第23話 ゲリラ豪雨と泡の足音
海の上に、三つの影が立っていた。
波間から現れたようにも見えたし、最初からそこにいたようにも見えた。
青い髪の姉。
白い髪の姉。
緑の髪の姉。
三人とも、水面に足を置いている。
沈まない。
濡れない。
そこだけ、海が彼女たちを支えているようだった。
周囲の人々は、まだ気づいていない。
大会は終わりに近づいていた。
ゴールした選手がタオルを受け取り、完走メダルを首にかけ、ペットボトルの水を飲んでいる。
観客は拍手をし、写真を撮り、スタッフは忙しく動いている。
その普通の光景の端で、海だけが違う顔をしていた。
ルナの指が、健一の袖を掴む。
「姉さまたち」
声が小さく震えていた。
健一は、レース後の荒い呼吸を整えた。
身体は重い。
脚は張っている。
スイム、バイク、ランを終えた直後だ。
筋肉は限界に近い。
心拍もまだ落ちきっていない。
完走メダルの重みが、首に残っている。
だが、逃げる理由にはならなかった。
陽子がルナの横に立つ。
「来たね」
山下も荷物を抱え直した。
「俺、本当に何見てるんですかね」
「見たままでお願いします」
健一が言うと、山下は乾いた笑いを漏らした。
「了解です。現実の方が追いついてないだけですね」
青い髪の姉が、一歩進んだ。
波が、足元で白く割れた。
「ルナ」
声は、風ではなく水面を渡って届いた。
「約束の日よ」
ルナは首を横に振った。
「まだ、満月ではありません」
「でも、あなたは今日、この海へ戻った」
白い髪の姉が言った。
「歌も、この海へ向けて動いた。なら、海は答えを聞きに来る」
緑の髪の姉は健一を見る。
「人間。あなたは走り終えた。では、答えは?」
健一は、すぐには答えなかった。
言葉を探していた。
昨日まで、何度も考えた。
海を捨てるのではなく、帰る場所を増やす。
ルナを縛るのではなく、選べるようにする。
好きの先にある言葉。
それを、今ここで言わなければならない。
だが、その時だった。
空が、暗くなった。
ほんの数秒前まで晴れていたはずの空に、黒い雲が湧いた。
海の向こうから、低く、速く、押し寄せるように。
風の匂いが変わる。
潮の匂いに、濡れたアスファルトの匂いが混じった。
陽子が空を見上げる。
「まずい」
山下がスマホを見た。
「雨雲レーダー、何も――」
言い終わる前に、最初の一滴が落ちた。
健一の頬に当たる。
冷たい。
次の一滴は、ルナの手の甲に落ちた。
ルナの身体が大きく震えた。
「ルナ!」
健一は即座にコートを取り出そうとした。
だが、雨は待たなかった。
ぽつり、ではない。
ざあ、と来た。
空が破れたように、雨が落ちてきた。
観客が悲鳴を上げる。
選手たちがタオルを頭にかぶる。
スタッフがテントの下へ走る。
スマホをしまう者、逆に撮影を始める者。
会場全体が一瞬で混乱した。
ゲリラ豪雨。
健一の頭に、その言葉が浮かぶ。
最悪のタイミングだった。
ルナの足元に、雨粒が跳ねた。
青いワンピースの裾が濡れる。
白いカーディガンに水が染みる。
髪に雨が落ちる。
肌の下で、銀青の鱗が一気に浮き上がった。
「健一」
ルナの声が、波に引かれるように揺れた。
足が崩れる。
健一はルナを抱き止めた。
「タオル!」
「はい!」
山下がバッグを開ける。
陽子がコートを広げる。
三人は同時に動いた。
何度も確認した対策。
水を避ける。
濡れたら拭く。
体を隠す。
周囲の視線を遮る。
だが、雨の量が違いすぎた。
タオルで拭いても、すぐに濡れる。
コートで包んでも、足元から水が跳ねる。
芝生は一瞬で濡れ、地面は黒く光り始めた。
ルナの足が、震える。
靴の中で形が変わり始めている。
「痛い……」
ルナが初めて、はっきりそう言った。
健一の胸が凍った。
「抱えます」
健一はルナを抱き上げた。
レース直後の脚が悲鳴を上げる。
だが、そんなことはどうでもいい。
ルナの足先から、淡い泡がこぼれ始めていた。
雨に溶けるような、小さな白い泡。
泡の足音。
それが、健一には聞こえた気がした。
*
周囲の人々が気づき始めた。
最初は、雨の中で女の子を抱えた男を見ていただけだった。
次に、ルナの足元を見た。
青銀色に光る鱗。
人間の足ではないものへ変わりかけている輪郭。
雨粒の中で消えては生まれる泡。
誰かが声を上げた。
「え、何あれ」
「撮影?」
「コスプレ?」
「いや、足、光ってない?」
スマホが向けられる。
一つ。
二つ。
三つ。
画面の黒い目が、一斉にルナを見る。
健一は、ルナを抱えたまま背を丸めた。
自分の身体で彼女を隠す。
だが、隠しきれない。
雨でコートが張りつき、足元の光が漏れる。
陽子が前に出た。
「撮らないでください!」
声が強かった。
「体調が悪いんです! 撮らないで!」
山下も反対側に立つ。
「すみません、道を開けてください! 救護に行きます!」
救護。
その言葉で、一部の人が下がった。
だが、スマホを下ろさない人もいる。
珍しいもの。
不思議なもの。
怖いもの。
人はそういうものを撮る。
健一は、怒りを感じた。
初めてだった。
自分へ向けられる視線は、まだ耐えられる。
だが、ルナが怖がっている時に、彼女へスマホが向けられることが、許せなかった。
「ルナ、見なくていい」
健一は低く言った。
ルナは健一の胸に顔を埋めた。
「海が……近いです」
「戻しません」
「足が、ほどけます」
「ほどけません」
「泡の音がします」
「聞かなくていい」
健一は、ルナを強く抱え直した。
その時、緑の髪の姉の声が響いた。
「ほら、見なさい」
雨の向こう、海の姉たちは近づいていた。
水面から砂浜へ。
雨の中でも、彼女たちは濡れていない。
むしろ、雨そのものが彼女たちを避けているようだった。
「これが陸よ。水一つで壊れる。人の目一つで傷つく。こんな場所に、ルナを残すの?」
白い髪の姉が、悲しそうにルナを見る。
「戻りましょう。今なら、まだ泡になる前に抱き取れる」
青い髪の姉は、健一に言った。
「あなたでは守れない」
健一は、答えなかった。
今の状況だけ見れば、彼女たちは正しい。
雨は止められない。
スマホも止めきれない。
海の力も止められない。
健一の身体はレース直後で、腕は震え、脚も限界だ。
守れていない。
だが、手は離さなかった。
陽子が姉たちの前に立つ。
「勝手に決めないで」
緑の髪の姉が陽子を見る。
「人間の女。あなたには関係ない」
「ある」
陽子は即答した。
「ルナさんは、私の友達」
ルナが、健一の胸の中で小さく息をのんだ。
陽子は続ける。
「水鉄砲で最低なことをした私でも、友達だって言ってくれた。だから関係ある」
山下も横に並んだ。
「俺もあります。まあ、正直まだ全部は理解してないですけど」
「なら黙っていればいい」
緑の髪の姉が言う。
山下は苦笑した。
「黙るの苦手なんです。あと、佐藤さんが困ってる時は手伝うって決めたので」
健一は、二人の背中を見た。
雨の中、陽子と山下が立っている。
人間だ。
ただの人間だ。
海の魔力も、人魚の力もない。
それでも、前に立っている。
ルナを守るために。
健一一人ではない。
その事実が、腕の震えを少しだけ止めた。
*
スタッフの一人が近づいてきた。
「大丈夫ですか! 救護テントへ――」
健一はすぐに言った。
「救護テントではなく、屋根のある場所へ。人目の少ないところを」
「でも、医療スタッフが」
「低体温とパニックです。水を避けたい。すぐ移動します」
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
陽子がスタッフに向き直る。
「私、付き添います。お願いします、人が集まっていると悪化します」
陽子の声には説得力があった。
スタッフは一瞬迷ったが、雨の中で震えるルナを見て頷いた。
「こちらへ!」
大会会場の端に、関係者用の仮設テントがあった。
海から少し離れている。
地面は濡れているが、屋根がある。
人目も少し避けられる。
健一はそこへ向かおうとした。
だが、緑の髪の姉が立ちはだかった。
「行かせない」
雨音が、急に強くなった。
海からの風が吹く。
ルナの足元の泡が増える。
健一はルナを抱いたまま、姉を見る。
「どいてください」
「このまま海へ連れていく」
「させません」
「あなたが決めることではない」
「俺一人では決めません」
健一は、胸の中のルナを見る。
「ルナが決めます」
「そのルナが、今、泡になりかけている」
青い髪の姉の声は、怒りではなく悲しみに近かった。
「見ていられないのよ」
ルナの足元から、泡がさらにこぼれた。
白い泡ではなかった。
昼の雨の中で、それは薄く青く光っていた。
海が、ルナを呼んでいる。
いや、呼んでいるだけではない。
引いている。
健一はそれを、腕の中で感じた。
ルナの身体が、軽くなる。
体重が消えていくような軽さではない。
逆だ。
見えない何かに、海の方へ引きずられている。
健一の腕の中にいるはずなのに、ルナの輪郭が、波の音へほどけていく。
「健一……っ」
ルナが、シャツを掴んだ。
その指先も濡れていた。
雨だけではない。
泡が、彼女の手首まで上がってきている。
健一はルナを抱え直した。
だが、足が滑った。
芝生は水を含み、靴底は泥を噛んでいる。
レース直後の脚に力が入らない。
ふくらはぎが攣りかける。
太腿の奥が、ぐしゃりと潰れるように痛む。
それでも、離さなかった。
海風が吹いた。
突風だった。
雨粒が横殴りになり、ルナを包んでいたコートが大きく煽られる。
その一瞬、ルナの足が完全に見えた。
人間の足ではなかった。
銀青の鱗が浮かび、膝から下が尾びれの形にほどけかけている。
周囲の誰かが息をのむ。
スマホのレンズがまた増える。
陽子が叫んだ。
「撮らないでって言ってるでしょ!」
山下が入口側へ回り込む。
「道開けてください! ほんとに危ないんで!」
だが、健一にはもう周囲を見る余裕がなかった。
海が引く。
明確に、ルナを奪おうとしている。
健一の腕ごと、彼女を波へ持っていこうとする。
青い髪の姉が、雨の向こうで声を上げた。
「もう限界よ! そのままでは、あなたごと引かれる!」
緑の髪の姉が叫ぶ。
「離しなさい、人間! ルナだけなら、まだ海が抱ける!」
白い髪の姉は、泣きそうな声で言った。
「お願い。妹を壊さないで」
健一は、返事ができなかった。
歯を食いしばり、ルナを抱く腕に力を込める。
右足を後ろへ引き、踏ん張った。
靴底が滑る。
芝生の泥がえぐれる。
レースで使い果たした脚が、もう一度だけ命令を受け取る。
止まれ。
動くな。
ルナを持っていかせるな。
膝が悲鳴を上げる。
ふくらはぎが攣った。
鋭い痛みが、足首から腰まで走る。
健一は声にならない息を吐いた。
それでも、膝をつかなかった。
いや、つけなかった。
膝をついたら、ルナが海へ近づく。
それだけは駄目だった。
「健一、離して」
ルナが泣いていた。
「健一まで、引かれます」
「離しません」
「駄目です。健一は、海では呼吸できません」
「知っています」
「また沈みます」
「それでも、離しません」
健一の手の甲に、痛みが走った。
ルナの鱗が、肌を切ったのだ。
雨に混じって、赤い血が流れる。
それはすぐ水に薄まり、手首を伝って落ちた。
ルナが目を見開く。
「血が」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「大丈夫にします」
健一は、血のにじむ手でルナを抱き直した。
痛い。
腕が痛い。
脚が痛い。
肺が痛い。
完走直後の身体に、海の力へ抗う余力など残っていない。
それでも、残っていないなら、残っていないまま使うしかなかった。
健一は、ルナを抱いたまま一歩下がった。
たった一歩。
だが、その一歩は、海と逆向きだった。
姉たちの表情が変わった。
青い髪の姉が、わずかに目を見開く。
緑の髪の姉の口元から、言葉が消える。
白い髪の姉が、両手を胸の前で握りしめた。
人間の男が、海に逆らっている。
魔法もない。
尾びれもない。
水の歌も持たない。
ただ、濡れた芝生に足をめり込ませ、血のにじむ腕で、妹を抱いている。
愚かだった。
無謀だった。
理屈では、負けるに決まっている。
でも、その無謀さが、海の姉たちの言葉を止めた。
「なぜ」
緑の髪の姉が、雨の中で呟いた。
「なぜ、そこまで」
健一は、ようやく顔を上げた。
雨で視界が滲んでいる。
血と水で、手が滑る。
脚は限界だった。
それでも、ルナを抱く腕だけは緩めなかった。
「ルナが」
息が切れる。
「俺のところへ、帰りたいと言ったからです」
海風がまた吹く。
健一は耐えた。
「俺が、連れて帰ると決めたからです」
「決めただけで、海に勝てると思うの?」
緑の髪の姉が言う。
「勝つんじゃありません」
健一は答えた。
「譲らないだけです」
その言葉に、青い髪の姉の目が揺れた。
「譲らない」
「はい」
「海にも?」
「はい」
「私たちにも?」
「はい」
健一は、ルナを見る。
「ルナ本人以外には」
ルナの涙が、雨と混ざる。
健一は、ルナを抱えたまま、姉たちを見た。
「俺は、ルナを海から奪いたいわけではありません」
声は、雨に消えなかった。
「海を忘れてほしいわけでもない。姉たちを捨ててほしいわけでもない」
健一は、息を吸った。
ここだ。
逃げるな。
「でも、ルナに陸へ帰ってきてほしい」
腕の中のルナが、健一を見る。
「俺の部屋へ。青いマグカップのある場所へ。ホワイトボードに変なルールが増える場所へ。雨の日にチーズケーキを食べる場所へ」
陽子が小さく息をのむ。
山下は黙っていた。
「俺は、その生活を続けたいです。困ることも、怖いことも、対策しなければいけないことも、全部込みで」
健一は、姉たちから目を逸らさなかった。
「それを、愛と呼ぶのだと思います」
言った。
雨の中で。
海に引かれながら。
血を流しながら。
レースで使い切った身体を、それでも杭みたいに地面へ刺しながら。
「俺は、ルナを愛しています」
海の引きが、一瞬だけ弱まった。
完全に止まったわけではない。
泡も消えていない。
だが、姉たちは動けなかった。
言葉だけではない。
目の前にある。
この男は、妹を抱いて、海に逆らった。
勝てるはずのないものに、勝とうとしたのではない。
ただ、譲らなかった。
それは人間の力としては小さく、愚かで、無謀だった。
けれど、姉たちは見てしまった。
ルナがその腕の中で、海よりも陸を見ていることを。
健一の血のにじむ手を見て、ルナが海ではなく、その手を掴もうとしていることを。
青い髪の姉が、静かに息を吐いた。
「……あなたでは、海には勝てない」
「はい」
「でも、ルナを離す気もない」
「ありません」
「それが、答えなのね」
健一は、うなずいた。
白い髪の姉が、涙をこぼした。
緑の髪の姉は、悔しそうに顔を歪めた。
「本当に、馬鹿な男」
「よく言われます」
「褒めてない」
「分かっています」
緑の髪の姉は、拳を握った。
今にもルナを奪い返したそうだった。
だが、その目はもう、さっきまでと違っていた。
敵を見る目ではない。
理解不能な人間を、初めて少しだけ認めてしまった目だった。
「なら、証明しなさい」
青い髪の姉が言った。
「言葉だけではなく、腕だけでもなく。ルナの歌を受け取りなさい」
健一は答えた。
「はい」
ルナが、震える声で言った。
「健一」
「はい」
「手が、血です」
「あとで洗います」
「痛いですか」
「痛いです」
「離しますか」
「離しません」
ルナは泣いた。
泡の中で。
雨の中で。
海に引かれながら。
それでも、健一の腕の中で歌い始めた。
「海には姉の声がある――
陸にはあなたの朝がある――
どちらも私を呼ぶけれど――
私はここで、名前を呼ぶ――」
声は濁っていなかった。
むしろ、雨の中で強くなっていた。
「沈む海から、走るあなたへ――
泡の足音が聞こえても――
あなたの腕が、岸になった――
私はここへ、帰ってくる――」
健一は、その歌を聞いた。
聞くだけではない。
自分に向けられたものとして、受け取った。
ルナが、海も姉たちも失わず、それでも陸へ帰ってくるための歌。
健一の部屋へ帰ってくるための歌。
健一の言葉に応える歌。
胸の奥に、静かに入ってくる。
拒まなかった。
逃げなかった。
「受け取りました」
健一は言った。
ルナの声が、最後に少し震える。
「青いカップのある場所へ――
白い山を分ける場所へ――
あなたがいてほしいと言ったから――
私は陸へ、帰ってくる――」
歌が終わった。
海の引きが弱まった。
ルナの足元から、泡の音が遠ざかる。
鱗の光はまだ残っている。
人間の足へ戻りきってはいない。
雨もまだ降っている。
だが、海はもう彼女を奪いきれなかった。
青い髪の姉が、静かにルナを見ている。
「今の歌」
彼女は言った。
「海にも届いたわ」
緑の髪の姉は、何も言わなかった。
白い髪の姉は、少し泣いているように見えた。
ルナは、健一の手を握ったまま、姉たちを見た。
「姉さま」
「まだ終わりではない」
青い髪の姉は言った。
「満月は、まだ来ていない」
健一の身体に緊張が戻る。
「でも」
白い髪の姉が続けた。
「泡は、今は止まった」
ルナは小さくうなずいた。
「はい」
緑の髪の姉が、健一を見た。
「人間」
「はい」
「言うのが遅い」
「はい」
「無謀すぎる」
「はい」
「でも、さっきの言葉と腕は、海が弾かなかった」
健一は、深く息を吸った。
「それは、よかったです」
「調子に乗らないで」
「はい」
山下が小声で言った。
「めちゃくちゃ怖いお姉さんですね」
陽子が小声で返す。
「でも、いいお姉さんだよ」
「それが一番怖いです」
ルナが、少し笑った。
その笑い声で、雨の中の空気がようやく少しだけ戻った。
青い髪の姉が道を空けた。
白い髪の姉も下がった。
緑の髪の姉は最後まで不満そうだったが、横へずれた。
「まず、その子を雨から出しなさい」
健一はうなずいた。
「ありがとうございます」
「礼を言う場面じゃない」
「でも、ありがとうございます」
健一はルナを抱え直した。
手の傷が痛む。
脚は限界だ。
でも、今度は進めた。
陽子と山下が前を開ける。
スタッフが誘導する。
健一は、ルナを抱えて仮設テントへ向かった。
順位も、記録も、完走後の手続きも、スタッフへの説明も、観客のスマホも、全部後回しだった。
すでにゴールはしている。
だが、この瞬間、健一は本当の意味で順位を捨てた。
公式記録より。
表彰より。
誰に何を言われるかより。
ルナを選んだ。
*
テントの中に入ると、陽子と山下がすぐに動いた。
「タオル!」
「あります!」
「足元隠して!」
「はい!」
「スタッフさん、すみません、この子、雨で強い発作が出るんです。人目があると悪化します!」
陽子の説明は強かった。
スタッフは戸惑いながらも、追加のタオルと毛布を持ってきてくれた。
山下が入口に立ち、スマホを向けようとする人をやんわり止める。
「すみません、体調不良なので撮影はご遠慮ください。ほんとお願いします」
いつもの軽さが、今は役に立っていた。
健一はルナを椅子に座らせ、濡れた靴を脱がせた。
足は、人間の形を失いかけていた。
足首から下に、銀青の鱗。
指先の輪郭は薄くなり、尾びれに変わる寸前のように水の光を帯びている。
ルナはそれを見て、震えた。
「戻りますか」
「戻しません」
健一はタオルで、そっと水を拭いた。
手の傷が、タオルに赤くにじむ。
ルナがそれを見て、泣きそうになる。
健一は先に言った。
「泣いても大丈夫です」
「健一の血です」
「俺の血は、俺が拭けば大丈夫です」
「大丈夫の使い方が雑です」
「今日は少し雑でも許してください」
陽子も横からタオルを渡す。
「ルナさん、私見えてる?」
「はい」
「ここ、陸。テントの中。健一がいる。私もいる。山下さんも入口で頑張ってる」
「はい」
「海じゃない」
「海じゃない」
ルナは繰り返した。
健一は、彼女の手を握った。
「ルナ」
「はい」
「聞いてください」
「はい」
「俺は、あなたを愛しています」
もう一度、言った。
今度は、ルナに向けて。
「満月のためだけではありません。契約のためだけでもありません。あなたが泡になるから仕方なく言っているわけでもありません」
ルナの涙が、静かに落ちる。
陽子が拭いた。
「あなたが笑う朝が好きです。言葉を間違えて、でも一生懸命直そうとするところが好きです。水を怖がっても、歩こうとするところが好きです。俺の部屋に青いマグカップがあることが、もう普通になっていることが好きです」
健一は、手を握る力を少し強めた。
「あなたが海を好きなことも、姉たちを好きなことも、全部含めて好きです」
ルナの足元の光が、少しずつ落ち着いていく。
鱗の輝きが薄くなる。
泡が減る。
完全ではない。
だが、戻っている。
「健一」
「はい」
「受け取りましたか」
健一は、首を横に振った。
「俺が聞く方です」
「では」
ルナは震える声で、もう一度歌い始めた。
小さな声だった。
雨音に消えそうだった。
だが、健一には聞こえた。
「海には姉の声がある――
陸にはあなたの朝がある――
どちらも私を呼ぶけれど――
私はここで、名前を呼ぶ――」
声は濁っていなかった。
むしろ、雨の中で強くなっていた。
「沈む海から、走るあなたへ――
泡の足音が聞こえても――
あなたの腕が、岸になった――
私はここへ、帰ってくる――」
健一は、その歌を聞いた。
聞くだけではない。
自分に向けられたものとして、受け取った。
ルナが、海も姉たちも失わず、それでも陸へ帰ってくるための歌。
健一の部屋へ帰ってくるための歌。
健一の言葉に応える歌。
胸の奥に、静かに入ってくる。
拒まなかった。
逃げなかった。
「受け取りました」
健一は言った。
ルナの声が、最後に少し震える。
「青いカップのある場所へ――
白い山を分ける場所へ――
あなたがいてほしいと言ったから――
私は陸へ、帰ってくる――」
歌が終わった。
ルナの足元から、泡の音が消えた。
鱗の光がゆっくり薄れ、人間の足の輪郭が戻っていく。
陽子が息を吐いた。
山下が入口から振り返り、小さく拳を握った。
テントの外では、まだ雨が降っている。
海の姉たちは、入口の向こうに立っていた。
青い髪の姉が、静かにルナを見ている。
「今の歌」
彼女は言った。
「海にも届いたわ」
緑の髪の姉は、何も言わなかった。
白い髪の姉は、少し泣いているように見えた。
ルナは、健一の手を握ったまま、姉たちを見た。
「姉さま」
「まだ終わりではない」
青い髪の姉は言った。
「満月は、まだ来ていない」
健一の身体に緊張が戻る。
「でも」
白い髪の姉が続けた。
「泡は、今は止まった」
ルナは小さくうなずいた。
「はい」
緑の髪の姉が、健一を見た。
「人間」
「はい」
「言うのが遅い」
「はい」
「無謀すぎる」
「はい」
「それから、血を拭きなさい。ルナがまた泣く」
「はい」
山下が小声で言った。
「めちゃくちゃ怖いお姉さんですね」
陽子が小声で返す。
「でも、いいお姉さんだよ」
「それが一番怖いです」
ルナが、少し笑った。
その笑い声で、テントの中の空気がやっと戻り始めた。
*
雨は、十分ほどで弱まった。
まるで、役目を終えたように。
外では、スタッフが濡れた設備を拭き、選手たちがざわざわと大会後の話をしている。
スマホを向けていた人々の一部はまだ遠巻きにこちらを見ていたが、山下が立ち続けてくれたおかげで、近づいてくる者はいなかった。
健一は、ルナの足をもう一度確認した。
人間の足に戻っている。
まだ少し冷たい。
だが、泡はない。
手の傷は浅かった。
陽子が救急セットを借りてきて、消毒液を持っている。
「佐藤さん、手」
「あとで」
「今」
「はい」
健一は素直に手を出した。
消毒液がしみて、思わず顔をしかめる。
ルナが不安そうに覗き込んだ。
「痛いですか」
「痛いです」
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「私の鱗です」
「俺が離さなかったからです」
「では、健一のせいですか」
「はい」
陽子が包帯を巻きながら言った。
「そこはちょっと違う気もするけど、今はそれでいい」
ルナは、包帯の巻かれた手を見つめた。
「健一」
「はい」
「その手は、岸です」
健一は少しだけ笑った。
「では、洗って消毒した岸です」
「少し薬の匂いがします」
「現実的ですね」
ルナはようやく少し笑った。
「大丈夫ですか」
健一が聞く。
「大丈夫です」
「本当に?」
「健一が言ったので」
「何を」
「愛しています、と」
陽子が横でにやりとした。
健一は視線を落とした。
「言いました」
「まだありますか」
「あります」
「満月まで?」
「そのあとも」
ルナの目が揺れた。
今度は陽子が先にタオルを構える。
「泣く?」
「少し」
「はい、どうぞ」
ルナは少し泣いた。
健一と陽子が同時にタオルを出した。
山下が言った。
「保護体制がすごい」
「保護者二人体制です」
ルナが言う。
陽子が訂正した。
「今日は三人体制」
山下が胸を張る。
「ナイス山下入りました」
「入っています」
ルナは笑った。
その笑顔を見て、健一はようやく身体の疲れを思い出した。
脚が重い。
腕が痛い。
雨で冷えた。
レース後の補給もしていない。
だが、ルナはここにいる。
それだけで、まだ立っていられた。
テントの外で、青い髪の姉が静かに言った。
「満月の夜、最後に歌いなさい」
ルナは姉を見る。
「海で?」
「海が聞こえる場所で」
白い髪の姉が言った。
「陸でもいい。でも、海が聞こえる場所で」
緑の髪の姉は腕を組んだ。
「その時、本当に決まる」
ルナは健一を見た。
健一はうなずいた。
「一緒に行きます」
姉たちは、それ以上何も言わなかった。
雨上がりの光の中で、三人の姿は少しずつ薄くなる。
消える前、青い髪の姉がルナに言った。
「小さな妹」
「はい」
「今日のあなたの歌は、少し陸の匂いがした」
ルナは、少しだけ寂しそうに、でも嬉しそうに笑った。
「はい」
「でも、海の響きも残っていた」
「はい」
「それなら、まだ聞ける」
三人は消えた。
波の音だけが残った。
*
大会結果の掲示は、もう始まっていた。
山下が見に行こうとして、健一に聞いた。
「順位、見ます?」
健一は少し考えた。
今日、自分は完走した。
お台場の海で、沈まなかった。
ルナの応援を受け取った。
海に引かれても、手を離さなかった。
雨の中で、順位も記録も捨ててルナを選んだ。
そして、愛していると言った。
それで十分だった。
「あとで見ます」
健一は言った。
山下は笑った。
「はい。今じゃなくていいですね」
陽子が言った。
「佐藤さん、順位捨てたね」
「はい」
「悔しくない?」
健一は少しだけ空を見た。
雨雲は流れ、薄い光が戻り始めている。
「少しは」
「正直でよろしい」
「でも、後悔はありません」
ルナが健一を見る。
「私のために?」
「俺が選んだからです」
ルナは、小さく息を吸った。
「その言葉、好きです」
健一は頷いた。
「俺もです」
陽子が笑う。
「いいね。言葉の服、だいぶ上手くなった」
「まだ練習中です」
「満月まで練習だね」
健一は、ルナの手を握ったまま答えた。
「そのあともです」
ルナが笑った。
雨に濡れた会場の向こうで、海が光っている。
泡の足音は、もう聞こえない。
だが、満月はまだ来ていない。
最後の歌は、まだ残っている。




