日常だった。
それが、ルナの歌の中で、陸に残る理由になっている。
「雨の音には、泡が混じって――
水の光は、足をほどいた――
それでも袖を、握った夜に――
あなたの腕が、岸になった――」
健一は、あの日の雨を思い出した。
コートで包んだ。
タクシーの中で震えていた。
水鉄砲の水を、自分の胸で受けた。
ゲリラ豪雨の中、彼女を抱えて走った。
守ったつもりだった。
でも、実際には何度も間に合わなかった。
それでも、手を離さなかった。
「陽子の手は、強くてやさしい――
山下の声は、少しおかしい――
笑う人たちが、増えていって――
私の陸は、広くなった――」
山下が小さく言った。
「少しおかしい……」
陽子が小声で返す。
「合ってる」
「合ってますね」
ルナは歌い続ける。
「姉さまたちの海は遠く――
でも、今も私の中にある――
捨てるのではなく、消すのでもなく――
帰る場所を、増やしたい――」
海の姉たちの表情が変わった。
白い髪の姉が、目を伏せる。
青い髪の姉は、じっとルナを見ている。
緑の髪の姉だけが、まだ厳しい顔をしていた。
ルナは、最後のフレーズへ入ろうとした。
その時だった。
彼女の声が、ほんの少し揺れた。
足元に、泡が生まれた。
白い、小さな泡。
月光の中で、かすかに光っている。
健一の手に力が入った。
「ルナ」
ルナは振り返らない。
歌を続けようとする。
だが、足元の泡は増えた。
水に触れていない。
雨も降っていない。
それでも、満月の契約が彼女の足をほどき始めている。
泡の足音。
また聞こえた。
ルナの声が震える。
「あなたが――」
続かない。
喉が詰まったように、歌が止まる。
マリーンが静かに言った。
「最後の言葉で迷ったわね」
健一は振り返る。
「どういうことですか」
「最後の歌詞が、まだ借り物なのよ」
マリーンは、表情を変えずに言った。
「きれいな言葉にしようとしすぎた。海にも陸にも、あなたにも、姉たちにも届くように整えすぎた。よく書けているけれど、それだけじゃ足りない」
「そんな」
陽子が言う。
「ここまで来て?」
「ここまで来たからよ」
マリーンはルナを見る。
「最後だけは、飾ったら沈む」
ルナの足元から、泡がさらにこぼれる。
銀青の鱗が浮かぶ。
足の輪郭が薄くなる。
姉たちが動いた。
「ルナ!」
白い髪の姉が前へ出る。
緑の髪の姉は健一を睨んだ。
「もう限界よ。海へ渡しなさい」
健一はルナの肩に手を添えた。
「ルナ、無理にきれいな言葉を探さなくていい」
「でも」
ルナは震える声で言った。
「最後は、ちゃんとした言葉でなければ」
「ちゃんとしていなくていい」
「海が聞いています。姉さまたちも聞いています。陽子も、山下も、健一も」
「だからです」
健一は彼女の前に回った。
ルナの目には涙が浮かんでいた。
足元は泡になりかけている。
それでも、彼女は歌おうとしている。
「俺は、きれいな歌だけを受け取りたいわけじゃない」
「健一」
「あなたの言葉をください」
「私の言葉」
「はい。最悪でも、変でも、社会的に危険でも」
陽子が後ろで小さく言った。
「そこは危険じゃない方がいいけど」
山下が小声で返す。
「でも今回はたぶん危険な方ですね」
ルナは、泣きそうな顔で笑った。
その笑顔の中に、見覚えがあった。
初めて健一の名前を呼んだ時。
ホットミルクを飲んだ時。
ご主人様呼びを必死に直そうとした時。
そして、あの最悪の一言を言った時。
私は、あなたのフロントディレイラーになりたいのです。
健一は、その記憶にたどり着いた。
ルナも、同じ場所にいた。
「健一」
「はい」
「笑わないでください」
「分かりません」
「そこは、笑わないと言ってください」
「すみません。笑っても、受け取ります」
ルナは、涙をこぼした。
泡が増える。
けれど、彼女はもう逃げなかった。
ルナは、健一を見た。
そして、歌ではなく、ほとんど話すように言った。
「私は」
声が震える。
「私は、あなたのフロントディレイラーになりたかったのです」
夜が止まった。
海も、姉たちも、陽子も、山下も、マリーンも、全員が止まった。
健一も止まった。
言葉としては最悪だった。
満月の夜。
人魚姫の運命が決まる場面。
海の姉たちが見守る前。
そこで出す言葉ではない。
だが、ルナの声は濁っていなかった。
透き通っていた。
ルナは続けた。
「最初は、意味を間違えました」
涙が頬を伝う。
「健一の大切な箱に、その言葉がありました。自転車の映像で、何度も出てきました。ギアを変えるもの。坂道で、平地で、速く行く時も、苦しい時も、足の力を別の形にするもの」
健一は、息を止めていた。
「私は、それを見て思いました」
ルナの足元の泡が、ゆっくり浮かぶ。
「健一は、いつも前に進みます。でも、一人で進む時、苦しそうでした。心拍も、ケイデンスも、補給も、予定も、全部自分で見ていました。困っても、困っていない顔をしました」
健一の胸に、その言葉が刺さる。
「私は、最初、自分が健一のギアをもっと重くしていると思いました」
ルナの声が、一度だけ小さく沈んだ。
「仕事も、練習も、眠る時間も、私が来てから重くなりました。健一はそれでも、問題ありませんと言って、一人で踏みました。私は、それが怖かったです」
ルナは、ゆっくり息を吸った。
「私は、健一を速くしたかったわけではありません。健一を私のものにしたかったわけでもありません。健一が苦しい坂に来た時、少しだけギアを変えるものになりたかったのです」
陽子が、口元を押さえた。
山下は、もう笑っていなかった。
「重いまま踏まなくていいように。空回りしないように。沈む方ではなく、進む方へ力が移るように。私は、健一の横で、そういうものになりたかった」
ルナの声が、歌に戻っていく。
話すようで、歌うようで、祈るようだった。
「でも、私は水が怖いです。雨も怖いです。足も弱いです。言葉も変です。健一の生活を困らせます。私は、立派な姫ではありません」
健一は首を横に振った。
ルナは続ける。
「それでも、健一が沈みそうな時、ギアを変えたい。健一が一人で重いところを踏んでいる時、軽くしたい。健一が前に進むなら、私はその力のどこかにいたい」
泡が、止まりかけていた。
海の姉たちが、それに気づく。
マリーンが、静かに笑った。
「出たわね。最悪で、最高の言葉」
ルナは、健一に手を伸ばした。
「健一」
「はい」
「私は、あなたのフロントディレイラーになりたかったのです」
もう一度。
今度は、はっきりと。
「変ですか」
健一は、泣きそうになった。
笑いそうにもなった。
その両方だった。
「変です」
ルナの目が少し揺れる。
健一は、すぐに続けた。
「でも、最高です」
ルナの涙が止まらない。
健一は一歩近づき、彼女の手を取った。
「受け取りました」
言葉が、自然に出た。
「全部、受け取りました。意味を間違えていたことも、そこから自分の意味を作ったことも。俺を進ませたいと思ってくれたことも」
健一は、はっきりと言った。
「俺は、あなたにそうなってほしいです」
ルナの手が震えた。
「でも、部品です」
「部品ではありません」
「では」
「相棒です」
健一は、月の光の中でルナを見る。
「俺が前に進む時、隣にいてほしい。苦しい時に、ギアを変えてほしい。俺も、あなたが海に引かれそうな時、陸へ戻る力になりたい」
ルナの足元の泡が、さらに弱くなる。
「俺は、あなたを愛しています」
今度は、迷わなかった。
「海も、姉たちも、変な言葉も、最悪の比喩も、全部含めて。あなたが俺の生活に入ってきて、俺の予定を壊して、ホワイトボードを変なルールでいっぱいにして、俺の静かな部屋に歌を持ち込んだことを、もう手放したくない」
健一は、ルナの手を両手で握った。
「あなたは俺の邪魔ではありません」
ルナが息をのむ。
「あなたは、俺の進み方を変えた人です」
泡が止まった。
完全に。
月光の中で、ルナの足元に残っていた白い泡が、ふっと消えた。
銀青の鱗が薄れていく。
足の輪郭が戻る。
白い砂の上に、人間の足が立っていた。
ルナは、立っていた。
陸に。
健一の前に。
海へほどけずに。
白い髪の姉が、小さく泣いた。
青い髪の姉は、長く目を閉じた。
緑の髪の姉は、腕を組んだまま顔を背けた。
「……フロントディレイラーって何よ」
緑の髪の姉が低く言った。
山下が小声で言う。
「自転車の前側の変速機です」
「聞いてない」
「すみません」
陽子は笑いながら泣いていた。
「なんで、こんな変な言葉で泣かされるの」
マリーンが、古いビデオケースで口元を隠した。
「いいじゃない。人魚姫が王子の変速機になりたいなんて、現代的で最高だわ」
「黙ってください」
健一が言うと、マリーンは満足そうに笑った。
*
海が、静かになった。
月の光が、ルナの足元から少しずつ引いていく。
青い髪の姉が前に出た。
「ルナ」
「はい」
「足は?」
ルナは自分の足を見た。
人間の足だった。
「あります」
「声は?」
ルナは少し息を吸い、短く歌った。
「ここに――」
その声は、澄んでいた。
借り物ではなかった。
青い髪の姉は、ゆっくりうなずいた。
「海が、契約を閉じた」
白い髪の姉が言った。
「泡にはならない」
その言葉を聞いた瞬間、ルナの身体から力が抜けた。
健一が支える。
「ルナ」
「健一」
「大丈夫ですか」
「分かりません」
「分からない?」
「泡にならないのが、初めてなので」
陽子が笑いながらタオルで目を押さえた。
「そりゃそうだ」
山下は大きく息を吐いた。
「よかった……。いや、ほんとよかったです。フロントディレイラーは全然分かんないけど」
「山下」
ルナが呼ぶ。
「はい」
「ナイス山下」
山下は胸を押さえた。
「今のは泣きます」
「そこ?」
陽子が言う。
緑の髪の姉は、まだ納得していない顔で健一を見ていた。
「人間」
「はい」
「ルナを泣かせたら、海は覚えている」
「はい」
「困らせたら?」
「俺も困ると思います」
「何それ」
「一緒に困ります」
緑の髪の姉は一瞬黙り、それから小さく鼻を鳴らした。
「変な男」
「よく言われます」
「でしょうね」
白い髪の姉がルナに近づいた。
手を伸ばし、彼女の髪に触れる。
「小さな妹。帰る場所を増やすのね」
「はい」
「海を忘れない?」
「忘れません」
「私たちを?」
「忘れません」
「その男の変な部品になるの?」
ルナは少し考えた。
「部品ではありません」
健一を見る。
「相棒です」
健一の胸が、もう一度熱くなる。
白い髪の姉は、泣き笑いのような顔をした。
「なら、行きなさい」
青い髪の姉も言った。
「海は、あなたを失うわけではない。あなたの帰る場所が増えるだけ」
緑の髪の姉は、最後まで不機嫌そうだった。
だが、小さく言った。
「たまには帰ってきなさい」
ルナの目に、また涙が浮かぶ。
「はい」
健一はすぐタオルを出した。
陽子も出した。
山下まで出した。
ルナは三枚のタオルを見て、笑った。
「保護体制が多いです」
「今日は多めでいい」
陽子が言った。
ルナは泣きながら笑った。
*
マリーンが、ぱん、と手を叩いた。
「はい、契約終了。返品不可。延滞料金なし。よかったわね」
健一は彼女を見た。
「あなたは結局、何をしたかったんですか」
「面白い恋が見たかった」
「最低ですね」
「あと、ルナを助けたかった」
マリーンは軽く言った。
その声は、少しだけ本気に聞こえた。
「海にいても、陸にいても、この子はたぶん歌ったわ。だったら、変な男のそばで変な歌を覚えた方が、この子らしいでしょう」
「変な男が余計です」
「事実よ」
マリーンはルナを見る。
「小さな姫。声はもうあなたのもの。脚も、当面は安定するでしょう」
「当面?」
健一が反応する。
「細かいことを聞かないの。水に濡れれば普通に濡れるし、風邪もひく。泳げば、まあ少し問題は起きるかもしれない」
「問題」
「でも、泡にはならない」
ルナは胸に手を当てた。
「泡にはならない」
「ええ。ただし、言葉の誤学習は残るわ」
「そこは残るんですか」
健一が言うと、マリーンは当然の顔をした。
「個性よ」
「かなり厄介な個性です」
「愛しているんでしょう?」
健一は止まった。
ルナが見ている。
陽子も見ている。
山下も、姉たちも、マリーンも。
健一は、少しだけ息を吐いた。
「はい」
言えた。
もう、逃げなかった。
「愛しています」
ルナは、今度は泣かずに笑った。
「私も、愛しています」
少し不慣れな言葉だった。
でも、まっすぐだった。
海が静かに揺れた。
それは、祝福のようにも、ため息のようにも聞こえた。
*
姉たちは、月の光の中で少しずつ遠ざかっていった。
海へ戻るのではなく、海そのものに溶けるように。
ルナは、最後まで手を振っていた。
健一は隣に立ち、その手を離さなかった。
「寂しいですか」
「はい」
「帰りたいですか」
ルナは少し考えた。
「いつか、帰りたいです」
健一はうなずいた。
「一緒に行けますか」
「健一は沈みます」
「そうでした」
「でも、海岸までは一緒に来てください」
「行きます」
「約束」
「約束です」
ルナは、安心したように笑った。
陽子が背伸びをしながら言った。
「じゃあ、帰ろっか。なんか、ものすごく疲れた」
山下が頷いた。
「分かります。俺、今日ほぼ何もしてないのに、フルマラソン後くらい疲れてます」
「ナイス山下だったよ」
「陽子さんまで……ありがとうございます」
ルナが言った。
「みんなで、白い山を食べたいです」
健一は少し笑った。
「チーズケーキですか」
「はい。今日は、帰還祝いです」
「帰還というか」
陽子が言う。
「契約終了祝い?」
山下が続ける。
「フロントディレイラー記念日?」
健一は即座に首を振った。
「それはやめましょう」
ルナは真剣な顔で言った。
「大事な日です」
「大事ですが、記念日の名前としては」
「フロントディレイラー記念日」
「本気ですか」
「はい」
陽子が笑った。
「いいじゃん。二人らしくて」
山下もうなずく。
「絶対忘れないです」
健一は夜空を見上げた。
満月が光っている。
人魚姫の運命が決まった夜に、フロントディレイラー記念日。
たしかに、忘れようがなかった。
「……では、内輪だけで」
ルナの顔が明るくなった。
「はい」
*
帰り道、ルナは健一の袖を掴まなかった。
代わりに、手を握っていた。
お台場の夜道を、四人で歩く。
海は後ろにある。
月もまだ見えている。
だが、もう足元に泡の音はしない。
ルナは、時々自分の足を見た。
人間の足。
陸を歩く足。
海も覚えている足。
「健一」
「はい」
「私は、歩いています」
「はい」
「泡になりません」
「はい」
「フロントディレイラーにも、なれますか」
「比喩としてなら」
「相棒です」
「はい。相棒です」
ルナは嬉しそうに笑った。
「では、健一が重いギアで苦しそうな時は、言います」
「何を」
「変速しましょう」
健一は少し笑った。
「お願いします」
「健一も、私が海に引かれそうな時は言ってください」
「何を」
「陸へ変速しましょう」
健一は、ルナの手を握り直した。
「分かりました」
陽子が少し前を歩きながら振り返る。
「いいね。変速カップル」
「その名称はちょっと」
健一が言う。
山下が楽しそうに続ける。
「ギア比高めですね」
「山下さん」
「すみません。でも、今日くらいは言わせてください」
ルナは笑った。
健一も、少しだけ笑った。
笑えるようになった。
この変な言葉で。
この最悪の比喩で。
この、どうしようもなくルナらしい告白で。
泣いて、笑えた。
*
部屋に戻ると、ホワイトボードの前に全員が集まった。
満月まで、という文字がまだ残っている。
健一はそれを見た。
もう、この数字は必要ない。
ペンを取り、そっと消した。
【満月まで十二日】
【お台場大会まで五日】
【大会の日、逃げない】
【海の姉たち対策】
【水は避ける。怖さは共有する】
いくつかは残す。
いくつかは消す。
水への注意はまだ必要だ。
怖さの共有も必要だ。
海の姉たちのことも、完全には終わっていない。
家族なのだから。
だが、泡になる期限は消した。
その下に、ルナがペンを持って書いた。
【泡は止まった】
陽子が、その下に書き足す。
【好きは検討中にしない】
山下も、遠慮がちにペンを持つ。
【ナイス全員】
健一は、最後に赤ペンを取った。
少し考えた。
そして書いた。
【フロントディレイラー記念日】
ルナが、両手で口元を押さえた。
「健一が、書きました」
「内輪だけです」
「はい」
「でも、大事な日なので」
ルナは、また泣きそうになった。
健一はタオルを用意した。
陽子も用意した。
山下も用意した。
ルナは笑った。
「今日は、泣きません」
「そうですか」
「はい。今日は、歌います」
ルナは、青いマグカップを手に取った。
そして、小さく歌った。
「泡は止まり、月は満ちて――
海には帰る道がある――
陸には白い朝がある――
あなたの隣で、変速する――」
健一は思わず言った。
「最後の一行」
「駄目ですか」
「変です」
「でも?」
健一は笑った。
「最高です」
ルナは満足そうにうなずいた。
歌は、部屋に静かに広がった。
もう、借り物ではない。
もう、泡に向かう歌でもない。
陸に残る歌だった。
海も覚えたまま、陸を歩くための歌。
健一は、それを受け取った。
今度は、全部。




